学生運動 - みる会図書館


検索対象: ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号
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1. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

一般の人々が自己のアイデンティティのありようについて悩む姿が 次節では、学生の「自分探し」の事例を分析しよう。 みられる。 まず学生運動について簡単に述べておこう。「学生運動」とは、 2 学生の「自分探し」 本章では、大学に所属する学生の「自分探し」現象について分活動家と呼ばれる学生が中心となって反戦運動、学費値上げ反対運 析する。一般に大学生は、人生のなかでもとくに時間に余裕がある動、学生会館の自治要求、反差別への取り組みなどを行うものであ 時期だと認識されている。また彼らは、社会に出る一歩手前の段階る。日常的に彼ら活動家は、自治会やサークルを拠点にして討論や であり、卒業後の進路を意識せざるを得ない。そのため、大学生は学習をしていた。また自前のビラやポスター、立て看板を制作し、 とくに「本当の自分」を探す行為にふけりやすい。昔から若者論・授業前のクラスや昼休みの広場などで演説をし、自らの主張のア 大学生論として、ステューデント・アパシーや五月病、大量の留年ピールを行った。このように運動は、日常的には地道で地味なもの 者がとりあげられてきた。そのような問題も、「自分探し」や、そであった。しかし、 ( 年の安保闘争や . 間年の大学闘争のように ) 何かをきっかけとして全学的に運動が高揚した場合、普段は大学問 れに伴って起こった現象であるといえる 本章では「自分探し」現象のなかでも特に、年代に社会問題題や政治問題には関心のない一般の学生も運動に加わっていった。 にもなった全共闘運動、そして近年目立っている「意識の高い学そうなればデモや授業ポイコット、大衆団交一、、果てはバリケード 生」について比較検討する。第一節では全共闘時代の特徴を分析し、による建物占拠など、過激な行為が行われるようになる。 それらと比較することで現代の特徴を浮き彫りにする。第 2 節におこのようなかたちで一世を風靡した「学生運動」は、いまや過 いては、現代特有の現象である「意識の高い学生」の分析を通じて、去の出来事となっている。現在の大学で、学生が政治的な主張をす 先端的な「自分探し」のかたちを描き出す。そのうえで第 3 節では、る風景、ビラを配り演説する光景などを見ることはまれである。ほ とんど無いと言ってよい。一 988 年生まれである佐藤信も、次のよ 「自分探し」現象を俯瞰的にみて、その危険性について論じよう。 うな感想を述べている。「一人一人の人間が臆することなく国家権 カ ( と当時の人なら言っただろう ) と対決し、その人間が何万も集 —全共闘運動 日本にはかって、「学生運動」が盛んに行われていた時期が存在まるなんてこと、今の世にありえるだろうか」一。と。現代からみる 6 7 年の全共闘こ運動にと奇異に思える点は、「学生が革命を起こそうとしていたこと」、ま した。そのピークは年の安保闘争と、 8 あったが、本節では後者について取り扱う。なぜなら全共闘運動とた「必ずしも政治には興味のない学生たちまで広範囲に結集して、 は、近代とポストモダンとの瀬戸際で起こった「自分探し」現象だ暴力を含む過激な活動をしていたということ」という一言に集約さ からである。そこでは、人々が従来の「大人」観に疑問を抱き始め、れる。

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しかし、この学生運動を行っていた一人一人の心情に思いをめぐ ている物語」と「不安の構造」が異なっている。 らせてみると、現代人にも共感できる点があることに気づく。当時 まず「信じている物語」の違いとは、政治への期待と信頼度の違 運動に参加した小阪修平は、自らの経験を振り返り、「ぼくにとっ いである。当時は世界的にベトナム戦争反対の空気があった。また て全共闘運動とはなによりも、相手と向かい合った時の態度、自分若者の身近には、戦争の記憶を色濃く残していた年長者たちが存在 自身と向かい合う態度を意味していたのだ」一。と述べている。世界 した。さらに、敗戦直後から始まった平和教育も浸透していた。こ ( 「相手」 ) や自分自身に対して自己をどのように位置づけるのか、 うした環境のなか、戦争というもののイメージが持ちやすく、頑と その関係を模索していくあり方の表現として、学生運動というもの して避けるべきだという意識も今に増して高かった。また、大学全 があったのだ。 入時代の今と違い、年代当時は未だ大学生というだけで高学歴の また、トヒ / 貢英志は、運動について次のようにまとめている。 エリートだった。これからの日本を引っ張っていくのは自分たちな のだという意識も持ちやすかったのである。 いわば全共闘運動は、高度成長にたいする集団摩擦現象そのような政治への期待があったため、自己を表現する時に、 でもあったが、日本史上初めて「現代的不幸」に集団的政治や思想の言葉を使ったのだ。全共闘に参加した全ての学生が、 に直面した世代がくりひろげた大規模な〈自分探し〉運ト難しい哲学書や政治理論を理解したり、熱心に勉強していたりし 動であった、ともいえるだろう一「。 たわけではなかった。むしろそのような人間は指導層の一部に過ぎ なかった。しかしそれでも、自分たちの生活が権力によって左右さ 小阪や小熊の言うように全共闘運動とは、若者がアイデンティれるのだという「物語」を信じることができる空気があったのだ。 ティを模索する「自分探し」の軌跡でもあったのだ。加えて小熊のそれに対し現代では、政治への信頼が失墜している。このこと 研究からは、高度成長の社会変動期におかれた当時の若者が、なんは政治という「物語」が信じられなくなったと表現できる。では代 らかの新しい心理的危機に見舞われていたということが窺える。以 わりに何が信じられるようになったかというと、消費文化である。 下では、全共闘運動の社会的背景はどのようなものだったのか詳しつまり、自己を表現する場が政治から、個人的なものへと変化して くみていこう。そのなかで、当時の学生が直面した「現代的不幸」いるのだ。 とは何だったのかについて言及していく。 「不安の構造」について。これは、 8 年代が経済成長という「安定」 の時代であったこと、学校教育や就職 ( 活動 ) にも変化が起こった 全共闘時代と現代とでは、学生をとりまく状況の何が違うのだ ことが関係している。当時は、経済成長による産業構造の変化、労 ろうか答えを先に述べておくと、彼らと今の学生とでは「信じ 働の場に必要な人材の変化が起こった。つまり、大量の会社員が必

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要とされるようになった。会社員とは ( いまではあまりそうした認とが闘うのではなく、敵が見えない闘いのなかでいかにサヴァイヴ 識はされていないが ) 専門職だった。専門職に就くには、相応の教するかが大きな問題となっている。 育を受ける必要がある。その社会の要請にしたがって、高学歴化が 以上のことをまとめると次のようなことが言える。年代の学 すすんだ。それ以前。。 こよ、そもそも経済的な貧しさから、高校に進生は政治や思想などについて深刻に考えていたようにも見えるが、 学しない者も多かったのだが、進学率が増加した。このことは、若人生自体の見通しは立っていた。現代の学生なら先述のような「人 者の人生設計に、多大な影響を与えた。成長という「希望」が存在生のレール」など望むべくもない。学生運動の時代は、管理社会の する社会で、「良い大学に入り、良い会社に入り、気立てのよい嫁なかで、一定の「大人」モデルに沿うことが基本的に誰にでも可能 をもらい、子供を 2 人もうけて : : : 」という目標が生まれたのであであった点がいまだ近代的だった。 る。 対して完全にポストモダン化した今の日本では、第 1 章・第 3 しかし、この社会にも負の側面があった。それが、国民皆受験節でみたように、各々のなかに「やりたいこと」というモデルがあ 制度から生まれた苛酷な受験戦争である。全共闘世代は、高校受験り、どこかにあるはずのアイデンティティを探している状態だ。フ を全員が経験したはじめての世代だった。それは、彼らが自己の リーターの道を選んだ彼らは、「正規雇用に就くこと」という従来 ( 日 アイデンティティを問うきっかけとなった。前述の「幸福な人生の本では少なくとも一 990 年代まで ) の世間 ( 社会 ) 的な「大人」の レール」にのることが当たり前とされるなかで、社会の歯車として基準から外れる存在としてみられている。 の画一的な人生に疑問を抱き始めたのだ。「自分とは何か」という また、「やりたいこと」が見つからない揺らぎを抱えた彼らは、 アイデンティティ・クライシスにはじめて集団的に見舞われたのが心理的にも「大人」であるという確証が得られないでいる。このよ 一 960 年代末の若者達だったのである一。。 うな「大人」モデルと「自分」との重ね合わせにくさという点で、 年代では、大学当局Ⅱ体制Ⅱ管理社会に反抗した闘いが行わ年代と現代とでは大きく異なる。この「大人」モデルの曖昧さは れた。それに対し現代では、若者は大きな敵のいない社会に生きて学生にも浸透しており、だからこそ、「管理社会」への反発という いる。全共闘の特徴は、若者が広範囲に結集し、学生が集団的に全共闘世代の心情は理解できないものとなっている ( むしろ、安定 かつ自主的に一致団結して行動していたことだという点は先に述べした「人生のレール」を羨ましくも感じるだろう ) 。 た。「大学当局」と全面的に対決し、時には暴力行為も辞さない、 全共闘運動の時代との比較をまとめると、現代とは「政治とい などということも今では想像を絶する。現代の若者は、「集団的に」う物語が信じられず、市場主義が浸透している」、「管理社会におけ 何かに向かって対抗しようとはしない。むしろ同じ若者であっても、る不安から、自由主義における不安へ移行した」時代だといえる。 さまざまな文化圏に分裂している。ひとつの大きな「社会」と個人このような時代に、多くの学生がアイデンティティを問われる

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(Endnotes) 46 頁。 一フリーターは 2 一 3 万人 ( 2004 年時点 ) 、ニートは 84.7 万人 ( 2002 年時一 0 久木元真吾「「やりたいこと」という論理」、『ソシオロジ』、第 48 巻第 点 ) 、親と同居する成人した未婚者 ( 全てがパラサイト・シングルではない ) は 2 号 ( 2003 年 ) 参照。 1200 万人 ( 2000 年時点 ) 、引きこもりは 50 万人以上 ( 287 年時点 ) 。 ニ日本労働研究所編『調査研究報告書 No. 一 36 フリーターの意識と実態 2 城繁幸『若者はなぜ 3 年で辞めるのか ? 年功序列が奪う日本の未来』、 ー 97 人へのヒアリング結果よりー』、日本労働研究機構、 2000 年参照。 光文社新書、 2006 年、 28 頁参照。 一 2 速水健朗『自分探しが止まらない』、ソフトバンク新書、 2008 年、 3 頁。 3 城繁幸『若者はなぜ 3 年で辞めるのか ? 』、光文社新書、 2006 年、 2P32 一 3 正式名称を全学共闘会議という。日本の各大学で学生運動が実力闘争と 頁参照。 して行われた際に、学部やセクト ( 党派 ) を超えた運動組織として結成された 4 久木元真吾「「やりたいこと」という論理ーーフリーターの語りとその意大学内の連合体のこと。 図せざる帰結ーー」、『ソシオロジ』、第 48 巻第 2 号 ( 2003 年 ) 参照。 一 4 学生側が大学側と、学内問題から社会問題に至るさまざまな問題につい 5 『岩波哲学・思想事典』、岩波書店、 1998 年、 92 頁参照。 て交渉すること。 6 自分自身が時間的に連続しているという自覚 ( 連続性 ) と、自分がほかの一 5 佐藤信『 60 年代のリアル』、ミネルヴァ書房、 20 ニ年、 3 頁。 だれかではない自分自身であるという自覚 ( 斉一性 ) とが、他者からもそのよ一 6 小阪修平『思想としての全共闘世代』、ちくま新書、 2006 年、 204 頁。 うなものとみなされているという感覚とに統合されたもの ( エリク・ホーンプ一 7 小熊英志『一 968 〈下〉叛乱の終焉とその遺産』、新曜社、 2009 年、 ルガー・エリクソン、ジョアン・モワット・エリクソン『ライフサイクル、そ 793 頁。 の完結〈増補版〉』 ( 村瀬孝雄・近藤邦夫訳 ) 、みすず書房、 28 一年参照 ) 。 一 8 学生運動が沈静化した理由のひとっとして、 7L72 年の連合赤軍事件の 影響がある。内ゲバによる殺人を含むこの事件は社会にショックを与え、活動 7 ポストモダンの始まりを定義することは難しいが、一 954 ニ 973 年の高度経家は反社会的存在として認知されるようになった。しかし本論ではそのような 済成長期の前後に、段々と近代からポストモダンへの変化が起きたといえる。学生運動史には深く触れず、当時の大学生全体がどのような社会状況に置かれ 消費社会が浸透した一 980 年代以降は完全にポストモダン社会になったとみなていたかに注目する。 してよい。 ( 東浩紀『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、 200 一年、一 9 小熊英志『一 968 〈下〉叛乱の終焉とその遺産』、新曜社、 2009 年、 一 04 ニ 05 頁参照 ) 。 784 , 789 頁参昭。 8 山田昌弘『希望格差社会』、ちくま文庫、 287 年、 248 49 頁参照。 20 「意識の高い学生」を Google で検索すると約 2 一 20 万件ヒットする。同 9 菅野仁「大人になることの苦みと希望〈半歩先を行く自分〉を見出す」 ( 苅様に、独立した形容詞句である「意識の高い」は約 8600 万件該当する ( 20 一 4 谷剛彦編 ) 、『いまこの国で大人になるということ』、紀伊國屋書店、 2006 年、年 4 月 6 日現在 ) 。このヒット数は、筆者が最初にこの論文を執筆した当時 ( 20 一 3

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致させることができないという事態に陥っていた。そして「意識の いも、厳しい就職状況が生んだものなのである。 高い学生」は、「大人」であろうとするがゆえに「自分探し」をし っ 0 続けることになる。フリーターも「意識の高い学生」も、「自分」 - 「自分探しの循環」 ここでは、「意識の高い学生」が、その意識の高さゆえに直面すと「大人」がいつまでも重ならない る困難について言及する。第 1 章・第 1 節でも、若年層離職率の増フリーターのように「大人」を目指すということにこだわるこ とでかえって「大人」になれない。就活生が就活を終えて自分を活 加については述べた。実はその原因は、就職活動にあった。 城繁幸は、就職までのプロセスにおいて、学生の「仕事に対するかせる会社に入ったつもりでも、本当に自分を活かすことにこだわ 意識」があまりにも高くなりすぎていることを指摘する。「その結るならば、退職することになる。現代では、「自分」を探し、見つけ、 果として、彼らが入社後、希望していた業務と実際に割り振られたそのモデルに失望し、また「自分」を探しに行くという循環がある。 業務にギャップがあった場合、強烈なフラストレーションを抱え込若者はこのなかで、人生の「次の段階」に進むことができない閉塞 感を感じている。 むことになる」 ~ 。。 また城は、年功序列制度の破綻により、入社しても実際には管第 1 章・第 2 節では、社会的地位の変更をともなうイニシェー 理職などの上位ポストに就くことが難しくなっていることを指摘ションについて触れた。このイニシェーションを経て人間は、人生 し、「実際のところ、自分たち〔採用担当〕が入り口で厳しく要求の次なる段階へ進むことができるのだった。しかし「自分」と「大 する能力など、半分くらいの若者、いや、ひょっとすると大半の若人」が重ねにくい現代では、この「次の段階」へ進むことが非常に 者には、生涯発揮する機会すらないかもしれないのではないか」 ~ 。困難になっているのだ。しかしどこかにあるはずの「やりたい仕事」 と述べている。その企業の現実を目の当たりにし、「先が無い」と思っや「コミュニケーション能力」というイメージを諦めることもでき ないでいる た若者が退職していくのだ。 ここでかって「意識の高い学生」だった彼らは、自分たちの求めなぜ諦めることができないのか。それは自由主義の社会では、誰 た「大人」になれないという不全感を味わうことになるのである。でも理想を追う自由と可能性が残されていると信じられているから 勤め続けていても、キャリアのどこかで躓き、終わりの見えない闘だ。「誰でもやればできる」「能力を発揮できればそれを正当に評価 します、だから君にも可能性がある」といった、個性尊重の思想が、 いにんでしまうこともあるだろう。 ここでは、誰しもがいつまでも「大人」になれない構造が存在自由主義を後押ししている。この「個性尊重」は、ゆとり教育によっ する。第 1 章・第 3 節のフリーターの例を思い起こしてほしい。 , 彼て推進された。 しかし、自由主義社会のなかで生きることは、全ての結果は自 らは、「自分」に忠実であろうとするほど「自分」と「大人」を一

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機会がある。それが就活である。現代の就活は、「自分探し」その ものだ。次節では、就活で繰り広げられる「自分探し」において先 何かと学生時代の行動が前のめりの学生を指す。特活に 端的な事例である「意識の高い学生」についてみていこう。 向けて努力する学生を揶揄する言葉。もともとは、就職 情報会社のイベントの説明で「意識の高い学生が集まる - 「意識の高い学生」は誰か セミナーです」などと表記されていたことに由来すると いわれている。 ~ 一 学生の分析に入る前に、ます彼らをとりまく状況がいかなるも のかについて簡単に述べておく。近頃は「就活」が社会問題として 一般的にも認知されるようになった。一 994 年には「就職氷河期」過去にも、就職活動のためだけに頑張る学生はいた。しかし、 が流行語大賞を受賞している。 就職難という世相とネットの普及により、近年では「意識の高い学 「意識の高い学生」という一一一一口葉が、 20 一 0 年頃からインターネッ生」に代表されるような人が可視化された。 ト上で流行し、現在ではスラングのひとっとして定着している ~ 0 。 先の『現代用語の基礎知識 2013 』の記述は人材コンサルタン 本節ではこの言葉・現象について分析し、「自分探し」をめぐる状トの常見陽平が執筆しているが、「何かと前のめり」という表現や「揶 況について考察する。分析に入る前に注釈を加えておくが、「意識揄する言葉」という説明から窺えるように、常見は「意識の高い学生」 の高い学生」には、ネット文化に根差した言葉・事例であるというに対してやや批判的な調子である。著書『「意識高い系」という病』 性格がある。したがって、「意識の高い学生」が、若者世代の全体 ( 2012 年 ) でも終始似たような論調である。確かに現在、「意識の を代表するような事例であるとは断言すべきでないだろう。それで高い学生」という言葉は皮肉として受け取られている。そして「意 も筆者が「意識の高い学生」を取り上げるのは、彼らがこのポスト識の高い学生って、こういう行動するよね ( 笑 ) 」という、「あるあ 220 モダン社会において成熟すること、つまり「大人」になることに敏るネタ」として定型化している 感に反応して生まれた事例であると考えるからである。 しかし、『現代用語の基礎知識 20 一 3 』の説明にもあるように、「意 「意識の高い学生」の意味するところは、「 ( 特にビジネスや環境・識が高い」はもともとネガテイプな印象を持っ言葉ではなかったは 国際・貧困などの分野で ) 社会参加に力を入れており、就活に強いずである。社会参加意識が高く行動力もある若者を指していたはず 学生」と一般に捉えられている。具体的には、学生団体、就活イベだ。それがなぜ、ネガテイプな意味を持たされてしまったのか。「意 ント、留学、シェアハウス、ビジネス書、勉強会に興味を持つイ識が高い」人達の一部の行動が、「就職活動をする」というものを 也の人間とは メージである。『現代用語の基礎知識 2 日 3 』 ( 自由国民社、 2 日 2 年 ) 超えて、「社会に対して積極的な自分がかっこいい、イ には以下のように説明されている。 違う」という自意識が透けてみえるものになっていたからだろう。 4

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それに対し、「セルフプランディングに力を注いでいるが、その必 死さが他人からは痛々しくみえる」という批判がされ、就職活動に おいて「勝ち組」であろう者への嫉妬が彼らに向けられるようになっ た。「意識の高い学生」の行動と実像とにギャップがあり、学生ら しくない背伸びをしており、ナルシスト的な側面をもっというのも ひとつの事実なのだろう。一人前を目指しているはずの彼らの行動 は未熟であり、本末転倒であるとみられている。そんな彼らを揶揄 するように、「 ( 笑 ) 」が付けられる。 彼らが「前のめり」になってしまうのは何故なのだろうか。そ れは、現代の就活が学生に「自己」を表現することを過剰に求めて いるからである。 「自己分析」は、『現代用語の基礎知識 2 日 3 』 ( 2 日 2 ) において 次のように説明されている。「自分の強み、価値観、行動特性、思 考回路などを分析すること。目的は主に、 自分に合った業界・ 企業・職業を探す、将来を構想する、選考でアピールするト ピックスを探す、という 3 点である」 具体的には、「自分の長所・ 短所は ? 」「自分は今までにどんなことをしてきたか ? 」「過去のど んな経験が自分の人格形成に影響を与えてきたか ? 」「自分に出来 ることとは ? 」「今後の自分の課題とは ? 」などといった問いを突 き詰めていく作業である。その字の通り、「自分」について分析す る自己分析は、「自分探し」そのものである。 この方法論が就職活動に用いられるようになったきっかけは、 バブル崩壊後の長く続く不況下に、企業の採用方針が変化したこと である ~ 、。かって日本企業の人材採用に関する考え方は、「新卒・ 一括・ところてん」と表現された。「なんでもそっなくこなせるタ イプの人材を、新卒で本社が一括採用する」という基本方針だった のである。勤続年数に応じて給与を上げ、定年まで雇用することが 前提だった年功序列制度のもとでは、均質な人材を一括して採るこ とが効率的だったのだ。 しかしバブル崩壊後の一 990 年代後半から、企業の多くは新卒 採用数を大幅に縮小せざるを得なかった。その結果、採用方針も変 わる。誰でもこなせる仕事は、正社員ではなく派遣社員でまかなえ る。その代わり欲しいのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専 門性を持った人材なのである。すると、面接では「具体的にどんな 仕事を希望するのか」、「その仕事を通じて実現したい目標は何なの か」、「希望職種にマッチした専門性は持っているか」ということを 問 , っことになる そこで学生は「自己分析」が必要になる訳だ。このように複雑 化した就活で内定をとるためには、明確なキャリアプランを持ち、 そのために努力することが求められるのだ。企業が欲しがる新卒の 資質としてよくあげられる「人間力」や「コミ、ニケーション能力」 というのは、先述のような面接の問いに上手く答えられるような能 力を指している。しかし、この問いに対する答えとしてふさわしい ( 優秀な ) 回答通りの「自分」を持っている学生が、いったいどれ だけ居るだろうか 「意識の高い学生」は、このような現実のなかで登場した。彼らは、 就職活動で求められる自分の姿を先取りして行動しているのだ。「セ ルフプランディングの必死さが痛々しい」「ナルシスト的」として 揶揄され「 ( 笑 ) 」と付けられてしまうのも、この過剰な「自分」を 求めるという動機に原因があったと言える。「前のめり」の振る舞

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己責任だということでもある。先のように「自分探しの循環」を生 きることも、自己責任になってしまうのだ。たとえば就職活動では、 学生がモチベーションを高めていられるうちはまだ問題がない。し かし彼の活動が、いつまでも結果を伴わなかった場合は別である。 何をしても報われないうえ「努力が足りない」ということにされて しまうことに疲れ、自己否定感にさいなまれたり、経済的に自立で きなくなり、生活が立ちゅかなくなるような事態が考えられる。 3 「自分探し」社会を生きるために 最後に、「自分探しの循環」の罠がひそむ現代社会で、アイデン ティティを模索していくにはどうしたらよいのか、どのような態度 をとればよいのかについてヒントを記して本文の締めとしたい。 社会学者の鈴木謙介は、「人がひとりの人間として成長していく ためには、ときに失敗し、そこに学び、過去の自分と決別しながら、 それでもわたしがわたしであると確信し続けることが必要になる」 ~ 「と一一一口っている。 必要なことは、現在の「自分」や理想の「大人」像が否定され ることを恐れないということである。その時には挫折や痛みを伴う かもしれないが、その過程をも自分として受け入れていくのである。 そして、新しく更新された「自分」としてまた次の理想である「大 人」像を抱くことができるのだ。このような経過を繰り返して「手 の届きそうな未来を、少しずつでもいいから選び取る」ことが、「自 分探しの循環」に足を捉われずにすむ企てとなる。 現在の自分が未だ途中経過であるという、自己の暫定性を受け 入れることが少しすつでも何かを生みだすきっかけとなり、自分の 人生が「次の段階」に進むという時間感覚を取り戻す。そうするこ とで、人は希望を抱くことができるようになる。

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何物にも成れない或いは成ろうとしない若者達 学生時代、何か楽しい事がしたいと常々それらが「楽しい事」では無しからだ。 ' ( 私。彼らにとって楽しい事とは何か 口にしている人に対し、私は「共に映画をと共に、という事ではなく映画を撮るといそれはスポーツであリ、旅行であり、ゲー 撮ろう」「共にパフォーマンスを行おう」「同う行為そのもの。そこまでの人徳の無き , , ムであリ、飲み会である。自らの才能を発 人誌を作ろう」と声をかけていたが、誰しではないと信じた、 ) 揮すべく文化的創作活動を行うのではなく、 もに無視されていた。 私は、文系の謂文化的な学生達が発す文化系であろうが体育会系であろうが、同 一重に私の人徳の無さが、無視という態る「何か楽しい したい」という言葉は、じような娯楽を希求し、群れて楽しむのだ。 度を取らせるに至ったのがかもしれないが、何か創作的活動行いたいという旨の発言そこにおいて全ては没個性である その解釈はあまリに悲しすぎるし、発展性だと勘違いしていたのだ。 彼らは創作などしたくないのだ。自らの が無いので無視させて頂く そもそも何か創作的活動を行うのであれ才能を矮小なものと思い込み、卑屈になっ では何故、人々は私と共に映画を撮り 、パば、それこそ「映画を撮りたい」といったている訳ではない。確かに、何か創作活動 フォーマンスを行うのを嫌がったのか長々具体性の有る発言をするに違いないし、友を行ったところで、自分より才能のあるも と講釈を垂れるまでもなく、彼らにとって人か同志かに声を掛けるだろう の或いは本気で打ち込んでいる人々と、同

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そして公演当日、私は笑い者となった。甲高い鼻声、ガリガリの 体格が演じるマフィアのポスは爆笑をさらったのだ。先生方の目論 見は大成功、公演も上手くいった。仲間達、先生達、観客、そして親、 全員が私の演技を褒めた。だがしかし、私は何一つ嬉しくなかった。 笑いを取るためにマフィア映画を観たのではない、笑われるために 練習をしたのではない、それでも私の演技は笑われた。悔しくはな かった。、 月学生達のはしゃぎ声で溢れる楽屋から一人抜け出し、た だただこう思って泣いていた。 「ああ、僕には才能が無いんだなあ」と。