241 まもなく、イギリスの軽巡洋艦がこの漁船の近くを通ったの で、アトキンス大尉は准将宛てに自分たちが『ラムジー』の 生存者であるという信号を送り、連れ出してくれるよう求め た。そのとき准将は航空機と潜水艦の両方から攻撃を受けて おり、「南西に進め、戻ってきて収容する」と答えたと、アト キンス大尉は付け加えた。 アトキンス大尉は『メテオール』の艦長に南西に向かうよ うに求めた。しかし、ドイツ人らは自国の海岸に行くことを 望んだため、当然反対した。しかしながら、英側が武装して おらずまた数で非常に劣っていたという事実にもかかわらず、 彼らは議論で説得し、船を南西に進めたところ、すぐに別の 漁船が見つかった。英側はこの漁船に移りたいと申し出て、 ドイツ側はこれに同意した。英側が離れるとき、ドイツ側の 艦長フォン・クノル少佐がアトキンス大尉に金を持っている かと尋ね、アトキンス大尉は「パジャマ姿の私を貴方が拾い 上げたのですから、どうして持っていられるでしようか ? 」と 答えた。フォン・クノル艦長は彼に金を持たせようとした。 しかし自分がその金を必要としないことを艦長は理解しなかっ たと、アトキンス大尉は述べた。しかしながら、結局アトキ ンス大尉は金を受け取り、フォン・クノル艦長は英国の 5 ポ ンド紙幣とその他の金を彼に手渡した。紳士的で礼儀正しい 行為を記録にとどめるのは気分のよいことである。それは大 戦中のドイツ海軍士官のほとんどの振る舞いとは強い対比を なして際立つものである。その金は私に渡され、私はそれを 海軍本部に送ったが、その際、場合によってはその金を我が 国の戦争捕虜に対して示された礼儀に対する英側の感謝と共 に返すことを依頼した。 『メテオール』沈没の知らせを受けて、第 1 、第 2 、第 4 軽 巡戦隊には根拠地に戻るよう命令が出された。 8 月 9 日のモレー湾での掃海作業により、最初の報告より も機雷原が広いことが明らかになったため、クライドから 27
436 この行動により、ロッテルダムに磁鉄鉱を輸送していたノル ウェーの汽船 1 隻を拿捕引致した。 30 日、『アプディール』はホーン・リーフ付近に機雷を敷設 するためにスカバを出発した。同艦は 31 日から 1 日に至る 夜に敵に発見されることなく作戦を遂行した。 第 11 潜水隊はカテガット及びホーン・リーフ付近における 行動を継続した。 17 日に帰投した同隊の潜水艦は、カテガッ トでドイツの囮トロール船に攻撃されたと報告した。 30 日、 この船を攻撃するために潜水艦 E43 が出航したが成功しな かった 当月の我が軍艦の遭難は次の通り。ハリッジ部隊の軽巡洋 艦『クレオパトラ』は 4 日にオランダ海岸沖のソーントン・ リッジ付近で触雷し修理のためノーアに回航された。同じく ハリッジ部隊の駆逐艦『ラスー』は 13 日にオランダ海岸沖の マース灯台船付近で機雷または潜水艦によって撃沈された。 24 日、武装臨検船『デューク・オプ・オールバニー』はペン トランド岩礁の東方 20 マイルにおいて潜水艦の攻撃により 撃沈され、 G ・ N ・ラメージ中佐 ( 英海軍予備員 ) を含む多数 の死者が出た。この潜水艦を狩るために、直ちにスカバから 駆逐艦 16 隻、水上機数機、飛行船 1 隻が派遣されたが発見 できなかった。ただし『デューク・オプ・オールバニ 近くにいて生存者を救助した武装臨検船『デューク・オプ・ クラレンス』が水中の物体の上を通りこれに当たったことを 報告した。軽巡洋艦『プロンド』は 10 日に濃霧のためペント ランド海峡のローサー・ロックに座礁したが、艦を軽くして 11 日に曳船によって離礁した。同艦はかなりの損傷を受けた。 238
230 たが、当然その結果として、漁船団の操業をいくらか縮小す ることは避けられなかった。 6 月のスカバの天候は非常に霧が立っており、 7 、 8 、 12 、 13 、 26 、 27 、 28 、 29 、 30 日に靄ないし霧が出ていた。 1915 年 7 月の間は、ウェールズ炭田におけるストライキの 危機により、艦隊の行動は可能な限り最低限のものになった。 このストライキはついに 18 日に発生し、当艦隊の行動に及ぼ す影響が少なからず危惧された。 11 日から 14 日まで、ド級戦艦艦隊、第 1 、第 2 、第 7 巡洋 戦隊、第 4 軽巡戦隊、第 2 及び第 4 水雷戦隊、および『カン パニア』はシェトランド諸島の近くで遊弋し、その間に一連 の戦闘演習を実施した。巡戦艦隊は 11 日から 13 日の間、ドッ ガーバンクまで南下して掃蕩を行った。戦艦艦隊が海上にい る一方で、水雷戦隊は燃料を満載するためにバルタ海峡 ( シェ トランド諸島 ) に送られた。これは戦艦艦隊が南に移動する ことが必要になった場合に備えてのことであった。 28 日、第 2 巡戦戦隊は第 1 軽巡戦隊の 2 隻、第 2 軽巡戦 隊、第 4 軽巡戦隊ならびにロサイスとスカバから出た第 1 及 び第 4 水雷戦隊の駆逐艦 14 隻と共に根拠地を出発した。 れはティルウィット准将が率いるハリッジの軽巡洋艦 4 隻及 び駆逐艦 12 隻と合同でスカゲラク海峡にて作戦を行うため であった。その目的は商船の臨検と敵艦の捜索であった。遭 遇したドイツの船はトロール船 1 隻だけで、同船は乗員を移 乗させた後、撃沈された。デンマークの汽船 1 隻が船上に警 備兵を置いて英国の港に送られた。そして部隊は 31 日にめい めいの根拠地に戻った。 14
296 北方の哨戒任務を遂行するよう命じられた。 6 月 3 日、艦隊 が根拠地に帰還した後、軽巡洋艦数隻がオークニー諸島の北 西を哨戒するために派遣された。次いで第 10 巡洋戦隊は第 2 哨戒線を形成するためにさらに西方の位置に後退するよう指 示された。この事からは何も起きなかった。 5 月の第 10 巡洋戦隊の毎週の平均の結果は以下のとおり。 停船させた船 55 隻に加えてトロール船 17 隻、引致したもの 18 隻、哨戒に従事した軍艦 11 隻、人港中あるいは哨区との 往復の途上にいて哨戒に不参加のもの 9 隻、特別任務に従事 していたもの 2 隻。 当月は霧や靄が多く出て、最悪の期間は 17 日から 20 日、 24 日、 26 日、 28 日から 30 日であった。 5 月中、ペントランド海峡での射撃訓練ならびに戦隊の間 で通例の根拠地の交代が継続された。 3 月、 4 月、 5 月の間に、潜水戦隊がグランド・フリートの 部隊として徐々に編成された。それは第 11 潜水戦隊と呼ばれ、 プライスを根拠地とし『タイタニア』を母艦とし、『タリズマ ン』及び『トライデント』を随伴の駆逐艦とした。またグラ ンド・フリートの潜水戦隊に対し、またハリッジ及びャーマ スを根拠地とする潜水戦隊に対し個別の行動範囲が取り決め られ、その境界線はホーン・リーフの少し南方からフラムバ ラ・ヘッドに至る線であった。この線はグランド・フリ 潜水戦隊の戦力が増加するに従い 1 回か 2 回、わずかに変更 された。しかしグランド・フリートの潜水戦隊がその線の北 側で活動し、その他の潜水戦隊が南側で活動するという一般 原則は変わらなかった。 84
278 ず、ついに掃蕩は中止となり、艦隊は 7 日に根拠地に戻っ 3 月 9 日、巡洋艦 1 隻と武装臨検船 1 隻から成る哨戒隊が シェトランド諸島北方の水域に創設された。この哨戒はアイ スランドの北方とノルウェー海岸のスタッドランデット ( 北 緯 62 度 10 分東経 5 度 10 分 ) 付近の 1 地点の間を航行する 船の航路を網羅することを意図しており、これは封鎖を避け ようとする船舶及び敵の侵入船がこの航路をとる可能性があ ると考えられたためであった。この哨戒は時折細目を修正し たり、しばしば勢力を倍にしたりしながら、 1 年を通じて継 続された。 1917 年春、哨戒に従事していた『アキリーズ』 (F ・ M ・リーク大佐、英海軍 ) 及び武装臨検船『ダンデイ』 ( セル ウイン・ディ中佐、英海軍予備員 ) がついにドイツの侵人船 『ヴォルフおを捕捉し撃沈することに成功した。この哨戒は 封鎖任務の役にも立った。 3 月 11 日午前 7 時 30 分、第 1 軽巡戦隊は第 1 水雷戦隊の 駆逐艦 1 個小隊と共に、ノルウェー沖における作戦のために ロサイスを出発した。その目的はエーゲルスンとネーズの間 の領海外における敵商船の捕獲であった。ノルウェーの港、 特にナルヴィクとの通商に従事しているドイツの商船が時折 この近辺で敢えて領海外に出ることが確認されていた。そこ はスタッドランデットの付近を除けば、彼らがそういう冒険 をする唯一の場所であり、それゆえ彼らを捕獲するチャンス があった。 11 日、後から巡戦艦隊の残りが支援のため出航し ネーズの南方に向かった。グランド・フリートの残りがその 64 訳注 : 他の資料によると実際には『レオパルド』。
254 う水路を掃海用トロール船で絶え間なく掃海する編制がなさ れた。この水路は、クロマーティを根拠地とする諸艦がグラ ンド・フリートの他の艦艇と北海において合同する際に使用 された。グランド・フリートのいずれかの部隊がクロマーティ を根拠地としている限り、この水路に機雷が無い状態を保っ ことが不可欠であった。 こで当時のペントランド海峡周辺における哨戒配置に触 れるのは筋違いではあるまい。通常、武装臨検船 3 隻と駆逐 艦 3 隻が海峡の東方で哨戒し、昼間は北方に移動し夜間には 海峡の南東でかなりの距離に渡って行動した。また、その外 方の哨戒については通例軽巡洋艦 1 隻及び駆逐艦 1 隻からな る 1 隊があり、ヒ。ーターヘッドを基地として行動した。夜間 には駆逐艦 1 隻か 2 隻による哨戒がモレー湾の北岸のノス岬 沖で継続された。ホイ海峡及びホルム海峡の人口の沖には駆 逐艦数隻が常駐し、ホックサ海峡の人口の近くには多数のト ロール船が常駐した。悪天候の際には東方の哨戒駆逐艦を後 退させ、スウオナ島とその東方及び北西方向の陸地の間で行 動させた。局地守備用の旧式駆逐艦も港ロの沖やカークウォー ルの沖で哨戒に従事した。これらの哨戒の事情は、いかなる 天候であっても任務を遂行せねばならなかった制限区域にお ける海上任務の一端を伝えるものとして興味深い。 10 月 1 日から 10 月 11 日まで、艦隊旗艦『アイアン・デュー ク』はインバーゴードンで修理を受けていた。 10 月 28 日の早朝、『アーガイル』は第 3 巡洋戦隊に再び加 わるためにデポンポートからロサイスに向かう途上で濃霧の ためにダンディの近くのベル・ロックに座礁して、完全に 40
223 船に水上機用の飛行甲板を備えたことであった。快晴時を除 いて水上機の離水には大変な困難があったため、飛行甲板の 構築が必要になった。その次は水上機を陸上機に置き換えて 専用の母艦から発進して任務を行うようにして、最終的には 戦闘艦自体に発進する場所を備えた。最初は軽巡洋艦に、そ の後巡洋戦艦に、最後には戦艦に備えた。これらの継続的な 発達は航空機の革新的進歩によって可能となった。 こうして 偵察において、また砲撃効果の向上において、航空兵力によっ て可能となる支援が海上兵力に与えられた。 スカバの部隊は 11 日にペントランド海峡を通って西へ進ん だ。部隊は 12 日にシェトランド諸島の北西方において給炭船 が牽引する特製の標的に対して標的射撃訓練を実施した。そ の晩、クロマーティの部隊 ( 第 1 戦艦戦隊と第 7 巡洋戦隊 ) が合流し、それから艦隊は夜間射撃を行うために分離した。 巡戦艦隊も 11 日にロサイスを出発し、 12 日に夜間射撃を 実施し、 13 日にはグランド・フリート全体で戦闘演習を実施 した。その後、巡戦艦隊は給炭船の牽引する標的を狙って射 撃し、 14 日の夜明けに私の指揮下に再び加わった。その日、 更なる戦闘演習が実施された。『カンパニア』は自艦の水上機 と共にこれらの演習に再び参加したが、水上機の偵察行動の 進歩は顕著なものであった。その後、艦隊は各々の根拠地に 戻り、スカバの部隊はオークニー諸島の西を通って帰投した。 グランド・フリートの主力部隊が北方の水域で演習を行う 一方、第 3 戦艦戦隊及び第 3 巡洋戦隊は第 1 水雷戦隊の半分 と共に、北海の中央部分を遊弋した。 7
382 しかしながら、これらの装置によって増大した攻撃力は、 我が方の貴重な駆逐艦の数隻及び更に貴重な人命を損失させ たとはいえ、この夜戦で敵に大損害を与えた我が駆逐艦を阻 止することはできなかった。駆逐艦任務の豊富な経験を持ち 優秀な司令官であった第 4 水雷戦隊司令のウインツアー大佐 を失ったことは非常に重大な損失であり、また他にも優秀な 将校らが配下の勇敢な乗員とともに戦死した。我が水雷部隊 が 5 月 31 日の昼戦とそれに続く夜戦の両方における水雷戦 隊の功績を極めて誇りとするのは実に至極当然のことである。 この夜の間に砲火と水中爆発が時折聞こえたが、奇妙なこ とに 4 、 5 回の水中爆発が戦艦『マレーヤ』の自記気圧計に極 めて明瞭に記録されていた。同艦は戦隊の後尾にいたので、 この用途に対しては良好な位置にいた。これらの記録が敵艦 に命中した我が魚雷の爆発を示していることに疑いはほとん どない。 戦艦艦隊からは夜になってまもなく我が駆逐艦が交戦中で あることがはっきりと認められた。敵は頻繁に照明弾を発射 したが、この照明弾は敵艦を闇の中に置いたままその所在を 示すことなく、極めて明るい光を出した。 午後 11 時、第 2 戦艦戦隊の後尾にいた軽巡洋艦「アクティ プ』は後方から接近する 1 艦を発見したが、その後間もなく これに向けて右舷後方の 1 艦あるいは複数の艦から探照灯が 照射され、続いて激しい砲火が開かれたのを認めた。この艦 は多数の命中弾を受けて沈没したように見えた。これは昼戦 で我が艦隊との連繋を失った『プラック・プリンス』であっ たかもしれない。 この事件の後まもなく、『アクテイプ』は水中にある物体に 激突しその上を通り過ぎた。その後の検査で、同艦のビルジ キールが約 15 フィートに渡って無くなっているのが判った。 184
379 それは幸運な出来事であった。なぜならそのおかげで同水雷 戦隊は敵の戦艦戦隊の一つに接触したからである。 午前 1 時 45 分、『フォークナー』に座乗してこの水雷戦隊 を率いるスターリング大佐は、 6 隻から成る敵の戦艦戦隊が 南東に進んでいるのを右舷艦首に認めた。その先頭艦は『カ イザー』級に属するものと思われた。スターリング大佐は敵 の近距離に人る機会を得るために北西の針路 ( 敵針路に反航 ) から攻撃することを企図して敵の針路と平行な針路に変針し 敵の前に出るために速度を 25 ノットに上げた。この攻撃は午 後 2 時におよそ 3 , 000 ャードの距離で行われ、全駆逐艦が敵 艦列の 2 番目と 3 番目の艦に向けて魚雷を発射した。数本が 敵艦列の 3 番目の戦艦に命中し、非常に激しい爆発が起きて 火炎が非常に局く上がったので、我が駆逐艦の乗員には魚雷 の爆発が敵艦の弾薬庫を爆発させて敵艦は破壊されたに違い ないと思われた。 その後、我が駆逐艦は敵の戦艦戦隊に随伴していた敵の軽 巡洋艦によって撤退を強いられた。しかしながら『メナード』 ( J ・ P ・チャンビオン中佐 ) は、水雷戦隊の他の艦と一緒に 北西方向に変針しなかった。同艦は魚雷発射管を右舷に向け て攻撃が行われると予想したために、左舷に発射する用意が できていなかったからである。チャンヒ。オン中佐は南東の針 路を維持し、他の艦よりも遅れて変針して左舷の発射管 1 本 から発射し、次いで再び南東に変針し、発射管を右舷に向け、 午前 2 時 25 分に 4 , 000 ないし 5 , 000 ャードの距離で敵艦列 の 4 番目の艦に向けて魚雷 2 本を発射し、 1 本が命中した。 181
335 十字勲章を授章される働きをしたが、残念なことにこの授章 も死後のことであった。 我が駆逐艦の攻撃が偉大な勇敢さと決意をもって実施され、 第 3 巡戦戦隊に対する敵の魚雷攻撃を挫折させた後、ロフタ ス。ジョーンズ中佐は我が巡洋戦艦の随伴位置に戻るために 配下の小隊を方向転換させた。このときドイツ艦 3 隻が霧を 抜けて現れて激しい砲火を浴びせた。『シャーク』の損害はさ らにひどくなり多数の死傷者を生じ、ロフタス・ジョーンズ 中佐も負傷した。『アカスタ』を指揮する J ・ O ・バロン少佐 が『シャーク』を救援するために接近したが、ロフタス・ジョー ンズ中佐は駆逐艦をもう 1 隻危険にさらすことを拒否し、離 れるように「アカスタ』に指示した。そして『シャーク』は ドイツの軽巡洋艦と駆逐艦の標的となった。唯一の無傷の砲 を作動させる手伝いをしていたロフタス・ジョーンズ中佐は 最後の魚雷を発射管に装填して発射するよう命じた。しかし その作業中に魚雷が被弾して爆発し、多数の犠牲者が出た。 なおも生き残った「シャーク』の勇敢な士卒は作動する唯一 の砲で戦い続け、最大限の勇敢さを示した。このとき艦長は 再び負傷し砲弾によって右足を失ったが、なおも砲撃の指揮 を続けた。彼は『シャーク』の状況とドイツの駆逐艦が接近 してくることから『シャーク』が敵の手に落ちると予想して 自沈の命令を出したが、残っている砲がまだ戦闘可能である と判るとすぐに命令を撤回した。その少し後に同艦は魚雷 2 発を受け、軍艦旗を掲げたまま沈没した。翌朝わずか 6 名の 生存者がデンマークの汽船に救助された。示された偉大な勇 敢さが認められ、生存者全員に殊勲章が授与された。彼らの 125