419 (b) 大型艦の副砲や小型艦の主砲において敵弾の炸裂によ る中小口径砲の装薬点火を防止する装置の改良ならびに このような点火によって起きる全ての火災を局限する設 備の改良が必要である。 (c) 砲弾ならびに砲弾の破片が火薬庫に達することがない ように、大型艦においては甲板防御を増大することが望 ましいと判明した。我が方の初期のド級艦ではいずれも 舷側装甲が上甲板の高さまで延びていないためにこの必 要性が痛切に感じられた。最新の海戦では長距離戦闘が 行われるのでそれに伴う大落角の砲弾に対して我が方の 諸艦は非常に脆弱となった。 (d) 信管を改良した優秀な徹甲弾が早急に必要であること も明らかとなった。 (e) 火薬庫注水装置及び装薬撒水装置の改良が必要である。 艦隊においてはこの種類のあらゆる問題に対処する委員が 直ちに任命され、また、迅速に敵艦を夾叉可能にするための 砲火修正方法の改善を目的として、射撃指揮法における可能 な発展という重要間題について研究がなされた。これら全て の事項において、私の旗艦艦長である F ・ C ・ドレイヤー大佐 の広範な砲術の知識と経験は非常に大きな助けとなり、また 幕僚及び艦隊各艦の多くの熟練の砲術科士官が彼をよく補佐 1 一一口 0 221
406 ドイツの巡洋戦艦はこれらの艦を認めて離れる方向に変針し たと述べている。このことがイギリスの戦艦艦隊に敵とその 根拠地の間に進出する機会を与えた。我が方はこの機会を利 用し、以後敵は西方に向かって退却戦法を行うことを余儀な くされた。我が方の目的を達成するのに必要な大回頭を行う 際にイギリス艦隊が敵の外側を大きな円を描いて迂回したた め、我々は必然的に戦術的に不利な立場に置かれた。 二つの艦隊の運動を精査すれば、これがすぐに明らかにな を。イギリス艦隊が展開したとき、当初の針路は南東微東で あった。それが右舷への継続的な方向転換により南微西を経 て南西、そして最後には西となり、我が艦隊は約 12 , 000 ャー ド離れて並進する二つの円弧の外側の円弧に沿って総計 13 点 の方向転換を行い、ドイツ艦隊は二つの円弧の内側の円弧上 を動いた。 敵は我が艦隊が前方に進出したと誤認したが、そうではな く敵が終始進出してその差が大きくなりグランド・フリート は大洋艦隊の正横から次第に後方へずるずると後落していき、 大洋艦隊は魚雷攻撃について戦術的優位を占めた。この優位 は視界が低いために更に大きくなり、敵の水雷戦隊がかなり の近距離に接近するまで発見することが困難になった。 ドイツ駆逐艦による第 1 回の攻撃がなされた時、敵の水雷 戦隊の先頭が『アイアン・デューク』の正横前 30 度の方向か ら接近するのが見え、そして距離 9 , 000 ャード以内に接近し たので「敵側」あるいは「非敵側」への回頭という「対処」 が必要になった。我が方の水雷戦隊は先頭に進出しようと ・別途添付の図を参照 208
第十六章 経験の教訓、キッチナー卿の告別 ジュットランド海戦で損害を受けた艦はすぐに修理された。 損害を受けた艦の数は少なく、その大多数は 6 月中ないし 7 月第一週までに修理を終え、同時に修理中の機会を利用して 戦闘で得た経験から望ましいと判った改造を行った。大型艦 で修理に長期間を要したのは『マールバラ』 1 隻だけで、同艦 にしても、やや不便な場所に係留された浮きドックで修理が 行われたために作業がある程度妨げられたものの、 8 月には 艦隊に復帰した。軽巡洋艦『チェスター』は砲火による損害 がかなり大きかったことと、多くの改造が行われたので、 7 月 29 日までハルに留まった。物質面で注意を集中すべき主要な 点は以下の通りであった。 (a) 砲塔内または砲塔と火薬庫の中間にあって弾薬庫に通 じている場所で砲弾の爆発よって点火されたコルダイト 火薬の火炎を遮断する装置が緊急に必要であること。我 が方が失った巡洋戦艦のうち少なくとも 1 隻は装甲を貫 通された後にこの現象が起きた可能性がある。 418 220
402 回頭していくと戦列が敵戦艦の魚雷の有効射程に人ってしま うからである。この危険を受容せねばならない事態も起きる であろう。 次の図は、攻撃してくる駆逐艦に向けて回頭しても先頭の 隊と中央の隊は後尾の隊ほどには守られないことを示してい る。敵水雷戦隊が c 点 ( 先頭隊を脅かす場所 ) において魚雷 を発射したのを認めて先頭隊が内側に 4 点の回頭をしたなら、 隊の 4 番目の艦は AB 線上を進むことになる。 : 4 ~ 3 2 ユ幻 ~ 0 19 ー 8 ー 7 一 5 ー 4 13 1 ユーーー 0 9 8 7 6 5 20 番の艦に命中する 魚雷の進路 ム / 8 , 600 魚雷が先頭の隊ではなく後尾の隊を狙って発射され、その 目標が艦列の 20 番目の艦であるとしたなら、魚雷は CD の線 上を馳走し、すなわち回頭後の 4 番目の艦に正面から向かう ことになる。 しかしながら、標的が小さいので、水雷戦隊が先頭の隊を 攻撃する好位置にいる時に後尾の隊を攻撃して成功する可能 性はさほど大きくない。 しかしながら、敵に向けて回頭する場合に重要な点は魚雷 発射の時機を確認する必要があるということである。 204
409 指揮官は総指揮官の行動を注視して通常はこれに従うべきで あるが、同時に指揮権を広く分割する必要性が指摘された。 日露戦争での海戦を別にすれば、ジュットランド海戦は トラファルガー以来、初の艦隊戦闘であり、本海戦の経験か ら当然、当艦隊の戦策にいくらかの改訂が行われた。しかし 敵の戦法について意外なところはなく、ゆえに根本的な変更 は不要であった。戦艦艦隊の戦闘中に艦隊参謀長が私に「全 く予想通り」と言った通りであった。しかしながら、ドイツ 艦隊がとると思われた退却戦法に関して、我々の推論に確証 を得た。 戦策になされた主な改訂は、既によく認識され、またジュッ トランド海戦で実証されたように、総指揮官が戦闘の最中に 全艦隊の行動を統率することが困難であるため、戦隊指揮官 に与える自由裁量の権限を更に拡大したこと、ならびに敵艦 あるいは敵駆逐艦のどちらから魚雷が発射されたかに係わら ず、魚雷攻撃に対処するために用いる運動法について更に規 定を増やしたことであった。 1916 年の春に私の幕僚が戦闘中の魚雷攻撃について極めて 徹底的な分析を行い、図表付の覚え書きを作成して、発生し うる各種の状況と各々の場合における種々の対策の効果を明 この覚え書きを発布する寸前に らかにした。面白いことに 211
305 状況は 1916 年以後、徐々によくなった。同年の後半には 「ロイヤル・サプリン」級の艦が全てグランド・フリートに 加わり、大洋艦隊に対して艦隊戦力の優越の度を大きく上昇 させた。また 1917 年の初めにアドリア海から「クイーン」 級の 4 隻の戦艦を引き上げることができた。これで人員配置 の間題が大きく緩和された。そして 1917 年 4 月には最高の 出来事があった。アメリカ合衆国が連合の側で大戦に加わっ たのである。 1917 年 12 月にアメリカ合衆国は戦艦隊 1 隊 を送ってグランド・フリートに加人させた。また必要な場合 米海軍の戦艦全ての援助を期待できることになった。 最終的に、また恐らく全ての中で最も重要なこととして、 ジュットランド海戦後にはグランド・フリートの軽巡洋艦及 び駆逐艦の戦力が着実に増加したため、水上艦艇による戦闘 の際にグランド・フリートに対する有効な魚雷攻撃の危険が 著しく低減した。また K 級の高速潜水艦が 1917 年にグラン ド・フリートに編人されたおかげで、我々が潜水艦攻撃によっ て被る損失を同じ理由による敵側の損失によって十二分に相 殺できることがかなり確かになった。 1918 年には巡洋戦艦に関する状況が不満足になってきたも のの、上記全ての事項がグランド・フリートの戦術に及ぼす 全体的効果は敵を圧倒するものになることは確実であった。 その圧倒的優位が確保され、以後我々は 1916 年であれば愚 の骨頂となった程の危険を冒す余裕を持っことができた。 93
315 5. ドイツ艦はイギリス艦よりも水中魚雷発射管を多く備え ていた。 ドイツ艦のより一層の防御に対し、我が方の同時期の艦の 設計は全ての事例で、より大口径の砲塔砲を備えるものであっ た。一方ドイツの艦はより大口径の副砲を備えた。 また重要と判明したため言及すべき顕著な点は、ドイツ軍 が優秀な徹甲弾と共に遅延式信管を有していたことで、あの 日、我が方の砲弾がドイツ艦の厚い装甲に命中したものの、 装甲の外側あるいは装甲を貫通する途中で爆発したのに対し、 この信管によりドイツの砲弾はイギリス艦の装甲を貫通し確 実に内部で爆発した。 両海軍の艦の燃料積載量に大きな差はなかった。ただし概 してイギリスの艦の方が燃料を多く積載できた。開戦して数 か月後、私は我が方の艦に積載する燃料を大きく、実に 25 % 以上減らすように取り決めたものの、石炭燃焼艦の場合には 石炭によって得られる防御をいくらか犠牲にすることなく積 載燃料をそれ以上減らすことができなかった。なぜなら我が 方の場合、敵と接触するまでに相当な時間を高速航行する ( こ れには石炭消費を伴う ) 用意があることを必要としたからで ある。石炭の積載量が「安全線」 ( と呼んでよかろう ) を下回 る状態でドイツ軍と遭遇することに思いをめぐらすのは賢明 でなかった。他方、よく知られていたことであるが、ドイツ 軍はその根拠地から遠く離れて戦闘を行うつもりがなかった ので、積載する燃料の量を大幅に減らすことになり、ゆえに 速度においてそれに見合った強みを得た。 103
410 ジュットランド海戦が行われた。この覚え書きは 1916 年 5 月 27 日付であったが、実際には発布されていなかった。 ジュットランド海戦で得られた経験がこの覚え書きに盛り 込まれてから最終的に艦隊に発布された。 海戦における魚雷の使用法とこれに対して採られた「カウ ンター」手段の問題をかなりの長さに渡って論じてきたのは、 1911 年以来海軍においてこの種の攻撃とその「カウンター」 が大いに討論されたからで、今後も討論が続きそうな問題で ある。また将来多大な実験の対象となることは確実である。 ジュットランド海戦におけるドイツの魚雷攻撃は大きな効 果を少しも挙げなかったので、その重要性を過大視してはな らない。イギリス戦艦艦隊の回避運動は敵との距離を約 1 , 750 ャード拡げたが、敵との接触を保つことが困難になったのは この回避運動が原因ではなかった。接触が困難になったのは ドイツ艦隊が最初期の駆逐艦攻撃を開始すると同時に煙幕に まぎれて西方に大角度の変針を行ったためである。敵が退却 したため、我が戦艦艦隊の前方にいた巡洋戦艦 ( 彼らの場合、 この時魚雷を回避する必要がなかったので回頭しなかった ) も戦艦艦隊も午後 8 時 20 分まで接触を回復することができ なかった。 戦闘の開始段階における距離に関して総指揮官である私の 意図による指示は変更されず、通常の状況においては戦艦艦 隊の中央部と後尾を敵戦列からの魚雷射程外に維持する方針 を重ねて強調した。 海戦の結果が両軍のどちらかによる圧倒的な物理的損失と 212
273 2 月 26 日未明、ド級戦艦艦隊は第 2 及び第 7 巡洋戦隊、 第 4 軽巡戦隊、水雷戦隊と共に北海北部の監視ならびに訓練 航海のためにスカバを出発した。当初はハリッジ部隊と連繋 したヘリゴランド湾に到る掃蕩が予定されていたが、ティル ウィット准将から天候その他の事情が作戦に不適当であると いう報告を受けて取りやめとなった。午後に戦闘演習が行わ れ、また 26 日午後 1 時 30 分にロサイスを出港した巡戦艦隊 が翌日午前 8 時に戦艦艦隊に合流した。この日は更に戦闘演 習を実施したが、これにはグランド・フリート全体が巡航序 列から展開することも含まれた。これは巡洋戦艦、巡洋艦、 軽巡洋艦、駆逐艦をして、ある状況下で展開する際に指定さ れた配置につくことに習熟させるためであった。この演習は かなり重要なものであった。艦隊は 28 日に根拠地に戻った。 艦隊がスカバに不在の間は掃海用スループ艦がオークニ 者島の東方を哨戒し、根拠地への進人路に機雷が敷設される ことを防いだ。 2 月 28 日、北海への潜人を企図する敵艦を捕捉するための 配置がとられた。中立国の筋からの情報により、そのような 企てがなされつつある可能性が確信されるに至ったのである。 こうした場合のお約束のように、出来事の後で情報が届いた。 つまり、問題の艦が既にドイツの領海から出たという報告が あった。したがって、この仮定に基づいて配置がなされたが、 その際には、敵が昼間に通過することが予想される区域に我 が方の艦艇を配置する必要があった。 この配置は、敵艦の任務が我が根拠地の近くに機雷を敷設 一三ロ 59
437 24 日夜、夜間射撃区域から帰港中の戦艦『ウォースパイト』 と同区域に向かう途中の戦艦「バリアント』がスカバ・フロー にて衝突し、両艦とも人渠が必要な大損傷を受けた。 8 月 3 日に敵潜水艦により口ングストーン沖に機雷が敷設 されたため、『マールバラ』のタイン出港が延期された。修理 を終えた軍艦がまさにタインを出港しようとする時に、その 付近に度々機雷が敷設されるという偶然の一致は、敵のスパ イがこの地域で活動しているという疑いを生じさせた。また、 8 月 4 日または 5 日に敵艦船によって潜水艦式の機雷が多数、 白海の軍用航路に敷設された。 8 月 3 日、 c 級潜水艦 4 隻がノーアを出港し曳船に曳航さ れてアルハンゲリスクに向かった。これらの潜水艦は同港に 到着後、運河を通ってバルト海の任務に就く予定であった。 これらの潜水艦は 1917 年中この方面の水域で非常に有用な 働きをした。 ドイツ潜水艦による機雷敷設が増加したため、重要な時機 に根拠地近くの機雷原によってグランド・フリートの行動が 妨害されるかもしれないという懸念が生じたが、スカバ方面 に掃海艇の追加がなかったため、 7 月中は若十数のトロール 船を哨戒任務から戻して掃海隊を編成し、スカバの掃海隊を 増強した。 1916 年の後半の間、スカバあるいはクロマーティ におけるグランド・フリート掃海部隊は、スループ艦と砲艦 から成る 2 隊、及び各 12 隻のトロール船から成る 2 隊、加 えてフォース湾のグラントンを根拠地とする外輪掃海船から 239