405 るのが常であった。退却戦法を使用されて生じる困難とその 状況でとるべき最良の策は、私自身と艦隊の全ての戦隊司令 官たちが絶えず思いを巡らす事柄であった。そしてこの問題 は極めて頻繁に議論され、また図上戦術演習においても案出 された。 もし退却戦法に併せて水中兵器を自由にかっ巧妙に使用さ れたら、この困難はかなりの程度まで克服し難いものである。 それゆえ 1916 年 5 月 31 日に二つの艦隊が遭遇したとき、 私の胸中にはこうした思いがあり、また麾下の指揮官全員も 私と思いを同じくしていたことに疑いは全くなかった。遭遇 した時の状況のせいで、敵の戦艦艦隊の配置をいくばくかの こうした状 確度をもって推定することが非常に困難であり、 況で我が艦隊は展開を行った。しかしながら、それでも敵が 最短経路つまりホーン・リーフ海峡を通って根拠地に向かう であろうという仮定ならびに敵とその根拠地の間に入るとい う意思がある程度、展開方向 ( 南東微東 ) の決定に影響した。 敵の前方の威圧的な位置に我が第 3 巡戦戦隊が進出したの で、敵は右に大きく変針した。この原因は主に ( フッド少将 の ) 同戦隊をイギリスの戦艦艦隊と誤認したことであった。 ドイツ側の報告は午後 5 時 45 分ころに 既に述べたように 「敵戦艦のぼんやりした艦影が北東方向に認められた」とし ており、この見解を裏付けている。これらの艦影が第 3 巡戦 戦隊であったことに疑いの余地はない。ドイツ側の報告では、 207
37 第九章 北海の制海 1915 年の後半において、敵は潜水艦と機雷によって我が戦 力を漸減させようと努めたが、それにもかかわらずグランド・ フリートは北海を掃蕩し、支配し続けた。 10 月 1 日、第 3 軽 巡戦隊は護衛の駆逐艦と共にロサイスを出発し、リトル・フィッ / ャー・バンクに向かった。この場所に至ると部隊は北西に 変針してスカバに向かって航行し、 3 日に到着した。このよう に掃蕩された線は敵の機雷敷設艦あるいは他の船がスカバや クロマーティの周辺に進むか、そこから戻る際にとる可能性 がある航路であった。敵艦は発見されなかった。 10 月 2 日、戦艦『バーラム』 ( 新設の第 5 戦艦戦隊の旗艦 ) がスカバに到着した。 6 日、ティルウィット准将は第 5 軽巡戦隊 ( このとき軽巡 洋艦 6 隻で編成 ) と駆逐艦 9 隻を率いてハリッジを出発し、 敵の艦船 ( 特にトロール漁船 ) を捜索しつつスカゲラク海峡 トロール漁船には前哨船として活動し に向かって掃蕩した。 ている疑いがかけられていた。この時の作戦は成果が多かっ た。ドイツのトロール船 14 隻を捕獲して引致し、また 1 隻を 沈めた。このような作戦の実施中に支援部隊が海に出ていな い場合、通例として、必要があれば直ちに出動できるように 巡戦艦隊が至急汽醸できる状態を維持していた。 10 月 10 日、第 3 軽巡戦隊はハリッジ部隊と同じ目的でス カバを出発し、リトル・フィッシャー・バンクまで掃蕩して 251
345 これまでに届いた情報は、艦隊が展開するに先だって私が 「アイアン・デューク』から指示して各艦列の嚮導艦の方向を 変えることを正当化するには全く不十分であった。駆逐艦も 警戒幕の陣形で前方に配置されたままであった。戦闘に備え た配置になる前に展開する方向を決めることが極めて望まし かったからである。 午後 5 時 56 分、サー・セシル・バーニー提督は、複数の不 審な艦船が南南西にあって東に進んでいるのを認めたと報告 した。そして午後 6 時にこれらの艦船は 3 ないし 4 マイル離 れたイギリスの巡洋戦艦で嚮導艦は『ライオン』と報じた。 この報告は探照灯を用いて行われ、そのため午後 6 時を少し 過ぎて私に届いた。しかし、明らかに緊急の状況下で信号部 員が有能かっ遅延を避ける努力を惜しまなかったとしても、 信号の発信が意図されてから実際に信号が届くまでにある程 この報告が味方艦船 度の時間が経過することが示すように の方向を南南西と報告したのに対して、『コロッサス』で記録 されたメモでは午後 6 時 5 分の我が巡洋戦艦の位置を自艦の 右舷艦首 1 点方向、すなわち南南東の方向で距離 2 マイルと していたことに注意すべきである。 午後 6 時を過ぎてまもなく、我々は『アイアン・デューク』 から南西方向およそ 5 マイルに不審な艦船を発見した。彼ら は味方の巡洋戦艦と識別され、戦艦艦隊の前方を横切って東 に向かっていた。霧のために『ライオン』に続航していた隻数 を数えることはできなかった。 この時に至っても、敵の戦艦艦隊の居場所はいまだ不明で あった。発砲の閃光は艦首から右舷正横に渡って見え、砲声 137
329 そのため『アイアン・デューク』に随時報告される緯度と経度 による敵の位置が不正確であった。この情報の相違のために 戦艦艦隊を配置すべき正しい時機、配置すべき側、配置の方 向を割り出すことがひどく難しくなった。しかしながら、そ うした相違はかかる状況においては避けられない。 我が巡洋戦艦は敵を追跡する際に味方の戦艦艦隊が出せる 速度をかなり上回る速度で南方に動く必要があったので、 つの部隊の距離が開くことになり、サー・ディビッド・ビー ティの部隊が北方に転じたときには『アイアン・デューク』と 「ライオン』は 50 マイル以上離れていて、 1 時間に約 45 マ イルの割合で接近している状態であった。 敵巡洋戦艦発見の報告を受けた後で『ライオン』の位置が 判明すると同時にオン・ H ・ S ・フッド少将に対し直ちにサー ディビッド・ビーティの部隊の増援に向かえという命令が下 された。部隊の位置、針路、速度が少将に伝えられた。少将 は自らの位置を報告し、その針路と速度を南南東、 25 ノット と知らせてきた。同時に戦艦艦隊には我が巡洋戦艦が敵の巡 洋戦艦と交戦中であることが伝えられ、またエヴァン - トーマ ス少将に対してサー・ディビッド・ビーティと合同しているか 否かの照会がなされた。返答は肯定で、同時に彼の戦隊が交 戦中であるという報告が届いた。 このとき私は、もし敵が射程内に留まるなら、我が最優秀 かっ最速の戦艦 4 隻及び巡洋戦艦 6 隻を率いるサー・ディビッ ド・ビーティの断固とした指揮によって、敵の巡洋戦艦 5 隻 は極めて重大な損害を被るであろうと確信していた。 119
293 飛行船は多大な損害を受けツイル灯台船の近くにいた潜水艦 E31 の近くに降下した。 E31 は飛行船を完全に破壊し生存者 7 名を救助した。 艦隊は 5 月 4 日終日ホーン・リーフ付近で遊弋したが敵艦 は見当たらず、その後各々の根拠地に帰投した。その途中で 濃霧に遭遇したが事なきを得た。しかしながら、潜水艦 1 隻 がモレー湾のターベット・ネスの沖に現れたとの報告があっ たため、クロマーティ部隊はスカバに向かうことになった。 5 月 9 日、第 4 軽巡戦隊はネーズとウトシラ灯台間のノル ウェー海岸を再び掃蕩するためにスカバを出発した。部隊は 分かれて 2 隻がウトシラに、 2 隻がネーズに向かい、 10 日の 夜明けに予定地点に到着してから互いに向かい合う方向に掃 蕩し、鉄鉱石をリューベックに輸送していた中立国の汽船 1 隻を領海外で停船させ引致した。同日、第 2 軽巡戦隊はロサ イスを出発してスカバに向かい、途中で北海中心部を捜索し 9 日、 11 日、 13 日、シェトランド諸島沖で北方の哨戒に当 たっていた艦が、領海外で船舶を停船させる可能性を期待し て、短期間スタッドランデット方面で活動した。 14 日、報告された潜水艦 1 隻の捜索がペントランド海峡の 南東で行われたが成果はなかった。 15 日、潜水艦 D 7 と E 30 はカテガット海峡に向けて出発 した。海峡の北端とアンホールト島沖で作戦行動をするため である。 22 日、 E30 がクーラン沖の領海外でドイツの商船 1 隻を停船させ撃沈した。 18 日、他の潜水艦 1 隻がスウェーデ ンのイエーテポリ沖で作戦行動をするために派遣された。敵 の艦船は発見されず、同艦は 25 日に帰投した。 81
387 において霧に紛れて見失ったと報告した。同艦は更なる問合 せに対し敵巡洋艦は行動不能のようには見えず高速航行して いたと述べた。 午前 8 時 15 分、戦艦艦隊は北緯 55 度 54 分東経 6 度 10 分にあって北に向かって 17 ノットで航行していたが、午前 8 時 52 分に南西に変針した。 午前 8 時から午前 9 時の間に多数の残骸の間を通過し海中 にドイツ水兵らの死体が見えた。駆逐艦『アーデント』の残 骸も見えた。 6 月 1 日の午前中はかなりの数の浮流機雷が認 められ、潜水艦を発見したという報告が 1 、 2 回あった。午前 10 時、戦艦艦隊の前方に巡戦艦隊が再び見えた。次いで針路 を北微西に変え、このとき既に合流していた駆逐艦が潜水艦 に対する警戒幕の位置についた。 正午、戦艦艦隊は北緯 56 度 20 分東経 6 度 25 分の位置に あり、昼の 12 時 30 分に巡戦艦隊は北緯 56 度 32 分東経 6 度 11 分にあった。 損傷した敵艦は全て沈没したかあるいは根拠地に向かって 機雷原の内側を通過したことが今や明らかとなった。我が方 向探知局によって得られた確かな情報から、敵艦隊が帰港し つつあることは早朝から明白であった。我が方の損傷した艦 もまた全て根拠地に向かう途にあり、私は全艦隊を帰投させ る決心をし、ロサイス部隊に独立して帰港するために必要な 指示を与えた。第 4 図に 5 月 31 日の夜から 6 月 1 日の午前 に渡る艦隊の動きを示す。 ティルウィット准将の指揮するハリッジ部隊は海軍本部の 命令によって 5 月 31 日は港に留まり、 6 月 1 日朝から北海に 出動した。このとき私は、この部隊が私に合同し、燃料補給 を要する艦と交替するために派遣されたという通知を受けた。 189
319 2 時頃に同地点に到ると期待され、その後は戦艦艦隊を視認 するまで北方で待機するよう彼に指示が出された。 『アイアン・デューク』と第 1 及び第 4 戦艦戦隊は第 3 巡 戦戦隊及び新たに就役してスカバで砲術及び魚雷訓練を実施 していた軽巡洋艦『チェスター』及び『カンタベリー』と共 に 5 月 30 日の夕方に根拠地を出発して ( A ) 地点 ( 北緯 57 度 45 分東経 4 度 15 分 ) に向かった。途中、午前 11 時 15 分に 北緯 58 度 13 分東経 2 度 42 分にて第 2 戦艦戦隊に合流した。 サー・ディビッド・ビーティには出港前に戦艦艦隊が北緯 57 度 45 分東経 4 度 15 分の地点からホーン・リーフに向けて変 針することが予告された。 5 月 31 日午後 2 時、戦艦艦隊は第 5 隊形にて ) 地点の北 西およそ 18 マイル、正確には北緯 57 度 57 分東経 3 度 45 分 にいた。艦隊はわずかに遅れた。これは途中で遭遇するトロー ル船や他の船舶に対して通常のかっ必要な臨検を実施した際 に、臨検船が序列に復帰するために無益に燃料を消費しない ようにするためであった。我々は敵の偽装偵察艦に対して警 戒せねばならなかった。このとき戦艦戦隊の各小隊は縦陣を なし、第 1 から第 6 小隊 ( 第 4 、第 11 、第 12 水雷戦隊が護 衛 ) が右舷方向に横並びで順に配置されており、戦艦艦隊の 前方 3 マイルに第 4 軽巡戦隊が配置された。巡洋艦は各々駆 逐艦 1 隻と共に戦艦艦隊 ( 北 40 度東及び南 40 度西の方向線 上に 6 マイル間隔で展開 ) の前方 16 マイルに占位した。 107
442 ハンバーで新たに編制された第 4 水雷戦隊の駆逐艦 9 隻を 率いて出動していた『アクティカも戦艦艦隊に合流するよ う指示された。 午後 1 時 45 分、私は方向探知無線局が昼の 12 時 30 分の 敵艦の位置をおおよそ北緯 54 度 30 分東経 1 度 40 分と割り 出したという情報を無線にて受けた。我が戦艦艦隊は午後 1 時 45 分に北緯 55 度 15 分東経 1 度 0 分にあって、当艦隊の かなり前方に巡戦艦隊がいた。もし大洋艦隊が午前 5 時 30 分 から昼の 12 時 30 分までの針路、つまりノ トルプールに向 かう針路を昼の 12 時 30 分以後も維持していたなら、彼我の 戦艦艦隊間の距離はわずか 42 マイルとなり、我が巡戦艦隊は いつ敵艦隊を発見してもおかしくなかった。したがって戦艦 艦に対して大洋艦隊といつ何時遭遇するかも知れないとい う信号が出された。会敵が確実と思えたので私は戦艦艦隊の 砲火の分配を前もって指示した。敵は我が方と遭遇したらす ぐに東方に転針するであろうという仮定に基づいて、私は展 開後に『アイアン・デューク』よりも前方にいる艦は 2 艦の 砲火を敵の 1 艦に集中するように指示し、『アイアン・デュー ク』についてはジュットランド海戦における同艦の正確な射 撃に敬意を表して敵の 1 艦と相対させることにした。状況は 我が方に極めて有利であった。天候は快晴であった。グラン ド・フリートが敵と接触する時には、我々はかなり北にいる とはいえ東方にいるであろうから、我が艦隊は大洋艦隊の根 拠地への退路を断つのに好適な場所にいるであろうという、 非常に好ましい見通しがあった。また我が潜水艦も、もし敵 が我が海岸に向かい、その後で北方に脱出しようとしたなら ば、敵はグランド・フリートと我が潜水艦に挟まれる形に ・訳注 : 前の文の内容からすると「巡戦艦隊」の誤りかも知れない。 244
270 スカゲラク海峡に掃蕩して人った。その後、各隊はそれぞれ の根拠地に帰投した。作戦の間、巡戦艦隊の残りは急速出港 の準備をして待機していた。不審な艦船は領海外に見つから なかった。しかし、第 4 軽巡戦隊のル・メズリエ准将は小型 船が連なってノルウェー海岸に沿って領海内を進んでいると 報告した。 1 月 28 日、掃海艇の先任士官が、ラス岬からスカバに至る スコットランドの北海岸沿いの水路を掃海したと報告した。 これは同海岸と『メーベ』が敷設したホワイテン・バンク機 雷原の間の水路であった。この水路は昼間に軍艦だけが使用 するために設けられた。海軍用補助船舶はラス岬から北に向 かい、次いでオークニー諸島の北西海岸のノープ・ヘッドに 向かい、以後その西海岸に沿って南下してスカバに至るよう に指示された。その他の船舶はフェア島海峡を通って目的地 に向かうよう命令された。 1 月中はモレー湾とペントランド海峡の両方で砲術訓練が 実施された。 第 10 巡洋戦隊の任務は悪天候によってひどく制限され、毎 週の平均は以下の通りとなった。 停船させた船 21 隻、引致したもの 8 隻、哨戒に従事した 艦 11 隻、人港中あるいは哨区との往復の途上にあって不在の もの 10 隻、特別任務に就いていたもの 2 隻。 スカバやその付近では強風が 1 月 5 、 6 、 7 、 8 、 9 、 12 、 13 、 14 、 15 、 19 、 20 、 22 、 23 、 24 、 30 日に吹いた。当月中のス カバ及び北部地域全体の天気はまれに見る厳しさで、第 10 巡 洋戦隊の任務及びあらゆる小艦艇の行動を甚だしく妨げた。 56
366 べている。「ドイツ艦隊の司令長官は最後に敵を認めた南及び 南西方向に麾下の戦列を向かわせたが、遂に敵は見つからな かった」 これが解明となる。最初に我が方の艦が敵から見て北及び 北東に向かっていたことが述べられ、次いで敵が南及び南西 に転針したこと、つまり英艦隊から正反対の方向に転舵した ことが述べられている。このように ドイツの艦隊が正反対 の方向に転舵した事実がドイツ側によって証明された。 このドイツ艦隊の動きの報告は私に届かず、加えて後方の 戦艦から砲声が聞こえていたので、当初は霧が厚くなったた めに敵が一時的に見えなくなったと思われた。しかしもはや 敵の戦艦艦隊は『アイアン・デューク』から見えなかったた め、午後 7 時 41 分に敵に接近するために右 3 点、すなわち 南西に「小隊ごとに」変針した。そしてその針路上で『アイア ン・デューク』を基準にして再び単縦陣が形成された。 この間にも我が戦列の後尾は敵艦隊の 1 、 2 隻と戦闘中で あった。この敵艦は恐らく損傷して落伍したものであろう。 しかし午後 7 時 55 分に砲火は全て止んだ。 午後 7 時 40 分頃、サー・ディビッド・ビーテイから、敵が 『ライオン』から見て北西微西、距離 10 ないし 11 マイルに あって、『ライオン』の針路は南西、と述べた報告を受けた。 『アイアン・デューク』からは我が方の巡洋戦艦が見えなかっ たものの、『ライオン』が戦艦艦隊の先頭から 5 ないし 6 マイ ル前方にいると推定した。しかし、その後、午後 8 時 10 分に 『キング・ジョージ五世』に対して巡洋戦艦に続航せよとい う命令を発信したところ、その返答として受けた報告から、 同艦からも巡洋戦艦が見えないことが明らかになった。 166