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検索対象: グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで
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1. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

419 (b) 大型艦の副砲や小型艦の主砲において敵弾の炸裂によ る中小口径砲の装薬点火を防止する装置の改良ならびに このような点火によって起きる全ての火災を局限する設 備の改良が必要である。 (c) 砲弾ならびに砲弾の破片が火薬庫に達することがない ように、大型艦においては甲板防御を増大することが望 ましいと判明した。我が方の初期のド級艦ではいずれも 舷側装甲が上甲板の高さまで延びていないためにこの必 要性が痛切に感じられた。最新の海戦では長距離戦闘が 行われるのでそれに伴う大落角の砲弾に対して我が方の 諸艦は非常に脆弱となった。 (d) 信管を改良した優秀な徹甲弾が早急に必要であること も明らかとなった。 (e) 火薬庫注水装置及び装薬撒水装置の改良が必要である。 艦隊においてはこの種類のあらゆる問題に対処する委員が 直ちに任命され、また、迅速に敵艦を夾叉可能にするための 砲火修正方法の改善を目的として、射撃指揮法における可能 な発展という重要間題について研究がなされた。これら全て の事項において、私の旗艦艦長である F ・ C ・ドレイヤー大佐 の広範な砲術の知識と経験は非常に大きな助けとなり、また 幕僚及び艦隊各艦の多くの熟練の砲術科士官が彼をよく補佐 1 一一口 0 221

2. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

406 ドイツの巡洋戦艦はこれらの艦を認めて離れる方向に変針し たと述べている。このことがイギリスの戦艦艦隊に敵とその 根拠地の間に進出する機会を与えた。我が方はこの機会を利 用し、以後敵は西方に向かって退却戦法を行うことを余儀な くされた。我が方の目的を達成するのに必要な大回頭を行う 際にイギリス艦隊が敵の外側を大きな円を描いて迂回したた め、我々は必然的に戦術的に不利な立場に置かれた。 二つの艦隊の運動を精査すれば、これがすぐに明らかにな を。イギリス艦隊が展開したとき、当初の針路は南東微東で あった。それが右舷への継続的な方向転換により南微西を経 て南西、そして最後には西となり、我が艦隊は約 12 , 000 ャー ド離れて並進する二つの円弧の外側の円弧に沿って総計 13 点 の方向転換を行い、ドイツ艦隊は二つの円弧の内側の円弧上 を動いた。 敵は我が艦隊が前方に進出したと誤認したが、そうではな く敵が終始進出してその差が大きくなりグランド・フリート は大洋艦隊の正横から次第に後方へずるずると後落していき、 大洋艦隊は魚雷攻撃について戦術的優位を占めた。この優位 は視界が低いために更に大きくなり、敵の水雷戦隊がかなり の近距離に接近するまで発見することが困難になった。 ドイツ駆逐艦による第 1 回の攻撃がなされた時、敵の水雷 戦隊の先頭が『アイアン・デューク』の正横前 30 度の方向か ら接近するのが見え、そして距離 9 , 000 ャード以内に接近し たので「敵側」あるいは「非敵側」への回頭という「対処」 が必要になった。我が方の水雷戦隊は先頭に進出しようと ・別途添付の図を参照 208

3. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

第十六章 経験の教訓、キッチナー卿の告別 ジュットランド海戦で損害を受けた艦はすぐに修理された。 損害を受けた艦の数は少なく、その大多数は 6 月中ないし 7 月第一週までに修理を終え、同時に修理中の機会を利用して 戦闘で得た経験から望ましいと判った改造を行った。大型艦 で修理に長期間を要したのは『マールバラ』 1 隻だけで、同艦 にしても、やや不便な場所に係留された浮きドックで修理が 行われたために作業がある程度妨げられたものの、 8 月には 艦隊に復帰した。軽巡洋艦『チェスター』は砲火による損害 がかなり大きかったことと、多くの改造が行われたので、 7 月 29 日までハルに留まった。物質面で注意を集中すべき主要な 点は以下の通りであった。 (a) 砲塔内または砲塔と火薬庫の中間にあって弾薬庫に通 じている場所で砲弾の爆発よって点火されたコルダイト 火薬の火炎を遮断する装置が緊急に必要であること。我 が方が失った巡洋戦艦のうち少なくとも 1 隻は装甲を貫 通された後にこの現象が起きた可能性がある。 418 220

4. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

402 回頭していくと戦列が敵戦艦の魚雷の有効射程に人ってしま うからである。この危険を受容せねばならない事態も起きる であろう。 次の図は、攻撃してくる駆逐艦に向けて回頭しても先頭の 隊と中央の隊は後尾の隊ほどには守られないことを示してい る。敵水雷戦隊が c 点 ( 先頭隊を脅かす場所 ) において魚雷 を発射したのを認めて先頭隊が内側に 4 点の回頭をしたなら、 隊の 4 番目の艦は AB 線上を進むことになる。 : 4 ~ 3 2 ユ幻 ~ 0 19 ー 8 ー 7 一 5 ー 4 13 1 ユーーー 0 9 8 7 6 5 20 番の艦に命中する 魚雷の進路 ム / 8 , 600 魚雷が先頭の隊ではなく後尾の隊を狙って発射され、その 目標が艦列の 20 番目の艦であるとしたなら、魚雷は CD の線 上を馳走し、すなわち回頭後の 4 番目の艦に正面から向かう ことになる。 しかしながら、標的が小さいので、水雷戦隊が先頭の隊を 攻撃する好位置にいる時に後尾の隊を攻撃して成功する可能 性はさほど大きくない。 しかしながら、敵に向けて回頭する場合に重要な点は魚雷 発射の時機を確認する必要があるということである。 204

5. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

409 指揮官は総指揮官の行動を注視して通常はこれに従うべきで あるが、同時に指揮権を広く分割する必要性が指摘された。 日露戦争での海戦を別にすれば、ジュットランド海戦は トラファルガー以来、初の艦隊戦闘であり、本海戦の経験か ら当然、当艦隊の戦策にいくらかの改訂が行われた。しかし 敵の戦法について意外なところはなく、ゆえに根本的な変更 は不要であった。戦艦艦隊の戦闘中に艦隊参謀長が私に「全 く予想通り」と言った通りであった。しかしながら、ドイツ 艦隊がとると思われた退却戦法に関して、我々の推論に確証 を得た。 戦策になされた主な改訂は、既によく認識され、またジュッ トランド海戦で実証されたように、総指揮官が戦闘の最中に 全艦隊の行動を統率することが困難であるため、戦隊指揮官 に与える自由裁量の権限を更に拡大したこと、ならびに敵艦 あるいは敵駆逐艦のどちらから魚雷が発射されたかに係わら ず、魚雷攻撃に対処するために用いる運動法について更に規 定を増やしたことであった。 1916 年の春に私の幕僚が戦闘中の魚雷攻撃について極めて 徹底的な分析を行い、図表付の覚え書きを作成して、発生し うる各種の状況と各々の場合における種々の対策の効果を明 この覚え書きを発布する寸前に らかにした。面白いことに 211

6. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

305 状況は 1916 年以後、徐々によくなった。同年の後半には 「ロイヤル・サプリン」級の艦が全てグランド・フリートに 加わり、大洋艦隊に対して艦隊戦力の優越の度を大きく上昇 させた。また 1917 年の初めにアドリア海から「クイーン」 級の 4 隻の戦艦を引き上げることができた。これで人員配置 の間題が大きく緩和された。そして 1917 年 4 月には最高の 出来事があった。アメリカ合衆国が連合の側で大戦に加わっ たのである。 1917 年 12 月にアメリカ合衆国は戦艦隊 1 隊 を送ってグランド・フリートに加人させた。また必要な場合 米海軍の戦艦全ての援助を期待できることになった。 最終的に、また恐らく全ての中で最も重要なこととして、 ジュットランド海戦後にはグランド・フリートの軽巡洋艦及 び駆逐艦の戦力が着実に増加したため、水上艦艇による戦闘 の際にグランド・フリートに対する有効な魚雷攻撃の危険が 著しく低減した。また K 級の高速潜水艦が 1917 年にグラン ド・フリートに編人されたおかげで、我々が潜水艦攻撃によっ て被る損失を同じ理由による敵側の損失によって十二分に相 殺できることがかなり確かになった。 1918 年には巡洋戦艦に関する状況が不満足になってきたも のの、上記全ての事項がグランド・フリートの戦術に及ぼす 全体的効果は敵を圧倒するものになることは確実であった。 その圧倒的優位が確保され、以後我々は 1916 年であれば愚 の骨頂となった程の危険を冒す余裕を持っことができた。 93

7. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

315 5. ドイツ艦はイギリス艦よりも水中魚雷発射管を多く備え ていた。 ドイツ艦のより一層の防御に対し、我が方の同時期の艦の 設計は全ての事例で、より大口径の砲塔砲を備えるものであっ た。一方ドイツの艦はより大口径の副砲を備えた。 また重要と判明したため言及すべき顕著な点は、ドイツ軍 が優秀な徹甲弾と共に遅延式信管を有していたことで、あの 日、我が方の砲弾がドイツ艦の厚い装甲に命中したものの、 装甲の外側あるいは装甲を貫通する途中で爆発したのに対し、 この信管によりドイツの砲弾はイギリス艦の装甲を貫通し確 実に内部で爆発した。 両海軍の艦の燃料積載量に大きな差はなかった。ただし概 してイギリスの艦の方が燃料を多く積載できた。開戦して数 か月後、私は我が方の艦に積載する燃料を大きく、実に 25 % 以上減らすように取り決めたものの、石炭燃焼艦の場合には 石炭によって得られる防御をいくらか犠牲にすることなく積 載燃料をそれ以上減らすことができなかった。なぜなら我が 方の場合、敵と接触するまでに相当な時間を高速航行する ( こ れには石炭消費を伴う ) 用意があることを必要としたからで ある。石炭の積載量が「安全線」 ( と呼んでよかろう ) を下回 る状態でドイツ軍と遭遇することに思いをめぐらすのは賢明 でなかった。他方、よく知られていたことであるが、ドイツ 軍はその根拠地から遠く離れて戦闘を行うつもりがなかった ので、積載する燃料の量を大幅に減らすことになり、ゆえに 速度においてそれに見合った強みを得た。 103

8. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

410 ジュットランド海戦が行われた。この覚え書きは 1916 年 5 月 27 日付であったが、実際には発布されていなかった。 ジュットランド海戦で得られた経験がこの覚え書きに盛り 込まれてから最終的に艦隊に発布された。 海戦における魚雷の使用法とこれに対して採られた「カウ ンター」手段の問題をかなりの長さに渡って論じてきたのは、 1911 年以来海軍においてこの種の攻撃とその「カウンター」 が大いに討論されたからで、今後も討論が続きそうな問題で ある。また将来多大な実験の対象となることは確実である。 ジュットランド海戦におけるドイツの魚雷攻撃は大きな効 果を少しも挙げなかったので、その重要性を過大視してはな らない。イギリス戦艦艦隊の回避運動は敵との距離を約 1 , 750 ャード拡げたが、敵との接触を保つことが困難になったのは この回避運動が原因ではなかった。接触が困難になったのは ドイツ艦隊が最初期の駆逐艦攻撃を開始すると同時に煙幕に まぎれて西方に大角度の変針を行ったためである。敵が退却 したため、我が戦艦艦隊の前方にいた巡洋戦艦 ( 彼らの場合、 この時魚雷を回避する必要がなかったので回頭しなかった ) も戦艦艦隊も午後 8 時 20 分まで接触を回復することができ なかった。 戦闘の開始段階における距離に関して総指揮官である私の 意図による指示は変更されず、通常の状況においては戦艦艦 隊の中央部と後尾を敵戦列からの魚雷射程外に維持する方針 を重ねて強調した。 海戦の結果が両軍のどちらかによる圧倒的な物理的損失と 212

9. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

273 2 月 26 日未明、ド級戦艦艦隊は第 2 及び第 7 巡洋戦隊、 第 4 軽巡戦隊、水雷戦隊と共に北海北部の監視ならびに訓練 航海のためにスカバを出発した。当初はハリッジ部隊と連繋 したヘリゴランド湾に到る掃蕩が予定されていたが、ティル ウィット准将から天候その他の事情が作戦に不適当であると いう報告を受けて取りやめとなった。午後に戦闘演習が行わ れ、また 26 日午後 1 時 30 分にロサイスを出港した巡戦艦隊 が翌日午前 8 時に戦艦艦隊に合流した。この日は更に戦闘演 習を実施したが、これにはグランド・フリート全体が巡航序 列から展開することも含まれた。これは巡洋戦艦、巡洋艦、 軽巡洋艦、駆逐艦をして、ある状況下で展開する際に指定さ れた配置につくことに習熟させるためであった。この演習は かなり重要なものであった。艦隊は 28 日に根拠地に戻った。 艦隊がスカバに不在の間は掃海用スループ艦がオークニ 者島の東方を哨戒し、根拠地への進人路に機雷が敷設される ことを防いだ。 2 月 28 日、北海への潜人を企図する敵艦を捕捉するための 配置がとられた。中立国の筋からの情報により、そのような 企てがなされつつある可能性が確信されるに至ったのである。 こうした場合のお約束のように、出来事の後で情報が届いた。 つまり、問題の艦が既にドイツの領海から出たという報告が あった。したがって、この仮定に基づいて配置がなされたが、 その際には、敵が昼間に通過することが予想される区域に我 が方の艦艇を配置する必要があった。 この配置は、敵艦の任務が我が根拠地の近くに機雷を敷設 一三ロ 59

10. グランド・フリート 1914-1916 第八章から最後まで

437 24 日夜、夜間射撃区域から帰港中の戦艦『ウォースパイト』 と同区域に向かう途中の戦艦「バリアント』がスカバ・フロー にて衝突し、両艦とも人渠が必要な大損傷を受けた。 8 月 3 日に敵潜水艦により口ングストーン沖に機雷が敷設 されたため、『マールバラ』のタイン出港が延期された。修理 を終えた軍艦がまさにタインを出港しようとする時に、その 付近に度々機雷が敷設されるという偶然の一致は、敵のスパ イがこの地域で活動しているという疑いを生じさせた。また、 8 月 4 日または 5 日に敵艦船によって潜水艦式の機雷が多数、 白海の軍用航路に敷設された。 8 月 3 日、 c 級潜水艦 4 隻がノーアを出港し曳船に曳航さ れてアルハンゲリスクに向かった。これらの潜水艦は同港に 到着後、運河を通ってバルト海の任務に就く予定であった。 これらの潜水艦は 1917 年中この方面の水域で非常に有用な 働きをした。 ドイツ潜水艦による機雷敷設が増加したため、重要な時機 に根拠地近くの機雷原によってグランド・フリートの行動が 妨害されるかもしれないという懸念が生じたが、スカバ方面 に掃海艇の追加がなかったため、 7 月中は若十数のトロール 船を哨戒任務から戻して掃海隊を編成し、スカバの掃海隊を 増強した。 1916 年の後半の間、スカバあるいはクロマーティ におけるグランド・フリート掃海部隊は、スループ艦と砲艦 から成る 2 隊、及び各 12 隻のトロール船から成る 2 隊、加 えてフォース湾のグラントンを根拠地とする外輪掃海船から 239