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検索対象: グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで
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1. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

474 彼らは激しい砲火にさらされながらも臆すること無く針路を維持 し、魚雷攻撃の好位置に達すると距離 3 , 000 ャードで敵艦列の 2 番艦に向けて魚雷 1 本を発射した。彼らが 4 回目の雷撃を行おう とする前に『ネスター』が大損害を受けて右舷に転回し、『ニケー ター』はこれとの衝突を避けるため内方に変針し、このため最後 の魚雷を発射する機会を失った。『ニケーター』は首尾良く脱出 し、その後第 13 水雷戦隊指揮官に合流した。『ネスター』は停止 したままであったが、最後に見た時は水上に浮かんだ状態であっ た。また『ムーアサム』も敵の戦艦艦隊に攻撃を行った。 『ペタード』、『ニリッサ』、『タービュレント』、『ターマジェン ト』も敵の駆逐艦と交戦後に敵の巡洋戦艦に迫り魚雷攻撃を行っ た。『ペタード』は自艦の発射した魚雷が全て敵の艦列と交差した ことは確実と報告し、『ニリッサ』は魚雷 1 発が後尾の敵艦に命 中したと思われると報告した。以上の駆逐艦の攻撃は我が海軍に 横溢する精神を示すもので、その至高の伝統にふさわしいもので あった。 午後 4 時 15 分から同 4 時 43 分まで、彼我の巡洋戦艦の戦闘 は非常に激しく互いに一歩も退かないものであった。第 5 戦艦戦 隊は敵の後尾の数艦と交戦していたが、残念なことに距離が非常 に遠かった。我が方の砲火が命中し始めると、敵の射撃の精度と 速度がかなり衰えた。午後 4 時 18 分、敵の 3 番艦に火災が発生 したのが見えた。北東の視界が非常に悪くなり、敵艦の輪郭がか なり不明瞭になった。 午後 4 時 26 分、『クイーン・メリー』が大爆発を起こし、もう もうたる灰色の煙に包まれて姿を消した。その後同艦の士官や兵 18 名が『ローレル』に救助された。 午後 4 時 38 分、『サウサンプトン』は前方に敵の戦艦艦隊を発 見したと報告した。駆逐艦は呼び戻され、午後 4 時 42 分、敵の 戦艦艦隊が南東に認められた。私は右舷に 16 点の逐次回頭を行 い、敵をグランド・フリートの方へ誘導しようと北に向かう針路 を進んだ。その後間もなくして敵の巡洋戦艦が変針し戦闘が続い た。『サウサンプトン』は偵察のため第 2 軽巡戦隊を伴ってさら に南方に進んだ。彼らは敵の戦艦艦隊の 13 , 000 ャード以内に 276

2. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

417 海軍本部 1916 年 7 月 4 日 閣下一海軍本部軍事委員は 5 月 31 日にジュットランド・ バンク沖で起きた貴官が指揮するグランド・フリートとドイ ツ大洋艦隊との間の海戦に関する報告ならびに巡戦艦隊指揮 官の中将からの報告、及びグランド・フリートの各将官なら びに指揮官からの報告を熟考した。 2. 軍事委員は開戦以来初めての艦隊戦闘において敵に重大 な打撃を与えその本国に撤退させた結果を収めたことに関し、 グランド・フリートの各士官、水兵、海兵隊員に祝辞を贈る。 5 月 31 日と 6 月 1 日の出来事は戦闘に参加した全員の勇気 と献身が顕著であることを十分に実証した。各種艦艇の操縦 は巧妙かっ決断力をもって行われた。戦闘中の汽走は機関部 員の熱意と能率に対する見事な証明をもたらした。個々の独 創性と軍令服従は共に際立っていた。 3. この海戦の結果はグランド・フリートの士卒が共に直面 した新しい問題をいかに研究し、かっ、いかに自らの知識を 活用するかを知っていたことを証明するものである。国家の 期待は大きかったが、彼らはそれに十分に応えた。 4. 軍事委員は今回の責報告を全面的に是認したことを貴下 に伝えるよう私に望んでいる。 敬具 219 W ・グレアム・グリー ン

3. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

414 サー・ディビッド・ビーティにおいては巡戦艦隊の指揮官 としてその任期を通じて最高の戦闘的技量を示し、かっ麾下 の部隊にその不屈の精神を吹き込んだ。 各戦隊の次席指揮官は全員が長期間小隊の指揮をしていた ので、彼らが演習で行ったのと同様に戦闘においても麾下の 小隊を巧みに操ると信頼していたが、その通りであった。 軽巡戦隊及び水雷戦隊の指揮官は私のあらゆる期待に常に 応えた。これらの艦艇の乗員が苦境に耐えて任務を頻繁に遂 行する様子は常に私が賞賛するところであった。 私は有能かっ信頼すべき貴重な参謀長サー・チャールズ・ マッデン少将及び首席参謀ライオネル・ハルゼー准将以下の 優秀な幕僚の助力を受け、有能で経験豊富な各司令官ならび に多数の機会に熟練の技能を示した艦長たちの補佐を受けて、 誠に幸運な地位にいた。 以上の利点に加えて、下級乗員が立派であったために得ら れた利を挙げずにはいられない。士官と艦の乗員の熱心さは どんな司令長官といえどもこれ以上を望むことができないほ どであった。敵を待っことは長かったが、惓怠感は少しも見 えなかった。士卒は来る日も来る日もその艦の戦闘能力を完 全にするよう努め、十分にその目的を達した。機関部員は私 が望んだいかなる要求にも見事に応えられることを大戦の初 期に示し、ジュットランド海戦の時に実証した。艦隊の士気 216

4. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

390 注意この章に関連する図表には私が海軍本部に提出した 最初の詳報に付したものとは若干の違いがある。その詳報は 早く受け取りたいという要請をひっきりなしに受けて提出し たもので、そのとき私は部下の幕僚と同様に、損傷した艦の 修理の手配や、戦闘の結果我が方の艦に必要と判った改造、 我々の経験を踏まえて種々の題目について報告するために私 が設けた各種委員会などのために忙殺されていた。それゆえ、 私はこの報告に個人的な注意を払うことができなかったが、 後にその機会を得たので、これらの報告と 5 月 31 日に受信 した信号について綿密にかっ時間をかけて調査した結果、少 しばかり修正がなされることになった。 スカバに帰着して私が最初に行った事は、 6 月 3 日の朝に 国王にささやかな職務を奏し、かっ陛下の誕生日に心からの 敬愛の念を奉る通信文を送ることであった。 陛下からは以下のような詔勅を拝受し、艦隊に伝達した。 「予は卿がグランド・フリートを代表して予に送った報告に すこぶる心を動かされた。卿の麾下の将卒の立派な勇敢さを 重ねて示した海戦の翌日に卿の報告が予に届いた。予の朋友 を含む多くの勇敢な者が国のために斃れたことを予は悲しむ。 ドイツ大洋艦隊が常に希望の意を公言しておき 予はさらに ながら、その機会が訪れた時にはその意を示さなかった対決 の完全な結末を味わうことから、大損害を被ったとはいえ、 逃げおおせたことを残念に思う。全面的な戦闘の開始後に敵 192

5. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

245 当月中、ペントランド海峡の南東へ哨区を延長し、武装臨 検船 3 隻及び駆逐艦 3 隻がその哨戒を継続した。 1915 年 9 月の主な出来事は、おそらく最も便利なように そして簡潔に日記の形で示すことにしよう。 9 月 1 日、掃海用装備を施した駆逐艦 8 隻がペントランド 海峡西方の水域を掃海した。駆逐艦がこの目的に使われたの はこれが初めてのことであった。 9 月 1 日及び 2 日、『プラック・プリンス』及び軽巡洋艦 4 隻は駆逐艦 6 隻と共に、スカバから東方へ掃蕩を実施した。 9 月 2 から 5 日、ド級戦艦艦隊、第 1 、第 2 、第 3 巡洋戦 隊及び第 4 軽巡戦隊は北方の水域で遊弋した。駆逐艦は艦隊 の出航及び帰投時に護衛したが遊弋には随行せず、根拠地に 留まって燃料の補給を済ませ、南方に動く必要があった場合 に備えた。この遊弋の間に機会を作って戦闘演習と夜間射撃 が実施された。戦艦『シュバープ』が潜水艦の潜望鏡を発見 したと報告した。 9 月 2 日、著明なフランス人紳士 5 名とアメリカ合衆国の 報道機関の代表者 1 名が艦隊を訪問した。我が軍に直接関係 のない人物がグランド・フリートの根拠地を訪問したのはこ れが初めてであり、この出来事がイギリス海峡の向こうにあ る我らの勇敢な同盟国の代表者らをスカバ・フローに連れて きたことを我々はうれしく思った。艦隊はそのすぐ後に出発 し、訪問客は各艦が港を出発するところを見ることができた。 31

6. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

369 こうした状況は特に我が戦艦艦隊に影響を及ぼしたが、そ の前方にいた我が方の諸艦が同様の影響を受けてはいないこ とがお判り頂けるだろう。彼らには敵の嚮導艦の煙の他に視 界をくもらせるものがほとんどなかった。はるか後方にいた 我が戦艦艦隊は、敵の長い艦列からの煙に加えて前方にいる 味方艦全てから煙を受けた。 我が戦艦艦隊の前方おいて生じた困難の状況は戦艦艦隊に 至って極めてひどくなった。この点についてサー・マーティ ン・ジェラム中将は報告の中でこう述べた。「艦隊の嚮導艦と しては、靄のかかった空気に加えて、煙にひどく妨害された。 味方の巡洋戦艦が我々を追い越した後には、彼らからの煙 ( 装 薬の煙に違いないと推測する ) 、前方で交戦中の他の巡洋艦か らの煙、また前方にいる小型艦艇の煙突の排気ガスに加えて 『デューク・オプ・エジンバラ』からの濃い煙があり、これは 避けることができす、相当の間妨害された」 午後 6 時 45 分及び午後 7 時 15 分における艦隊全般の位置 をそれぞれ 356 頁及び 360 頁の向かいの図に示す。 午後 7 時 10 分、『マイノトー』 ( 第 2 巡洋戦隊を指揮する H ・ L ・ヒース少将の旗艦 ) からの所見によると、同艦から見 える場所は以下の通りであった。「第 2 巡洋戦隊は単縦陣で 『キング・ジョージ五世』の左舷側 3 から 4 マイルにいて、 同艦に少しずつ追いつきつつあった。ただし『マイノトー』と 『キング・ジョージ五世』の間には駆逐艦と小型艦艇が全て いた。巡洋戦艦の諸艦は『マイノトー』の右舷艦首方向にい て、約 4 マイル離れていた。巡洋戦艦はその高速力によって 戦艦艦隊との距離をたちまちおよそ 8 マイルに広げた」 他の巡洋艦の報告から判断すると、こで述べられた位置は 午後 6 時 50 分から 7 時のことになり、従って図は位置をその通 りに示している。 171

7. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

472 きた。この点において軽巡戦隊の働きは優秀かっ貴重であった。 午後 2 時 25 分の『ガラティア』の報告から敵が相当な大部隊 であって孤立した軽巡洋艦の部隊だけではないことが明白であっ たため、私は午後 2 時 45 分に『エンガディン』に対し水上機 1 機を出して北北東を偵察せよと命じた。この命令は極めて迅速に 実行され、午後 3 時 8 分には操縦者 F ・ J ・ラトランド英海軍飛 行大尉ならびに偵察者 G ・ S ・トレウイン少主計が搭乗した水上 機 1 機がかなりのところまで飛行していた。午後 3 時 30 分頃、 『エンガディン』は水上機から敵に関する最初の報告を受けた。 水上機は雲のために非常に低空で飛行せねばならず、かっ敵の 4 隻の軽巡洋艦を識別するために高度 900 フィートで敵艦から 3 , 000 ャード以内のところを飛ばねばならなかった。敵の軽巡洋 艦はあらん限りの砲火を水上機に浴びせた。この砲火は我が飛行 士らの妨害には全くならず、正確な報告がなされた。そして F ・ J ・ラトランド飛行大尉ならびに G ・ S ・トレウイン少主計両名の 功績はこうした状況下で水上機に際立った価値があることを示し たもので、賞賛に値するものである。 午後 3 時 30 分、私は 25 ノットに増速して戦闘陣形をとった。 つまり第 1 巡戦戦隊の後ろに第 2 巡戦戦隊が続き、第 13 、第 9 水雷戦隊の駆逐艦が巡戦戦隊の前方に占位した。いまや敵は距離 23 , 000 ャードにあり、私は敵にわずかに近づくように東南東に変 針し、また煤煙を避けるために単梯陣を形成した。この時我が隊 の運動に倣った第 5 戦艦戦隊は北北西 10 , 000 ャードにあった。 この時の視界は良好で太陽は我々の背後にあり風向きは南東で あった。我々は敵とその根拠地の間にいたので、我が方の立場は 戦略と戦術の両方で良好であった。 午後 3 時 48 分、距離 18 , 500 ャードで両軍がほぼ同時に砲火 を開き戦闘が開始された。我が方は南方に変針し、その後はおお よそ南南東の針路をとり、敵はこれに 18 , 000 ないし 14 , 500 ャー ド離れて並行する針路をとった。 午後 4 時過ぎ、『インディフアティガプル』が激しい爆発の後、 戦列から落伍し、転覆して沈没した。 274

8. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

395 るかも知れない困難は、我が方が反撃を行う前に敵駆逐艦が 迅速かっ有効に攻撃を実行できるような視界が悪い天候にお いて敵艦隊と遭遇する危険と相まって、これらの状況に対応 する他の手段を考えることを不可欠とした。 大戦の初期に人手したいくっかのドイツ側の文書によって 敵がこの種の攻撃を重要視していることが判明し、この問題 の重要性が際立った。 もちろんこの問題に二つの面があることは十分理解されて いた。つまり、我が方の戦艦艦隊がこの種の攻撃に無防備と いうことは、敵の戦艦艦隊も同様に無防備ということである。 しかし、注意を払わねばならない重要な事柄が他にあった。 この種の魚雷戦は賭けの要素が非常に大きいとい うことであった。遠距離から戦艦艦隊を攻撃する水雷戦隊は、 発射した魚雷の何割かが命中し残りは艦の間を通過すると考 えて攻撃を行う。 距離 8 , 000 ャードで発射され毎時 30 ノット ( 換言すれば 毎秒 50 フィート ) の速度を持っ魚雷と 8 , 000 ャードにおい て毎秒約 2 , 000 フィートの速度を持っ砲弾とは到底比較でき ない。魚雷が射出後に完全に直進するとしても、目標の速度 と針路を相当正確に測定しておかないと命中しない。 197

9. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

第十四章 ジュットランド海戦 ( 続き ) 第 3 節夜戦 当時の形勢は、私には一度にさほど多数の艦が見えなかっ たためになおも不明であったが、以下のようであった。 敵の帰路がホーン・リーフを経由して、あるいはまっすぐ ヘリゴランドを経由して、またあるいは敵が使用することが 知られていた西フリジア諸島の海岸に沿う掃海された水路を 経由してであっても、我々は敵とその根拠地の間にいる関係 にあった。 私は敵が我々よりはるか西方にいると結論した。敵は常に 内線、に運動していた。戦闘中に我々は南東微東から西へ徐々 に針路を変えていき、総計で 13 点つまり 146 度の方向転換 を行い、結果として敵艦をはるか西方にかっ我が方の前方に 位置させたに違いなかった。ただし損傷のため落伍した敵艦 が北方にいる可能性はあった。 もちろん私は夜戦の可能性を忘れてはいなかったが、いく っかの理由により主力艦同士でそうした戦闘を行うつもりは なかった。 夜戦に対する主な反対理由を述べれば十分である。 第一に、そのような行動は必然的に我が戦艦艦隊を夜通し 極めて大規模な敵駆逐艦部隊の攻撃の的にしたに違いない。 ・自軍の部隊を一つに集めて敵に対する方法 372 174

10. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

第十二章 ジュットランド海戦 1916 年 5 月 31 日、グランド・フリートとドイツ大洋艦隊 は、後にジュットランド海戦として知られるようになった戦 闘を行った。その数週後に公表された戦闘詳報 * は私が書いた 原文とはやや異なっていた。 6 月初旬に海軍本部で会議が開 かれた後に改変がなされた。改変のいくつかは、原文中のい くつかの節が敵に有益な情報を与えるかもしれないと考えら れたためで、また他の改変は、英国の軍艦設計のいくつかの 特徴に注目を引くことが好ましくないと考えられたからであっ た。後者のうちには我が方の初期の巡洋戦艦の装甲防御の不 十分さがあった。 大戦を通じて、海上にあっては我が巡洋戦艦を軽巡洋艦と 共に主力部隊から進出した位置につかせるのが我が軍の方針 であった。この位置は戦艦艦隊からかなり離れた場所になる ことが度々あった。巡洋戦艦は敵を発見したらこれと接触を 保ち敵の動きを報告することができるように設計・建造され た。それゆえ巡洋戦艦は大口径砲を搭載していた。巡洋戦艦 は戦艦艦隊が受け持っ敵を発見し、その戦力を確認して戦艦 艦隊に報告することとされていた。この方策を採用していな かったら、 1915 年 1 月 24 日の海戦のような場合に敵の巡洋 戦艦を戦闘に引き込むことはできなかった。また、我が国の * 付録を参照。 306 94