いから」という言葉は使わないのかもしれません。 「フェミニズムを勉強してないから」という言葉は、勉強がてきなければモノを言っ てはいけないという、まさに学校的な規範をその語り手も、そしてフェミニズムも両方 が打ち破ることがてきてない、否、むしろそれを補強してしまっているとという問題が あります。 現代の社会ては「教育」とか「勉強」が解放てはなく、むしろ「規範」「それをくぐらな ければ話してはいけない関門」のように機能しており、フェミニズムもその罠から逃れ られていません。フェミニズムが「勉強して身につけるもの」となってしまったことは、 もしかしたらフェミニズムが世俗的な権力を得た証左、とも言えます。確かにフェミニ ズムが、何らかの歴史や思想をかいくぐっている以上、その歴史や思想を学ぶことが必 要な場合もあります。しかし、それが勉強をしてない人を「黙らせる」機能を持っとい うことには私たちは注意深くあらねばなりません。権力を持っている人に対してはいく
このフェミに対する「敷居の高さ」は一体どこから生まれてきたものなのてしよう ? フェミニズムになるには、まず勉強をしなければいけないし、かなり厳しい規範を内側 に持って生きていなければフェミニストとは、一 = ロえない、 というこの発想は一体どのよう な状況から生まれてきたのか、と私たちは思います。 まず「勉強」という言葉が持っニュアンスについて考えたいと思います。学校へ行って 勉強することが解放感を伴うという感覚を持つ人てあれば、「フェミニズムを勉強してな いて、もう少し考えてみたいと思います。 よくフェミニズムという言葉を伴った下記のような言い回しがあります。 「私は、フェミニズムを勉強してないから・ 「私はフェミニストじゃないけれど・
運動の現実にも、私の経験から触れることがてきればと考えています。 そして今回は団体名等をぼかして書いています。というのもこのようなことが決して 「単独」の、その活動固有の出来事というわけてはないからてす。フェミニストの運動 団体てあっても、運動内部の差別や覇権争いから逃れることはてきません。しかしそれ を語ることがともすればフェミニズムへの乱暴なバッシングにつながると思うと、容易 に言葉に出すことがてきません。それゆえに運動内部の問題周知がますます困難になり ます。いわゆるフェミニズムバッシングに私は加担したくありません。しかし、そのハ ッシングに真に加担しないためにこそ、問題があれば問題があると指摘する率直さを失 いたくありません。この率直さこそが、真にフェミニズムバッシングに対して抗う力に なると信じたい。だからこそ、やはりこれを読んてもらいたいのは、まずもってフェミ ニズムや、女性の権利というものに思いを寄せている人なのてす。
また、もう一つフェミニズムと言いますか、「社会運動」への問題提起をしていこうと 思います。いわばフェミニストや、社会運動をしている人が「怖い」と言われることが あります。私はまず、フェミニストにまともに出会ったこともないくせに、布いと勝手 聞く耳を持たない人についてはここては触れません。 もちろん相手の言うことをこちらが聞き続けるのは、気力、体力ともに限界 ( ツィッ ターなどて散々経験しました ) というのがあります。確かにそこには「対話」の継続の 限界があリます。そういう時はひとまず距離を置く、一息つく、話がてきるときにまた 再開するということが大事なように思います。対話とは、「休み」も込みて考えた方が、 現実的だと思います。 しかし、そのようなケースてはないフェミニズムが「怖い」と言われてしまう状況につ フェミニストは布い、について 4
らても怖い存在てあっても、 しいと思いますが、フェミニズムに対して、それほど知識や 構えを持ってない人に対してフェミニズムが怖いものとなっていたとしたら、十分にそ の有り様を考え直す必要があるのてはないかと思います。 ニ番目に、考えるべきは「完璧なフェミニスト」とは何かという話てす。「私はフェミ ニストじゃないけれど」と言った後に出てくる言葉は、めちゃくちやフェミつぼい発言 がほとんどてす。となれば、正直、フェミニストてあることにそもそも完璧なんてあり うるのか ? という問いか常にあリます。しかもそれが、他者を裁く方向に向かうとした ら、どうてしよう ? 他者を判断し、裁くことが、この社会の中のカ、しかも既存の社会 を支えるカてもあります。そもそも完璧てなければモノを言ってはいけないのだとした ら、誰もものを言えなくなります。そのような力をフェミニストてあれ、誰てあれ、持 っことは、対話をしやすい社会につながると言えるのてしようか。ここて道は別れるの かもしれません。ある意味完璧さというのはこの世の中てはカてす。「完璧」に「勉強」
自分の表層てしか他なるものと関わりを持とうとしてない、そういう自分が浮かび上が ってきてしまうのてす。 そして自分の声を押し殺して「 5 5 すべき」「 5 5 てあるべき私」というところからし か語ることがてきなければ、恐ろしいことに目の前の人に対しても、「 5 5 すべき」てあ りかつ「 5 5 てあるべき私」を押し付けて生きていくことになる。いわゆる社会運動を していて、それほど傲慢なことはありません。が、しばしばそういう傲慢さに突人して いくのが運動てあったりします。 ジャッジするというカ フェミニズムさえ、その傲慢さを持ちえます。いわば物事をジャッジする力、という のは、大切てある反面、そこが傲慢につながるという側面をももっと考えないといけな 0 ー 4
私は当時何も知りませんてした。とりわけネットワークをつなぐことに必要なことは 何かという考えが、人によって違うということを、わかっていませんてした。 「人によって違う」ことそのものは、それだけ多様性に満ちており、本来力強いことだ と思います。しかし、それを強さと思える土壌、違いを引き受ける力、そもそもその違 さて、今から 10 年近く前にあるフェミニズムにまつわるネットワークの結成大会が あリ、私はそこに参加をしました。 もともとこのネットワークはマスコミへのアピールがてきれば良いということて、集 会だけて終わらせようとしたものだったそうてす。けれどもそのような意図など知らな 10 0 人以上集まったその熱気を無駄に終わらせたくありませんてした。すて にそこに亀裂があったのかもしれませんが、「無謀」なネットワークへの立ち上げがそこ からスタートすることになったのてす。
いのてす。とはいえ厄介なのが、女性の歩まされてきた歴史てす。「女は能力がない」と か、「女は劣っている」というものと闘ってきた歴史があるからこそ、物事を「こうすべ き」と判断てきる力を高く評価してきた側面があったのてはないてしようか ? そのよう な中て「うつかり」という気持ちや心の有りようを重視することは、フェミニストにと って、後退させられるような危険を感じても当然てす。 常に物事の善悪を自分だけて判断して生きていくのは無理、と言いますかその「無理」 ルだから いわば「人 の部分を「女だから無理」というところに持っていくのてはない、 無理」というところに持って行きたいのが本当のところてす。 ( 人間Ⅱ男性ということを 突き崩す意味ても ! ) 。 女だから無理、といういわば属生の話てはなく、自分の中だけに閉じこもって「こう すべき」という判断は、それこそ自己の能力に頼り、自己責任に押しっぷされていって しまうのだという話を、フェミニズムの中てこそしていく必要があります。自己の能 ら )
2 つ目は、先ほど書いたように、 「学者」 ( マスコミや、ジャーナリスト、作家などの 人たちとの関わりもそれに相当する ) とどのように関わっていけばいいのかというロ があります。ともすれば、「ネタ」として消費ー搾取されがちな学者ー当事者の関係をどう すれば、対等な関係としてとリ吉・ ↓尓ふことがてきるのかとい、つ問題があ - リます。 3 つ目は、法律改正等、制度の問題についてどのようなスタンスて取り組んだらいい のか、という問題てす。例えば、第 3 号保険制度など、フェミニズムから見て ( 最近は、 ネオリべラリズムの人たちから見ても ) 悪法と言える法律があります。しかし、その法 律を、単純に変えようとすることは、果たして誰にとってのメリットになるのてしよう。 例えば、第 3 号保険の話て言えば、第 1 号保険 ( 学生や自営業の人が人る ) があまりに らなくなってしま、つのてはないてしようか 8