アート - みる会図書館


検索対象: メインストリーム 03
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1. メインストリーム 03

「新世界蜂起展」資料 世界は実国会へ て継しよう。、、・松 ~ ・、「世界蜂き。。、 ( 大名 作品 なって ・。よう、乢・ , 当” , ゆタ ~ 美。 不 ' " 定多数に ルョ第いイ実に。いにロ , 募集 チ要員簽から え なところ、ありいな 時代にからぞ そのまァート作品ツレという考えは→ー , , も共存・ 0 きるものだと思います。 ' 、」 . メッセージ ( 絵や文章 ) ) 展示を前提・ 0 , 、。も 00 、メー " ら一と 0 送るという行為自体アート -3 0 だ 0 ラ . れた、 - とと近似り - 1 , イ 指。正し い。かって写第によっス件在をもヒやかさ てなければ、 っーに潜るの 、 - ししこのような真摯よ回答がメられいク ) にもかかはらす それなのに、そ しかし郵便で送った小さな紙片・メッセージ ( 絵や文章 ) がそのままアート作品になるという考えは、インターネットとも共存できるものだと思います 。、うきょよう に後退する。紙片にかかれた . 文章アートに・こ、る ? それは絵はがき展やイラ , 、トとど - , 違うのか。 絵はがきて、 , カ悪いというわケはない。それらと气・い、差異がないの一 , 一般的にはハイカルチャーと位置づけられる ) をし 1- る - ま わ、ダきす■ ' 訪と言。。、る。 , す三 - まや通空史成立を背ーに生まれた メールアートは送付物制作流通・運朝けトリ 0 、邇流・作品運動 6 、・示した。 ールア -- トは流通空間の、い . をまじめて は - 展示を前提」としている。流通空間と不可分のメールアート流通から切り難し、展示空間へと 君らのメールアート 電ゕ圃作て をき直すということは何を意味するのか。展示 , ・、 , あれは回顧や記録という性格をもち、それはそれで意味のあることだろう。 【こふ・し諸君らのこの企画は、「展示」 , → , →をを。・ている可作レ ) 司日 " われ ていないが、旧作に限定 のた '-2 し ということからメ ー ~ アートの , ,. 形新作が求めこれていると仮定し話を進める。展示 間のためにメールアートを制作するということは可能なのか。先にも 40 た、、それは絵 , 、キ 0 , と何が違う 0 か、 ~ だからとい する意味は等々、今回の出展省たちにはこれらの難題を東り題えるこ 第使をとしても示・ぐ 0 ても中途半端な、出来橋ないの , み、 0 。 0 . =. 0 , 000 , -. 長わ、いてしをた 、編、、 ~ ~ : - よいとしても子れをアナログの場で展示 - 々の明銀にかなう作品がひとつでもあることを期待する ( まあ無い だろうが ) ーイい : をごいーはい。一ん ' で、いやめとう ”は , 会世界 夜空ーす一。、 匿名 ( 文・東野、制作・桜子 ) 。しかし郵便 , た气 0 な 写真という え 58

2. メインストリーム 03

【「 TRANS ARTS TOKYO 」後日談】 ( 文・桜子 ) 以上が、我々の TAT への介入の経緯である。我々は TAT に敗北した。しかし、 TAT への興味は色あせないどころかますます掻き立てられた。これまでに述べたよう に、 TAT は堅固な理屈によって成り立っているわけではない ( と、我々は考える ) 。我々 が苛立ったのは相手の理屈の内容にではなく、理屈がナイということーーー少なくとも、 破綻なく明確には打ち出されてはいない、ということだった。それなのに、 TAT は大 勢の「アーティスト」を巻き込み、企画を立て、場所を押さえ、予算を引っ張ってく る力を持っている。理論によらない力はどこからくるのか。我々は TAT に関連する 団体や人物の相関図の作成 ( 1 ) を試み、見えてくるものがないかと考えた。人間同十 や団体同士の網の目のような相関関係それ自体が、有機的で理解しがたい、この網か ら逃れられない、ねっとりとした何らかの強い力を持つように感じられた。 ( 1 ) 参考資料ー我々のアジトの備品のホワイトボードに書いて日々眺めていた相関図。 簡単に説明しよう。 TAT の元締・中村政人氏は「コマンド N 」という一般社団法人 非営利芸術活動団体の代表である。「コマンド N 」は TAT の事務局である。「コマンド N 」 の別働施設として、千代田区・神田の多目的建造物「 3331 」がある。神田には他に も中村氏の関係するギャラリーやカフェがあり、これらの運営は「コマンド N 」から 派生した合同会社「コマンド A 」が行なう。同時に、氏は TAT の他にも大館、取手な ど全国各地にてアート・プロジェクト ( 地域アート ) を手がけている。かっ、氏は東 日本大震災復興支援に関連したアート活動「わわプロジェクト」を手がけている。また、 氏は障碍者のアートに注目した活動「ボコラート」を手がけ、アール・プリュットに ついての著書もある。一方、氏は東京芸大の教授である。 リノベーションされた廃校である「 3331 」はイベントスペースやギャラリーなど を併設し、地域アートや、障碍者や子供や外国人らマイノリティのアート活動、また それらに関するアート界のインサイダーやリべラル文化人のトークイベントなどに場 所を提供し、宣伝に協力している。千代田区からの資金援助、支援団体「くすのき会」 ( 安倍昭恵氏などが発起人。千代田区で小料理屋を営む縁か ) からの資金援助を受け ている。一般市民にも親しみやすいお洒落な雰囲気で、この居心地良い空間の背後に 複雑な相関関係や何らかの強い意志が存在することは、利用者には特には知らされな い。その意味で、「 3331 」は学生運動などの活動業界における「フロントサークル」に 似ている。 この相関図はまだまだ不完全である。しかし我々はおおよそこのように理解した 芸大で「アート」を素晴らしいものとして学んだ学生が、社会に出て路頭に迷う かてて加えて「アート」は素晴らしいとは社会は思ってくれない。そこで、 50

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編集後記 2012 年夏に『 L'art pour l'art 』を発行して以来、編集部を名乗りながら特に何の発行物も編集 していなかった我々『メインストリーム』は、本文をお読みになればお分かりいただけるように、 「アートプロジェクト」「まちおこしアート」「地域アート」と呼ばれるものに対する敵愾心、そし てとりわけ、地域アートの帝王 ( と我々が勝手に命名した ) 中村政人氏に対する興味と反発で生 き存えてきたと言っても過言ではない ( 桜子 ) / ある ( 東野 ) 。中村氏のお名前は以前から知って いたが、本腰を入れて調べたしたのは某筋から「 TAT 」にお誘いいただいた 2013 年のことである。 「 TAT 」への我々の介入の経緯は本文を参照されたい。初めて「 TAT 」の本丸である「 3331 」を視 察した我々の目前の白く巨大な「 3331 」は、「地域アート」を巡る中村氏のネットワーク、幾多 の別働団体、その規模と相まって、白鯨のように、否、巨大なシラスのように見えた。基本的な 構造は福岡で我々が出会った「まちおこしアート」の祭典と変わらないかもしれない。ただ、比 較にならない規模で展開されるのだ。 白鯨の一巨大なシラスの一怖さは、その意図がわからないところにある。我々は中村氏の意図が、 「 3331 」の存在意義がわからなかった。福岡の片隅の我々のアジトで何十時間も議論したがわか らなかった。「まちおこし」「芸大を出て路頭に迷う若者の仕事の創出」「芸大を出て路頭に迷う若 者に芸術は素晴らしいという夢の続きを見せるためのヴァーチャル空間の創出」一それらの奥に 何かがある、と我々は考えた。むしろ、あってほしかった。我々は、世の中がそんなに善い人の 善いが凡庸な理解の範疇にちんまりと収まるつまらない計画で動いているとは思いたくなかった し、そんなつまらないものに吸い上げられる若者がたくさんいるとは信じたくなかったし、そん なつまらなさに従事くらいするなら全力でコンビニでバイトするほうがまだ街が元気になるし人 が笑顔になるし自分の存在理由が確立されて目的にかなっているし、合目的性から外れたいので あれは、網戸の目など数えて報告し合ったらよろしい。 ようやくこの冬に我々が達した結論からいえば「それらの奥」は存在した。理解のきっかけは、 「 3331 」とその他幾多のネットワーク自体が「作品」である、という中村氏の言葉と、美術家・ 中ザワヒデキ氏が展開される批評である。これらの言葉は、中村氏の個展「明るい絶望」 ( 2015 年 10 月 10 日 ~ 1 1 月 23 日於 3331 ) とそれに伴うトークイベント「増え続ける地域の芸術祭 は何をもたらすか」 (2015 年 1 1 月 2 日於 3331 ) に続いて村上隆氏の個展 (2015 年 1 () 月 3 1 日 ~ 2016 年 3 月 6 日於六本木美術館 ) をハシゴしたときにわかに実感を帯びた。ついさっきのトー クで、中村氏が批判した諸々が、六本木の会場に詰まっていた - 「 3331 」そしてその他は、村上 氏への反発から生じた中村氏の個人的な「作品」である。個展の時期が村上氏と被るのもおそら く何らかの経緯があるのだろう。村上氏と中村氏の対立については、中ザワ氏が「美學校」の講座「中 ザワヒデキ文献研究」、及び『現代美術史日本篇』で指摘しておられるが、中村氏は明言していな い。しかし、極私的なことは常に語られるとは限らない。 我々ファシストは「復讐権」の復活に賛成している。我々は他人の私情に踏み込まない。我々 は中村氏の意図を掴んだ。中村氏は、我々が危惧したような「ただの善い、何も考えてない人」 ではなかった。我々は満足した。「、地域アート " という言葉が否定的に使われることにイライラ する」という、 11 月 2 日のシンポジウムでの中村氏の発言にも満足した。我々は次の課題に乗り 出す。 ( 桜子 )

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以下は桜子が「福岡アートウォーク」事務局に出した問合せメールと、それに対す 2012 / 08 / 1 9 To FUKUOKA ART WA. 山本桜子 WROTE る事務局からの真摯な返答である。 質問は以下になリます です ( 間に合わなければ来年以降応募致します ) 直前のお忙しい時期に申し訳あリません、アートウォークへの参加を考えている者 福岡アートウォーク事務局御中 例えばある参加希望者が、あるバーと提携し、 ウォークには内容審査はないのでしようか ? 工ントリーシート、振込、写真の 3 点が揃えば応募完了ということですが、アート 住民が「普通の生活」を生きるのに精一杯である地方都市でこのような話は不要で 「アート」の看板を掲げる以上、その「何か」を避けて通れない筈だと考えるからです。 寄与しない何かが出て来る筈だと「信しる」からです。 つまりは人々をなだめすかして現状を、「普通の生活」を、延命させる効果には全く それは開催スペースの経済的利潤とか、来場者の癒しとか、 なるものを突き詰めて考えてみれば、 このようなことをお伺いしますのは、御企画のコピーにあります「アートのチカラ」 何らかの同等の敵意と否定の効果を持つオブジェに差し替えさせて頂くものとしま ( 「パフォーマンスアートは出展に含めない、オブジェに限る」という問題でしたら、 しようか ? と申し述べたがり、且つ応募の形式を満たしている場合、事務局は如何なされるで の水を浴びせるパフォーマンスをもって「アート」である、 「アートマップ」を片手に「アートウォークで来店しました」と仰るお客様にグラス 応募期間が終わってからで結構です、御手隙の際に御ー考いただければ幸いです。 なかに消えてなくなリます。 それなしに「アート」を標榜し続ければ、福岡の「アート」は遠からず「生活」の あるかもしれませんが、 15

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【「福岡アートウォーク」参加 ( 未遂 ) 】 2012 ( 文・桜子 ) 「福岡アートウォーク」は、約 600 名の作家が県内や近郊の美術館、ギャラリーや 毎年 10 月に約 1 カ月の期間を通じてスタンプラリーなどを実施し客の会場巡りを促 カフェ、ショップなど約 70 の会場でそれぞれ展示やパフォーマンスを同時開催し、 クは、創作する人、空間を提供する人、それを鑑賞する人、アートを取り巻く全ての れたテーマは「アートのチカラで人に元気、街に活気」である。 すイベントで、 2015 年 9 月現在、通算 1 1 回開催されている。公式サイトに掲げら 「福岡アートウォー ノ 4 営が更に悪化するとして、実際的な基準を内面化した東野に最終的に止められた。 プ」片手に来た客に水をぶつかけるパフォーマンスを展開しようと考えたが、店の経 ジカル」の店員だった桜子は、「福岡アートウォーク」に参加申請を出し、「アー 福岡市早良区西新の片隅でニーチェを描いた看板を掲げ細々と営業していた「 bar ラ 2012 年当時、政治活動や思想、現代アートに興味のある客層をターゲットとして 化され、事務局による審査の代替になるのではないか。 売り上げに実質的に結びつく一般市民の評判という実際的な基準が参加者各自に内面 自で宣伝する。参加に際し審査があるとは書かれていない。おそらく、ハコ・作家の 舗の情報が載ったガイドブック「アートマップ」を 50 冊支給され、それを使って各 応募要項によれば、参加費 1 万円を支払えば誰でも参加できる。参加作家・参加店 トギャラリー」に比べ、具体的・実際的な目的を持っといえるだろう。 共に、一種の販促イベントとしての機能を狙っていると考えられる。「まちなかアー 店の「ハコ」としての参加を促し、作家や観客との交流が生まれることを意図すると コ」という立場に光を当てている。画廊や美術館だけではなく、一般の飲食店や商 公式サイトを見ると、「福岡アートウォーク」は、作家と観客の二項だけではなく、「ハ すれも同イベントを指す。 岡アートウォーク」という表記の他、全部カタカナ、全部ローマ字の表記もあり、い ページより < https://www.facebook.com/FukuokaArtwalk > 2015 / 09 / 1 7 閲覧 ) 。「福 ラリーやアートスペースをスタンプラリーで観てまわるイベントです。」 (facebook 覧 ) 。「毎年神のいない神無月に街をアートでいつばいにしようと、福岡県全域でギャ しています。」 ( 公式サイトより < http://fukuoka-artwalk.com/ > 2015 / 09 / 1 7 閲 人がアートのチカラを信じて福岡の街をアートでいつばいにしようと熱い思いで活動

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ところで、内戦のグローバル化、すなわち世界内戦が懸念されよう。 IOO 年前、第一次世界大戦がダダイズムを生んだ。ダダは既存の芸術の権威失墜や、アカデミ ズムに偏ったアート・シーンの破壊を謳ったのみならず、「アート」の概念そのものの解体を試み ることで、こんにちの「地域アート」の遠い祖先となりおおせた。「アート」の固有の存在理由が 見当たらない現代において「みんなを笑顔に」「街を元気に」「社会のためになる」といった、ディ ズニーランドやイオンモールやハーゲンダッツや猫動画がすでによほどうまくやっている事業に 参入し、それら大手による先行事業が救いきれない少数派の心をほっこりさせることこそが、自 らの不要性を直視できない「アーティスト」の自己欺瞞の最後の手段である。「詩は万人によって 書かれる」「ダダは認可を必要としない」「すべてがダダだ」というトリスタン・ツアラの言葉は、 そのような「現代アーティスト」のアリバイとして作用し、己の無意味性を直視すらできない自 称「現代アート」を、お遊戯会のお飾りやデパ地下スイーツやアイスクリームの中に甘んじて融 解せしめた。世界大戦の嫡子であり、 IOO 年かけて「反アート」をもはや「生活」の一部となし 界内戦が ( 中略 ) 新風を吹き込むことだろう。 イデオロギー闘争をもたらし、内戦に転化させるのみならず、内戦のグローバル化、すなわち世 このように「地域アート・トーナメント」は、膠着した日本の一そして世界のアートシーンに レ弋ー - ジョン 得たダダが次の世界内戦を生むのは、理の当然と言わねばなるまい。 93 希望に満ちた計画である。 少なくとも、中村氏の構想は国内の「アートプロジェクト」の足並みを揃えさせ、「成功度」を高めるための、 村による東京のプロジェクトへの協力が善意のもとに前提されていることの是非は、ここでは議論しない。 で目にする状況の再生産を呼ふか否か、および、東京都内の一地区ならいざ知らす、東京以外の地方市町 ような「縦の繋がり」であることの是非、および、この計画が各地域の一様化という現在あらゆるところ が「プロジェクトスクール」の事務方を務める一これらが、おおげさにいえばソ連共産党と各国共産党の のみならす、普遍的な「成功」のノウハウをビジネス界から招いた講師に学ふ。中村氏率いる「コマンド N 」 ロジェクトスクール」に参加し、それぞれの経験から得た知識を共有することにより「横の繋がり」を作る。 ラすぎる一の上に立てられたものであろう。中村政人氏の構想では、各地の「アートプロジェクト」は「プ 京文化資源区」構想は、「地域アート」に対する我々のそれと奇しくも一致した現状分析ー各地がパラバ い ) 2015 年 7 月 29 日、「アーツ千代田 33 引」で行なわれたシンポジウムにおいて中村政人氏が発表した「東

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2012 年 10 月、東京・神田から新たなアートの胎動がはしまります。 TRANSARTSTOKYO ( ト ランス・アーツ・トーキョー ) は、神田の街に「神田コミュニティアートセンター」をつくる ためのプロローグ。ジャンル・地域・世代・意識を超えてさまざまな人が集い、記憶と期待を 共有するアートプロジェクトを展開します。あらゆるものを超えて立ち上がってくるもの。 それこそが私たちの目指す「コミュニティアート」です。 なるほど。この TAT なるアートプロジェクトは「神田の街に『神田コミュニティアー トセンター』をつくるためのプロローグ」にすぎないらしい。概要・コンセプトが曖 昧模糊としすぎていることもありこの一文だけで判断するのは早計すぎるのかもしれ ない。だが、それでもこの短い文章からは「コミュニティアートセンター」なる目的 のために街や若手を利用しようとする「アーティスト」の傲慢さが滲み出ているよう 「神田コミュニティアートセンター構想とは」 だろうか。 それにしても、 TAT の目的である「神田コミュニティアートセンター」とは何なの なり得ると我々は考えた。 に感じた。それはまだ直観的なものだったが、その鼻持ちならなさだけで批判対象に 33 ます。 そこに関わる地域の人々の意識や課題をクリアにし、場所が持つ魅力をひきだし、磨いていき 東京・神田を表現のフィールドとすることで、アーティストの活動基盤を形成するとともに 2. 神田の魅力をひきだし、これからの都市の発展の可能性を探っていきます 現場でこそ育まれる新たな表現者の育成を図リます。 ジャンルや世代に拘らない新しい表現の実験場としてフィールド横断型の表現活動を推進し、 1. 新しい表現のフィールドを創造する表現者を育成します 拠点として、継続的な活動を行っていきます。 その時々の状況に臨機応変に対応しながら、人と人とが学び高めあうコミュニティアートの 地域へと浸透し、地域の価値を上げていけるよう、この地に住み、関わる様々な人々と一緒に この地に 2017 年に新たに完成予定の神田コミュニティアートセンター ( 仮 ) がよリ効果的に クリエイティビティの連鎖を時間をかけて生成していく息の長いプロジェクトになります。 本構想は、様々な創造、育成に関わる機関との連携により、参加する方々すべての中にある 新たな創造と育成の場をつくリはしめます。 この神田錦町に、この場所の意思を受け継ぎ、様々な意思と志を持った人々が改めて集い学ぶ 2012 年 10 月、東京電機大学として創立以来長い時間、育成と創造の活動の場として培われた 概要 く http:〃2012.kanda-tat.com/kcp/2016/02/21 閲覧 >

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こ " から新たな出会いとムーヴメントが生まれることを期待して、九州全域からプレ ゼンテーションの参加団体を広く募集いたします」という声は我々の心を打った。募 集要項を読み進めると、「九州を拠点に展開するアートプロジェクトのプレゼンテー ション。アートに関わるものであればジャンルは問いません」とのことである。義を 見てせざるは勇無きなり。福岡を拠点に破壊的運動を志向する我々がここに加わらな いのは、九州の文化レベルを更に低下させる、悲しむべき行為ではないか。参加に当 たっては、団体概要・応募動機・プレゼンしたい活動内容などの記入欄を設けた所定 の応募用紙、および必要な場合は A4 用紙 3 枚以内の資料の提出が求められていた。 応募書類を基に、内容とジャンル、地域などのバランスを考慮のうえ、プロジェクト メンパーにて出場者を選考するとのことであった。 NPO 法人「ドネルモ」主催のトークイベントには数回参加したことがある。温かく 優しく、知的好奇心を刺激してくれるイベントであった。「誰も、何も、自分さえ傷 つけない、ただ個人の退屈な日常をなんとか支えるつつかえ棒として使われる、人を ちょっと元気にする、仕事帰りのご褒美スイーツみたいな、そんな教養に何の意味が あるのか ! 」と叫びだしたくなるイベントであった。その方々に選考されるのだ。「九 州各地の多彩で元気な」「新たな出会いとムーヴメント」そんな、今まで「まちおこ しアート」に介入しては見てきたような、キラキラした期待に応えねばならぬ。我々 はダミー団体を用意することにした。本当に今、九州が必要としていることを会場で 言うためには、どんな手を使っても選考に残らなければならない。ます、用意したダ 一団体で選考を通り、中の人が同じであることを利用して会場で発言する。ダミ 団体としては、アート企画集団「ソレイユ」を立ち上げた ( 2 ) ( 添付資料参昭 ) ( 2 ) 資料一応募書類 ( p. 29 ) アート企画集団「ソレイユ」参照。なお、多少なりとリアリティ を増すために HP も作った。 < http://mymajestytoyama.wix.com/soleil > 31 P にスクリーンショット掲載 ート企画集団「ソレイユ」の無内容なティストの演出には、我々がこれまでいら いらしながら見てきた「まちおこしアート」「アートプロジェクト」の幾多の告知文 が役に立った。しかし、いかにダミーといえど本当に思っていないこと、やっていな いことを書いてはいない。そもそも我々は現行の「まちおこしアート」に反対するだ けであって、まちおこしアートの真の担い手であることは、望むと望まざるとにかか わらず、我々「ファシスト」の使命なのだ。応募書類の「団体概要」に述べたように、 我々は本当に「皆が見たことのない新しい ~ ものや : 状態を作りだすことで人々 を笑顔にするアートのありかたとその規模の拡大を模索して」いる。「プロジェクト名」 25

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【イルカに応答を呼びかける人間存在の実存を描いた 難解映画のラフ・イメージ】 2013 桜子 多くのファンを持ちながら長らくアート・シーンにおいて無視されてきた画家・ク リスチャン・ラッセンを論じた原田裕規『ラッセンとは何だったのか ? ー消費とア トを越えた「先」』 ( フィルムアート社、 2013 ) の発刊をきっかけに、ラッセン・そ の受容史・「アート」と「アートでないもの」の境界などについて、アート・シーン では活発な論争が行われた。桜子はシーンに加われなかった。 キャンベル・スープ缶ばかり描いた絵画がアートとされ、ペニスのついた架空の少 女ばかり描いた絵画がアウトサイダー・アートとされ、イルカばかり描いた絵画がアー トとされない、という、これらの違いはどこから来るのか。もしイルカが ( イルカ保 護団体の人間が主張するように人間と同等の知能があり ) アートを試みるならば、イ ルカ界においては、イルカばかり描いた作品こそが ( 現在人間界でラッセンに下され た「不当評価」とは逆に ) 、晴れて「アート」と見なされるのかもしれない。 ところで、人間ばかり描く人間は本人も自分を人間だと思っていることが多そうだ が、シュプレマティスムの画家・マレーヴィチのように四角形ばかり描く人間は、必 すしも自分を四角形だと思っている訳ではなさそうである。いやしかし、もし自分が 四角形でなくても、いや、ないからこそ四角形になりたいと思っているならば四角形 の絵ばかり描くかもしれないし、「何を描くか」と「描き手が何であるか」は必ずし も等価ではないのだから、イルカばかり描くからと言って本人がイルカだとは一概に 言えないだろう。しかしそれにしても不思議なことに、「ラッセンがイルカばかり描 くのはラッセンがイルカだからだ」という論はまだ誰も展開していないな、などと考 えつつイングマール・ベルイマンの『第七の封印』 ( 神を信仰しいつか神と話せると 思いつつ十字軍に参加してきた騎十に最期がせまり、ようやく神と話せないことに気 付いた騎士は自分を迎えにきた死神にチェスの勝負を挑み、北海の海辺でチェスをし ながら時間を稼いで神の応答を待つもののついに死神に負け、それでも神に語りかけ ながら死神に付き添われて稜線に消えてゆく難解映画 ) を一人でぼつんとぼんやりと 鑑賞していた桜子は、「イルカを凄く好きでいつかイルカと話せると思いつつ一生イ ルカの絵を描いてきた画家に最期がせまり、ようやくイルカと話せないことに気付い た画家は自分を迎えにきた死神にチェスの勝負を挑み、ハワイの海辺でチェスをしな がら時間を稼いでイルカの応答を待つもののついに死神に負け、それでもイルカに語 りかけながら死神に付き添われて水平線に消えてゆく、その横をイルカが飛び跳ねて る難解映画」を思い付き、そのラフ・イメージを作った ( 添付資料参昭 )

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そんなフォローは必要か ? 安全圏で罪悪感 ( = 良心の疚しさ ? ) を持ってるだけのプチ・ プルジョアなど放っておけばいいし、それでも何らかのフォローを試みるのであれば拒否 しにくい善意を押し付けるのではなく ( 2 ) 衣類や食料等、現実的な支援物資を送ったほうが いい。そしてこれは根本的な疑問なのだが、そんなことになせ「アート」の看板が必要な のか。それらは本来「セラピー」や「ボランティア」と呼ばれるべきではないか。そして それを「アート」と呼ばなければならない問題意識はどこから来ているのか。対談後半は 「アートが果たせる社会的役割」と銘打って二人の空談が展開され、社会に役立つアート活 動を称揚しているのだが、本当にどれもくだらない。 彼らの「社会の役に立たねば」というほとんど強迫観念と言ってもいいような「想い」は 一体なんなのか。 ( 2 ) 日比野はこの活動を「今一番活動しているのは、福島ですね。地元からの要望もありま すし。ハートマークビューイングの行為が一番求められているという現実があるのだと 思います」と正当化しているが、被災者や現実が許しても、我々は許さない。 我々はその理由を「アーティストのアイデンティティ間題」であると勘繰っている。つ まり、こう疑っているのだ。彼らが信じたがっているように、善なる良心と利他精神に満 ちたアーティストが、その良心ゆえに社会の役に立ちたがっているのではなく、自らが社 会から不要とされている恐怖に耐えられないアーティストが自身を社会的に必要な存在で あることを必死になって示すためにアートは社会の役に立つ、アーティストは社会に必要 である、と言い張っているにすぎないのだ ( 本当に役立ちたいと「想う」なら「アートは」 という接頭語は不要だろう ) 。 かってオルテガは「すべての現代芸術は不評である。しかしそれは例外的にそうだとか 偶然にそうなのではなく、本質的、宿命的に不評なのである」 ( 『芸術の非人間化』 ) と喝破 した。現代芸術は芸術それ自身や表現上の間題を追及してものであるから、必然的に難解 化する。「人間的な」感動や共感を得られない難解な表現は大衆的人気を博することは決し てない。それでもかっては教養ある人々やセンスエリートによる小社会が形成されていて、 その中で自足、つまりそこで制作し、受容され、批評しあっていればよかった。しかしグロー バリズムが猛威を振るう現在、その小社会は剥き出しの市場原理にさらされ崩壊している。 そしてその構成員たちが前提としていた芸術史・理論を全く知らず「センス」の無い人々 に「芸術」とは何かを説明しなければならなくなっている。難しいことを言っても聞いて もらえないので、芸術は、否、「アート」は誰にでもわかるものだし、怖がる必要は無いん ですよ、ハートの手芸をこしらえればそれはもうアートと呼んでいいんです、と。 つまり、現代アーティストは社会的に不要であるという現実を直視できず、アイデンティ ティの喪失に耐えられず、このような自己欺瞞に打って出るのだ。これこそが、これに触 れた人がバカにならすにはいられないバカ量産システムなのだ。何度でも繰り返してやる。 感傷的でいけすかないバカでアホ丸出しなのもアーティストがアイデンティティ喪失に耐 えられないからだ。 我々はアートの、アーティストの存続なんてこれつぼっちも願っていないが、もしア トが存続するのならば、自らが不必要で何の役にも立たないということに耐えねばならない。 89