言葉が出ない 私は最近、言葉がうまく出ないと感じることがあります。このような文章を書いてい て矛盾していると思われるてしようが、女性の問題、特に運動内部てすら生じる性差別 の問題を周知させようとしても、肝心な言葉が出にくくなっているのてす。運動内部の 問題を語るのは単純に辛く、運動の「内部」の葛藤、矛盾を書こうとすると、集中力が 切れたり、ひどく眠くなったリしてしまうのてす。過去のつらかったことを見たくない とばかリに自己防衛を張ってしまうのてす。 ても私はこれを書き残しておこうと思いました。何もなかったことにするのてはなく、 完璧な分析てはなくとも、痕亦、 足引き攣れた一部の傷だけても残すことによって、運動 内部の、いわば「内輪もめ」とも呼ばれてしまう問題の構造について書きたいと思うの てす。それこそ、運動がともすれば暴力を生み出してしまってきたというという日本の
ていた歴史があリます ) 、同時に社会運動を支えてもきたというまさに矛盾した歴史をは らんています。私自身の矛盾は、そのような歴史にも接続されるものてしよう。 祈リという対話から、社会を問い直し、その問い直しから人々との対話につながって いったとい、つことを、ここて残していきたいと思い この文章を書いています。 ・もっと一 = ロ、んば・くよ、つに祈ると、 そして社会の中て宗教が担ってきた機能の一部・ うことが、社会を問うことにもつながっているのだということを伝えていきたいのてす。 社会を問うことそのものが社会に深く関わることてもあるのてすが、同時にそれは、社 会にべったり隙間なく生きていくということてはなく、社会への問いという、社会から 少し隔たった距離感も必要になると思います。その社会への深い関わりと、社会から距 離を保つことの両立が、「神」 ( 神という言葉て足リなければ、「大いなる力」とか「自分 と存在してくれる力」とか ) への祈りの原点になるのてはないか、と思えてならないの てす。
ってないだけて、もし、その運動の方が社会てメジャーになったとするならば、信頼感 を大事にしないて、進めていく組織てあるわけて、朱来を感じることはてきません。 さらにこの話からはもう一つ「既存の枠組みから解放されるにはどうしたら良いのか」 という問題提起も生じています。そもそも、既存の権力や、差別などを温存したままて 運動を進めようとするというのは非常に矛盾したものてあるというか、差別を温存した いのだったら運動をする必要はないてしよう。 その信頼感や対話を作り上げることに失敗した事例として、紹介したい話があります。 問題を認識することてしか対話は始まらない この活動の中てのコミュニケーションや対話が「うまくいかなかった事例」として数 年前にある大学て行われた、シンポジウムをめぐる私の参加の仕方を巡った「衝突」
深くに人りこんていきます。しかもそれは 、別に 10 0 万円を望む声を否定するのても ありません。あくまて、自分の願いを呻きながらも、自分の心に響いてくる声を聞き取 ること。実際に 10 0 万が必要という状況を生きると同時に、それだけてはない「何か」 を聞き取ること。疑問や門し 絶望感なども素直に語る「呻く声」を聞き取ることこそ カ社会の矛盾に気がっき、自らと社会の双方を変えていく力を得られるというのが私 の経験てす。 ちなみに私の友人は教会て祈ってる人などを見て、なぜこんなに長く祈ってるんだろ うという疑問を持ったらしいのてすが、それは願いごとをしているというより、 対話を していたからてはないかと推測します。 さらに祈リとは対話てあるという話をその友人に話したところ、友人は祈りについて「他 うめ 者を編み出す知恵」みたいなものだねと感想を話してくれました。この呻き声を聞く他 うめ うめ
とはいえ、どうしても神様、などというものが出てくるのに抵抗がある方は当然おら れると思います。あるべき社会を求めるという話に、そもそもどうして神様が必要にな ってくるのか、と疑問を抱く人も多いてしよう。それこそ飛躍てはないか、と。 わたし自身そのような疑問に妥当性を感じるからこそ隠れキリシタンのような気持ち て生きてきた部分があります。今の日本て、宗教といえば、「八百万の神」か「日本会議」 か「スピリチュアル」か・ ・それら全てが、馬鹿にするか、唾棄すべきものか、ある いは「敬して遠ざける」と言った状況があるからてす。特にフェミニストてあることと、 しいところだとも感じます。 キリスト教の、しかもカトリックにいるというのは矛盾も、 それにそもそも宗教にハマった人とみられるだけても、まともに話を聞いてもらえない という不安もありました。だからこそ、誰かに宗教について話すなと言われる前に、自 ずと宗教については語ることを「自粛」していた部分があリます。 教会は、社会的な害をなしてもきましたが ( 植民地支配と教会の支配はまさに一致し LO