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検索対象: ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号
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1. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

まず近代以前の伝統的な社会では、「イニシェーション」を受け る。親に経済的余裕があるため実家を出る必要がないという場合、 それから非正規雇用など低収入の仕事に就き経済的自立ができていていることが大人の条件だった。イニシェーション ( 通過儀礼、加 ない場合、その両方が重なっている状況などである。つまり若者問入儀礼 ) とは、当事者の社会的ないし宗教的地位の変更をともなう 一連の行為をさす。現代でいうと、七五三、入学式、成人式、入社式、 題は構造的なものから生じている。 結婚式、葬式などが挙げられる。。近代以前の未開社会では、割礼 加えて、若者の心理に関しても注目したい。「正社員に就きたい のに就けない」というよりも「あえて正社員として働きたくない」や抜歯、刺青などの肉体的試練を成人の儀として子供に課していた。 という意志を持っ若者が、たとえばフリーターのなかに一定数存在当時において、「大人」とは、イニシェーションを経験した者のこ している、のである。なぜ彼らは、「正社員Ⅱ従来の大人」にならとだった。すべての子供はいずれ必ず「大人」になるのであり、儀 式に耐えられなかった者は共同体から放逐されるだけだった。子供 ないことを積極的に肯定するのか 「自分探し」とはしばしば、「自分」像と「大人」像を一致させと大人の中間に位置する者など存在しえず、属する共同体において ようとするがさせられないという葛藤とともにある。そしてその葛決められた手続きを経さえすれば、人は無条件に「大人」になるこ 藤は、若者の働き方・家族関係などの社会構造の変化と連関していとができたのだ。 しかし近代社会になると、思想と社会的構造の両面の変化によっ る。 「自分探し」について述べる前に、そもそも「大人」になる条件てイニシェーションは消滅する。 思想的にいうとイニシェーションとは、後から生まれてきたも とは何なのかについて考える必要がある。次節では、「大人」像は 絶対的なものではなく、人が属する共同体、社会によって規定されのがその「世界へと入れてもらう」ための儀式だったのだが、近代 ていることを解説する。人が「大人」になる仕組みがどのように変では、「社会は常に進歩する」という考え方が生まれ、この「出来 あがった世界」という概念が失われる。近代では、かってイニシェー わったかについてみてみよう。 ションによってもたらされていた「大人になる」体験は、それぞれ が個人的に体験し、各々の内容や時期が一様ではない、そして多く 一「大人」の条件 本節では、近代以前 ( プレモダン ) から近代 ( モダン ) へ、そしの人にとっては一回では終わらないものになった。 また社会的構造という面では、主要な産業が第一次産業から第一一 てポストモダンへと至る各時代の大人の条件をみてみたい。それは、 まず「子供」と「大人」の区別が曖昧になり ( 近代以前から近代へ ) 、次産業へと移り、資本主義社会になった。そこで、農家の子供もエ さらに「大人」になるための目標が失われていく ( 近代からポスト場へ勤めるために学校に通い職業訓練を受けることになる。そして 学校に通う期間は、子供でも大人でもない、青年期を過ごすことに モダンへ ) 過程である。

2. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

己責任だということでもある。先のように「自分探しの循環」を生 きることも、自己責任になってしまうのだ。たとえば就職活動では、 学生がモチベーションを高めていられるうちはまだ問題がない。し かし彼の活動が、いつまでも結果を伴わなかった場合は別である。 何をしても報われないうえ「努力が足りない」ということにされて しまうことに疲れ、自己否定感にさいなまれたり、経済的に自立で きなくなり、生活が立ちゅかなくなるような事態が考えられる。 3 「自分探し」社会を生きるために 最後に、「自分探しの循環」の罠がひそむ現代社会で、アイデン ティティを模索していくにはどうしたらよいのか、どのような態度 をとればよいのかについてヒントを記して本文の締めとしたい。 社会学者の鈴木謙介は、「人がひとりの人間として成長していく ためには、ときに失敗し、そこに学び、過去の自分と決別しながら、 それでもわたしがわたしであると確信し続けることが必要になる」 ~ 「と一一一口っている。 必要なことは、現在の「自分」や理想の「大人」像が否定され ることを恐れないということである。その時には挫折や痛みを伴う かもしれないが、その過程をも自分として受け入れていくのである。 そして、新しく更新された「自分」としてまた次の理想である「大 人」像を抱くことができるのだ。このような経過を繰り返して「手 の届きそうな未来を、少しずつでもいいから選び取る」ことが、「自 分探しの循環」に足を捉われずにすむ企てとなる。 現在の自分が未だ途中経過であるという、自己の暫定性を受け 入れることが少しすつでも何かを生みだすきっかけとなり、自分の 人生が「次の段階」に進むという時間感覚を取り戻す。そうするこ とで、人は希望を抱くことができるようになる。

3. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

う。ならば、その時は次の一言葉を思い出せばよい我々は天使を目来る日々のために、我々は思い改めなければならない 指すであろう者である、と。神という遥か彼方の標識は、我々の目起点は若者たちだ。一一十世紀を過ぎてようやく、自由の虚構を脱 では見ることは適わない。一一千年前に一度、イエス・キリストがやっし、しかしながら次なる道を、回帰すべき実存認識への最初の一歩 てきたというのはキリスト教徒の合一一一一口葉であり、それを信ずることを見定められないでいる彼らが、トビアスの日々への起点となる ができない者はごまんといるだろう。そんな人々には、そんな人々彼らには聖書など不要だ素朴な疑問と素朴な信仰だけがあれば、 にこそ、天使を信じてもらいたい。天使といってもキリスト教的天着火点としては十分である。小さな灯を燃え上がらせるのが聖書と 使には限らない。天使はあらゆる世界に翼を広げる。天使とは、遥聖なる人々の役目だ。思うに、それは我々の世代の仕事ではない か彼方の標識と我々の間に突き刺さっている道標である。この道標我々は、ともかく着火をすべきなのだ。 ですら見出す者は稀である。しかしながら、見出し得る、と我々の我々は人間である。我々は神ではない。我々は天使を目指すであろ 先祖は語る。「暗黒の中世」において、神を観たものは少なかったが、う者である 天使を観たものはごまんといた。このような証一言は、現代においてこれが、来る日々への最初の合一一一一口葉となるだろう は、とりわけ科学合理主義においてはナンセンスな妄言に過ぎない だろう。ナンセンスで良い。このナンセンスは、科学合理主義は決 して与えてくれない一つの認識を、宗教的実存の認識を我々にもた らしてくれるのだから。すなわち、我々は人間であり、遥か彼方を 目指す旅人であり、我々には終着点を知る旅の輩が付いている、と いう宗教的真実を トビアスの日々はどこへ行ったのか、とリルケは問う。おそら く、トビアスの日々は失われてしまったか、過ぎ去りし日々の記憶 となってしまった。今はもう、記憶の断片だけが残されているに過 ぎない。私も問う。トビアスの日々は二度とやってこないのか、と 私は密かに確信する。ラファエルはまたやってくる、と。我々が人 間であること、神ではないこと、神を目指す旅人として天使という 輩を必要としていることを思い出したとき、ラファエルはまたこの 世界にやってきて、次なるトビアスの輩となるのだ。

4. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

況も環境も揃っておらず、その「夢」は断念された。ところが、数と、なんとなく必要のなかったもののような気もするような。 とにもかくにも、つらい事もきつい時もんだりしたとしても、 年後、日本でデザイナーとして成功したさんはそのデザインの仕 事のためイタリアに滞在することとなった。彼はその時、かって夢全てをひっくるめて楽しくてたまらない人生のようなんです。 あえて言うなら、念力や空を飛んだり、できないことを理解した 見ていたイタリアにいるじゃないか、と、ふと気が付いたらしい 小学校高学年のあの瞬間が自分の責任において「夢みることを止め すべてが揃って、「夢」が叶ったのである。 たとき」のような気がします。という、生意気な文章を書いてみま われわれは、いつでも新鮮な魂を持って、日々を積み重ねていきした。 そうして自分の期が準備万端となったとき、不思議なことに「夢」 は向こうからやってくるのだ。 一一一口る とく っ たひ つを か事す しなま のん、 た色で 、ん き一つし とよ楽 ぬるて 死えめ このテーマを聞いた時、ます頭に浮かんできたのは「止めるとき」 というのは、責任や止める理由を人のせいにした時のような気がし ます。 今、私の頭に浮かんでくる「夢」は実現可能な事ばかり。 言い方を変えて、「止めた夢」というのを思い出す 。奮 毒 で 中 活の 世 槻 コ現 れこ時と 名 生のた世 女年ちい常 今 3 噐に屯 平通物現闘 「夢見ることを止める ( た ) 」ことについてなにかしら語るとする め なら、まず「夢 ( を ) 見る一 d 「 eam ~ 」という部分に着目する必要止 があるだろう。 と 「夢 ( を ) 見る ldream- 」という言葉を使う場合、一一つの状況 る が考えられる。一つは、睡眠時の幻覚体験。もう一つは、覚醒時に 見 おける将来への願望である。双方は常に私たちのそばにありながら、 夢 か ずっとかけ離れたところにある。普段さらされている日常からは明 ち らかに投げ出されており、そのことは一種の快楽であるかもしれな 僕 9 こ

5. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

術一ス子り し 美チテ女さ 某モロはっ のグ食ば ち ごと主を 家第む リ究 育ん能髪 岡り官だれ 知研よ愛す 福 論句『み る るよ憑 あ こ園使聖義傑 れ いるり 亠な ま ( き 1 お 手匸い取 好トで 岡 、描し魔 福夏をり悪 か絵た近 れ いく来最 夢見ることができる条件。それは、彼の中に「夢へと至る道筋」 ませより。い が存在することだと思います。現実的であれ非現実的であれ、その 生。のでたるし レ 桁属れんつあら ような道筋が在ると信じている限り、彼は夢を見ることができます。 内 一所ま好行でた 成に生をを生っ そして、この道筋が彼の中で消え去ってしまった時、彼は夢見るこ 胎 平部冬フク高切 とを止めたのだ、と言われるのです。 晴れ渡るソラの下、少女は夢を魅ていた。看護婦さんになる夢。 哲学者キルケゴールは、人間と神の間にはそのような消失或い は断絶が本質的に横たわっていることを見出して、「絶望」と呼び獣医師になって癌を治療し、愛犬のタロウを生き返らせる夢。ピア ました。かっての西洋世界は「個人の夢」よりも「神」へと至る道ニストになる夢。美術学校に入り芸術家になる夢。イラストレーター め の方が重要でありましたから、後者を失うことの方が耐え難く、絶になる夢。しかしそれらはただの夢に過ぎなかった。掴もうとすれ止 ば遠のいてゆき、走り出そうとすれば躓いて転ぶ。足枷をつけてい 望という一一一一口葉に値する苦しみだったのでしよう。 と こ そ 現代は、状況が逆転しています。「神」よりも「個人の夢」が大事。るかのように歩みは遅く、鉛をつけているかのように瞼は重い。 る だからこそ夢見ることを止めた時、人生における耐え難い喪失を感の重さに耐えられず、遂に目を閉じてしまった。 見 分厚い雲がソラを覆い、やがて雨が降ってきた。そして女は別の じてしまうのでしよう。 夢 と , っしょ , つも 最後に、自分の話をすると。僕は夢見ることを止めた時、神を夢を視始める。彼女は五体満足で持病もなかったが、。 ち 信じてみようと考えました。夢を失って尚生きていくためには、そなく苛立っていた。何に対して苛立っているのか、どうすればこの 苛立ちを収められるのかも知らず、ただただ歩いた。道端に転がっ うした何らかの転換が必要なのだと思います。 よ」 4

6. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

それに対し、「セルフプランディングに力を注いでいるが、その必 死さが他人からは痛々しくみえる」という批判がされ、就職活動に おいて「勝ち組」であろう者への嫉妬が彼らに向けられるようになっ た。「意識の高い学生」の行動と実像とにギャップがあり、学生ら しくない背伸びをしており、ナルシスト的な側面をもっというのも ひとつの事実なのだろう。一人前を目指しているはずの彼らの行動 は未熟であり、本末転倒であるとみられている。そんな彼らを揶揄 するように、「 ( 笑 ) 」が付けられる。 彼らが「前のめり」になってしまうのは何故なのだろうか。そ れは、現代の就活が学生に「自己」を表現することを過剰に求めて いるからである。 「自己分析」は、『現代用語の基礎知識 2 日 3 』 ( 2 日 2 ) において 次のように説明されている。「自分の強み、価値観、行動特性、思 考回路などを分析すること。目的は主に、 自分に合った業界・ 企業・職業を探す、将来を構想する、選考でアピールするト ピックスを探す、という 3 点である」 具体的には、「自分の長所・ 短所は ? 」「自分は今までにどんなことをしてきたか ? 」「過去のど んな経験が自分の人格形成に影響を与えてきたか ? 」「自分に出来 ることとは ? 」「今後の自分の課題とは ? 」などといった問いを突 き詰めていく作業である。その字の通り、「自分」について分析す る自己分析は、「自分探し」そのものである。 この方法論が就職活動に用いられるようになったきっかけは、 バブル崩壊後の長く続く不況下に、企業の採用方針が変化したこと である ~ 、。かって日本企業の人材採用に関する考え方は、「新卒・ 一括・ところてん」と表現された。「なんでもそっなくこなせるタ イプの人材を、新卒で本社が一括採用する」という基本方針だった のである。勤続年数に応じて給与を上げ、定年まで雇用することが 前提だった年功序列制度のもとでは、均質な人材を一括して採るこ とが効率的だったのだ。 しかしバブル崩壊後の一 990 年代後半から、企業の多くは新卒 採用数を大幅に縮小せざるを得なかった。その結果、採用方針も変 わる。誰でもこなせる仕事は、正社員ではなく派遣社員でまかなえ る。その代わり欲しいのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専 門性を持った人材なのである。すると、面接では「具体的にどんな 仕事を希望するのか」、「その仕事を通じて実現したい目標は何なの か」、「希望職種にマッチした専門性は持っているか」ということを 問 , っことになる そこで学生は「自己分析」が必要になる訳だ。このように複雑 化した就活で内定をとるためには、明確なキャリアプランを持ち、 そのために努力することが求められるのだ。企業が欲しがる新卒の 資質としてよくあげられる「人間力」や「コミ、ニケーション能力」 というのは、先述のような面接の問いに上手く答えられるような能 力を指している。しかし、この問いに対する答えとしてふさわしい ( 優秀な ) 回答通りの「自分」を持っている学生が、いったいどれ だけ居るだろうか 「意識の高い学生」は、このような現実のなかで登場した。彼らは、 就職活動で求められる自分の姿を先取りして行動しているのだ。「セ ルフプランディングの必死さが痛々しい」「ナルシスト的」として 揶揄され「 ( 笑 ) 」と付けられてしまうのも、この過剰な「自分」を 求めるという動機に原因があったと言える。「前のめり」の振る舞

7. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

不良詩人でもあったのである。まさにロックー この時代にまだエレキギターが生まれていないことが心底悔や 高瀬樹 ( 無職 ) まれる。非常識・アンチモラル上等な、千年ほど時代を先取りした ライフスタイルであっても後世に名が残るのだから、さすがと言う 酒を飲め、それこそ永遠の生命だ、 べきか。羨ましい限りである。 しるし また青春の唯一の効果だ。 そんなレオナルド・ダ・ヴィンチや平賀源内と同じジャンルに 花と酒、君も浮かれる春の季節に、 属する彼が、終生愛してやまなかった酒。何を隠そう、私も酒は大 ひととき たのしめ一瞬を、それこそ真の人生だー 好きである。さらに言えば私の家族はみな酒が好きである。そして 酒で身を持ち崩しかけている。主に健康面で。 まか . な 人生の儚さを快楽主義的にうたったこの詩は、十一世紀セル 父は家に帰れば必ず晩酌に芋焼酎を飲み、母も週末にハイボー ジューク朝ベルシャの数学・天文学者であり詩人、オマル・ハイヤールやワインを飲むことを楽しみとしている。私が知る限り、そう酷 ムの詩集ルバイヤートの一篇である。 い飲み方をしているわけではないのだが、一一人とも病院に数年来お 彼は科学者として二項定理の発見や暦の改正など様々な功績を世話になっていて高血圧の薬が欠かせないし、口癖は「痩せなきや」 こんにち である。 残し、今日では特に詩人としてその名が知られている。 彼の作品には、幾度となく酒が登場する。イスラム法では一般きっと酒や食事のとり方をはじめとした生活習慣の改善が必要 によく知られているように、その成立当初から現代にいたるまで飲なのだろう。酒は私の両親に新たな出会いと交流の場を、さらに生 酒は厳禁とされてきた。そのため当時の神学者達から彼は飲酒や宗きる目標までも与えてくれているのだ。 教観に関して多くの批判を受けた。 弟も酒が好きだった。鹿児島で大学生をしていた弟は、今年の 彼は表向きには神学者たちの主張を容れながらも、神学者たち春にめでたく卒業となっている。しかし残念ながら卒業式には参加 の説く教えへの懐疑や批判をその詩の中に残している。彼の唯物論できなかった。 的な考え方は、正当なイスラム教の見解とは相反するものだった。 卒業式の数日前に救急車で運ばれ、緊急入院したのである。と セルジューク朝のスルタンに仕え、イスラム世界では高名な天書くと、なにやら不穏な感じがでて、この後弟は死んだ、とでも書 才学者として知らぬ者は無いこの知識人は、その実、真面目なイスきたくなってしまうが決してそうではない。私の気分で弟を殺して ラム神学者を何度プチギレさせても、全く反省の色もなく自作の詩はいけない。 すい でポロッカスにこきおろし、酒が無いと生きていけないとのたまう弟は急性膵炎で 3 週間の入院となった。この病気の原因は、ど だからは私は酒を飲むのだ

8. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

じ質の物を作り出すことが出来ないとの思る者も多いだろうが、では何故「共に映画は、何者にもなろうとしない人間になるだ い込みがある事には違いない。しかし、そを撮ろう」という = = ロ葉を無視するのか ろう。夢破れ、挫折を経て没個性へ迎合す のことは悩みですらない。悩みで無いが故何物にもなろうとしない恐るべき存在るのだ。では、何者でもない人間となった に、行う必要もない。 つまり彼らにとっ彼らはファンであることにアイディンティ彼等は幸せか、欲を持たなけれは辛い目に て文化的創造とは娯楽ではなく、行う必要ティーを感じ、ただ消費しながら生きてい合わないと知り、実際に欲を捨てた彼等は すら感じられないものなのである く本質的には非文化系の人間と何も変わ初めから何者にもなろうとしない若者た 自らの才能を探求し、承認欲求を満たすらず、新しい朽分間を求め続ける。そして、ちは、大きな挫折も深い絶望も知ることな べく藻掻き、結局は没個性の海で溺死するつまるところ流行の産物であるそれすらもく幸せである何者かになれた者達は、た 何者にもなれない者達がいる一方、没個性やがて飽き、時の流れに身を任せ没個性のとえその実状が思い描いたものと異なって の海に心地良く浮かぶ何者にもなろうとし海を漂うのだろう いたとしても、何者にもなれない若者達か ない若者達は大勢いる 私はその存在の軽さを耐えることは出来らすれば幸福であると一一 = 0 える。何者にもな ウオホールは「やがて、誰もが朽分間、有ないが、彼らは存在の軽さを感じることはれず、何者かになることを諦めた人々そ 名人になれる時代が来るだろう」と言った。無い承認欲求は友人たちと共に娯楽に耽こには計リ知れない閭がある。閉ざされた 一億総クリエイター時代と言われて久しく、ることで満たされ、自己存在は消費によっ輝かしい未来と、無為となった過去に苦し 2 ちゃんねる、 YouTube 、ニコニコ動画他、て肯定され、創造的意欲は存在しない。何められ、暗澹とした人生を歩むのだ。 ネットでの自己表現を容易に行える時代を者になれない若者たちが、才能を否定されだがしかし、この社会は一一うほどには諦 生きてきた我々も、予期された時代を確かな絶望の中で社会を迎合することもできず死念の絶望感を感じない。その理由がこの本 物として自覚しており、ネット上に膨大なんでいく中で、何者にもなろうとしない事の中にあるだろうと信じている。諦念の開 数のクリエイターが「朽分間の有名人 , とは幸せな生き方と一言えるかもしれない。 き直りか、成熟による自我の超克か混沌 なっては消えて行っている なんと嘆かわしい事であろうか欲などとした社会の闇と光の中を生きる何者にも 泡沫が如き儚く虚しい存在である朽分間持たぬ方が幸せなのだ。何者にもなろうとなれない或いは何者にもなろうとしない若 のクリエイター達に憧れる文化系の若者たしない人々が、何者かになれた人々に対し者たちを、しつかリと見つめていきたい。 ちは多い。それどころか彼らは「朽分間の嫉妬しないわけではないだろうが、自己批 有名人」になることが創作活動の目的であ判と恨みがましい妬みの入り混じった羨望 り、目指すべき終着点であると考えているは何物にもなれない者達特有のものである 勿論プロと呼ばれる存在に成らんとしていやがて、何者にもなれなかった若者たち

9. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

1 大人になるということ 「自分探し」社会の生き方 現代日本社会の問題 森元里奈 ( ZAO 法人ドネルモ ) 本節では、日本の若者問題について概観する。いまの日本には、 フリーター、ニート、パラサイト・シングル、引きこもりが少なく 以下は筆者の卒業論文をリライトしたものである。 見積もっても合わせて千五百四十七万人はいる一。これらの人々が 顕在化する前には、「職を得て経済的に自立し、親元を離れて結婚 する」ことは当たり前だと思われてきた。そうしなければ、「大人」 はじめに いま私たちの社会では、「自分探し」という現象がありふれていではないとみられていたと言ってもよい。しかし、正規雇用に就い ていない若者、実家に居続ける若者はいまや例外的な存在ではない。 る。アイデンティティを確立できず、「何者にもなれない」という 気分を抱えている。社会的もしくは心理的に安定しておらず、「本また、一旦は正社員として就職したものの、早い段階で退職する 者も増えている。 208 年の数値で、大卒で正社員として入社した 当の自分」を探し続ける。 特に近年の日本では、就職活動 ( 以下、就活 ) の過程でそういつ者のうち、 3 年以内に 3 人に 1 人 ( 36.5 % ) が辞めている。ちな た現象がみられる。私たちは若干歳前後で、自分とは何者であるみに一 99 ~ 年には同数値は % であり、 2 年たらずで培に増えて かを社会へ表明することを強いられている。新卒で就職できなけれいる ~ 。この事態に対し、企業の採用担当からは今の若者は「わが ば「人生終了」となってしまうため、必至になる。実際には「終了」まま」で「忍耐不足」であるという声があがっている谷こうした ではないと思う。ただ、実際に就活をしている学生にはそう感じら風潮を受けて、若者の職業意識が低下しているという世間的な見方 れてしかたない。そこでは、就活をすることと「本当の自分とは何もある。この現象については、第 2 章・第 3 節において詳しく分析 する。 か」と問うことが強く結びついている。 このように従来の意味での「大人」になれない若者が増大してい いま、「自分探し」をやめ、自分が何者であるか自覚し、「大人」 る原因は何なのか。まず考えられるのは、長期にわたる不況による になることは、一筋縄ではいかないことである。 影響である。高度経済成長期の時代には雇用が多く存在し、大卒の 本論では、現代日本社会において「大人」になるとはいかなるこ となのかを示す。そのためにまず、若者が大人になろうとする行為就職活動は「売り手市場」と言われていた。しかし現在ではグロー バル化・一 T 化により、非正規雇用が増えている。フリーターの増 のありようが過去にどのようなものだったか、いまどのようになっ 加は必然的なものである。また、親と同居しているのにも理由があ ているかについて述べる。 大人になる

10. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

しかし、この学生運動を行っていた一人一人の心情に思いをめぐ ている物語」と「不安の構造」が異なっている。 らせてみると、現代人にも共感できる点があることに気づく。当時 まず「信じている物語」の違いとは、政治への期待と信頼度の違 運動に参加した小阪修平は、自らの経験を振り返り、「ぼくにとっ いである。当時は世界的にベトナム戦争反対の空気があった。また て全共闘運動とはなによりも、相手と向かい合った時の態度、自分若者の身近には、戦争の記憶を色濃く残していた年長者たちが存在 自身と向かい合う態度を意味していたのだ」一。と述べている。世界 した。さらに、敗戦直後から始まった平和教育も浸透していた。こ ( 「相手」 ) や自分自身に対して自己をどのように位置づけるのか、 うした環境のなか、戦争というもののイメージが持ちやすく、頑と その関係を模索していくあり方の表現として、学生運動というもの して避けるべきだという意識も今に増して高かった。また、大学全 があったのだ。 入時代の今と違い、年代当時は未だ大学生というだけで高学歴の また、トヒ / 貢英志は、運動について次のようにまとめている。 エリートだった。これからの日本を引っ張っていくのは自分たちな のだという意識も持ちやすかったのである。 いわば全共闘運動は、高度成長にたいする集団摩擦現象そのような政治への期待があったため、自己を表現する時に、 でもあったが、日本史上初めて「現代的不幸」に集団的政治や思想の言葉を使ったのだ。全共闘に参加した全ての学生が、 に直面した世代がくりひろげた大規模な〈自分探し〉運ト難しい哲学書や政治理論を理解したり、熱心に勉強していたりし 動であった、ともいえるだろう一「。 たわけではなかった。むしろそのような人間は指導層の一部に過ぎ なかった。しかしそれでも、自分たちの生活が権力によって左右さ 小阪や小熊の言うように全共闘運動とは、若者がアイデンティれるのだという「物語」を信じることができる空気があったのだ。 ティを模索する「自分探し」の軌跡でもあったのだ。加えて小熊のそれに対し現代では、政治への信頼が失墜している。このこと 研究からは、高度成長の社会変動期におかれた当時の若者が、なんは政治という「物語」が信じられなくなったと表現できる。では代 らかの新しい心理的危機に見舞われていたということが窺える。以 わりに何が信じられるようになったかというと、消費文化である。 下では、全共闘運動の社会的背景はどのようなものだったのか詳しつまり、自己を表現する場が政治から、個人的なものへと変化して くみていこう。そのなかで、当時の学生が直面した「現代的不幸」いるのだ。 とは何だったのかについて言及していく。 「不安の構造」について。これは、 8 年代が経済成長という「安定」 の時代であったこと、学校教育や就職 ( 活動 ) にも変化が起こった 全共闘時代と現代とでは、学生をとりまく状況の何が違うのだ ことが関係している。当時は、経済成長による産業構造の変化、労 ろうか答えを先に述べておくと、彼らと今の学生とでは「信じ 働の場に必要な人材の変化が起こった。つまり、大量の会社員が必