本当の自分 - みる会図書館


検索対象: ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号
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1. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

もいい ( 「やりたいこと」を探すこと自体にも、就職すること以上のとき「やりたいこと」を探すこと・めざすことは、個人の内部だ の重要な意味がある ) 、「やりたいこと」はどこかに実在するはけで完結するものとなってしまい、他者との交流の契機はむしろ希 薄になる。 ずだ。 これらの「意図せざる帰結」を踏まえて、久木元はさらにこう 「この 3 つが前提となって、論理的な結論として導かれているの 述べている。 が、本人が自分の「やりたいこと」をやるのが最も良い選択だとい うこと」であり、「それを優先した結果、正社員としてではなくフリー 〔一見すると「やりたいこと」をやるというのは享楽的 ターとして働くことになっても、むしろ望ましい選択であるとされ な印象を与えるものだが〕「やりたいこと」をやろうと る」のである。 することが、到達しにくく、妥協しにくく、にもかかわ つまり彼らなりの選択をした結果が、フリーターである訳だ。 らず放任されるとなると、実はそれほど楽な道とはいえ そこでは、「「やりたいこと」に懸命に取り組む自分」というのが成 ガし 熟したイメージとして存在する。この成熟モデルこそが彼らにとっ てのアイデンティティであり、「大人」像なのだ。しかし問題なの ここでみられるのは、成熟できない ( 「大人」になれない ) 若者 は、現在の「自分」と理想としての「大人」をいつ一致させること ができるのか、ということである。彼らにとっては、「「やりたいこが苦しんでいる現実である。彼らは「自分探し」をしているのだが、 それがいっ・どこで決着がつくものなのかは誰にも分からない。し と」を探している自分」は「本当の自分」ではない また続けて久木元は、「やりたいこと」という論理がもたらすフかし、止めることもできない。諦めることも、自分の理想とする大 リーター自身が意図していない帰結について言及する。それは以下人になることもできず、終わらない現実にとどまり続けている。彼 らは、「本当の自分」Ⅱ成熟した大人になる道を見つける手立てを の 3 点である。 ・「やりたいこと」に対する要求水準の厳しさゆえに、かえっ失っている。 こうした「自分探し」は、フリーターに限らず現代社会のなか て「やりたいこと」が見つかりにくくなる。仮に「やりたいこと」 が具体的にあるとしても、現実にそれを続けていくことが難しくでひろくみられる現象である。速水健朗は「自分探し」の定義につ なった場合に発生する困難。「やりたいこと」をめざすことを自らいて、「若者を中心とした人々が、現在の自分ではなく、本当の自 やめざるをえない場合、自分自身に対して否定的な評価を下すこと分を知ろうとしたり、あるべき自分の姿を求めたりする行為を指し になりかねない。 3. 「やりたいこと」を、最初からできあがったもている」一 ~ としている。「自分探し」は、インド旅行から自己啓発 本まで、私たちの身近に溢れている行為である。 のとして自分の内部に存在しているはずと設定したことの帰結。こ

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なる。また身分制が崩壊して職業や結婚相手の選択が自由になり、 なったり、結婚したり ) を持っていることが多いきしかし彼らは 人生の選択肢が広がった。 実際には、とりあえずフリ 1 ターを続けているのである。その心理 たとえ法律的に成人したとしても、相応の心理的な成熟と社会は以下に分かりやすく表現されている。 的立場を持ち合わせていないと「大人」とはみなせなくなった。す ると、特定の時期に「君は大人になった」と認めてくれるような特 定職につかずアルバイト生活を続けるということは、自分 定の権威はいなくなる。代わりに人々は、各々自身でアイデンティ の活動の可能性をまだ完全には具体的な形で限定しないま ティ。を発見し「私は大人になったのだ」と認めるようになるのだ。 まの状態で保持できる。〔 : : 〕「今こうやってバイトに明 ところが社会が成熟したポストモダンでは、近代のような誰に け暮れている自分は本当の僕じゃない。いっか時期が来れ でもあてはまる人生のモデルが崩壊し、「私は大人になったのだ」 ば本当の僕の力を発揮できる場所と時間がやってくるはず という自覚すら持ちにくくなった。近代では、職を持ち、結婚し父 だ」といった形で。。 や母になることが「大人」であると信じられていた。だが、それが 現在は容易ではないことは第一節で述べた。国際化、消費社会化、 彼らは「可能性」や「本当の僕」、「夢」、「やりたいこと」を追 情報社会化がすすみ、流動的かつ物質的に豊かな時代には、旧来のい求めているのだ。しかしそこには、久木元真吾が分析したように 価値観は通用しない。青年期も長期化する。 一 0 、理想を追えば追うほど、その行為が自己目的化するという構造 このように時代がすすむにつれて、「大人」になることよ夏雑ヒ。、 ( ネ木イカはたらいている。以下では、彼の論考「「やりたいこと」という していった。次節では、現代日本というポストモダン社会「で生き論理」 ( 2003 ) を詳しくみていくことにしたい。 る若者の問題へ再び立ち返る。そして、過去の規範で考えられてい 久木元はこの論考で、一 999 年に実施された日本労働研究機構に たような「大人」になれない若者が増える現状を分析してみよう。よるフリーターのヒアリング調査 = を分析した。そこでは、全体 の名のうちの貶名 ( 43.3 こが何らかの形で「やりたいこと」と 一「本当の自分」探し いう表現に言及しており、フリーターが自らを語る上で重要なキー 職を得ること、結婚すること、実家を出て生活することをしないワードとして「やりたいこと」が捉えられている。久木元は、彼ら ( できない ) 若者が増大していることは第 1 節で述べた。では、そ が「やりたいこと」に関して特徴的な想定を立てていることを指摘 の時若者は何を考え、感じているのだろうか。 している。その特徴は以下の 3 つに整理できる。 実際のところ、フリーターの若者は、生涯にわたってアルバイト ・「やりたいこと」を仕事にすれば、途中でやめてしまうこと を続けるつもりではなく、将来的には別の理想 ( たとえば正社員にもなく続けることができる、 cxi 「やりたいこと」は今わからなくて っ 0

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1 大人になるということ 「自分探し」社会の生き方 現代日本社会の問題 森元里奈 ( ZAO 法人ドネルモ ) 本節では、日本の若者問題について概観する。いまの日本には、 フリーター、ニート、パラサイト・シングル、引きこもりが少なく 以下は筆者の卒業論文をリライトしたものである。 見積もっても合わせて千五百四十七万人はいる一。これらの人々が 顕在化する前には、「職を得て経済的に自立し、親元を離れて結婚 する」ことは当たり前だと思われてきた。そうしなければ、「大人」 はじめに いま私たちの社会では、「自分探し」という現象がありふれていではないとみられていたと言ってもよい。しかし、正規雇用に就い ていない若者、実家に居続ける若者はいまや例外的な存在ではない。 る。アイデンティティを確立できず、「何者にもなれない」という 気分を抱えている。社会的もしくは心理的に安定しておらず、「本また、一旦は正社員として就職したものの、早い段階で退職する 者も増えている。 208 年の数値で、大卒で正社員として入社した 当の自分」を探し続ける。 特に近年の日本では、就職活動 ( 以下、就活 ) の過程でそういつ者のうち、 3 年以内に 3 人に 1 人 ( 36.5 % ) が辞めている。ちな た現象がみられる。私たちは若干歳前後で、自分とは何者であるみに一 99 ~ 年には同数値は % であり、 2 年たらずで培に増えて かを社会へ表明することを強いられている。新卒で就職できなけれいる ~ 。この事態に対し、企業の採用担当からは今の若者は「わが ば「人生終了」となってしまうため、必至になる。実際には「終了」まま」で「忍耐不足」であるという声があがっている谷こうした ではないと思う。ただ、実際に就活をしている学生にはそう感じら風潮を受けて、若者の職業意識が低下しているという世間的な見方 れてしかたない。そこでは、就活をすることと「本当の自分とは何もある。この現象については、第 2 章・第 3 節において詳しく分析 する。 か」と問うことが強く結びついている。 このように従来の意味での「大人」になれない若者が増大してい いま、「自分探し」をやめ、自分が何者であるか自覚し、「大人」 る原因は何なのか。まず考えられるのは、長期にわたる不況による になることは、一筋縄ではいかないことである。 影響である。高度経済成長期の時代には雇用が多く存在し、大卒の 本論では、現代日本社会において「大人」になるとはいかなるこ となのかを示す。そのためにまず、若者が大人になろうとする行為就職活動は「売り手市場」と言われていた。しかし現在ではグロー バル化・一 T 化により、非正規雇用が増えている。フリーターの増 のありようが過去にどのようなものだったか、いまどのようになっ 加は必然的なものである。また、親と同居しているのにも理由があ ているかについて述べる。 大人になる

4. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

一般の人々が自己のアイデンティティのありようについて悩む姿が 次節では、学生の「自分探し」の事例を分析しよう。 みられる。 まず学生運動について簡単に述べておこう。「学生運動」とは、 2 学生の「自分探し」 本章では、大学に所属する学生の「自分探し」現象について分活動家と呼ばれる学生が中心となって反戦運動、学費値上げ反対運 析する。一般に大学生は、人生のなかでもとくに時間に余裕がある動、学生会館の自治要求、反差別への取り組みなどを行うものであ 時期だと認識されている。また彼らは、社会に出る一歩手前の段階る。日常的に彼ら活動家は、自治会やサークルを拠点にして討論や であり、卒業後の進路を意識せざるを得ない。そのため、大学生は学習をしていた。また自前のビラやポスター、立て看板を制作し、 とくに「本当の自分」を探す行為にふけりやすい。昔から若者論・授業前のクラスや昼休みの広場などで演説をし、自らの主張のア 大学生論として、ステューデント・アパシーや五月病、大量の留年ピールを行った。このように運動は、日常的には地道で地味なもの 者がとりあげられてきた。そのような問題も、「自分探し」や、そであった。しかし、 ( 年の安保闘争や . 間年の大学闘争のように ) 何かをきっかけとして全学的に運動が高揚した場合、普段は大学問 れに伴って起こった現象であるといえる 本章では「自分探し」現象のなかでも特に、年代に社会問題題や政治問題には関心のない一般の学生も運動に加わっていった。 にもなった全共闘運動、そして近年目立っている「意識の高い学そうなればデモや授業ポイコット、大衆団交一、、果てはバリケード 生」について比較検討する。第一節では全共闘時代の特徴を分析し、による建物占拠など、過激な行為が行われるようになる。 それらと比較することで現代の特徴を浮き彫りにする。第 2 節におこのようなかたちで一世を風靡した「学生運動」は、いまや過 いては、現代特有の現象である「意識の高い学生」の分析を通じて、去の出来事となっている。現在の大学で、学生が政治的な主張をす 先端的な「自分探し」のかたちを描き出す。そのうえで第 3 節では、る風景、ビラを配り演説する光景などを見ることはまれである。ほ とんど無いと言ってよい。一 988 年生まれである佐藤信も、次のよ 「自分探し」現象を俯瞰的にみて、その危険性について論じよう。 うな感想を述べている。「一人一人の人間が臆することなく国家権 カ ( と当時の人なら言っただろう ) と対決し、その人間が何万も集 —全共闘運動 日本にはかって、「学生運動」が盛んに行われていた時期が存在まるなんてこと、今の世にありえるだろうか」一。と。現代からみる 6 7 年の全共闘こ運動にと奇異に思える点は、「学生が革命を起こそうとしていたこと」、ま した。そのピークは年の安保闘争と、 8 あったが、本節では後者について取り扱う。なぜなら全共闘運動とた「必ずしも政治には興味のない学生たちまで広範囲に結集して、 は、近代とポストモダンとの瀬戸際で起こった「自分探し」現象だ暴力を含む過激な活動をしていたということ」という一言に集約さ からである。そこでは、人々が従来の「大人」観に疑問を抱き始め、れる。

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致させることができないという事態に陥っていた。そして「意識の いも、厳しい就職状況が生んだものなのである。 高い学生」は、「大人」であろうとするがゆえに「自分探し」をし っ 0 続けることになる。フリーターも「意識の高い学生」も、「自分」 - 「自分探しの循環」 ここでは、「意識の高い学生」が、その意識の高さゆえに直面すと「大人」がいつまでも重ならない る困難について言及する。第 1 章・第 1 節でも、若年層離職率の増フリーターのように「大人」を目指すということにこだわるこ とでかえって「大人」になれない。就活生が就活を終えて自分を活 加については述べた。実はその原因は、就職活動にあった。 城繁幸は、就職までのプロセスにおいて、学生の「仕事に対するかせる会社に入ったつもりでも、本当に自分を活かすことにこだわ 意識」があまりにも高くなりすぎていることを指摘する。「その結るならば、退職することになる。現代では、「自分」を探し、見つけ、 果として、彼らが入社後、希望していた業務と実際に割り振られたそのモデルに失望し、また「自分」を探しに行くという循環がある。 業務にギャップがあった場合、強烈なフラストレーションを抱え込若者はこのなかで、人生の「次の段階」に進むことができない閉塞 感を感じている。 むことになる」 ~ 。。 また城は、年功序列制度の破綻により、入社しても実際には管第 1 章・第 2 節では、社会的地位の変更をともなうイニシェー 理職などの上位ポストに就くことが難しくなっていることを指摘ションについて触れた。このイニシェーションを経て人間は、人生 し、「実際のところ、自分たち〔採用担当〕が入り口で厳しく要求の次なる段階へ進むことができるのだった。しかし「自分」と「大 する能力など、半分くらいの若者、いや、ひょっとすると大半の若人」が重ねにくい現代では、この「次の段階」へ進むことが非常に 者には、生涯発揮する機会すらないかもしれないのではないか」 ~ 。困難になっているのだ。しかしどこかにあるはずの「やりたい仕事」 と述べている。その企業の現実を目の当たりにし、「先が無い」と思っや「コミュニケーション能力」というイメージを諦めることもでき ないでいる た若者が退職していくのだ。 ここでかって「意識の高い学生」だった彼らは、自分たちの求めなぜ諦めることができないのか。それは自由主義の社会では、誰 た「大人」になれないという不全感を味わうことになるのである。でも理想を追う自由と可能性が残されていると信じられているから 勤め続けていても、キャリアのどこかで躓き、終わりの見えない闘だ。「誰でもやればできる」「能力を発揮できればそれを正当に評価 します、だから君にも可能性がある」といった、個性尊重の思想が、 いにんでしまうこともあるだろう。 ここでは、誰しもがいつまでも「大人」になれない構造が存在自由主義を後押ししている。この「個性尊重」は、ゆとり教育によっ する。第 1 章・第 3 節のフリーターの例を思い起こしてほしい。 , 彼て推進された。 しかし、自由主義社会のなかで生きることは、全ての結果は自 らは、「自分」に忠実であろうとするほど「自分」と「大人」を一

6. ゆとり世代の総合表現マガジン さかしま 第二号

己責任だということでもある。先のように「自分探しの循環」を生 きることも、自己責任になってしまうのだ。たとえば就職活動では、 学生がモチベーションを高めていられるうちはまだ問題がない。し かし彼の活動が、いつまでも結果を伴わなかった場合は別である。 何をしても報われないうえ「努力が足りない」ということにされて しまうことに疲れ、自己否定感にさいなまれたり、経済的に自立で きなくなり、生活が立ちゅかなくなるような事態が考えられる。 3 「自分探し」社会を生きるために 最後に、「自分探しの循環」の罠がひそむ現代社会で、アイデン ティティを模索していくにはどうしたらよいのか、どのような態度 をとればよいのかについてヒントを記して本文の締めとしたい。 社会学者の鈴木謙介は、「人がひとりの人間として成長していく ためには、ときに失敗し、そこに学び、過去の自分と決別しながら、 それでもわたしがわたしであると確信し続けることが必要になる」 ~ 「と一一一口っている。 必要なことは、現在の「自分」や理想の「大人」像が否定され ることを恐れないということである。その時には挫折や痛みを伴う かもしれないが、その過程をも自分として受け入れていくのである。 そして、新しく更新された「自分」としてまた次の理想である「大 人」像を抱くことができるのだ。このような経過を繰り返して「手 の届きそうな未来を、少しずつでもいいから選び取る」ことが、「自 分探しの循環」に足を捉われずにすむ企てとなる。 現在の自分が未だ途中経過であるという、自己の暫定性を受け 入れることが少しすつでも何かを生みだすきっかけとなり、自分の 人生が「次の段階」に進むという時間感覚を取り戻す。そうするこ とで、人は希望を抱くことができるようになる。

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それに対し、「セルフプランディングに力を注いでいるが、その必 死さが他人からは痛々しくみえる」という批判がされ、就職活動に おいて「勝ち組」であろう者への嫉妬が彼らに向けられるようになっ た。「意識の高い学生」の行動と実像とにギャップがあり、学生ら しくない背伸びをしており、ナルシスト的な側面をもっというのも ひとつの事実なのだろう。一人前を目指しているはずの彼らの行動 は未熟であり、本末転倒であるとみられている。そんな彼らを揶揄 するように、「 ( 笑 ) 」が付けられる。 彼らが「前のめり」になってしまうのは何故なのだろうか。そ れは、現代の就活が学生に「自己」を表現することを過剰に求めて いるからである。 「自己分析」は、『現代用語の基礎知識 2 日 3 』 ( 2 日 2 ) において 次のように説明されている。「自分の強み、価値観、行動特性、思 考回路などを分析すること。目的は主に、 自分に合った業界・ 企業・職業を探す、将来を構想する、選考でアピールするト ピックスを探す、という 3 点である」 具体的には、「自分の長所・ 短所は ? 」「自分は今までにどんなことをしてきたか ? 」「過去のど んな経験が自分の人格形成に影響を与えてきたか ? 」「自分に出来 ることとは ? 」「今後の自分の課題とは ? 」などといった問いを突 き詰めていく作業である。その字の通り、「自分」について分析す る自己分析は、「自分探し」そのものである。 この方法論が就職活動に用いられるようになったきっかけは、 バブル崩壊後の長く続く不況下に、企業の採用方針が変化したこと である ~ 、。かって日本企業の人材採用に関する考え方は、「新卒・ 一括・ところてん」と表現された。「なんでもそっなくこなせるタ イプの人材を、新卒で本社が一括採用する」という基本方針だった のである。勤続年数に応じて給与を上げ、定年まで雇用することが 前提だった年功序列制度のもとでは、均質な人材を一括して採るこ とが効率的だったのだ。 しかしバブル崩壊後の一 990 年代後半から、企業の多くは新卒 採用数を大幅に縮小せざるを得なかった。その結果、採用方針も変 わる。誰でもこなせる仕事は、正社員ではなく派遣社員でまかなえ る。その代わり欲しいのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専 門性を持った人材なのである。すると、面接では「具体的にどんな 仕事を希望するのか」、「その仕事を通じて実現したい目標は何なの か」、「希望職種にマッチした専門性は持っているか」ということを 問 , っことになる そこで学生は「自己分析」が必要になる訳だ。このように複雑 化した就活で内定をとるためには、明確なキャリアプランを持ち、 そのために努力することが求められるのだ。企業が欲しがる新卒の 資質としてよくあげられる「人間力」や「コミ、ニケーション能力」 というのは、先述のような面接の問いに上手く答えられるような能 力を指している。しかし、この問いに対する答えとしてふさわしい ( 優秀な ) 回答通りの「自分」を持っている学生が、いったいどれ だけ居るだろうか 「意識の高い学生」は、このような現実のなかで登場した。彼らは、 就職活動で求められる自分の姿を先取りして行動しているのだ。「セ ルフプランディングの必死さが痛々しい」「ナルシスト的」として 揶揄され「 ( 笑 ) 」と付けられてしまうのも、この過剰な「自分」を 求めるという動機に原因があったと言える。「前のめり」の振る舞

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しかし私たちは現実の連なった人生を生きねばならぬのである。てその時の自分はその一一一一口葉になんの反応もしなかったことも覚えて 日常とは些細で退屈で単調な諸々だ。他人よりイケてないだとか、 給料を稼がねば食費にも困るだとかそんなつまらないことが「夢人がなにかをしようとする時に、その動機の在り処は二つある。 ( を ) 見る」状態を目覚まし時計のように終了させるのだ。私たち自分の中か外か は現実へとリセットされ、ゼロになる。そのとき私たちは目覚めの 4 コマを描いていた頃の自分は、描きたいから描いていた。別 悪さに途方にくれてしまうだろう。しかしそれが大人になるためのに誰かに見せたかったわけではなく、漫画ができれば満足で、友達 第一歩なのだ。 に見せていたのはおまけみたいなものだった。しかし今の自分はど うだろう。他人からの評価がなければやる気が持続せず、周囲を見 返してやりたいという思いばかりが強い。昔のように自分の中から ワ 湧き上がる動機で行動するのではなく、常に他人ありきである。突 魚 き詰めると、僕は僕自身が何をしようが関係なく、ただ人に認めら れることが一番の大切になっていた。もうずいぶん前からそうであ る。 や それに気づいた時、自分が「夢」だと思っていたものが人から も で 認められるための手段の一つでしかなく、なるほど特定の「夢」に んビ なナ 執着して継続しようという熱意が湧かないのも道理だと納得した。 同時に当時の自分には到底戻れそうにないなあと悟った。 小学生の頃に、自由帳にオリキャラが登場する 4 コマ漫画を描夢なんて最初から見ていなかった。僕にとっての夢見ることを いてはクラスメートに見せていた時期があった。「イノっち」といやめた時は、実は夢なんて見ていないと気付いた時だったのだ。残 うキャラクターで、動物のイノシシと当時人気だった「たまごっち」念。 が融合して生まれたキャラクターだ。「イノっち」は僕のクラスで 流行し、微妙に名前をもじり外見をアレンジしたクラスメートによ る派生漫画が三本存在した。 「〇〇くんの夢は漫画家さんかな ? 」漫画のアイデアを出そうと 夢中になっている時に先生に声をかけられたのを覚えている。そし

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しかし、この学生運動を行っていた一人一人の心情に思いをめぐ ている物語」と「不安の構造」が異なっている。 らせてみると、現代人にも共感できる点があることに気づく。当時 まず「信じている物語」の違いとは、政治への期待と信頼度の違 運動に参加した小阪修平は、自らの経験を振り返り、「ぼくにとっ いである。当時は世界的にベトナム戦争反対の空気があった。また て全共闘運動とはなによりも、相手と向かい合った時の態度、自分若者の身近には、戦争の記憶を色濃く残していた年長者たちが存在 自身と向かい合う態度を意味していたのだ」一。と述べている。世界 した。さらに、敗戦直後から始まった平和教育も浸透していた。こ ( 「相手」 ) や自分自身に対して自己をどのように位置づけるのか、 うした環境のなか、戦争というもののイメージが持ちやすく、頑と その関係を模索していくあり方の表現として、学生運動というもの して避けるべきだという意識も今に増して高かった。また、大学全 があったのだ。 入時代の今と違い、年代当時は未だ大学生というだけで高学歴の また、トヒ / 貢英志は、運動について次のようにまとめている。 エリートだった。これからの日本を引っ張っていくのは自分たちな のだという意識も持ちやすかったのである。 いわば全共闘運動は、高度成長にたいする集団摩擦現象そのような政治への期待があったため、自己を表現する時に、 でもあったが、日本史上初めて「現代的不幸」に集団的政治や思想の言葉を使ったのだ。全共闘に参加した全ての学生が、 に直面した世代がくりひろげた大規模な〈自分探し〉運ト難しい哲学書や政治理論を理解したり、熱心に勉強していたりし 動であった、ともいえるだろう一「。 たわけではなかった。むしろそのような人間は指導層の一部に過ぎ なかった。しかしそれでも、自分たちの生活が権力によって左右さ 小阪や小熊の言うように全共闘運動とは、若者がアイデンティれるのだという「物語」を信じることができる空気があったのだ。 ティを模索する「自分探し」の軌跡でもあったのだ。加えて小熊のそれに対し現代では、政治への信頼が失墜している。このこと 研究からは、高度成長の社会変動期におかれた当時の若者が、なんは政治という「物語」が信じられなくなったと表現できる。では代 らかの新しい心理的危機に見舞われていたということが窺える。以 わりに何が信じられるようになったかというと、消費文化である。 下では、全共闘運動の社会的背景はどのようなものだったのか詳しつまり、自己を表現する場が政治から、個人的なものへと変化して くみていこう。そのなかで、当時の学生が直面した「現代的不幸」いるのだ。 とは何だったのかについて言及していく。 「不安の構造」について。これは、 8 年代が経済成長という「安定」 の時代であったこと、学校教育や就職 ( 活動 ) にも変化が起こった 全共闘時代と現代とでは、学生をとりまく状況の何が違うのだ ことが関係している。当時は、経済成長による産業構造の変化、労 ろうか答えを先に述べておくと、彼らと今の学生とでは「信じ 働の場に必要な人材の変化が起こった。つまり、大量の会社員が必

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ン屋になったが、依然として彼は彼のままである」と。ここで言わ者にも明け渡せない牙城である。 れた「彼は彼のままである」の「である」は、彼がパン屋になろう この存在論的牙城は、無自覚的にではあるにせよ、現代の、何者 とも、政治家になろうとも、どんな職業に就こうと、どんな国籍ににもなろうとしない若者たちの間で囁かれている秘密の合一一一口葉であ なろうとも、たとえ性が変わろうとも、決して変わることのない本る。現代の若者は、決して怠惰ではない。何者かになろうとする努 質的規定に即した「である」である。すなわち、「彼は人間である」カを怠っているのではない。そうではなく、現代の状況に、病理に、 の「である」なのである。 選択を終えた大人たちにこう問いかけているのだ。 : 何者かにな つまり、第一の誤りとは、換一言すれば「我々はそもそも人間であるとはどういうことなのか ? 何者かにならなければ自分たちの価 る」という根本的・本質的規定の忘却のことである。 値は生じえないのか ? 自分たちの存在の根本価値はどこにあるの ここで第一一の点に話を移そう。我々には選択の自由が与えられてか ? 人工的社会から一方的に突きつけられた選択にどれほどの価 いる。にもかかわらず、何も選ばなかった時、世界は我々に非難の値があるのか ? 我々は何者なのか ? : 大人たちはこの問いに 目を向ける。 ・ : せつかく選ぶ自由を与えてやったのに、何故選ば答えられない。彼らは選択の奴隷であるから。選択を拒絶する問い ないのだ。選ぶことが大人になるということなのに。社会で生きるカ 、けには、そもそも理解が及ばないのだ。 ということなのに。何も選ばなかったお前には、社会に居場所など この問いを発することができるのが若者だけであるとするなら 存在しないー お前はこの社会において何者でもないー : そのば、答えなければならないのはやはり、若者である。私は、現代に ような目が、どこからか、神の視線の如く降り注いでくる。視線は生きる若者の一人として、一つの答えを、存在論的牙城の自覚を呼 訴える。人間失格と。 びかけたい。「我々は人間である」と。 だが、選択の自由によって与えられたところの自由とは、結局我々は人間である、だけでは曖昧過ぎる。と言われるならば、 のところ「装いの自由」であり、附帯的・偶有的自由である。このそこに言葉を付け加える。我々は神ではない、と。神についての大 自由を、「なる」自由を拒絶したところで、我々は依然としてある仰な定義は要らない。我々の目にはまだ見えぬ旗が、この世界のあ 一つの普遍的な存在、「人間である」ことに変わりはない。人間失らゆる時を費やしても到達できない場所で蒼穹に向かい屹立する旗 格と宣言する資格は、人間に人間たる根拠を与える存在にしか持ちが映っていると、そう信じるだけで十分なのだ。中世の人々はそれ えない。人間の存在は人間自身には帰せられないからして、人間にを神と呼んでいた。だが、彼らと信仰を共有する必要はない。ただ よる人間失格という批判は虚言でしかない。我々は、どのような選単に、生涯を費やしてもなお到達できぬ旗を人間の土地以外のどこ 択をしようとも、あるいはしなくとも、この世に存在する限り、人かに突き刺すだけで良いのだ。旗は我々に宣言する。人間であれ、と。 間という者なのである。これが、我々の存在論の、どのような侵略遥か彼方の標識は、時として、その遠さ故に絶望を抱かせるだろ