341 信号を出して巡戦艦隊の列に人らせ、『インフレキシプル』と 『インドミタカレ』は『ニュージーランド』の後方に占位し ことの成り行きを正確にたどることができる。 いまでは、 第 3 巡戦戦隊と行動を共にしていた『チェスター』は、午後 5 時 40 分には戦艦艦隊の巡洋艦警戒幕の前に出ており、敵の 警戒幕を構成する軽巡洋艦の一部に遭遇して交戦した。そし てそうするうちに、敵の軽巡洋艦を第 3 巡戦戦隊の方へ誘引 した。そして、第 3 巡戦戦隊は『カンタベリー』や駆逐艦と 共に『チェスター』を支援して敵艦と交戦するために西北西 に方向転換した。 この運動の間にイギリスの駆逐艦 4 隻によって敵の軽巡洋 艦に向けて駆逐艦攻撃がなされた。ドイツ軍の戦闘報告から 判断するかぎり、彼らはこの攻撃が戦艦艦隊に随伴している 水雷戦隊から来たものと考えたらしい。 ドイツ側の艦艇が第 3 巡戦戦隊の艦を我が戦艦艦隊の前衛と誤認したことは間違 ドイツ軍の報告書の中にその時ドイツの小型艦艇の いない。 部隊によって発見されたイギリス戦艦艦隊が西あるいは北西 の方向に向かっていたという記述がなされているからである。 大洋艦隊の前衛は誤った考えによって右舷に方向転換して遠 ざかることになった。 この時にわが戦艦艦隊が西向きの針路にいたというのは的 外れで、我が戦艦艦隊はそれまでは南東向きの針路をずっと 維持し、そして展開の直後から徐々に針路を巡らせていき、 最初は南から南西の向きに、次いで西向きとした。しかし針 路を西向きにしたのは午後 8 時になってからであった。 唯一明白でない点は、我が第 3 巡戦戦隊と交戦して大損害 を受けた敵の軽巡洋艦の正体である。『デフェンス』及び 133
431 7 月中の戦艦艦隊全隊としての行動は 17 日から 20 日まで の 1 回の遊弋だけであった。つまり、第 1 、第 2 、第 4 、第 5 戦艦戦隊、第 2 、第 3 巡洋戦隊、第 4 軽巡戦隊、水上機母艦 『カンパニア』ならびに諸水雷戦隊は、 17 日正午から午後 1 時 30 分の間にスカバを出発し、シェトランド諸島の北方及び 東方へ進出した。この機会を利用して 18 日と 19 日に連続し た戦闘演習を実施したが、これらの演習はジュットランドの 戦闘の際に敵がとった戦術から得られた経験に基づいていた。 遊弋中に水雷戦隊の数隊がラーウィックで燃料を補給して、 艦隊は 20 日の午前中にスカバ及びクロマーティに帰投した。 ペントランド海峡に接近した時に霧が出てきたので、人港に いくらか苦労した。 当月中の巡洋艦の行動は以下の通り。 (a) 通商破壊船から通商を保護するためグランド・フリー トの巡洋艦によりアルハンゲリスク航路を常時哨戒。 (b) 7 日から巡洋艦 2 隻及び駆逐艦 2 隻によるシェトラン ド諸島北方の遠距離水域における常設哨戒を開始。 ( 従 来巡洋艦 1 隻及び武装臨検船が配置されていたものに 代わるもの ) 。 (c) 9 日、中立国からの通報により、大西洋に向け出港し つつあるドイツの通商破壊船 1 隻を捕捉するために大規 模な配置がなされた。これらの配置は次の通り。 233
322 『バーラム』 H ・エヴァン - トーマス少将 ( 第 5 戦艦戦隊指揮 官 ) の旗艦 水上機母艦『エンガディン』は軽巡洋艦『グロスター』と 『コーデリア』の間に配置され、また『ライオン』と警戒幕 の軽巡洋艦の間の通報艦の役目を軽巡洋艦『ャーマス』が務 めた。 敵艦に関する最初の報告は『ガラティア』 ( 第 1 軽巡戦隊を 指揮する E ・ S ・アレキサンダー・シンクレア准将の旗艦 ) か らで、准将は午後 2 時 20 分に東南東に敵艦 2 隻を視認した。 この 2 隻は見たところ停止して中立国の汽船を臨検している ようであった。 サー・ディビッド・ビーティは状況から敵とその根拠地の 間に人れる可能性を認め、直ちにホーン・リーフに向けて配 下の艦隊の針路を南南東に変更した。 午後 2 時 35 分、『ガラティア』は東北東の方位に艦隊が吐 き出す大量の煙を認めたと報告し、続いてその艦船が北に向 かっているという報告をした。そこで巡戦艦隊の針路は煙を 追って東方及び北東に変更された。そして午後 3 時 31 分に敵 艦を発見し、巡洋戦艦 5 隻及び随伴の駆逐艦と判明した。 一方、第 1 及び第 3 軽巡戦隊は状況を正確に判断して針路 を変更し、命令を待っことなく東へ展開し、大型艦の前方に 警戒の陣形をなした。我が方の軽巡洋艦は遠距離にいる同じ 艦級の敵艦を認めてこれと交戦した。『サウサンプトン』に准 将旗を掲げた W ・ E ・グデナフ准将が指揮する第 2 軽巡戦隊 は巡洋戦艦の方に高速で到来し、その前方の東南東の針路上 で陣形を作った。そして午後 3 時 30 分、東北東の方向に敵の 巡洋戦艦を発見した。 112
332 変えた。敵の巡洋戦艦も徐々に東方に引き上げた。おそらく 我が運動を敵の軽巡洋艦が報告したためであろう。この軽巡 洋艦はこのとき我が軽巡洋艦『チェスター』と接触しており、 またフッド少将に率いられた我が第 3 巡戦戦隊が見えるとこ ろにいた。 これらの艦の行動についてここで述べておこう。 午後 4 時、フッド少将が率いる第 3 巡戦戦隊は私の命令に 従ってサー・ディビッド・ビーティを増援するために全速で 進んだ。午後 5 時、『インビンシフ。ル』 ( 旗艦 ) 、『インフレキ シプル』、『インドミタカレ』から成る同戦隊はこの順に単縦 陣をなし、潜水艦に対する警戒幕として駆逐艦「シャーク』、 『クリストファー』、『オフィーリア』、『アカスタ』を前方に 配置し、軽巡洋艦『カンタベリー』を 5 マイル前方に、軽巡 洋艦「チェスター』を北 70 度西に配置して 25 ノットで南微 東に向かっていた。視界は急速に悪化しつつあった。『インド ミタブル』の報告によると、いくつかの方向では 16 , 000 ャー ド離れた物体を識別できたが、それ以外ではわずか 2 , 000 ャー ドであった。また同艦の報告によれば、それ以降、視界は 14 , 000 から 5 , 000 ャードの間で変化した。しかし他の報告では時々 それよりも良好であったとしている。 午後 5 時 30 分、南西から砲撃音がはっきりと聞こえたの で調査のために『チェスター』がその方向に向かった。そし て午後 5 時 36 分、艦首右舷方向に 3 本煙突の軽巡洋艦 1 隻 とこれに駆逐艦 1 隻ないし 2 隻が従っているのを発見した。 『チェスター』は誰何したが応答が無く、駆逐艦の外観から この艦が敵であると判断し、針路を西に変えて接近した。 『チェスター』は接近すると針路をほぼ北に変えた。駆逐艦 による魚雷攻撃 ( この駆逐艦はそうするのに都合のいい相対 的位置にいた ) に対して無防備になるのを避けるためである。 122
323 サー・ディビッド・ビーティは『ガラティア』の報告を受 けると同時に『エンガディン』に命じて水上機 1 機を発進さ せ北北東を偵察させた。戦闘において水上機が艦隊と連携し て偵察任務を行ったのはこれが初めてであり、それゆえこの 出来事は注目に値する。低く垂れこめた雲のために観測は困 難であったが、パイロットとして F ・ S ・ラトランド航空大尉 ( 英海軍 ) 、観測員として G ・ s ・トレウイン少主計 ( 英海軍 ) が搭乗した水上機は雲の下を低く飛行することによって敵の 軽巡洋艦 4 隻を識別して報告することができ、午後 3 時 30 分 に『ライオン』に報告が届いた。同水上機は観測中に敵の軽 巡洋艦から激しい砲火を受けた。この時までに戦列が形成さ れつつあった。第 2 巡戦戦隊は第 1 巡戦戦隊の後方で陣形を なし第 9 及び第 13 水雷戦隊は前方で配置についた。針路は 東南東で、わずかながら敵寄りになり、速度は 25 ノット、距 離は 23 , 000 ャードであった。サー・ディビッド・ビーティは 煙が邪魔にならないような方向線上に配下の艦を配置した。 巡戦艦隊の行動に追従する第 5 戦艦戦隊はこのとき北北西 の方向、距離 10 , 000 ャードにあった。天候は好ましく、太陽 が我が諸艦の背後にあり、南西の風で、視界は良好であった。 一方『ガラティア』から『ライオン』宛ての無線報告が『ア イアン・デューク』で傍受され、直ちに戦艦艦隊に対し全速 に備えて蒸気を上げよという命令が出されたが、その時各艦 は直ちに全速を出せる状態にあった。巡洋艦にはそれ以前に 全速に備えて蒸気を上げるよう命令が出されていた。午後 3 時 10 分、戦艦艦隊に戦闘準備が命ぜられた。そして午後 3 時 30 分、私は各隊の指揮官に対して配下の艦に状況を伝えるよ うに命じた。当初、『ガラティア』からの報告は軽巡洋艦と 113
228 南航する際の護衛役の駆逐艦、あるいは艦隊行動に用いる駆 逐艦が甚だしく欠乏した状態で艦隊が海に出たなら、危険な 結果を招いたであろう。私は艦隊を指揮した期間を通じてこ の問題に直面した。 北方根拠地の周辺のような開けた水域において駆逐艦を用 いて対潜水艦作戦を行う場合、その種の作戦にスカバで通常 動員できるよりもかなり多い艦艇をもって取り組まない限り、 成功の見込みはほとんど無いということを、私は経験によっ て確信した。大型艦、巡洋艦、軽巡洋艦によって実施される 作戦に駆逐艦の存在が不可欠であることに加えて、単独の艦 船あるいは戦隊が根拠地間を移動する間の護衛任務のために 絶えず駆逐艦にお呼びがかかる、ということが駆逐艦の不足 を招く一因であった。 他に同月中、以下の重要な出来事があった。 新造軽巡洋艦をもって第 4 軽巡戦隊を編成し、故ル・メズ リエ准将・が司令官として『カライアヒ。」に座乗した。同戦隊 は戦艦艦隊に付属し、出動中の航行序列ではたいてい戦艦艦 隊の 3 マイルから 5 マイル前方に配置され、敵潜水艦をして 潜航せざるを得ないようにするという潜水艦に対抗する前衛 として働いた。戦闘展開時には同部隊はこの位置から艦隊の 先頭に達することができ、砲火で敵駆逐隊を攻撃し、敵戦艦 艦隊を魚雷で攻撃するためにその位置に配置された。この部 隊は、敵との戦闘に人った時に私の意思通りに動くように司 令長官として私が掌握し続けた。巡洋艦による警戒幕のうち 先行した位置を占める他の軽巡戦隊については、艦隊戦闘中 に同じ艦種の敵艦と交戦するかも知れなかったので、その戦 隊が指定された先頭位置にいることを第 4 軽巡戦隊と同じよ うに確信をもって期待することはできなかった。 訳注 : 原著発行前の 1917 年 11 月 10 日に死去。 1915 年 5 月に准 将に昇進。 12
446 て通過したと報告した。このとき戦艦艦隊と巡戦艦隊は合同 していた。 またツェッペリン飛行船も午後の間に『チャタム』、『ガラ ティア』、『ライオン』及びトロール船『シーレンジャー』、「ラ メクソ』によって視認され、特に『ラメクソ』は低高度にいた ツェッペリンを発見して砲撃し、 2 発が命中して前部ゴンドラ に火災が起きたと報告した。 夕方に巡戦艦隊はロサイスに分離され、戦艦艦隊は北方に 航行を続けた。 20 日の午前 5 時と午後 3 時 30 分にペントラ ンド岩礁の東方に潜水艦が現れたという報告を受けたため、 戦艦艦隊はそれらを避けるために北方に迂回し、北東の方向 からペントランド海峡に接近して午後 6 時 30 分から 8 時の 間に無事に人港した。 8 月 19 日の経験は、高速航行する軽巡洋艦であっても駆逐 艦の直衛がなければ敵潜水艦に対してかなり危険であること を明らかにした。敵潜水艦の指揮官は間違いなく技量を上げ ており、我々が大戦の初期に敢えて冒すことができた危険を 今冒すことは正当化できなくなっていた。今後は軽巡洋艦 1 隻につき少なくとも駆逐艦 1 隻の直衛が必要と考えるという 申し人れが海軍本部になされた。当時グランド・フリー 利用できる駆逐艦の数ではこれが叶わなかった。しかしその 数が当艦隊に充当する予定の総数 100 隻に届くに従い、艦隊 とは無関係な任務の遂行のために艦隊に不在の数が多くなけ れば、前進部隊にいる大半の軽巡洋艦に駆逐艦を割り当てら れるようになった。 248
497 て『オーロラ』から敵艦と交戦中との報告が届いた。私は直ちに 南南東に変針して 22 ノットに増速し、軽巡洋艦及び水雷戦隊に 対して南南東に急行し敵と接触してその行動を報告せよと命じた。 この命令は極めて迅速に実行された。実際には各隊の指揮官が 私の意向を汲んで前もって行動しており、ほぼ即座に『サウサン プトン』、『アラスーザ』、『オーロラ』から敵の位置と編制が報告 されてきた。それによると敵は巡洋戦艦 3 隻及び『プリュッヒャー』、 軽巡洋艦 6 隻、多数の駆逐艦から成り、北西に進んでいた。敵は 南東に針路を変えた。それ以降、我が軽巡洋艦は敵と接触を保ち その動きについて私に十分な情報を伝え続けた。 わが巡戦戦隊は全速力を出して南方に向かった。この時の風は 北東の軽風で視界は極めて良好であった。午前 7 時 30 分、左舷 前方に高速で航行中の敵を発見した。その針路はほぼ南東で距離 は 14 マイルであった。 報告が迅速であったおかげで我々は敵の斜め後方に占位し、そ れから南東に変針して敵と並走するようにし、徐々に速度を 28.5 ノットまで上げて追撃陣形をとった。「ニュージーランド』と『イ ンドミタブル』がその計画速度を大きく上回ったのは両艦の機関 部員の大きな功績である。 午前 8 時 52 分、我々は敵の後尾の艦から 20 , 000 ャード以内 に接近したので、我が巡戦戦隊は諸砲が指向できるように梯陣を っくり、次いで『ライオン』が 1 発発射したが近弾となった。 のとき敵は単縦陣をとり、軽巡洋艦を先頭にして多数の駆逐艦を 右舷正横に配置していた。 我が方は距離を調べるために 1 発ずつ間を置いて試射を行い、 午前 9 時 9 分に『ライオン』は敵の 4 番艦『プリュッヒャー』に 初めて命中させた。午前 9 時 20 分に『タイガー』が敵の殿艦に 向けて砲火を開いたので『ライオン』は狙いを距離 18 , 000 ャー ドの 3 番艦に移し、斉射を数回命中させた。敵は午前 9 時 14 分 に応戦を開始した。午前 9 時 35 分、『プリンセス・ロイヤル』は 有効射程内に人ると直ちに『プリュッヒャー』に向けて砲火を 299
290 あるであろう、と。また第 3 戦艦戦隊が南方水域に存在する ことは、万一敵の強行上陸が起きた場合に役に立ち、またハ リッジ部隊には良い支援となるであろう。ただし敵潜水艦が 南方水域で頻繁に機雷を敷設していたため、行動の自山をか なり妨げられていた。私は、第 5 戦艦戦隊ならびに他の新し い艦 ( 『リべンジ』級の艦も竣工間近であった ) の到着により、 もはや第 3 戦艦戦隊によるグランド・フリートの補強は不要 になったと指摘した。この提案は採用され、第 3 戦艦戦隊及 び第 3 巡洋戦隊はメドウェイへ回航するため 29 日にハンバー に向けて出港した。第 3 戦艦戦隊はシェアーネスを根拠地と したが、同戦隊の各艦は国外の水域での任務のために徐々に 抜けていった。また海軍本部はモニター艦を数隻、重要な無 防備港に配置した。 私が提案していた、軽巡洋艦に代えて嚮導駆逐艦に司令と なる大佐を置くという方針が 4 月のうちに採用された。これ はこの種の駆逐艦が数隻完成したために可能となった。これ を望んだ理由は、そうして自由になった軽巡洋艦をあまりに 心細い我が軽巡洋艦の部隊に加えることであった。 4 月の第 10 巡洋戦隊の毎週の平均の数字は、以下の通りで あった。 停船させた船 40 隻、引致したもの 10 隻、哨戒に従事中の 軍艦 12 隻、人港中あるいは哨区との往復の途上にあって不在 のもの 9 隻、特別任務に就いていたもの 1 隻。 4 月は霧や靄が非常に多く、 8 、 16 、 24 日には強風が吹い 76
476 『チャンビオン』に合流した。『フィアレス』の報告に敵の大型艦 1 隻が午後 5 時 10 分頃に大火災を起こしているのを認め、その 後間もなくして『クイーン・メリー』及び『インディフアティガ カレ』の爆発の時に似たもうもうたる煤煙と蒸気が立ち上ったの を認めたとあるのは、前記のことを裏付けるものである。 午後 5 時 35 分、我が隊の針路は北北東であったが、グランド・ フリート ( 戦艦艦隊 ) の推定位置が北 16 度西であったので、我 が隊は徐々に北東に変針し敵との距離を 14 , 000 ャードに保った。 敵は徐々に東方に変針したが、これは艦列の先頭部に激しい攻撃 を受けたことと、恐らく味方軽巡洋艦から我が第 3 巡戦戦隊 ( 『イ ンドミタブル』の報告を参照 ) を発見して交戦中という情報に基 づいての行動と思われる。おそらくツェッペリン飛行船もいたの であろう。午後 5 時 50 分、イギリスの巡洋艦を左舷艦首に認め、 次いで午後 5 時 56 分、グランド・フリートの嚮導の戦艦を北 5 マイルに認めた。そこで私は東に変針し最大速度で進んだ。これ により敵との距離が 12 , 000 ャードに縮まった。私は敵の巡洋戦 艦が我が隊の南東にいることを司令長官に報告した。このとき敵 の巡洋戦艦は 3 隻しか見えず、そのすぐ後ろに『ケーニヒ』級の 戦艦が続航していた。 午後 6 時 5 分頃、『ライオン』の戦闘側艦首にいた『オンズロー』 は当隊から距離 6 , 000 ャードに敵軽巡洋艦 1 隻が魚雷攻撃を行お うとしているのを発見した。『オンズロー』は直ちにこの敵艦に接 近して攻撃し、距離 4 , 000 ないし 2 , 000 ャードで 58 弾を発射し て若干数を命中させた。『オンズロー』は次いで敵巡洋戦艦に接近 し、全ての魚雷を発射する命令が下された。そのとき同艦の中央 部に巨弾 1 発が命中し、そのため魚雷の発射はわずか 1 発にとど まった。同艦の艦長は魚雷が全て発射されたと思い、微速で退却 を始めた。しかし魚雷 3 発が残っていると報告を受け、彼は先に 交戦した軽巡洋艦に接近してこれを雷撃した。次いで敵の戦艦艦 隊が現れたので、残りの魚雷をこれらの艦に向けて発射した。 れらの魚雷は正確に発射されたので、敵の艦列と交差したに違い ない。次いで『オンズロー』は損傷が原因で停止した。 278