474 彼らは激しい砲火にさらされながらも臆すること無く針路を維持 し、魚雷攻撃の好位置に達すると距離 3 , 000 ャードで敵艦列の 2 番艦に向けて魚雷 1 本を発射した。彼らが 4 回目の雷撃を行おう とする前に『ネスター』が大損害を受けて右舷に転回し、『ニケー ター』はこれとの衝突を避けるため内方に変針し、このため最後 の魚雷を発射する機会を失った。『ニケーター』は首尾良く脱出 し、その後第 13 水雷戦隊指揮官に合流した。『ネスター』は停止 したままであったが、最後に見た時は水上に浮かんだ状態であっ た。また『ムーアサム』も敵の戦艦艦隊に攻撃を行った。 『ペタード』、『ニリッサ』、『タービュレント』、『ターマジェン ト』も敵の駆逐艦と交戦後に敵の巡洋戦艦に迫り魚雷攻撃を行っ た。『ペタード』は自艦の発射した魚雷が全て敵の艦列と交差した ことは確実と報告し、『ニリッサ』は魚雷 1 発が後尾の敵艦に命 中したと思われると報告した。以上の駆逐艦の攻撃は我が海軍に 横溢する精神を示すもので、その至高の伝統にふさわしいもので あった。 午後 4 時 15 分から同 4 時 43 分まで、彼我の巡洋戦艦の戦闘 は非常に激しく互いに一歩も退かないものであった。第 5 戦艦戦 隊は敵の後尾の数艦と交戦していたが、残念なことに距離が非常 に遠かった。我が方の砲火が命中し始めると、敵の射撃の精度と 速度がかなり衰えた。午後 4 時 18 分、敵の 3 番艦に火災が発生 したのが見えた。北東の視界が非常に悪くなり、敵艦の輪郭がか なり不明瞭になった。 午後 4 時 26 分、『クイーン・メリー』が大爆発を起こし、もう もうたる灰色の煙に包まれて姿を消した。その後同艦の士官や兵 18 名が『ローレル』に救助された。 午後 4 時 38 分、『サウサンプトン』は前方に敵の戦艦艦隊を発 見したと報告した。駆逐艦は呼び戻され、午後 4 時 42 分、敵の 戦艦艦隊が南東に認められた。私は右舷に 16 点の逐次回頭を行 い、敵をグランド・フリートの方へ誘導しようと北に向かう針路 を進んだ。その後間もなくして敵の巡洋戦艦が変針し戦闘が続い た。『サウサンプトン』は偵察のため第 2 軽巡戦隊を伴ってさら に南方に進んだ。彼らは敵の戦艦艦隊の 13 , 000 ャード以内に 276
417 海軍本部 1916 年 7 月 4 日 閣下一海軍本部軍事委員は 5 月 31 日にジュットランド・ バンク沖で起きた貴官が指揮するグランド・フリートとドイ ツ大洋艦隊との間の海戦に関する報告ならびに巡戦艦隊指揮 官の中将からの報告、及びグランド・フリートの各将官なら びに指揮官からの報告を熟考した。 2. 軍事委員は開戦以来初めての艦隊戦闘において敵に重大 な打撃を与えその本国に撤退させた結果を収めたことに関し、 グランド・フリートの各士官、水兵、海兵隊員に祝辞を贈る。 5 月 31 日と 6 月 1 日の出来事は戦闘に参加した全員の勇気 と献身が顕著であることを十分に実証した。各種艦艇の操縦 は巧妙かっ決断力をもって行われた。戦闘中の汽走は機関部 員の熱意と能率に対する見事な証明をもたらした。個々の独 創性と軍令服従は共に際立っていた。 3. この海戦の結果はグランド・フリートの士卒が共に直面 した新しい問題をいかに研究し、かっ、いかに自らの知識を 活用するかを知っていたことを証明するものである。国家の 期待は大きかったが、彼らはそれに十分に応えた。 4. 軍事委員は今回の責報告を全面的に是認したことを貴下 に伝えるよう私に望んでいる。 敬具 219 W ・グレアム・グリー ン
414 サー・ディビッド・ビーティにおいては巡戦艦隊の指揮官 としてその任期を通じて最高の戦闘的技量を示し、かっ麾下 の部隊にその不屈の精神を吹き込んだ。 各戦隊の次席指揮官は全員が長期間小隊の指揮をしていた ので、彼らが演習で行ったのと同様に戦闘においても麾下の 小隊を巧みに操ると信頼していたが、その通りであった。 軽巡戦隊及び水雷戦隊の指揮官は私のあらゆる期待に常に 応えた。これらの艦艇の乗員が苦境に耐えて任務を頻繁に遂 行する様子は常に私が賞賛するところであった。 私は有能かっ信頼すべき貴重な参謀長サー・チャールズ・ マッデン少将及び首席参謀ライオネル・ハルゼー准将以下の 優秀な幕僚の助力を受け、有能で経験豊富な各司令官ならび に多数の機会に熟練の技能を示した艦長たちの補佐を受けて、 誠に幸運な地位にいた。 以上の利点に加えて、下級乗員が立派であったために得ら れた利を挙げずにはいられない。士官と艦の乗員の熱心さは どんな司令長官といえどもこれ以上を望むことができないほ どであった。敵を待っことは長かったが、惓怠感は少しも見 えなかった。士卒は来る日も来る日もその艦の戦闘能力を完 全にするよう努め、十分にその目的を達した。機関部員は私 が望んだいかなる要求にも見事に応えられることを大戦の初 期に示し、ジュットランド海戦の時に実証した。艦隊の士気 216
390 注意この章に関連する図表には私が海軍本部に提出した 最初の詳報に付したものとは若干の違いがある。その詳報は 早く受け取りたいという要請をひっきりなしに受けて提出し たもので、そのとき私は部下の幕僚と同様に、損傷した艦の 修理の手配や、戦闘の結果我が方の艦に必要と判った改造、 我々の経験を踏まえて種々の題目について報告するために私 が設けた各種委員会などのために忙殺されていた。それゆえ、 私はこの報告に個人的な注意を払うことができなかったが、 後にその機会を得たので、これらの報告と 5 月 31 日に受信 した信号について綿密にかっ時間をかけて調査した結果、少 しばかり修正がなされることになった。 スカバに帰着して私が最初に行った事は、 6 月 3 日の朝に 国王にささやかな職務を奏し、かっ陛下の誕生日に心からの 敬愛の念を奉る通信文を送ることであった。 陛下からは以下のような詔勅を拝受し、艦隊に伝達した。 「予は卿がグランド・フリートを代表して予に送った報告に すこぶる心を動かされた。卿の麾下の将卒の立派な勇敢さを 重ねて示した海戦の翌日に卿の報告が予に届いた。予の朋友 を含む多くの勇敢な者が国のために斃れたことを予は悲しむ。 ドイツ大洋艦隊が常に希望の意を公言しておき 予はさらに ながら、その機会が訪れた時にはその意を示さなかった対決 の完全な結末を味わうことから、大損害を被ったとはいえ、 逃げおおせたことを残念に思う。全面的な戦闘の開始後に敵 192
245 当月中、ペントランド海峡の南東へ哨区を延長し、武装臨 検船 3 隻及び駆逐艦 3 隻がその哨戒を継続した。 1915 年 9 月の主な出来事は、おそらく最も便利なように そして簡潔に日記の形で示すことにしよう。 9 月 1 日、掃海用装備を施した駆逐艦 8 隻がペントランド 海峡西方の水域を掃海した。駆逐艦がこの目的に使われたの はこれが初めてのことであった。 9 月 1 日及び 2 日、『プラック・プリンス』及び軽巡洋艦 4 隻は駆逐艦 6 隻と共に、スカバから東方へ掃蕩を実施した。 9 月 2 から 5 日、ド級戦艦艦隊、第 1 、第 2 、第 3 巡洋戦 隊及び第 4 軽巡戦隊は北方の水域で遊弋した。駆逐艦は艦隊 の出航及び帰投時に護衛したが遊弋には随行せず、根拠地に 留まって燃料の補給を済ませ、南方に動く必要があった場合 に備えた。この遊弋の間に機会を作って戦闘演習と夜間射撃 が実施された。戦艦『シュバープ』が潜水艦の潜望鏡を発見 したと報告した。 9 月 2 日、著明なフランス人紳士 5 名とアメリカ合衆国の 報道機関の代表者 1 名が艦隊を訪問した。我が軍に直接関係 のない人物がグランド・フリートの根拠地を訪問したのはこ れが初めてであり、この出来事がイギリス海峡の向こうにあ る我らの勇敢な同盟国の代表者らをスカバ・フローに連れて きたことを我々はうれしく思った。艦隊はそのすぐ後に出発 し、訪問客は各艦が港を出発するところを見ることができた。 31
369 こうした状況は特に我が戦艦艦隊に影響を及ぼしたが、そ の前方にいた我が方の諸艦が同様の影響を受けてはいないこ とがお判り頂けるだろう。彼らには敵の嚮導艦の煙の他に視 界をくもらせるものがほとんどなかった。はるか後方にいた 我が戦艦艦隊は、敵の長い艦列からの煙に加えて前方にいる 味方艦全てから煙を受けた。 我が戦艦艦隊の前方おいて生じた困難の状況は戦艦艦隊に 至って極めてひどくなった。この点についてサー・マーティ ン・ジェラム中将は報告の中でこう述べた。「艦隊の嚮導艦と しては、靄のかかった空気に加えて、煙にひどく妨害された。 味方の巡洋戦艦が我々を追い越した後には、彼らからの煙 ( 装 薬の煙に違いないと推測する ) 、前方で交戦中の他の巡洋艦か らの煙、また前方にいる小型艦艇の煙突の排気ガスに加えて 『デューク・オプ・エジンバラ』からの濃い煙があり、これは 避けることができす、相当の間妨害された」 午後 6 時 45 分及び午後 7 時 15 分における艦隊全般の位置 をそれぞれ 356 頁及び 360 頁の向かいの図に示す。 午後 7 時 10 分、『マイノトー』 ( 第 2 巡洋戦隊を指揮する H ・ L ・ヒース少将の旗艦 ) からの所見によると、同艦から見 える場所は以下の通りであった。「第 2 巡洋戦隊は単縦陣で 『キング・ジョージ五世』の左舷側 3 から 4 マイルにいて、 同艦に少しずつ追いつきつつあった。ただし『マイノトー』と 『キング・ジョージ五世』の間には駆逐艦と小型艦艇が全て いた。巡洋戦艦の諸艦は『マイノトー』の右舷艦首方向にい て、約 4 マイル離れていた。巡洋戦艦はその高速力によって 戦艦艦隊との距離をたちまちおよそ 8 マイルに広げた」 他の巡洋艦の報告から判断すると、こで述べられた位置は 午後 6 時 50 分から 7 時のことになり、従って図は位置をその通 りに示している。 171
472 きた。この点において軽巡戦隊の働きは優秀かっ貴重であった。 午後 2 時 25 分の『ガラティア』の報告から敵が相当な大部隊 であって孤立した軽巡洋艦の部隊だけではないことが明白であっ たため、私は午後 2 時 45 分に『エンガディン』に対し水上機 1 機を出して北北東を偵察せよと命じた。この命令は極めて迅速に 実行され、午後 3 時 8 分には操縦者 F ・ J ・ラトランド英海軍飛 行大尉ならびに偵察者 G ・ S ・トレウイン少主計が搭乗した水上 機 1 機がかなりのところまで飛行していた。午後 3 時 30 分頃、 『エンガディン』は水上機から敵に関する最初の報告を受けた。 水上機は雲のために非常に低空で飛行せねばならず、かっ敵の 4 隻の軽巡洋艦を識別するために高度 900 フィートで敵艦から 3 , 000 ャード以内のところを飛ばねばならなかった。敵の軽巡洋 艦はあらん限りの砲火を水上機に浴びせた。この砲火は我が飛行 士らの妨害には全くならず、正確な報告がなされた。そして F ・ J ・ラトランド飛行大尉ならびに G ・ S ・トレウイン少主計両名の 功績はこうした状況下で水上機に際立った価値があることを示し たもので、賞賛に値するものである。 午後 3 時 30 分、私は 25 ノットに増速して戦闘陣形をとった。 つまり第 1 巡戦戦隊の後ろに第 2 巡戦戦隊が続き、第 13 、第 9 水雷戦隊の駆逐艦が巡戦戦隊の前方に占位した。いまや敵は距離 23 , 000 ャードにあり、私は敵にわずかに近づくように東南東に変 針し、また煤煙を避けるために単梯陣を形成した。この時我が隊 の運動に倣った第 5 戦艦戦隊は北北西 10 , 000 ャードにあった。 この時の視界は良好で太陽は我々の背後にあり風向きは南東で あった。我々は敵とその根拠地の間にいたので、我が方の立場は 戦略と戦術の両方で良好であった。 午後 3 時 48 分、距離 18 , 500 ャードで両軍がほぼ同時に砲火 を開き戦闘が開始された。我が方は南方に変針し、その後はおお よそ南南東の針路をとり、敵はこれに 18 , 000 ないし 14 , 500 ャー ド離れて並行する針路をとった。 午後 4 時過ぎ、『インディフアティガプル』が激しい爆発の後、 戦列から落伍し、転覆して沈没した。 274
395 るかも知れない困難は、我が方が反撃を行う前に敵駆逐艦が 迅速かっ有効に攻撃を実行できるような視界が悪い天候にお いて敵艦隊と遭遇する危険と相まって、これらの状況に対応 する他の手段を考えることを不可欠とした。 大戦の初期に人手したいくっかのドイツ側の文書によって 敵がこの種の攻撃を重要視していることが判明し、この問題 の重要性が際立った。 もちろんこの問題に二つの面があることは十分理解されて いた。つまり、我が方の戦艦艦隊がこの種の攻撃に無防備と いうことは、敵の戦艦艦隊も同様に無防備ということである。 しかし、注意を払わねばならない重要な事柄が他にあった。 この種の魚雷戦は賭けの要素が非常に大きいとい うことであった。遠距離から戦艦艦隊を攻撃する水雷戦隊は、 発射した魚雷の何割かが命中し残りは艦の間を通過すると考 えて攻撃を行う。 距離 8 , 000 ャードで発射され毎時 30 ノット ( 換言すれば 毎秒 50 フィート ) の速度を持っ魚雷と 8 , 000 ャードにおい て毎秒約 2 , 000 フィートの速度を持っ砲弾とは到底比較でき ない。魚雷が射出後に完全に直進するとしても、目標の速度 と針路を相当正確に測定しておかないと命中しない。 197
第十四章 ジュットランド海戦 ( 続き ) 第 3 節夜戦 当時の形勢は、私には一度にさほど多数の艦が見えなかっ たためになおも不明であったが、以下のようであった。 敵の帰路がホーン・リーフを経由して、あるいはまっすぐ ヘリゴランドを経由して、またあるいは敵が使用することが 知られていた西フリジア諸島の海岸に沿う掃海された水路を 経由してであっても、我々は敵とその根拠地の間にいる関係 にあった。 私は敵が我々よりはるか西方にいると結論した。敵は常に 内線、に運動していた。戦闘中に我々は南東微東から西へ徐々 に針路を変えていき、総計で 13 点つまり 146 度の方向転換 を行い、結果として敵艦をはるか西方にかっ我が方の前方に 位置させたに違いなかった。ただし損傷のため落伍した敵艦 が北方にいる可能性はあった。 もちろん私は夜戦の可能性を忘れてはいなかったが、いく っかの理由により主力艦同士でそうした戦闘を行うつもりは なかった。 夜戦に対する主な反対理由を述べれば十分である。 第一に、そのような行動は必然的に我が戦艦艦隊を夜通し 極めて大規模な敵駆逐艦部隊の攻撃の的にしたに違いない。 ・自軍の部隊を一つに集めて敵に対する方法 372 174
第十二章 ジュットランド海戦 1916 年 5 月 31 日、グランド・フリートとドイツ大洋艦隊 は、後にジュットランド海戦として知られるようになった戦 闘を行った。その数週後に公表された戦闘詳報 * は私が書いた 原文とはやや異なっていた。 6 月初旬に海軍本部で会議が開 かれた後に改変がなされた。改変のいくつかは、原文中のい くつかの節が敵に有益な情報を与えるかもしれないと考えら れたためで、また他の改変は、英国の軍艦設計のいくつかの 特徴に注目を引くことが好ましくないと考えられたからであっ た。後者のうちには我が方の初期の巡洋戦艦の装甲防御の不 十分さがあった。 大戦を通じて、海上にあっては我が巡洋戦艦を軽巡洋艦と 共に主力部隊から進出した位置につかせるのが我が軍の方針 であった。この位置は戦艦艦隊からかなり離れた場所になる ことが度々あった。巡洋戦艦は敵を発見したらこれと接触を 保ち敵の動きを報告することができるように設計・建造され た。それゆえ巡洋戦艦は大口径砲を搭載していた。巡洋戦艦 は戦艦艦隊が受け持っ敵を発見し、その戦力を確認して戦艦 艦隊に報告することとされていた。この方策を採用していな かったら、 1915 年 1 月 24 日の海戦のような場合に敵の巡洋 戦艦を戦闘に引き込むことはできなかった。また、我が国の * 付録を参照。 306 94