橋爪トルキスタンの人びとは、キリスト教的な制度や近代化に対する対抗軸として、 ワッハープ派を受け入れたと考えていいのでしようか。自分たちの反発を適切に表現で きるのがイスラム原理主義的な宗派である、と。 佐藤その通りです。彼らはシャリーアによって統治される領域を広げていきたいと考 えています。いずれは、全世界的な規模で広がっていくという信念を持っている。 ープ派とは関係なく、トルキスタンという地域をもとにして国家を形成す 橋爪ワッハ る選択も考えられます。でも、そういう運動は起こらないわけですか ? ィリいた国境線の影響が大きすぎて、トルキスタンと 佐藤起こりませんね。ソ連時弋にー いう広い範囲で国家を作るという発想が出てこない。国家という概念を飛び越えて、ス ービというアイデンティティが前面に出ている。 ンナ派ムスリム、しかもワッハ 橋爪たとえば、タジキスタンという国がある。もともとはトルキスタンの一部だった わけだからトルキスタン独立運動があってもいいわけだけど、現実性を持たなくなった。 ープ派を自らのアイデンティティとし だから、上位概念のイスラム教、あるいはワッハ たわけですね。 106
しかし一九二〇年代から三〇年代、中央アジアを傘下におさめたソビエト連邦のレー ニンがトルキスタンに「民族境界線画定」と呼ばれる国境線を恣意的に引きます。トル クメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、タジキスタンとい、つふ、つに 国名に各民族の名前を冠してはいますが、国境線は民族分布と必ずしも合っていません。 たとえば、現在のキルギス人は一九二〇年代までカラキルギス人と呼ばれていました。 彼らに対して「おまえたちの名前はキルギス人だーとした。そしていままでキルギス人 と呼ばれていた人たちに「おまえたちは、カザフ人だ」と強制的に決めた。つまりこの 時期、ソ連によって人工的な国家と民族がつくられたわけです。 そして旧トルキスタンでは、ロシアにより無宗教教育を受け、それぞれの国で言語も 定められます。ソ連が支配する前のトルキスタンではベルシャ系の一一一口語とトルコ系の言 か使われていましたが、 各地域それぞれに文法のルールである「文法規則」と記述ル ールである「正書法」を定めた。 それで七〇年教育した結果、かっては同じ文化を持っ共同体に属していたのに、一一一口語 が通じなくなってしまったわけです。 102
をタジク人であると申告したそうですが、わすか二〇年後の一九三〇年代初頭にはタジ ク人と申告した人は約一割ほどに減ってしまった。 ちなみにいまのウズベキスタンの大統領は、イスラム・カリモフ。彼は母国語である ウズベク語を、家庭教師をつけてマスターしました。彼はタジク系の出身でロシア学校 に通っていたから、タジク語とロシア語しか話せなかった。ウズベク語は外国語と同じ いまも逃れられません。 なんです。ソ連の政策の影響から、 橋爪かってトルキスタンを含めたイスラム世界は、なだらかな民族性や文化的共通性 を持っていた。さらにその民族や地域、社会を、もっと大きなイスラム的な文化や慣習 教が覆っていた。しかしソ連の支配によって、ヨーロッパ的なやり方とはまた違った近代 ム ラ 化の道を歩まざるをえなかった、ということですね。 ス イ佐藤そうなんです。ソ連が崩壊して独立したあと、キリスト教的なものに支配された 迷反動で部族的、地縁的な共同体意識が復活し、無宗教教育に対する反発でイスラム教信 仰に回帰していきました。こうしてトルキスタンにスンナ派のワッハープ派ーーロシア 章 ービが急速に広まりました。 明で一一口、つワッハ 第 105
ロシア連邦と中央アジア サンクトペールプルク 回モスクワ 旧ソ連国境線 ロシア連邦 べラル ウクライナ ・、レドバ カザフスタン キルギズ中国 ウズベ 籌トルクメニ アゼルバイジャン ジョージア トルコ、アルメニアイ ン 複合アイデンティティとは何か ジ タ 佐藤ソ連の支配はトルキスタンにさまざ まな弊害をもたらしました。 たとえば、ソ連は肥沃な穀倉地帯である フェルガナ盆地をタジキスタン、ウズベキ スタン、キルギスの三つに分けた。またタ ジク人の中心都市だったサマルカンドをウ ズベキスタンに組み込んだ。水資源を互い に争わせ、民族のアイデンティティを奪う ために複雑な国境線を引いたわけです。 ソ連の国勢調査によると一九一〇年代に サマルカンドの七割から八割の住民が自分 104
第ニ章ヨ迷えるイスラム教 橋爪一一一一口葉も通じなくなってしまったんですね : イスラム教の国のなかでも、イランはベルシャ帝国、トルコはオスマン帝国という独 自の歴史を持っている。一一「ロ語もアラビア語ではない。そんな背景があれば、結東してナ ショナリズムを作り上げることができる。実際、イランもトルコも独立して国家を作る ことに成功したけれど、トルキスタンは、イランやトルコと同じような国家形成をする のは難しそうですね。 ベルシャ帝国古代、イランを中心にした地域に成立した王朝。紀元前三三〇年に滅亡した。 * 2 オスマン帝国一二九九年から一九二二年まで続いたイスラム王朝。一七世紀には東西はアゼル バイジャンからモロッコ、南北はイエメンからチェコスロパキアにいたるまで広大な地域を支配した。 103
ヨーロッパは、ごちやごちゃと混乱した時期もあったけれど、時間をかけて文化的共 通性、民族性をつくり出して、ドイツ、フランス、イタリア : : : というそれぞれの主権 国家に変化していった。それは自生的な変化だったから、自分のアイデンティティにつ いて、深刻な問題を抱えずにすんでいる。 けれど、イスラムの場合、主導的に主権国家をつくったわけではなかった。歴史を振 り返れば、前近代的なオスマン帝国やベルシャ帝国はあった。しかしそれが崩れ去った あと、ヨーロッパの列強によって、アラブ、ベルシャ、トルコといった広い地域に、恣 意的に線引きがなされた。 佐藤一九一六年のサイクス・ピコ協定でオスマン帝国の領土を分割したのは、イギリ 教 ム 一フ ス、フランス、ロシアでした。 ス イ橋爪そしてトルキスタンを線引きしたのは、ソ連だった、と。 え 迷 章 第 * サイクス・ピコ協定第一次世界大戦中の一九一六年五月、イギリス、フランス、ロシアが結んだ秘 密協定。三国でオスマン帝国の領土を分割した。 107
かしそもそも、「独立」という考え方そのものがキリスト教的なのです。それでも独立 して新たな国を築いた。すると、政府や議会を作らねばならず、軍隊やさまざまな組織 や、新たな法律も必要になる。すべて、伝統的なイスラム世界のやり方ではない そして一九四八年、ユダヤ人たちがイスラエルの独立を宣言した。アメリカを後ろ盾 にするイスラエルと、周辺のアラブ諸国の戦争が始まる : イスラム世界の人びとは、強い違和感を抱くはずです。外部のキリスト教の勢力によ って、自分たちの世界が侵蝕、汚染されている。そういう感覚を持つに違いありません。 佐藤ムスリムたちは、実際にその感覚を持っています。私がそう断言できるのは、外 交官時代に中央アジアを見たからです。 教 ム ラ ソビエト連邦が成立する一九二二年まで中央アジアは、トルコ系の人たちが住む土地 ス イ という意味の「トルキスタン」と呼ばれて、国家はありませんでした。当然、近代的な る 迷民族意識はなかった。遊牧民なら血縁による部族意識、農耕民は定住するオアシスを中 心とする地縁意識を持っていた。両者に共通するのはスンナ派のムスリムという宗教意 章 第識です。 101
5 7 0 年頃 6 2 2 年 632 年 634 年 644 年 65 1 年頃 656 年 66 1 年 7 5 0 年 2 0 1 3 年 2003 年 2001 年 1990 年 1980 年 1 9 7 9 年 1969 年 1 9 6 2 年 1958 年 ~ 1948 年 1 9 4 5 年 , 1938 年 1 9 2 5 年 1 9 1 6 年 1 9 1 4 年 ー 1912 年 ー 1906 年 1 8 7 7 年 1 8 6 7 年 1 8 5 8 年 1 7 9 8 年 1745 年 1 5 2 6 年 1 4 5 3 年 1 2 9 9 年 イスラム教関係年表 ムハンマド誕生 ムハンマドと信徒一行がメッカからメディナに移住 イスラム暦紀元元年 ムハンマド死去。初代カリフにアプー・パクルが就任 ムガル帝国滅亡、イギリスがインドを統治 ナポレオン ( フランス軍 ) がエジプト占領 アラピア半島にワッハープ王国建国 ムガル帝国が建国 東ローマ帝国滅亡 オスマン朝がコンスタンティノープル ( イスタンプール ) を征服、 オスマン朝が起こる ウマイヤ朝滅亡、アッパース朝成立 ウマイヤ朝成立 アリー暗殺。後継を巡る対立が発生。スンナ派とシーア派に分裂 ウスマーン暗殺。四代目カリフにアリーが就く クルアーン成立 ウマル暗殺。三代目カリフにウスマーンが就く 二代目カリフにウマルが就く 「イスラム国」誕生 イラク戦争勃発 アルカイダの司令官ビンラディンが主導した「 9.11 テロ」勃発 イラク軍がクウェートに侵攻し、湾岸戦争勃発 イラン・イラク戦争勃発 イラン革命で王制が廃され、イラン・イスラム共和国成立 リビアでカダフィらのクーデターで王制打倒 イランで近代化を提唱する「白色革命」が起こる イラクで王制廃止 イスラエル独立宣言。第一次中東戦争 第二次世界大戦終結。アラブ連盟成立 日本に大日本回教協会設立 イランにパーレビ朝成立 オスマン朝の領上を分割する秘密協定「サイクス・ピコ協定」締結 オスマン朝が第一次世界大戦に参戦 第一次パルカン戦争勃発 イランで立憲革命 オスマン朝とロシアが戦争 ロシアが中央アジアに進出。トルキスタン省を作る