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検索対象: ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号
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1. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

う。ならば、その時は次の一言葉を思い出せばよい我々は天使を目来る日々のために、我々は思い改めなければならない 指すであろう者である、と。神という遥か彼方の標識は、我々の目起点は若者たちだ。一一十世紀を過ぎてようやく、自由の虚構を脱 では見ることは適わない。一一千年前に一度、イエス・キリストがやっし、しかしながら次なる道を、回帰すべき実存認識への最初の一歩 てきたというのはキリスト教徒の合一一一一口葉であり、それを信ずることを見定められないでいる彼らが、トビアスの日々への起点となる ができない者はごまんといるだろう。そんな人々には、そんな人々彼らには聖書など不要だ素朴な疑問と素朴な信仰だけがあれば、 にこそ、天使を信じてもらいたい。天使といってもキリスト教的天着火点としては十分である。小さな灯を燃え上がらせるのが聖書と 使には限らない。天使はあらゆる世界に翼を広げる。天使とは、遥聖なる人々の役目だ。思うに、それは我々の世代の仕事ではない か彼方の標識と我々の間に突き刺さっている道標である。この道標我々は、ともかく着火をすべきなのだ。 ですら見出す者は稀である。しかしながら、見出し得る、と我々の我々は人間である。我々は神ではない。我々は天使を目指すであろ 先祖は語る。「暗黒の中世」において、神を観たものは少なかったが、う者である 天使を観たものはごまんといた。このような証一言は、現代においてこれが、来る日々への最初の合一一一一口葉となるだろう は、とりわけ科学合理主義においてはナンセンスな妄言に過ぎない だろう。ナンセンスで良い。このナンセンスは、科学合理主義は決 して与えてくれない一つの認識を、宗教的実存の認識を我々にもた らしてくれるのだから。すなわち、我々は人間であり、遥か彼方を 目指す旅人であり、我々には終着点を知る旅の輩が付いている、と いう宗教的真実を トビアスの日々はどこへ行ったのか、とリルケは問う。おそら く、トビアスの日々は失われてしまったか、過ぎ去りし日々の記憶 となってしまった。今はもう、記憶の断片だけが残されているに過 ぎない。私も問う。トビアスの日々は二度とやってこないのか、と 私は密かに確信する。ラファエルはまたやってくる、と。我々が人 間であること、神ではないこと、神を目指す旅人として天使という 輩を必要としていることを思い出したとき、ラファエルはまたこの 世界にやってきて、次なるトビアスの輩となるのだ。

2. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

何物にも成れない或いは成ろうとしない若者達 学生時代、何か楽しい事がしたいと常々それらが「楽しい事」では無しからだ。 ' ( 私。彼らにとって楽しい事とは何か 口にしている人に対し、私は「共に映画をと共に、という事ではなく映画を撮るといそれはスポーツであリ、旅行であり、ゲー 撮ろう」「共にパフォーマンスを行おう」「同う行為そのもの。そこまでの人徳の無き , , ムであリ、飲み会である。自らの才能を発 人誌を作ろう」と声をかけていたが、誰しではないと信じた、 ) 揮すべく文化的創作活動を行うのではなく、 もに無視されていた。 私は、文系の謂文化的な学生達が発す文化系であろうが体育会系であろうが、同 一重に私の人徳の無さが、無視という態る「何か楽しい したい」という言葉は、じような娯楽を希求し、群れて楽しむのだ。 度を取らせるに至ったのがかもしれないが、何か創作的活動行いたいという旨の発言そこにおいて全ては没個性である その解釈はあまリに悲しすぎるし、発展性だと勘違いしていたのだ。 彼らは創作などしたくないのだ。自らの が無いので無視させて頂く そもそも何か創作的活動を行うのであれ才能を矮小なものと思い込み、卑屈になっ では何故、人々は私と共に映画を撮り 、パば、それこそ「映画を撮りたい」といったている訳ではない。確かに、何か創作活動 フォーマンスを行うのを嫌がったのか長々具体性の有る発言をするに違いないし、友を行ったところで、自分より才能のあるも と講釈を垂れるまでもなく、彼らにとって人か同志かに声を掛けるだろう の或いは本気で打ち込んでいる人々と、同

3. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

じ質の物を作り出すことが出来ないとの思る者も多いだろうが、では何故「共に映画は、何者にもなろうとしない人間になるだ い込みがある事には違いない。しかし、そを撮ろう」という = = ロ葉を無視するのか ろう。夢破れ、挫折を経て没個性へ迎合す のことは悩みですらない。悩みで無いが故何物にもなろうとしない恐るべき存在るのだ。では、何者でもない人間となった に、行う必要もない。 つまり彼らにとっ彼らはファンであることにアイディンティ彼等は幸せか、欲を持たなけれは辛い目に て文化的創造とは娯楽ではなく、行う必要ティーを感じ、ただ消費しながら生きてい合わないと知り、実際に欲を捨てた彼等は すら感じられないものなのである く本質的には非文化系の人間と何も変わ初めから何者にもなろうとしない若者た 自らの才能を探求し、承認欲求を満たすらず、新しい朽分間を求め続ける。そして、ちは、大きな挫折も深い絶望も知ることな べく藻掻き、結局は没個性の海で溺死するつまるところ流行の産物であるそれすらもく幸せである何者かになれた者達は、た 何者にもなれない者達がいる一方、没個性やがて飽き、時の流れに身を任せ没個性のとえその実状が思い描いたものと異なって の海に心地良く浮かぶ何者にもなろうとし海を漂うのだろう いたとしても、何者にもなれない若者達か ない若者達は大勢いる 私はその存在の軽さを耐えることは出来らすれば幸福であると一一 = 0 える。何者にもな ウオホールは「やがて、誰もが朽分間、有ないが、彼らは存在の軽さを感じることはれず、何者かになることを諦めた人々そ 名人になれる時代が来るだろう」と言った。無い承認欲求は友人たちと共に娯楽に耽こには計リ知れない閭がある。閉ざされた 一億総クリエイター時代と言われて久しく、ることで満たされ、自己存在は消費によっ輝かしい未来と、無為となった過去に苦し 2 ちゃんねる、 YouTube 、ニコニコ動画他、て肯定され、創造的意欲は存在しない。何められ、暗澹とした人生を歩むのだ。 ネットでの自己表現を容易に行える時代を者になれない若者たちが、才能を否定されだがしかし、この社会は一一うほどには諦 生きてきた我々も、予期された時代を確かな絶望の中で社会を迎合することもできず死念の絶望感を感じない。その理由がこの本 物として自覚しており、ネット上に膨大なんでいく中で、何者にもなろうとしない事の中にあるだろうと信じている。諦念の開 数のクリエイターが「朽分間の有名人 , とは幸せな生き方と一言えるかもしれない。 き直りか、成熟による自我の超克か混沌 なっては消えて行っている なんと嘆かわしい事であろうか欲などとした社会の闇と光の中を生きる何者にも 泡沫が如き儚く虚しい存在である朽分間持たぬ方が幸せなのだ。何者にもなろうとなれない或いは何者にもなろうとしない若 のクリエイター達に憧れる文化系の若者たしない人々が、何者かになれた人々に対し者たちを、しつかリと見つめていきたい。 ちは多い。それどころか彼らは「朽分間の嫉妬しないわけではないだろうが、自己批 有名人」になることが創作活動の目的であ判と恨みがましい妬みの入り混じった羨望 り、目指すべき終着点であると考えているは何物にもなれない者達特有のものである 勿論プロと呼ばれる存在に成らんとしていやがて、何者にもなれなかった若者たち

4. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

ン屋になったが、依然として彼は彼のままである」と。ここで言わ者にも明け渡せない牙城である。 れた「彼は彼のままである」の「である」は、彼がパン屋になろう この存在論的牙城は、無自覚的にではあるにせよ、現代の、何者 とも、政治家になろうとも、どんな職業に就こうと、どんな国籍ににもなろうとしない若者たちの間で囁かれている秘密の合一一一口葉であ なろうとも、たとえ性が変わろうとも、決して変わることのない本る。現代の若者は、決して怠惰ではない。何者かになろうとする努 質的規定に即した「である」である。すなわち、「彼は人間である」カを怠っているのではない。そうではなく、現代の状況に、病理に、 の「である」なのである。 選択を終えた大人たちにこう問いかけているのだ。 : 何者かにな つまり、第一の誤りとは、換一言すれば「我々はそもそも人間であるとはどういうことなのか ? 何者かにならなければ自分たちの価 る」という根本的・本質的規定の忘却のことである。 値は生じえないのか ? 自分たちの存在の根本価値はどこにあるの ここで第一一の点に話を移そう。我々には選択の自由が与えられてか ? 人工的社会から一方的に突きつけられた選択にどれほどの価 いる。にもかかわらず、何も選ばなかった時、世界は我々に非難の値があるのか ? 我々は何者なのか ? : 大人たちはこの問いに 目を向ける。 ・ : せつかく選ぶ自由を与えてやったのに、何故選ば答えられない。彼らは選択の奴隷であるから。選択を拒絶する問い ないのだ。選ぶことが大人になるということなのに。社会で生きるカ 、けには、そもそも理解が及ばないのだ。 ということなのに。何も選ばなかったお前には、社会に居場所など この問いを発することができるのが若者だけであるとするなら 存在しないー お前はこの社会において何者でもないー : そのば、答えなければならないのはやはり、若者である。私は、現代に ような目が、どこからか、神の視線の如く降り注いでくる。視線は生きる若者の一人として、一つの答えを、存在論的牙城の自覚を呼 訴える。人間失格と。 びかけたい。「我々は人間である」と。 だが、選択の自由によって与えられたところの自由とは、結局我々は人間である、だけでは曖昧過ぎる。と言われるならば、 のところ「装いの自由」であり、附帯的・偶有的自由である。このそこに言葉を付け加える。我々は神ではない、と。神についての大 自由を、「なる」自由を拒絶したところで、我々は依然としてある仰な定義は要らない。我々の目にはまだ見えぬ旗が、この世界のあ 一つの普遍的な存在、「人間である」ことに変わりはない。人間失らゆる時を費やしても到達できない場所で蒼穹に向かい屹立する旗 格と宣言する資格は、人間に人間たる根拠を与える存在にしか持ちが映っていると、そう信じるだけで十分なのだ。中世の人々はそれ えない。人間の存在は人間自身には帰せられないからして、人間にを神と呼んでいた。だが、彼らと信仰を共有する必要はない。ただ よる人間失格という批判は虚言でしかない。我々は、どのような選単に、生涯を費やしてもなお到達できぬ旗を人間の土地以外のどこ 択をしようとも、あるいはしなくとも、この世に存在する限り、人かに突き刺すだけで良いのだ。旗は我々に宣言する。人間であれ、と。 間という者なのである。これが、我々の存在論の、どのような侵略遥か彼方の標識は、時として、その遠さ故に絶望を抱かせるだろ

5. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

一般の人々が自己のアイデンティティのありようについて悩む姿が 次節では、学生の「自分探し」の事例を分析しよう。 みられる。 まず学生運動について簡単に述べておこう。「学生運動」とは、 2 学生の「自分探し」 本章では、大学に所属する学生の「自分探し」現象について分活動家と呼ばれる学生が中心となって反戦運動、学費値上げ反対運 析する。一般に大学生は、人生のなかでもとくに時間に余裕がある動、学生会館の自治要求、反差別への取り組みなどを行うものであ 時期だと認識されている。また彼らは、社会に出る一歩手前の段階る。日常的に彼ら活動家は、自治会やサークルを拠点にして討論や であり、卒業後の進路を意識せざるを得ない。そのため、大学生は学習をしていた。また自前のビラやポスター、立て看板を制作し、 とくに「本当の自分」を探す行為にふけりやすい。昔から若者論・授業前のクラスや昼休みの広場などで演説をし、自らの主張のア 大学生論として、ステューデント・アパシーや五月病、大量の留年ピールを行った。このように運動は、日常的には地道で地味なもの 者がとりあげられてきた。そのような問題も、「自分探し」や、そであった。しかし、 ( 年の安保闘争や . 間年の大学闘争のように ) 何かをきっかけとして全学的に運動が高揚した場合、普段は大学問 れに伴って起こった現象であるといえる 本章では「自分探し」現象のなかでも特に、年代に社会問題題や政治問題には関心のない一般の学生も運動に加わっていった。 にもなった全共闘運動、そして近年目立っている「意識の高い学そうなればデモや授業ポイコット、大衆団交一、、果てはバリケード 生」について比較検討する。第一節では全共闘時代の特徴を分析し、による建物占拠など、過激な行為が行われるようになる。 それらと比較することで現代の特徴を浮き彫りにする。第 2 節におこのようなかたちで一世を風靡した「学生運動」は、いまや過 いては、現代特有の現象である「意識の高い学生」の分析を通じて、去の出来事となっている。現在の大学で、学生が政治的な主張をす 先端的な「自分探し」のかたちを描き出す。そのうえで第 3 節では、る風景、ビラを配り演説する光景などを見ることはまれである。ほ とんど無いと言ってよい。一 988 年生まれである佐藤信も、次のよ 「自分探し」現象を俯瞰的にみて、その危険性について論じよう。 うな感想を述べている。「一人一人の人間が臆することなく国家権 カ ( と当時の人なら言っただろう ) と対決し、その人間が何万も集 —全共闘運動 日本にはかって、「学生運動」が盛んに行われていた時期が存在まるなんてこと、今の世にありえるだろうか」一。と。現代からみる 6 7 年の全共闘こ運動にと奇異に思える点は、「学生が革命を起こそうとしていたこと」、ま した。そのピークは年の安保闘争と、 8 あったが、本節では後者について取り扱う。なぜなら全共闘運動とた「必ずしも政治には興味のない学生たちまで広範囲に結集して、 は、近代とポストモダンとの瀬戸際で起こった「自分探し」現象だ暴力を含む過激な活動をしていたということ」という一言に集約さ からである。そこでは、人々が従来の「大人」観に疑問を抱き始め、れる。

6. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

もいい ( 「やりたいこと」を探すこと自体にも、就職すること以上のとき「やりたいこと」を探すこと・めざすことは、個人の内部だ の重要な意味がある ) 、「やりたいこと」はどこかに実在するはけで完結するものとなってしまい、他者との交流の契機はむしろ希 薄になる。 ずだ。 これらの「意図せざる帰結」を踏まえて、久木元はさらにこう 「この 3 つが前提となって、論理的な結論として導かれているの 述べている。 が、本人が自分の「やりたいこと」をやるのが最も良い選択だとい うこと」であり、「それを優先した結果、正社員としてではなくフリー 〔一見すると「やりたいこと」をやるというのは享楽的 ターとして働くことになっても、むしろ望ましい選択であるとされ な印象を与えるものだが〕「やりたいこと」をやろうと る」のである。 することが、到達しにくく、妥協しにくく、にもかかわ つまり彼らなりの選択をした結果が、フリーターである訳だ。 らず放任されるとなると、実はそれほど楽な道とはいえ そこでは、「「やりたいこと」に懸命に取り組む自分」というのが成 ガし 熟したイメージとして存在する。この成熟モデルこそが彼らにとっ てのアイデンティティであり、「大人」像なのだ。しかし問題なの ここでみられるのは、成熟できない ( 「大人」になれない ) 若者 は、現在の「自分」と理想としての「大人」をいつ一致させること ができるのか、ということである。彼らにとっては、「「やりたいこが苦しんでいる現実である。彼らは「自分探し」をしているのだが、 それがいっ・どこで決着がつくものなのかは誰にも分からない。し と」を探している自分」は「本当の自分」ではない また続けて久木元は、「やりたいこと」という論理がもたらすフかし、止めることもできない。諦めることも、自分の理想とする大 リーター自身が意図していない帰結について言及する。それは以下人になることもできず、終わらない現実にとどまり続けている。彼 らは、「本当の自分」Ⅱ成熟した大人になる道を見つける手立てを の 3 点である。 ・「やりたいこと」に対する要求水準の厳しさゆえに、かえっ失っている。 こうした「自分探し」は、フリーターに限らず現代社会のなか て「やりたいこと」が見つかりにくくなる。仮に「やりたいこと」 が具体的にあるとしても、現実にそれを続けていくことが難しくでひろくみられる現象である。速水健朗は「自分探し」の定義につ なった場合に発生する困難。「やりたいこと」をめざすことを自らいて、「若者を中心とした人々が、現在の自分ではなく、本当の自 やめざるをえない場合、自分自身に対して否定的な評価を下すこと分を知ろうとしたり、あるべき自分の姿を求めたりする行為を指し になりかねない。 3. 「やりたいこと」を、最初からできあがったもている」一 ~ としている。「自分探し」は、インド旅行から自己啓発 本まで、私たちの身近に溢れている行為である。 のとして自分の内部に存在しているはずと設定したことの帰結。こ

7. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

1 大人になるということ 「自分探し」社会の生き方 現代日本社会の問題 森元里奈 ( ZAO 法人ドネルモ ) 本節では、日本の若者問題について概観する。いまの日本には、 フリーター、ニート、パラサイト・シングル、引きこもりが少なく 以下は筆者の卒業論文をリライトしたものである。 見積もっても合わせて千五百四十七万人はいる一。これらの人々が 顕在化する前には、「職を得て経済的に自立し、親元を離れて結婚 する」ことは当たり前だと思われてきた。そうしなければ、「大人」 はじめに いま私たちの社会では、「自分探し」という現象がありふれていではないとみられていたと言ってもよい。しかし、正規雇用に就い ていない若者、実家に居続ける若者はいまや例外的な存在ではない。 る。アイデンティティを確立できず、「何者にもなれない」という 気分を抱えている。社会的もしくは心理的に安定しておらず、「本また、一旦は正社員として就職したものの、早い段階で退職する 者も増えている。 208 年の数値で、大卒で正社員として入社した 当の自分」を探し続ける。 特に近年の日本では、就職活動 ( 以下、就活 ) の過程でそういつ者のうち、 3 年以内に 3 人に 1 人 ( 36.5 % ) が辞めている。ちな た現象がみられる。私たちは若干歳前後で、自分とは何者であるみに一 99 ~ 年には同数値は % であり、 2 年たらずで培に増えて かを社会へ表明することを強いられている。新卒で就職できなけれいる ~ 。この事態に対し、企業の採用担当からは今の若者は「わが ば「人生終了」となってしまうため、必至になる。実際には「終了」まま」で「忍耐不足」であるという声があがっている谷こうした ではないと思う。ただ、実際に就活をしている学生にはそう感じら風潮を受けて、若者の職業意識が低下しているという世間的な見方 れてしかたない。そこでは、就活をすることと「本当の自分とは何もある。この現象については、第 2 章・第 3 節において詳しく分析 する。 か」と問うことが強く結びついている。 このように従来の意味での「大人」になれない若者が増大してい いま、「自分探し」をやめ、自分が何者であるか自覚し、「大人」 る原因は何なのか。まず考えられるのは、長期にわたる不況による になることは、一筋縄ではいかないことである。 影響である。高度経済成長期の時代には雇用が多く存在し、大卒の 本論では、現代日本社会において「大人」になるとはいかなるこ となのかを示す。そのためにまず、若者が大人になろうとする行為就職活動は「売り手市場」と言われていた。しかし現在ではグロー バル化・一 T 化により、非正規雇用が増えている。フリーターの増 のありようが過去にどのようなものだったか、いまどのようになっ 加は必然的なものである。また、親と同居しているのにも理由があ ているかについて述べる。 大人になる

8. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

なる。また身分制が崩壊して職業や結婚相手の選択が自由になり、 なったり、結婚したり ) を持っていることが多いきしかし彼らは 人生の選択肢が広がった。 実際には、とりあえずフリ 1 ターを続けているのである。その心理 たとえ法律的に成人したとしても、相応の心理的な成熟と社会は以下に分かりやすく表現されている。 的立場を持ち合わせていないと「大人」とはみなせなくなった。す ると、特定の時期に「君は大人になった」と認めてくれるような特 定職につかずアルバイト生活を続けるということは、自分 定の権威はいなくなる。代わりに人々は、各々自身でアイデンティ の活動の可能性をまだ完全には具体的な形で限定しないま ティ。を発見し「私は大人になったのだ」と認めるようになるのだ。 まの状態で保持できる。〔 : : 〕「今こうやってバイトに明 ところが社会が成熟したポストモダンでは、近代のような誰に け暮れている自分は本当の僕じゃない。いっか時期が来れ でもあてはまる人生のモデルが崩壊し、「私は大人になったのだ」 ば本当の僕の力を発揮できる場所と時間がやってくるはず という自覚すら持ちにくくなった。近代では、職を持ち、結婚し父 だ」といった形で。。 や母になることが「大人」であると信じられていた。だが、それが 現在は容易ではないことは第一節で述べた。国際化、消費社会化、 彼らは「可能性」や「本当の僕」、「夢」、「やりたいこと」を追 情報社会化がすすみ、流動的かつ物質的に豊かな時代には、旧来のい求めているのだ。しかしそこには、久木元真吾が分析したように 価値観は通用しない。青年期も長期化する。 一 0 、理想を追えば追うほど、その行為が自己目的化するという構造 このように時代がすすむにつれて、「大人」になることよ夏雑ヒ。、 ( ネ木イカはたらいている。以下では、彼の論考「「やりたいこと」という していった。次節では、現代日本というポストモダン社会「で生き論理」 ( 2003 ) を詳しくみていくことにしたい。 る若者の問題へ再び立ち返る。そして、過去の規範で考えられてい 久木元はこの論考で、一 999 年に実施された日本労働研究機構に たような「大人」になれない若者が増える現状を分析してみよう。よるフリーターのヒアリング調査 = を分析した。そこでは、全体 の名のうちの貶名 ( 43.3 こが何らかの形で「やりたいこと」と 一「本当の自分」探し いう表現に言及しており、フリーターが自らを語る上で重要なキー 職を得ること、結婚すること、実家を出て生活することをしないワードとして「やりたいこと」が捉えられている。久木元は、彼ら ( できない ) 若者が増大していることは第 1 節で述べた。では、そ が「やりたいこと」に関して特徴的な想定を立てていることを指摘 の時若者は何を考え、感じているのだろうか。 している。その特徴は以下の 3 つに整理できる。 実際のところ、フリーターの若者は、生涯にわたってアルバイト ・「やりたいこと」を仕事にすれば、途中でやめてしまうこと を続けるつもりではなく、将来的には別の理想 ( たとえば正社員にもなく続けることができる、 cxi 「やりたいこと」は今わからなくて っ 0

9. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

それに対し、「セルフプランディングに力を注いでいるが、その必 死さが他人からは痛々しくみえる」という批判がされ、就職活動に おいて「勝ち組」であろう者への嫉妬が彼らに向けられるようになっ た。「意識の高い学生」の行動と実像とにギャップがあり、学生ら しくない背伸びをしており、ナルシスト的な側面をもっというのも ひとつの事実なのだろう。一人前を目指しているはずの彼らの行動 は未熟であり、本末転倒であるとみられている。そんな彼らを揶揄 するように、「 ( 笑 ) 」が付けられる。 彼らが「前のめり」になってしまうのは何故なのだろうか。そ れは、現代の就活が学生に「自己」を表現することを過剰に求めて いるからである。 「自己分析」は、『現代用語の基礎知識 2 日 3 』 ( 2 日 2 ) において 次のように説明されている。「自分の強み、価値観、行動特性、思 考回路などを分析すること。目的は主に、 自分に合った業界・ 企業・職業を探す、将来を構想する、選考でアピールするト ピックスを探す、という 3 点である」 具体的には、「自分の長所・ 短所は ? 」「自分は今までにどんなことをしてきたか ? 」「過去のど んな経験が自分の人格形成に影響を与えてきたか ? 」「自分に出来 ることとは ? 」「今後の自分の課題とは ? 」などといった問いを突 き詰めていく作業である。その字の通り、「自分」について分析す る自己分析は、「自分探し」そのものである。 この方法論が就職活動に用いられるようになったきっかけは、 バブル崩壊後の長く続く不況下に、企業の採用方針が変化したこと である ~ 、。かって日本企業の人材採用に関する考え方は、「新卒・ 一括・ところてん」と表現された。「なんでもそっなくこなせるタ イプの人材を、新卒で本社が一括採用する」という基本方針だった のである。勤続年数に応じて給与を上げ、定年まで雇用することが 前提だった年功序列制度のもとでは、均質な人材を一括して採るこ とが効率的だったのだ。 しかしバブル崩壊後の一 990 年代後半から、企業の多くは新卒 採用数を大幅に縮小せざるを得なかった。その結果、採用方針も変 わる。誰でもこなせる仕事は、正社員ではなく派遣社員でまかなえ る。その代わり欲しいのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専 門性を持った人材なのである。すると、面接では「具体的にどんな 仕事を希望するのか」、「その仕事を通じて実現したい目標は何なの か」、「希望職種にマッチした専門性は持っているか」ということを 問 , っことになる そこで学生は「自己分析」が必要になる訳だ。このように複雑 化した就活で内定をとるためには、明確なキャリアプランを持ち、 そのために努力することが求められるのだ。企業が欲しがる新卒の 資質としてよくあげられる「人間力」や「コミ、ニケーション能力」 というのは、先述のような面接の問いに上手く答えられるような能 力を指している。しかし、この問いに対する答えとしてふさわしい ( 優秀な ) 回答通りの「自分」を持っている学生が、いったいどれ だけ居るだろうか 「意識の高い学生」は、このような現実のなかで登場した。彼らは、 就職活動で求められる自分の姿を先取りして行動しているのだ。「セ ルフプランディングの必死さが痛々しい」「ナルシスト的」として 揶揄され「 ( 笑 ) 」と付けられてしまうのも、この過剰な「自分」を 求めるという動機に原因があったと言える。「前のめり」の振る舞