深くに人りこんていきます。しかもそれは 、別に 10 0 万円を望む声を否定するのても ありません。あくまて、自分の願いを呻きながらも、自分の心に響いてくる声を聞き取 ること。実際に 10 0 万が必要という状況を生きると同時に、それだけてはない「何か」 を聞き取ること。疑問や門し 絶望感なども素直に語る「呻く声」を聞き取ることこそ カ社会の矛盾に気がっき、自らと社会の双方を変えていく力を得られるというのが私 の経験てす。 ちなみに私の友人は教会て祈ってる人などを見て、なぜこんなに長く祈ってるんだろ うという疑問を持ったらしいのてすが、それは願いごとをしているというより、 対話を していたからてはないかと推測します。 さらに祈リとは対話てあるという話をその友人に話したところ、友人は祈りについて「他 うめ 者を編み出す知恵」みたいなものだねと感想を話してくれました。この呻き声を聞く他 うめ うめ
らないといった、自己責任の反対は何か。それこそ古いコミュニティを大切にしている タイプは「相互扶助」とか、「おせつかい」と言う人もいるてしよう。しかし、私は「う つかり」やってしまうということ、コントロールてきないことが、自己亠貝任や・目分にフ オーカスを当てがちな姿勢との反対のものだと考えています。 しかもそれをなるべく間抜けに、あくまて日常の領域てあることを表現したいがため にムは「うつかリ」とか「偶然」という言葉をかなり使います。うつかりやる行為の中 て、自分の中の実は抜き差しならないものに「気がつく」。またはうつかりやったことの ・その「気づき」のところに、神がまた関 中にあった自分の気持ちに「気がつく」。 わってくるということを書きたいのてす。 なぜなら「気づく」ところにこそ、また努力てはない、本音を神に伝えていくという祈 丿が関わってくるからてす。 祈ることて「善人」になるわけてはありませんが、「正直さ」というものだけは求めら 4
いから」という言葉は使わないのかもしれません。 「フェミニズムを勉強してないから」という言葉は、勉強がてきなければモノを言っ てはいけないという、まさに学校的な規範をその語り手も、そしてフェミニズムも両方 が打ち破ることがてきてない、否、むしろそれを補強してしまっているとという問題が あります。 現代の社会ては「教育」とか「勉強」が解放てはなく、むしろ「規範」「それをくぐらな ければ話してはいけない関門」のように機能しており、フェミニズムもその罠から逃れ られていません。フェミニズムが「勉強して身につけるもの」となってしまったことは、 もしかしたらフェミニズムが世俗的な権力を得た証左、とも言えます。確かにフェミニ ズムが、何らかの歴史や思想をかいくぐっている以上、その歴史や思想を学ぶことが必 要な場合もあります。しかし、それが勉強をしてない人を「黙らせる」機能を持っとい うことには私たちは注意深くあらねばなりません。権力を持っている人に対してはいく
力だけを拠り所として生き、結果、物事をジャッジする力をそれこそ神のように崇める としたら、それは結局、自分だけを見つめて生きることに他ならず、対話といった誰か の問題意識を共有するという方向とは、少なくとも真逆となってしまうてしよう。 さらに、人によってはうつかり制度からはみ出すというよリ、うカうかと制・度に乗っ かる、という人もいるてしよう・それもまた「うつかり」のレベルなのだと自分のレベ ルを巻き直して考えることが「祈リ」なのだと思います。祈りということを「神と私」 のニ者関係て今まて語ってきましたが、そもそも祈ることそのものを教えてくれる人の 存在にも注目しないといけません。しかしその人がもし本物、というか「神」というか 「真実」に出会わせてくれる人ならば、ある一つの特徴があります。それは、絶対に私 と神とが出会うことを妨げない人てす。自分が真実てあるとして打ち出すのてはなく、 自分を神としない人というべきてしようか。 LO
がてきる人が持つような力という意味てすが、その力を持とうとするかどうか、それは 活動の方向にもまた影響してくるてしよう。 勉強をしてなくても、完璧じゃなくても話がてきる場所とは何てしよう ? そもそも、 相手がどんな立ち位置てあれ、大事な、話す言葉を持っている、と信じられるかどうか、 こそが問われるのてはないてしようか ? うめき 先ほどバウロの書簡て「言葉にならない呻きを持って」いるという霊について話をし ました。もしこの「霊」を生きているすべての人が持っていると、本気て信じるとした らどうなるてしよう ? 霊という言い方に違和感があれば、魂と言い換えてみましよう。 そのような魂を持っているとするならば、完璧だからとか、勉強をしているから、とか てはなく、そのような魂をすべての人が持っているというところに置いて、平等を考え るとしたら、私たちはもっと権力に対しては布い人になるかもしれませんし、ただロご もってしまう人に対して、もっと開けた存在になれるのては、ないてしようか。そのよ
れます。 その正直さとはそれこそ英語て言うところの、 genuineness 「誠実さ」にも深く関わ ります。神の前に立っということは、いわば他人に何を言ったかよりも、まずもって 自分に嘘をつかないということてす。泣き喚いてもいし 呪ってもいし 辰み一 = 口を語っ てもしい。ただし、本当は限んてるくせに格好をつけて「限んてない」というふうに神 に向かって語るとしたら。それは「祈り」てはない しいますか、神に対して語 ることにはならず、格好をつけた自分にフォーカスを当てた ( ないしは当てようとして いる ) 行為となるてしよう。それこそ自分の不幸に目をつむって「自分は幸せ」と言い 張りたくなる時もあります。それても「自分を騙したいくらい今はしんどい」というふ うに言葉て表現てきた方が、心が解放されるはずてす。ただ自分の気持ちを認めるのは 勇気がいることが多いのて、常に自分の気持ちを認める力を神に乞い願うことにもなる のてすが・ っ 0 4
「本当に ? 」 という声が聞こえる時があります。ないしは、過去の自分に打ちのめされそうな時に 「今はどうなの」 と聞く、かすかな声が聞こえる時があります。それは本当に静かな声なのてすが、確か な声なのてす。 その時ほど注意力がいるときはありません。 もちろんその声がすぐに聞こえてくるとは限りません。何も返ってこなくて、祈って てもうまく祈れないし、それこそ雑念というか、気が散って集中力も何もなくなる時が あります。心のうちに何も湧き上がってこない中て、沈黙していることはしんどい。て うめ も、大事なのは、それても、自分の中に呻く声を確認するかのように、祈り続けるとい うことてす。 いわば自分の本当に身も蓋もない言葉から祈らないと、それこそ、いつまてたっても 8 4
らても怖い存在てあっても、 しいと思いますが、フェミニズムに対して、それほど知識や 構えを持ってない人に対してフェミニズムが怖いものとなっていたとしたら、十分にそ の有り様を考え直す必要があるのてはないかと思います。 ニ番目に、考えるべきは「完璧なフェミニスト」とは何かという話てす。「私はフェミ ニストじゃないけれど」と言った後に出てくる言葉は、めちゃくちやフェミつぼい発言 がほとんどてす。となれば、正直、フェミニストてあることにそもそも完璧なんてあり うるのか ? という問いか常にあリます。しかもそれが、他者を裁く方向に向かうとした ら、どうてしよう ? 他者を判断し、裁くことが、この社会の中のカ、しかも既存の社会 を支えるカてもあります。そもそも完璧てなければモノを言ってはいけないのだとした ら、誰もものを言えなくなります。そのような力をフェミニストてあれ、誰てあれ、持 っことは、対話をしやすい社会につながると言えるのてしようか。ここて道は別れるの かもしれません。ある意味完璧さというのはこの世の中てはカてす。「完璧」に「勉強」
そのような時に私はこのように祈ります。本当に心の中てこのように言葉にします。 「私は、自分のような人間がいない方か、しし 、人間なのだ」 そのように、繰り返し、繰り返し、自虐のように、呪詛のように祈り続けます。まるて、 自分てここまて傷をつければ、誰もこれ以上自分を傷つけることはてきまいと、己て己 を防御するかのように。 うめ しかし、このように呻くことそのものの中て、神の視点を感じてしまう、それがとても 不思議なことなのてすが、実際にそのようなことが、すぐにてはなくとも起こるのてす。 そのように丸まった私の背中に、何かどうしても温かいものが降ってきてしまうような、 視点。それをはねのけることも可能てす。自分て自分を守ろうとしてそのような声を羽 の超えることもあります。それがしばしば数日、数ヶ月に至る時もあります。 「私はいない方かいいのだ」 と祈ってしばらくして ・ 4
とてす。だからこそ先ほど語ったように、 「神」という抽象的なものてはない、 「神様」 とてもいうような生々しい存在になってくるのてす。人に言えないことも神に話して、 いということは、それだけても妙に秘密めいた、甘い関係とても言えるかもしれません。 神は時空を超えた存在とされてますが、私たちは時空に縛られているのて、祈る場所 を必要とします。いえ、場所はどこてもいいのてすけれど、ある程度決まった場所の方 が、自分の呻き声や神に向かう気持ちがおきやすいとは思います。例えば私は窓に向け た椅子を祈る場所にしています。あるいは布団の上てあぐらをかきます。時間はいって もいいてすが、ただ 5 分祈ると決めたら、 5 分は絶対に ( 邪念が人っても ) そのまま祈 り続けています。そして、自分の正直な気持ちについて祈る際は、やはリ一人て祈って ハイズのような人に祈りのことを相談することが必要だとしても。 います。後てスー 祈る頻度は私の場合は 1 日 1 回。たいてい夜が多いのてす。 いったい、 これは何の話だと思われるかもしれませんが、つまり祈るということは、 うめ 4