むつかしい世の中

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めており、そして自分に対しては専ら甘く、何の真実もない拵えものの一見高級めかした小説 を書く一部の純文学作家とは、佐藤さんはまるでちがう。本ものの作家である。 人間というものへの愛着と非情の強く拮抗している彼女の小説では、したがってその追求す る痛快さも実に深い見方と表現によっている。であるからこそ、どこに痛快さがあるのかと問 われそうな女流文学賞受賞作『幸福の絵』 ( 新潮社刊 ) でも、ある意味での痛快さがある。あの おそ 作品の痛快さには、怖ろしさがある。痛快さには、そういう種類の痛快さもあるのである。そ して、それもあくまでも痛快さなのであって、したがって彼女の小説を普通の意味でのおもし ろい小説と思って愛読してきた読者もまた、そういう気配とは程遠いあの作品に何の異和感も なく魅かれたことであろう。 かねがね、私は佐藤愛子の文学をそのように考えていたが、彼女は井伏鱒一一氏の名作『山椒 魚』に導かれて文学の道に入ったという。それを聞いて、なるほどと深く頷けたのである。 ところで、佐藤さんの文体は、まことに表現力に富んでいる。繰り返すようだが、人間に対 する愛着と非情との強い拮抗あってこそ、生れてきた文体である。さらに、一見速筆のように 説 みえるが、絶えざる練磨なくしては、もち得ぬ文体である。 解 「むつかしい世の中」「続・むつかしい世の中」 ( 続編のほうも前編に勝るとも劣らぬ出来で 5 ある。とかく続編は落ちるもので、こういう例は珍しい ) の主人公の〈わたし〉は結構な暮ら しなのに、家族の止めるのもきかず、一人で暮らすのだと南紀に家を建て、ひとの世話で来た こしら まさ

234 一口におもしろい小説と言っても、おもしろい小説には、二種類ある。日常使うところの意 味での「おもしろい」小説と、もっと深い興趣の意味の「おもしろい」小説とがある。そして、 私が佐藤さんの小説をおもしろいと言うのは、後者の意味においてである。彼女の小説には、 前者の意味でのおもしろさもありげにみえる。が、それは、彼女が人間というものの痛快さを 描き続けてきたからで、彼女の描く作中人物の痛快さを日常的なおもしろさの点で喜んでいる つもりの読者も、実のところは深い興趣の意味でのおもしろさに魅かれているのである。仮り に彳女がわざと日常的なおもしろさをねらったり、彼女の小説が浅いところで成り立っている のであれば、日常的なおもしろさのようにみえる要素や部分にも、とてもあれだけの魅力は生 れまい 佐藤さんは、人間というものの痛快さを書く。痛快さといえば、何たか日常的な単純、素朴 な特色のように思われかねないが、人間というものを痛快さにおいて捉えるということは、人 きっこう 間に対する愛着と非情との拮抗している創作姿勢なくしてはなし得ないことなのである。両者 が余程のカで拮抗していなくては、不可能なのである。佐藤さんの場合、その拮抗が実に強い。 なぜ、強いかといえば、彼女はまず自分において人間性というものの不思議さへの関心を常に そそられており、同時にまず自分に対して常に客観の非情の眼を研いでいるからである。日常 的な意味でのおもしろさをねらって書くエンターティンメント作家や、人間も人生も文学もな

解説 一九八〇年一月作品社から出版された、佐藤愛子氏の作品集『むつかしい世の中』が今度、 標題も収録作品もそっくりそのまま文庫本として、あらためて出ることになった。その解説を 書くのに、これらの作品を読み返しながら、佐藤さんの小説の魅力のほどに、ほとほと感心し た。全く、幾度読んでもおもしろいのである。そういう魅力があるくらいだから、読んでいる うちだけがおもしろいのではなくて、ふと思いだすと読みたくなる。 たとえば、「富士は五月晴」を私は最初雑誌で読んだ。その後ふと読みたくなって、本には まだならないのかしらと思ったことが一再ならずあった。単行本『むつかしい世の中』の目次 にこの題名があった時、「ああ、あれだ」と私は思った。初出一覧を見ると、「別冊文藝春秋ー に一九七六年六月発表されたものだったのだ。もう四年も経っていたわけである。この忙しい 説 世の中で、四年ものあいだ印象が消え去らず、題名を見ただけで「ああ、あれだ」とわかる。 解しかも、短編でありながらである。佐藤さんはそういう作品を書く作家である。もちろん、私 はその本で「富士は五月晴」を早速読んた。他の作品も読んだ。どの作品も、その後にまた読 んた。「むつかしい世の中ー「続・むつかしい世の中」などは、今度で四、五度目になるだろ