242 相場は昭和十四年になっても同じだった。「年を歴た鰐の話」の原稿料は一枚一円五十銭だったと 記憶する。翻訳は一段と安いのである。 ついでながら紅葉はもちろん花袋の時代 ( 明治四十年 ) になっても本に印税はなかった。原稿は 買切で出版権は出版社にあったから、いくら売れても儲けは出版社にあって著者にはなかった。雑 誌に発表して原稿料をもらっているのだから、二度の勤めだと紅葉は怪しまなかった。本を出して 、いほ、つである くれるのは出版社の好意で、包み金一一十円ぐらい持参すればし う亠 9 らか 1 」 ただし漱石は別格で明治三十九年「坊っちゃん」その他を収めた「鶉籠」 ( 春陽堂 ) は初版三千 部印税一五。ハーセント、二版から五版まで一一〇バーセント 、六版以上三〇。ハーセントという契約を している。外とちがって漱石は売れたからこの契約は履行された。今は一、二の例外を除いてた いてい一〇。ハーセントである。中村武志が怒ったのには理由があるのである。 博文館や春陽堂が一代で産を築いたのはこの理不尽のせいで、紅葉の遺族が一生貧乏していたの は、博文館春陽堂の無慈悲、忘恩、横暴の故だと小島政一一郎ははるかあとになって怒っている ( 「芥 川龍之介」読売新聞社 ) 。 昭和三十年代まで文でも画でも原稿は返さなかった。印刷になればそれで用はすんだ。一流画家 の表紙や目次は年末にくじびきで社員が分けあったと聞いたが、なかにはその画を売るものがあっ た。洋画家の宮本三郎がやかましく言って、画稿を返させてこのことはなくなった。文芸家協会も まねして戦後、文章の原稿も返せと言いだした。いま用済みの原稿を一年ぶんまとめて返す社があ るのはこのせいで、すでにご用済みの原稿を、どさりと返されても迷惑だが、川端康成、三島由紀 夫などのなま原稿なら売れるから、将来の万一に備えて返せと言うのだろう。
頂の日本画家だった。その横山に一年間目次をかいてもらいに頼みにいったことがある。私は横山 がそんなに売れつこだとは知らなかった。 しちどきに一年ぶん十二枚かきましようといわれて しばらく考えていたが毎月かくびまがない。、 はじめてその流行ぶりを知って、私はむしろすまながってもうその言葉だけでありがたいと、はる ばる三鷹くんだりまで出かけたのにかえって当方から辞したので、その気持が通じたのだろう、横 てもらわなかったが横山は文が書ける人で、だから古い 山は笑いだして以来友になった。絵はかい し * 一し 同じく福田豊四郎も文を書く人で、これも再三出ている。あるときこの人は担当の編集者に色紙 をくれたから、以後およしなさいと言ったことがある。樗陰の時代は当然のように各界名士に揮毫 させているが、今はしない。するのは芸能人くらいでかえって安くみられると言ったおほえがある。 戦前の文士は原稿料を持参すると、紙に包んでいくらかを担当者にくれたという。一部の大衆作家 にはそういう習慣があったと聞いた。これは戦前のほうが今より原稿料がはるかに高かった証拠で ある。 大正八年から昭和四年まで中央公論記者だった木佐木勝に克明かっ膨大な「木佐木日記」がある。 史 それに大正八年小説一枚一円から一円五十銭、論文読物一円、吉野作造だけはロ述なのに特別一円 画五十銭、後進の改造が迫って原稿料を多く払ったので、大正十三年小説六円乃至八円、昭和四年一 料月小説最低一枚五円最高十円、谷崎は八円荷風十円払ったとある。 原昭和四年は一流会社大卒の初任給は五、六十円だから、最低一枚五円でも三十枚書けば生活でき る。税は一銭もとられなかった。ただし読物随筆は小説より安いこと大正年間と同じ。昭和四年の 「室内」の随筆欄には何度も横山操は登場している。
けのことが言える人は絶えてない。 画の原稿料のことをいうのを忘れていた。画には表紙とさしえがある、べつにカットがある。本 絵かきというのはすでに画家として一家をなした人のことで、さしえかきとこれも昔から差別した。 純文学と大衆文学との間にあるような差別をした。本絵かきが請われて雑誌の表紙や目次をかくと きは本絵のほうで莫大な画料をとっているのだからいくらでも、 A 」い、つのは、 しい、ただ同然でもいし 大新聞大雑誌にかくと箔がつくこと紅白歌合戦に出れば一流の歌手ということになって、田舎回り のギャランティが高くなるがごとしで、したがって安くていいと画家が思うのは勝手だが、新聞雑 誌が恩にきせて安くするのはまちがいである。 目次も同様に安かった。一流雑誌でない「木工界」は昭和三十六年四月号からまる一年脇田和に、 続いて加山乂造に目次の寄稿を仰いでいる。三十八年度以降稗田一穂、曾宮一念、庫田の面々に 参加してもらっている。 昭和三十八年現在、彼らは一流独自の画家で「室内」なんて縁もゆかりもない雑誌になぜかいた か怪しむだろうが、そうでないのである。一つには画壇に顔のきく藤森順三の紹介である。もう一 つは、ことはキャリアに関して金銭に関しないから、表紙または目次ならかいてくれるのである。 たとえそれが「木工界」であっても、見れば長谷川如是閑が書いている。井伏鱒一一が書いている。 自分が登場してもいい舞台だと思えばかくのである。 いま思えば恥すかしいが目次のカットにそのころ私は一一万円しか払わなかった。それでも当時は 安くなかったことは手ごたえでわかった。五十になるやならずで死んだ横山操は、そのころ人気絶 てつ ほん