432 234 た。おそらく通報が誤っていたのであろう。 この配置は 14 日まで続けられたが、敵船は発見されなかっ ペリン飛行船を監視した。同部隊はネーズから北方に 破壊船もしくはこの航路上で頻繁に報告されたツェッ 進出し、以後日中はネーズに向けて掃蕩し、敵の通商 出発してリトル・フィッシャー・バンク西方の地点に (h) 26 日、第 2 軽巡戦隊は駆逐艦 4 隻と共にロサイスを の掃蕩を繰り返した。 (g) 24 日、軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 4 隻がノルウェー海岸 られなかった。 て南へ掃蕩し 23 日に帰投した。行動中には何も認め してネーズ付近の一地点からホーン・リーフに向かっ (f) 21 日、軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 4 隻がロサイスを出発 を繰り返し、 20 日に帰投した。 ( e ) 17 日には別の軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 6 隻が同じ掃蕩 に帰投した。 ち、ノルウェーの海岸で北上南下の掃蕩を行い、 15 日 (d) 軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 6 隻が 12 日にロサイスを発 峡を哨戒した・。 島の間を哨戒させた。また駆逐隊の半隊がフェア島海 哨戒させ、局地哨戒艇数隻に巡洋艦とシェトランド諸 配置し、また巡洋艦 2 隻にシェトランド諸島の北方を 更に北方に第 4 軽巡戦隊及び駆逐艦 6 隻による哨戒を 間における敵船の捕捉を確実にするために先の水域の から 100 マイルにわたる水域を厳密に哨戒。加えて昼 り、敵が通過すると予想されるノルウェー海岸沖 80 ロサイスから出た軽巡戦隊 2 隊及び駆逐艦 8 隻によ
435 (b) 暗夜期間中の軽巡洋艦による根拠地沖の外方に拡大し た哨戒が継続された。 (c) 巡洋艦 1 隻によるアルハンゲリスク航路の哨戒が継続 された。 (d) 軽巡洋艦の掃蕩は次の通りに実施された。 7 月 1 日、軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 4 隻がロサイスを出発し ノルウェー海岸を掃蕩して南下したが特に何も発見せず 3 日 に帰投した。 8 日、ロサイスから出た軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 4 隻が北緯 60 度東経 2 度から北緯 57 度 30 分東経 5 度 0 分 を掃蕩したが何事もなく 10 日に同根拠地に戻った。 12 日、 第 4 軽巡戦隊は駆逐艦 4 隻と共にスカバを出発してウトシラ 灯台に進み、そこでバルト海から来たイギリス商船 10 隻から 成る輸送隊を出迎えた。これらの船は北海を横断してラトリ 岬に至るまで護衛された。輸送隊は 14 日に無事到着した。 15 日夜、商船に偽装した武装臨検船『ダンデイ』及び『キ ング・オリー』がノルウェー海岸沖で行動するためにスカバ を出発した。この 2 隻ならば戦時禁制品を輸送中の敵国及び 中立国の船に相手を刺激することなく接近でき、これを拿捕 する機会が軍艦の外観をしたものよりも多いと期待された。 『ダンデイ』はウトシラとリスターの間で、『キング・オリー』 はスタッドランデット沖で行動した。両方の場所ともその近 辺から船舶が領海を離れるのが常となっていた。『ダンデイ』 は敵の軍艦と遭遇する恐れのある水域で行動していたので、 同船を支援するために軽巡洋艦『コンスタンス』と駆逐艦 2 隻が派遣され、『ダンデイ』の沖側の適切な位置に配置された。 237
377 午後 10 時 20 分、第 2 軽巡戦隊は巡洋艦 1 隻及び軽巡洋艦 4 隻とおぼしき敵艦 5 隻を発見しこれと交戦した。この敵は 第 4 偵察隊であったらしい。敵はまたも急速かっ正確な砲火 を開き、至近距離で我が先頭の 2 艦、『サウサンプトン』と「ダ プリン』に砲火を集中した。 15 分間の戦闘で両艦とも相当な 損傷を受け多数の死傷者が出た。『サウサンプトン』では火災 が 3 度発生したが、敵弾によって消火ホースが切断されてい たにも係わらず、士卒の素晴らしい働きによってすぐに消火 された。 敵の部隊は短時間ながらも激しい戦闘ののち、姿を消した。 この戦闘でドイツの軽巡洋艦『フラウ工ンロープ』が撃沈さ れたと思われる ( 敵は同艦の損失を認めた ) 。この戦闘は我が 第 2 軽巡戦隊とドイツの第 4 偵察隊の間で起きたものであっ 午後 11 時 30 分、第 4 水雷戦隊は南東に向かう敵の巡洋艦 を発見して攻撃した。発見された敵艦もまた直ちに砲火を開 き、ウインツアー大佐が指揮する水雷戦隊の嚮導艦『テイベ ラリ』は砲火によって大損傷を受け前部に火災が発生した。 第 2 小隊の嚮導艦『プローク』は舵機に損傷を受け一時的に 操艦不能におちいって駆逐艦『スパローホーク』に衝突し、 その結果翌朝『スパローホーク』の乗員を収容した後に同艦 を放棄せねばならなくなった。『テイベラリ』に後続していた 駆逐艦『スピットファイア』 (C ・ W ・ E ・トレロー ー少佐 ) は 4 本煙突の巡洋艦 1 隻に対し魚雷を発射し、この艦は魚雷 が命中して沈没しつつある様子であった。次いで『スヒ。ット ファイア』はドイツの軽巡洋艦 1 隻に舷側をこする形で衝突 し、ドイツ艦の外板を約 29 フィートに渡って剥ぎとった。 0 179
336 名は次の通り。 W ・ C ・ R ・グリフィン二等兵曹、 C ・フィリュー ル二等焚火兵曹、 C ・ C ・ホープ二等水兵、 C ・ H ・スミス二 等水兵、 T ・ O ・ G ・ハウ工ル二等水兵、 T ・ W ・スワン焚火 こで我が方の前衛の巡洋艦の艦列の行動に目を向けてみ よう。この艦列は午後 5 時には戦艦艦隊の前方およそ 16 マ イルにいた。このとき戦艦艦隊は北緯 57 度 24 分東経 5 度 12 分にあって 20 ノットで南東微南に向かっていた。留意すべき ことは巡洋艦からの報告が述べているように、視界が 6 マイ ルをわずかに上回る程度まで悪化していたため、右翼の巡洋 艦は距離を詰め、午後 5 時 30 分には間隔がおよそ 6 マイル になっていたことである。第 3 巡戦戦隊は前衛の巡洋艦の艦 列のおよそ 16 マイル真東にいたが、さらに南よりに 5 ノッ トほど速い速度で合流針路を航行していた。 午後 5 時 40 分、巡洋艦の艦列において前方に砲撃音が聞 こえ、その後まもなく複数の艦が霧の中から現れるのが『マ イノトー』から見えた。巡洋艦列の先任士官、ヒース少将は 砲撃音を聞くと直ちに第 2 巡洋戦隊の艦を呼び戻して『マイ ノトー』のところで単縦陣をなすよう命令していた。次いで 彼は敵 ( すなわち、前方に見える艦 ) と交戦する合図を出し た。しかし砲火を開く前に問題の艦が少将の誰何に応答し、 第 3 巡戦戦隊の艦であると確認された。彼らは敵の軽巡洋艦 と交戦して西方に向かっていた。 午後 5 時 47 分、『デフェンス』は『ウォーリア』を後方に 伴い、南西方向 ( つまり艦首右舷方向 ) に 3 隻ないし 4 隻の 敵の軽巡洋艦を発見し、左 3 の針路変更を行って敵がほぼ 真横に見えるようにした。次いで『デフェンス』に座乗する 、 0 ・ 3 点 = 33.75 度 126
484 を開始し、敵の戦艦及び巡洋戦艦、ならびに同じく交戦した敵の 軽巡洋艦数隻に甚大な損害を与えた。『マールバラ』 ( 艦長ジョー ジ・ P ・ロス大佐 ) の射撃は特に迅速かっ有効であった。同艦は 午後 6 時 17 分に戦闘を開始して『カイザー』級の 1 隻に 7 回の 斉射を浴びせ、次いで巡洋艦 1 隻、そして再び戦艦 1 隻と交戦し、 午後 6 時 54 分に魚雷 1 発を受けて右舷に大きく傾斜したものの、 午後 7 時 3 分に巡洋艦 1 隻に向け砲撃を再開し、午後 7 時 12 分 からは『ケーニヒ』級の 1 隻に 14 回の迅速な斉射を浴びせて幾 度も命中させ、この敵艦は戦列外に出るに至った。魚雷に起因す る損傷による障害にも係わらず、同艦がこの有効な砲火を継続し たことは最大の賞賛に値し、また第 1 戦艦戦隊の優れた模範で あった。 射距離は戦闘中に 9 , 000 ャードにまで縮んだ。第 1 戦艦戦隊は 第 5 戦艦戦隊を除けば他のどの戦艦艦隊よりも多く敵の反撃の砲 火を受けた。『コロッサス』は大きな損害にはならなかったが敵弾 を受け、他の艦はかなり頻繁に夾叉された。 我が旗艦『アイアン・デューク』がいた第 4 戦艦戦隊において は、サー・ダブトン・スターディー中将が 1 小隊を率いて敵の第 3 戦隊及び巡洋戦艦数隻、ならびに航行不能となっていた巡洋艦 及び軽巡洋艦と交戦した。靄のために射程の測定が困難であった が、同戦隊の射撃は有効であった。『アイアン・デューク』はこれ 以前に艦列の間にいた軽巡洋艦 1 隻に砲撃を行っていたが、午後 6 時 30 分に『ケーニヒ』級戦艦 1 隻に対し距離 12 , 000 ャードで 砲火を開いた。敵戦艦を直ちに夾叉し、第 2 斉射から命中し始め、 敵艦が回頭して逃げるまで砲撃を継続した。かくも迅速に命中弾 を得たのは、私の旗艦艦長フレデリック・ C ・ドライヤー大佐の 優れた指揮を受けた旗艦の砲術部組織が優秀であったことによる ものと認められる。 当戦隊の他の艦の砲火は主に講の中から姿を現す敵の巡洋戦艦 と巡洋艦に向けられた。その数艦に命中し損害を与えたと認めら れた。 286
333 この方向転換によって敵を『チェスター』の左舷正横の充分 後方に置き、針路はおおよそ平行となった。『チェスター』は 方向転換中、最初に認めた敵艦の後方に 2 隻以上の軽巡洋艦 を発見した。敵の先頭の軽巡洋艦は距離およそ 6 , 000 ャード で『チェスター』に向けて砲撃を開始し、『チェスター』はそ の直後に反撃した。『チェスター』から敵の軽巡洋艦が見えた 時の距離から判断すると、このとき視界は 8 , 000 ャードを超 えていなかった。敵の 4 回目の斉射が「チェスター』に命中 して 1 番砲の砲門を動作不能とし、左舷 1 番、 2 番、 3 番砲 の砲員にかなりの死傷者を出した。『チェスター』が発見した 軽巡洋艦が敵巡洋戦艦の艦首右舷方向に位置していた偵察部 隊の一つに属していたことは疑いない。 「チェスター』のローソン大佐は自分が交戦している部隊 が優勢であることを考慮して北東に変針して第 3 巡戦戦隊の 方に向かい敵の軽巡洋艦を自艦の後方に置いたが、敵の 3 艦 はすでに急速かっ正確な砲撃を開始していた。敵艦は『チェ スター』を追って変針した。ローソン大佐は自艦の損傷状態 ではこのような優勢な部隊との交戦は不適と悟り、 19 分間続 いた一方的な戦闘の間、艦を巧みに操って敵の砲火の精度を 乱した。 「チェスター』は第 3 巡戦戦隊に接近して同戦隊の北東に 位置したが、戦闘の後期においては第 2 巡洋戦隊に合流した。 同艦はかなりの犠牲者 ( 死者 31 名、負傷者 50 名 ) を出した。 砲 3 門と砲火管制回路が使用不能となった。同艦には水線か らわずかに上に砲弾によって開けられた穴が 4 つあった。 123
1916 年 6 月 18 日付本国艦隊公文書 N 。 .1395 ( H. F. 0022 ) を付録。 撃沈と認められる敵艦の一覧 1916 年 5 月 31 日から 6 月 1 日 戦艦または巡洋戦艦 『ドレッドノート』型戦艦 2 隻沈没確実 『ドイッチュラント』型戦艦 1 隻沈没確実 戦艦あるいは巡洋戦艦 1 隻沈没と推定 『ドレッドノート』型戦艦 1 隻沈没と推定 軽巡洋艦 軽巡洋艦 4 隻沈没確実 大型艦あるいは軽巡洋艦 1 隻 駆逐艦 駆逐艦 6 隻沈没確実 駆逐艦 3 隻沈没と推定 潜水艦 1 隻沈没確実 3 隻沈没の可能性あり 297 沈没確実
454 10 月 8 日、第 2 戦艦戦隊、第 2 巡洋戦隊の巡洋艦数隻及 び第 15 ならびに第 11 水雷戦隊の駆逐艦はスカバを出て東方 に遊弋し 10 日に帰投した。 15 日、軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 4 隻が掃蕩のため出発した が、 16 日に悪天候のために呼び戻された。 17 日、軽巡洋艦 2 隻と駆逐艦 4 隻がロサイスを出てエーゲ ルスンの西方の地点まで航行し、そこからリトル・フィッ / ャー・バンクに向かって掃蕩しつつ下ったが、任務に係わ るものは何も発見することなく口サイスへ戻った。 19 日、巡洋艦 2 隻、軽巡洋艦 2 隻、駆逐艦 8 隻が北方根拠 地を出発し、北緯 59 度 30 分東経 1 度と北緯 60 度東経 4 度 20 分の間に捜索列を展開して、ノルウェー海岸にほぼ平行し た航路上を大きくジグザク航行しながら掃蕩して下り、敵の 通商破壊船を捜索した。作戦は 2 日連続して昼の間反復され たが、敵の船は見つからなかった。 22 日、第 4 及び第 5 戦艦戦隊ならびに第 14 及び第 15 水 雷戦隊はスカバを出発し、警戒及び演習巡航のため東方に向 かい、 24 日に戻った。 10 月中に実施された戦艦戦隊の各隊の遊弋中、各指揮官に 命じて、ジュットランド海戦中に敵がとった戦術に基づいて 戦闘演習を行わせた。これは、これらの戦術に対抗するため に案出された戦術に関して経験を得るためで、各指揮官に対 してこれに関する報告を提出させた。 10 月 24 日、駆逐艦の 1 個小隊が水上機と共に、フェア島 256
399 巡洋艦に随伴し、 31 隻が巡戦艦隊 ( 第 3 巡戦戦隊を含む ) に 随伴した。規模の劣るドイツ艦隊は確かに駆逐艦を 88 隻以上 有し、 ( 戦艦や巡洋艦の ) 艦 1 隻に対する駆逐艦の割合がはる かに大きかった。 ドイツ側の数の優勢は、次の三つの原因から生じた。 (a) 我が方がハリッジに編成した軽巡洋艦及び駆逐艦の部 隊が艦隊戦闘に参加することがほぼ不可能であること。 これは艦隊戦闘が起きるとするなら、恐らく我々ではな くドイツ側が選んだ時期に起きるので、そうした状況で は集結することが困難なため。 (b) ドーバー海峡あるいはその他の場所での哨戒のために 我が駆逐艦を多数使用することが必要であること。 (c) 駆逐艦でなければ遂行できない多くの要求に対し大戦 前の数年間で我々が建造した駆逐艦の数が不十分であり、 敵が商船に対する潜水艦戦を開始した時には特にそうで あった。 1908 ー 09 年度より 1912 ー 13 年度までの我が方の建艦計画 には毎年 20 隻の駆逐艦建造が含まれていた。その後、我が方 に甚だ不足していた軽巡洋艦を揃えるために、駆逐艦の計画 数が多少削減された。国家予算が増大し続けているにも係わ らず、海軍本部の要求を全て満足する費用は決して得られな かった。海軍予算が年々増大している時には要求事項のどれ 201
342 『ウォーリア』と交戦した艦は明らかに『ヴィースパーデン』 であった。第 3 巡戦戦隊が同艦と交戦したという事はあり得 ないと思えるので、敵の警戒幕の別の軽巡洋艦であった可能 性が高い。二つの戦闘はほぼ同時に起こった。午後 5 時 55 分 に第 3 巡戦戦隊は砲火を開き、第 1 巡洋戦隊の『デフェンス』 及び「ウォーリア』は午後 5 時 50 分ころに右舷砲を用いて 戦闘を開始し、午後 6 時 5 分には左舷砲で戦闘を継続した。 広範囲にわたり視界が悪い状態であっても二つの部隊が同一 の艦と交戦していたということはまずあり得ない。 こで駆逐艦『オンズロー』 (J ・ C ・トービー少佐指揮 ) の 行動に触れておこう。午後 6 時 5 分、同艦は敵の軽巡洋艦 1 隻を「ライオン』の艦首方向の位置 ( 「ライオン』へ魚雷攻撃 する好位置 ) に発見した。『オンズロー』は接近し、距離 2 , 000 から 4 , 000 ャードでこの軽巡洋艦と砲撃戦になった。そして 砲撃によってひどく損傷したものの、魚雷攻撃をするために ドイツの巡洋戦艦に接近することに成功した。複数の魚雷を 発射する前に同艦に巨弾が命中した。トービー少佐は魚雷を 全て発射せよという自分の命令が実行されたと考えていたが、 そうではないと判り、軽巡洋艦に接近して魚雷を 1 本発射し た。次いで敵の戦艦艦隊を発見すると、残りの魚雷を戦艦に 向けて発射した。その後「オンズロー』のエンジンは停止し た。しかし損傷した駆逐艦『ディフェンダー』 ( パーマー少佐 ) が午後 7 時 15 分に『オンズロー』に接近して激しい砲火の中 を曳航し、また夜間の悪天候と 2 艦とも損傷している状況に も係わらず『オンズロー』を本国水域に連れ帰り、 6 月 1 日 に同艦を曳船に引き渡した。 134