彼女はもともと看護師で、神学的な素質があった。キルシュバウムは最後に脳の病気 で入院します。途端に当時手がけていたバルトの主著である『教会教義学』の制作が滞 った。『教会教義学』は事実上、バルトとキルシュバウムの共作です。にもかかわらず バルトはキルシュバウムに金を払わなかった。 橋爪しかしプロテスタントであれ、キリスト教のどの宗派であれ、人間を信頼しては ならないという原則があります。 佐藤キリスト教はアンチヒューマニズムの宗教ですからね。原罪を持つ人間を悪であ り、弱いものであると考えて、手放しには肯定しないわけです。 橋爪だとすれば、バルトがどれだけ女性問題を抱えていたとしても、人間として信頼 できない人だったとしても、問題はないのではないですか。それでバルトが確立した神 学の価値は揺らぐことはないはすです。 佐藤一応はその通りなのですが、カトリシズムでは救済のためには「信仰と行為が必 要である」と主張しています。一方のプロテスタンティズムでは「信仰のみ」の一元論 を強調します。しかし、それは、行為がどうでも、 しいからではなく、信仰があるならば 176
つまり何が言いたいかというと、キリスト教はイエス・キリストの解釈をめぐり、常 に分裂する可能性を孕んでいるのではないかということです。 佐藤まずイスラム教について少し補足します。ムハンマドの存在を巡って議論は少な からす起こっています。 イスラム教シーア派の中には、ムハンマドではなく娘婿のアリーに本来は啓示が下る はずだったと考えている人もいるので、ムハンマドとアリーのどちらを重視すべきか、 という議論があります。 この議論は、日蓮宗の信徒にとって仏教を興したブッダと日蓮宗をつくった日蓮のど ちらを基本にするかという問答に似ています。日蓮宗の大多数の人びとは、おそらく日 界 の蓮と答えるでしよう。 教 ただし、ムハンマドの解釈を巡る混乱は、イエス・キリストより格段に少ない。 ス おっしやるようにキリスト教はイエス・キリストの解釈を巡り、分岐、分裂を繰り返 キ してきました。 章 第 イエス・キリストの実証性については「近代プロテスタント神学の父」と呼ばれたプ 159
第三章■キリスト教の限界 「受肉論」です。神の子であるイエス・キリストが人間として生まれてきたことを「受 しいます。なぜ肉の形ーーー・人間の形をとらざるをえなかったのか。これは仏教の 肉ーと、 輪廻転生とも違う一回限りのできごとなんですよ。 橋爪そこがやはりキリスト教の一番の特徴だと思います。イスラム教にはもちろん、 ユダヤ教にもありません。 佐藤ユダヤ教とイスラム教だけではなく、アメリカ型のキリスト教であるユニテリア ンという宗派にも「受肉」という考え方はありませんね。 * 1 輪廻転生車輪が回転を続けるようにすべての生物が迷いの世界で何度も生まれ変わるという仏 教の考え方。 * 2 ュニテリアンプロテスタントの宗派のひとつ。三位一体論を否定し、イエス・キリストをク神 の子ではなく、偉大な先生と考える。 145
アラブ連合がそうでした。「アラブナショナリズム」が盛り上がった一九五八年にアラ プ統一を目指してエジプトとシリアがアラブ連合を作りましたが、結局はまとまらなか った。 シリアやイラクに関しては、住民たちのなかにシリア国民、イラク国民という意識を 作り出せなかった。それが今日の混乱をもたらす一因となった。 橋爪中世なら、イスラム世界の制度も仕組みも、ヨーロッパとそんなに変わらなかっ た。しかし、イスラムの法学、神学のなかに、個別の国民国家、主権国家を築くことが 正しいという論理がないのです。聖典「クルアーン」には、パウロの手紙に書かれてい るような、「国家に従うべき」にあたる文言がみつからない。 つほうキリスト教には、それがあった。 これを明確に述べたのが、トマス・ホッブズです。 ホッブズは、主権国家を、社会契約というかたちで正当化した。これは、国家は、個 人個人の契約によって成立するという考えです。神との契約でなく、世俗の契約ではあ るけれど、神聖かっ絶対だ、という論理を打ち出した。ホッブズの登場によって、キリ
てばよく、ほかの人間に責任を持っ必要はない。究極の個人主義です。 佐藤キリスト教では、原罪があるのですから、すべての人間は有罪になる可能性があ る。しかし神の裁量で無罪になる可能性もある。 橋爪そう。人間は、神がそのどちらと判断するかはわからないのです。 この最後の審判が、キリスト教社会とイスラム教社会に何をもたらすのか、あとでも っと踏み込んで議論しましよう。 ムハンマドは奇蹟を起こしたのか 生佐藤『岩波イスラーム辞典』ではイスラム教の「罪ーをこう定義しています。 の 〈規範に反する行為、悪業。法律的・道徳的な罪は一般に悪業、行為を意味するが、キ 教 神 リスト教の原罪や仏教の宿業といった宗教的な罪概念はかならずしも具体的な悪業と対 応するものではなく、むしろ存在様態に対応する。イスラームには原罪の観念はなく、 章 第 一般的に罪とは神の啓示・導き・命令に反することである。なかでも、啓示を否定し、
人が出てきます。人間の存在そのものが間違っているとする原罪があるなら、そもそも 義人はいないはずです。 佐藤とはいえ、洪水のあと、酒の飲みすぎで裸で寝ていたノアのことを、息子ハムは 他の兄弟に告げ口をした。そしてハムの子力ナンが呪われてしまいます。義人だとして も、そういう行動を取るんです。人間に原罪があるからではないですか。 橋爪その行為は罪かもしれませんが、それは原罪と関係ない、 と私は田 5 、つ。 すべての人が、なんらかの行ないをする以前に、存在しているだけで神に責任を追及 されるという考え方は、キリスト教以外では希薄だと思います。 ユダヤ教がそうだし、ましてイスラム教にはありません。 生佐藤イスラム教については、私も同感です。 誕 の橋爪「原罪」があるキリスト教とないイスラム教では、死後、神に裁かれる「最後の 一審判」にその違いがはっきりあらわれている。 章 第 * 義人英語で righteousperson0 神からみて、非難すべき点がなく、義 ( ただ ) しい人のこと。
たとえば、聖書学にも組織神学にも、教授とほばマンツーマンの厳しいクラスとレポ ート提出だけで単位をもらえる易しいクラスの二つのコースが用意されていました。私 は厳しいコースを選んだので、語学も含めて徹底的に鍛えられましたね。 橋爪アメリカの高等学校にもそれぞれの学科にオナード ( 上級 ) とレギュラー ( 一 般 ) の二つのコースが用意されています。学力のある高校生なら、近くの大学の授業を 乂けることもできる。 日本の義務教育とは違って、アメリカでは教育は、一人ひとりに合わせて与えるべき ものと考えられています。そして各人の潜在能力を、最大限に伸ばしていくという原則 が守られている。逆にできない子は本当に勉強をしないし、スポーツしかしない学生も いれば、やさぐれているヤツもいる。でもそれはその子たちの選択だし、向き不向きが あるからそれでいいと考える。 佐藤キリスト教的な個人主義ですね。神学部では牧師を養成するわけですが、これに は向き不向きがあります。成績がよければ牧師になれるというわけではありません。宗 教的な資質が求められる。 250
指摘していたように、キリスト教についての知識がないと国家主権も民主主義も理解で きない。 逆に一神教を信じる国の人たちにとって、外交やビジネスなどの交渉の相手となる日 本人の行動や考えが理解できないことがときどきあります。 二〇一五年五月二一日に安倍首相が、都内のホテルでロシアの国家院 ( 下院 ) 議長の ナルイシキンと会いました。ウクライナ問題で重要な役割を果たした人物で、日本以外 のが入国禁止にしたお尋ね者です。 橋爪日本に入国させただけで、大問題ではありませんかー 佐藤もちろんアメリカは入国させただけでも面白くありません。にもかかわらす首相 本が会ったわけです。アメリカは怒り心頭です。 日 る 橋爪止める人は、、 しなかったのですか ? す 立 孤 章 序 * 『ふしぎなキリスト教』橋爪大三郎、社会学者・大澤真幸の両氏による共著。キリスト教の起源か ら近代社会への影響までを対談形式で追った入門書。講談社現代新書から二〇一一年刊行。
らから使わせてもらわなければならない。そして教会は、農民から教会税をとる。 佐藤領主に対して、そして教会に対しての二重課税でしわ寄せが来るのは、身分制度 が下の人たちです。しかも王様や貴族には特権がある。彼らと結託した商人は、商工業 を独占できるお墨付きである特許状をもらい、不当に高く物を売ったり、権益を独り占 めにしたりする状況だった。 橋爪そこで不当に虐げられているのは、おっしやるように、真面目な勤労者たちだっ た。彼らは自分が真面目に働いているのに、身分制度のせいでキリスト教の教え、隣人 愛が実践できないと感じる。そして彼らは、教会と封建制度を問題にし始める。 佐藤封建的な身分制度の崩壊が始まった。同時に、貨幣経済と賃労働の萌芽が徐々に 義 本ですが見えてきます。 資 と 教 一市場経済が成り立っ条件 章 第橋爪貨幣経済と所有権の絶対は、市場経済の成立には不可欠です。価格統制などの封 223
ただし労働は罰なので、労働しないほうが偉いことになる。罪深い人間だけが働けば よいという、身分制につながる。そして、田畑で額に汗して働く農奴が社会の最底辺と なり、政治や軍事に携わり、労働をしない人びとがセレプの地位を確保し、共同体のあ いだを行き来し、モノを動かしてお金を儲ける商人はその中間、こういうヒエラルキー かうまれた。 佐藤このヒエラルキーは一五〇〇年も続きました。 橋爪キリスト教のこの伝統を考えてみると、正当な所有権の源泉は労働であるという 、。目当変わった考え方だと言えます。 アイディアは出てきそ、つもなし本、 , これはどこから出てきた考えなんでしようか ? 佐藤 : : : 難しいですね。ただ、労働価値説は、労働量を数値化しなければ出てこない 考え方です。そして労働の数値として計るには、貨幣経済と賃労働が成立していなけれ ばなりません。 橋爪順を追って考えると、こうではないか。 当時は、身分制度のトップの王や貴族が莫大な土地を所有していた。農民は土地を彼 222