第三章■キリスト教の限界 ハンとブドウ酒を分かち合う聖餐が生まれた。 佐藤その通りです。イエス・キリストがいない現状で、彼の存在を何によって想起す るのか。聖餐はイエス・キリストを思い描く役割を担っているのです。キリスト教徒に とって、聖餐が行なわれる場に特別な力が働くと考えます。それが聖霊のカです。 橋爪キリスト教には、神とイエス・キリストと聖霊がいる。この三位一体神論は、キ リスト教徒にとっては当たり前のことですが、そこが日本人にはわからない。だから、 なぜパンとブドウ酒を授かる聖餐が、特別な意味を持つのかもわからない。 佐藤ですから、我々人間が息を吸ったり吐いたりするのと同じぐらい、キリスト教徒 にとっては聖霊の働きは自明なんです。 橋爪しかし聖霊のカの働きは、キリスト教徒以外の人にとってわからないですね。 多くの人は次のような疑問を持つのではないでしようか。 キリスト教では、旧約聖書を福音書を通して読み、さらに福音書は、パウロの手紙を 通して読む。しかし、パウロの手紙を書いたパウロは、人間です。 なせ人間の手紙を通して、キリストの言葉を述べる福音書を解釈できるのか、と。 157
佐藤教会内で、イエスのリアリテイだけは守られていたというわけですね。 橋爪そうです。しかしここでも同じ問題に行き当たります。 ビジネスをしたり、戦争をやったり、あこぎなことをやったり、正しいことをしたり イスラムならシャリーアがあるから、善悪の基準が明確です。しかし教会はその 役割を果たしてくれなかった。 キリスト教徒は、聖書を手がかりにするしかなかった。 聖書を手に取り、次に福音書のページを捲り、善悪の基準、自分の行ないを判断した。 福音書にはこう書いてあります。「主を愛せ」。そして「隣人を愛せ」。 これはイエスの教えですが、実は旧約聖書からの引用です。汝の隣人を汝自身を愛す るように愛しなさい、なのだから、人間は自分を愛していいんです。けれども、自分と 同じように、隣人も愛しなさい 206
はよく知られています。 『マタイ福音書』でイエスは「神のものは神に、カエサルのものはカエサルに、返しな さい」と語ったとされています。 カエサルとはローマ帝国の統治者です。「ローマ帝国に税金を納めるべきか否かーと 質問されたイエスは、コインに描かれている人物は誰か、カエサルであると述べ、右の ように答えたと、福音書に書いてあります。この言葉は実は、いろいろに解釈できるの ですが、ふつうは、政教分離の原則をのべたものだと理解されている。 これとパウロの教えを根拠に、キリスト教徒は、ローマの税金を払うし、ローマの法 律にも従った。教会は、ローマ皇帝の統治権を承認し、政治に関与しませんでした。関 教 ラ与したくても、初期のキリスト教会は、弱小な少数者のグループだったのです。 ス イ しかしやがて、キリスト教の信徒が増え、勢力が大きくなると、ローマ帝国の側にも る 迷利用価値が出てきた。ローマ帝国は混乱が深まっていた。そこで、社会秩序の維持にカ 章 第 * カエサルガイウス・ユリウス・カエサル。古代ローマの将軍、政治家。英語名はシーザ 1
これは「神も信じています、隣人も愛しています」という金持ちの青年に「財産をす べて寄付して私についてきなさい」とイエスが一一一口うと彼は悲しそうな顔をして帰ってい った。そのときのイエスの言葉です。 橋爪金持ちは、神よりも財産を大切にしているという譬えですね。財産を持っことは 信仰の立場から見ると、大きな問題だったわけです。 佐藤『マタイ福音書』には〈あなたがたは、神と富とに仕えることはできない〉 ( 六章 二四節 ) とありますからね。 橋爪同じ『マタイ福音書』では〈富は、天に積みなさい〉 ( 六章二〇節 ) とある。天 に宝を蓄えれば、錆もっかないし、泥棒に盗まれることもない、と教えています。 義 主 本 実際に蓄財をしていると教会がやってきて〈富は、天に積みなさい〉という言葉を根 資 と拠に「おまえはそういう態度で金をため込んでいるのか。それはよくない」と寄付を迫 神 る。こうして個人の経済余剰は教会が全部巻き上げていく。 佐藤そしてその金が大理石の立派な教会に形を変える。 章 第橋爪そうです。生産設備ではない教会の建物は、完全な消費 ( 浪費 ) にあたる。 215
神の子みだとする考え方を確立したのもパウロです。 橋爪イエス・キリストは、ク ハウロは小アジア、いまのトルコ南部で生まれたユダヤ教徒で、熱心なパリサイ派で した。へプライ語もギリシャ語も堪能で、ローマの市民権も持っていた。最初はキリス ト教を迫害していましたが、復活したイエスと「会い」、キリスト教徒として活動をは じめます。いわゆる、パウロの「回心」です。新約聖書にはパウロが書いた『ローマの 信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙』などが収められています。 佐藤ただしパウロはキリストの直弟子ではありません。彼は復活したイエスと出会っ てはいますが、生きているイエスとは会ったことがないからです。そんなパウロがイエ スの教えのあり方を根本的に変えました。 新約聖書の『マルコ福音書』を読むと一六章九節から二〇節までイエスの復活につい てカギ括弧付きで記述されています。 〈イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現され た。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である〉と。 当初『マルコ福音書』には復活の記述がなかった。つまり復活したイエスが人々の前
神の「視えざる手」とは何か 橋爪資本主義が生まれた経緯が、以上のように整理できたとしても、それが今日のウ オール街の、強欲資本主義につながるには、まだいくつもステップがあると思います。 順番に考えてみたい。 福音書に、『貢の銭』というエピソードがあります。 神殿税を払うように言われたのに、イエスの一行には持ち合わせがなかった。すると イエスが、弟子のペテロに、そこの池で魚を釣りなさい、ロの中をみると硬貨が入って 義 主 本 いるから、それを払いなさい、と命じる。言われたとおりに釣ってみると、ほんとうに 資 と硬貨が入っていた。それで払った、と。 神 神は硬貨の一枚、一枚について、どこにあるか、ご存じなのです。 それなら、誰のポケットこ ( 硬貨が何枚あるかも残らすわかっている。ビジネスをした 章 第ら、誰がどれだけ儲けるかもわかっている。 229
、、、、ヾレトは洗礼をサクラメント ここから考えていかなければならない問題なのです力ノノ ではないと否定してしまうんです。キリストの血肉であるパンを食べ、ブドウ酒を飲ん だ者だけが救われる、と。 橋爪なぜバルトは、聖餐のみがサクラメントであると考えたのでしようか ? 佐藤バルトは晩年にそれまでと考え方を変え、洗礼という制度と結びついた形でのキ わざ リスト教を否定すると主張しています。つまり洗礼も人間が行なう業だというわけです。 橋爪聖餐については福音書に、イエスがパンとブドウ酒を弟子たちに与えたと書いて あります。洗礼については、イエスが受けた記述はあるけれど、イエスが授けたという 記述はない。 界 の佐藤確かにその通りです。バルトは洗礼という行為自体は否定していません。カトリ 教 ックの七つのサクラメントのうちの結婚を比較するとわかりやすいかもしれません。 ス キ 章 第 * サクラメントキリスト教で、神の恩恵を信徒に授ける儀式のこと。宗派によって違うが、洗礼やパ ンとブドウ酒を取る聖餐など。 155
隣人愛では自分と隣人の生命を保証されましたが、自然法では他者の自由や財産など も侵害してはいけません。また、経済の根本である個人の所有権も認めています。 橋爪おっしやるように経済の根本は、所有権の絶対。あと、契約の絶対、利潤の追求 の正当化です。 神学的には、個人の所有権を神がどのように正当化すると考えているのですか ? 佐藤とくに決まった答えはありませんね。ただ、考えてみて出てくるのは新約聖書の 『使徒言行録』の次の文脈です。 〈信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの の必要に応じて、皆がそれを分け合った〉 ( 二章四四、四五節 ) 信徒たちはすべての物を共有したということは、前提として信徒個人にも所有物があ ったわけです。つまり当時も私有財産があったと読むことができます。 ただし、それを貯蓄することは、推奨されていなかった。 『マルコ福音書』には〈金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ 易しい〉 ( 一〇章二五節 ) というイエスの一一一口葉が載っています。 214
できない。 佐藤実際にそのシステムを突き詰めたのが、二〇世紀はじめにドイツで起きた国家と 教会を結合させる「ドイツ・キリスト者」運動です。 まず反ユダヤ主義を表明して、聖書のなかから、旧約聖書や『パウロの手紙』などの ユダヤ教に連なる文献をすべて排除した。その後『福音書』『使徒一言行録』を中心とし た新しい聖書を編纂しました。 その結果、キリスト教とナチスが結びついた。アドルフ・ヒトラーを現実的な救い主 にするロジックを組み立て、ナチスの共鳴者だった神学者ミュラーを監督とした帝国教 会を創設し、第三帝国の国教としました。 橋爪帝国教会はルタ 1 派などと、どういった関係にあったのですか ? 佐藤「ドイツ・キリスト者ー運動を起こしたのは、主にドイツ・ルター派の人びとで す。ヒトラーはルターを尊敬していましたから。帝国教会ができてからはドイツ国内の ほとんどの教会が傘下に入りました。 橋爪日本で一言えば、大政翼賛会にすべての団体が合流する流れの中で成立した日本基 162
っても誇りです。この感覚は、先ほどのカトリックの消費感覚と違っている。 つまりプロテスタントでは、経済活動から富をえた場合、「法律に従っているー「納税 している」に加え、「正当に獲得したーことの証明が必要だということです。 正当に獲得するには何をしなければならないか ますは自らが働く。他者と契約して所有権を譲り受ける。自分が所有する原材料や上 地をもとに商品を製造したり、付加価値をつけて販売するなど。正当な労働が必要です。 佐藤正当な労働という感覚はいつごろから生まれたと考えますか ? 橋爪正当な労働は、労働価値説という表現をとり、一七世紀から一八世紀にかけてョ ーロッパ世界に広まって定着した。労働価値説とは、商品の価値はその生産で働いた量 によって決まるという説です。これは、世俗化したキリスト教の信念のひとつです。 佐藤しかし労働が正当な所有権をえるための行為という考えは、もともとのキリスト 教にはなかった。それは『マタイ福音書』にある「ブドウ園の労働者」のたとえ話から も明らかです。 天国のあるブドウ園の主人が、早朝に一デナリを支払うと約東して労働者を雇った。 220