1 ンズ・アンド・ノープルの努力に対して懐疑的な意見を抱く理由は十分にある。 ーンズ・アン釦 2 ド・ノープルは、五二〇カ所の超大型書店ならびに、五〇〇カ所の他の既存店舗という膨大な抵当への 支払いをしなければならないリスクを抱えている。物理的な書店チェーンは依然として販売書籍数の約 二五 % を占めているが、オンライン販売を好む傾向は強まっており、二〇〇二年までに大型書店の売上 高が年間約四億ドルの成長になると見られるのに対し、オンラインでの書籍販売は一〇億ドル以上増加 すると予想されている。 「抵当に頼るビジネスに関わりたいとは思わない」と、べンチャー・キャピタリストのドン・ヴァレン タインは言う。「過渡期の世界では、変化の尻尾にいるよりは先頭にいたい。一九世紀スタイルの行動で はなく、二一世紀時代の行動を支援したいんだ」 ーンズ・アンド・ノープルは、他の「レンガとモルタル」型の事業と同様、深刻なジレンマに直面 している。同社は実際には店舗を一つも所有しているわけではなく、負債比率も高い。もっと多くの資 金を稼がなければ、新規出店など不可能だ。だが、店舗を増やさなければ利益は伸びないのである。 ーンズ・アンド・ノープルの O O レナード・リッジオは、「ニュ 1 ョ 1 ク・タイムズ」紙に、「生 まれて初めてのことだが、五年先のことが、今までと同じようには予想できない」と告白している。「将 来が明確に見えてこないんだ」と、彼は言う。「今起きているのは、書籍ビジネスだけの変化ではない。 小売りビジネス全体の変化であり、我々の生活様式そのものの変化なんだ。一九九七年以前に生まれた ビジネスは、二〇一〇年までには化石のごとき存在になっているとはっきりいえる」 電子商取引 (æコマ 1 ス ) は、物理的なビジネスと違い、規模のビジネス〔訳注〕規模の経済性が大
ト銘柄だった。からは目論見書が発表されたが、「レッド・ヘリング」誌はトリップ・ホーキンス に宛てた公開書簡の中で、こう問いただした。「のテクノロジー開発プログラムやビジネスモデル の複雑さから考えて、一般の投資家がこうした投資に絡むリスク / リタ 1 ン要因を適切に評価できると どうして考えられるのか。これは、プロのべンチャー・キャピタリストの仕事ではないか」 ートナーズでマネ 1 ジング・ ートナーを務めるジム・プラ べンチャー・キャピタルのアクセル・。、 イヤーは、「 3 O は株式を公開すべきではなかった。ビジネスモデルに強い確信がなかったからだ。不 幸なことに、のビジネスは、同社と戦略的提携を結んでいた多くの大手企業に振り回されていた」 と話している。当時、こうしたビジネス上の依存の強さは、専門家以外には非常に評価しづらかった。 公には、 n20 はコンセプトに踏み切る動機として、企業の知名度を高めること、ソフトウェ レ ア開発の担当者にやる気を与えること、同社のテクノロジ 1 によるビデオゲーム機への期待を高めるこプ とを挙げていた。だが、べンチャー・キャピタリスト側では、それと同時に、手早く流動性を確保する こと、リスクの分散、そしてわずか二年半前に行なった投資から一二倍もの利益を稼ぎ出すことを願っ 6 ノ ク ていた。 こうして、従来の公式は覆された。もはや情報テクノロジー企業は、株式公開に先立って、少なくとオ も数期にわたる利益計上を求められることはなくなったのである。 一九九四年六月、は二度目の公募を行なった。今回の調達額は三七〇〇万ドル。一九九六年に なるとはゲーム機ビジネスを諦め、松下電器との一億ドルの契約を含め、これまで生み出してき たテクノロジーのライセンスで余命をつなぐこととなった。一九九六年五月の「レッド・ヘリング」誌 2
インタ 1 ネット時代に入っても、ビジネスのファンダメンタルズに変わりはない。ある企業の利益は、 8 っ 0 その企業が生み出す経済的・社会的な貢献によって変化する。そうした貢献に基づいた利益の流れをい かにして持続させていくのかを実証できないかぎり、その企業に投資する意味はない。起業家が、持続 性のないアイデアや洞察を一つだけ持っているとしたら、それに由来する優位はいずれ消滅してしまう だろう。企業は、新たな洞察を生み出し、新しい経済的な原動力を構築する能力を育んでいかなければ ならない コリンズは、ビジネスのファンダメンタルズと持続的成長との関係を、物理学とエンジニアリングの 関係にたとえている。物理学は物理学、その原理に変化はない。同じことがビジネスのファンダメンタ ルズにもいえる。だが、それをどう適用するかという方法は常に変化する。エンジニアリングがたえず 進化しているのと一緒だ。 「製品を設計する方法は進化しつづける」と、コリンズは言う。「かっては青写真と鉛筆による図面を使 っていた。それが今では、『トリプル 7 』ジェットであれ何であれ、実際に金属で作る前に、設計用のソ フトウェアを利用して何度も設計をやり直せる。エンジニアリングの形は変わるが、根底にある物理法 則は一緒で変化しない」 そして、何か実際の製品を作る際に物理法則を無視することができないのと同じように、現実の企業 を所有する場合には、ビジネスのファンダメンタルズを無視するわけにもいかない。「ファンダメンタル ズを見捨てていいなどという理由は何一つない。むしろ、何よりもまず、ファンダメンタルズを適用す これがコリンズの結論である。 るもっといい方法を見つける必要がある」
利益はあったとしてもごくわずか、という状態である。 だが、こうした凋落は、必ずしも悪いことではなかった。「この二〇年間の中央値を取って考えるとす れば、一番健全な環境だったのは一九九二年から九四年にかけての時期だったということになるだろう」 と、アクセルのジム・プライヤーは言う。「一九八〇年代後半のような反動はなかったが、ここ数年のよ うな浮ついた熱狂もなかった。一九九二年から九四年の時期には、非常に堅実な企業が株式を公開して いた」と彼は言う。「過去にきちんと利益を出していなければ、トップクラスの投資銀行を主幹事にしてル タ 株式公開をうまく完了することなどできなかった。利益の実績がなければ、投資銀行としても、その銘ピ キ 柄をふさわしい機関投資家に売れるという気にはなれなかった」 ャ チ ン シリコンバレーのバカ騒ぎは続く 一九九〇年代中頃から後半にかけてインタ 1 ネット・バブル時代が到来し、若いべンチャー・キャピよ タリストによる深人りが二—三波と繰り返されるもとで、べンチャー・キャピタルの文化には再び新た な変化が生じ、次の暴落の危機が迫っている。 ウ アクセルのプライヤーは、「私がべンチャ 1 ・キャピタル事業に参加したのは一九八七年だが、この年カ ード・ビジネススクール卒業生のうち、過去最高の三〇 % がウォール街に就職した年でもあ章 ード・ビジネススクールやスタンフォ る。その三カ月後、市場が崩壊したんだ」と一一一口う。「現在、 ード・ビジネススクールの卒業生の間では、べンチャー・キャピタル業界やインターネット関連の新興四
アットホ 1 ムの狙いは、エキサイトが抱える二五〇〇万人のユ 1 ザ 1 へのアクセスを獲得し、ポータル 2 サービスを使ってインタ 1 ネットから利益を得ることだ。これはエキサイトにとっては究極の撤退戦略 であり、業界首位のヤフーに対して「その他大勢」のポジションにある状況を解決しようという賭けで ある。だがこの合併も、インターネット接続のための高速インフラを構築する際のコスト・時間という アットホーム側の問題を解決するとは限らない。 ーキンスの投資先企業である 3 O コーポレーションと やはり早期に株式を公開したクライナー 同様、アットホームのビジネスも、結局のところ、戦略的提携を結んでいる多くの大手企業に依存しす ぎている。ウイル・、 1 ストも、「アットホームの将来がケープルテレビ会社の手に握られていると思う と、ぞっとする思いだ」と認める。今のところ、業界内の大手企業がこぞってある特定のアプローチを 支援しているというのが成功の方程式のように思えるが、実はその方程式も、明日には時代遅れの遺物 になってしまうかもしれないのである。 マー・ウインプラッド・ ートナーズに属するべンチャー・キャピタリスト、アン・ウインプラッ ドは、「アットホームが長期的に存続可能なビジネスだとは思えない」と語る。「先駆性のあるモチベー ターだとは思う。しかし、あのビジネスがどうやったらうまくいくのかが見えてこない。あまりにもコ ストかかかりす」る」 だが、アットホームがこれだけ予測可能な課題を抱えているにもかかわらず、その株式公開を妨げる 要因にはならなかった。アットホームに対する筆頭べンチャー・キャピタリストであるジョン・ドウア ーを扱った一九九七年の「ニューヨーカー」誌の記事に、意味深長な場面が出てくる。アットホームの
だが、過去のすべての投資プームの場合と同様、インターネット分野に投資された資金全体を考えれ ばその利益率は非常に低くなるのではないかと、マクナミーは危ぶんでいる。「主力となるテクノロジー が十分に標準化され、インタ 1 ネット産業が本格的に飛躍できるようになるには、ゝ 力なりの歳月が必要 だろう」と、彼は確信している。自分の主張を裏付けるためにマクナミーが指摘するのは、マイクロソ フト会長兼であるビル・ゲイツの資産の増加である。ゲイツが保有する株式の価値は、一九九〇 年には五〇億ドルにすぎなかったが、九九年には九〇〇億ドルを超えている。「マイクロソフトは設立か ら二〇年も経っているが、これだけ同社の株の価値が上昇したのは、この五年の話にすぎない」と、マ クナミーは一一一一口一つ。 インターネット企業によるー Q- O 膨大な資金が市場に流れ込めば、企業の設立が加速されるだけでなく、早い時機に株式を公開できるツ ようになる。その多くは、自社の戦略が何かという点について曖昧なままだ。せいぜい、「インタ 1 ネッ一 ン ト上に自社のスペースを確保する」という程度の内容だ。インターネットに大きな投資をしているハマ イ ・ウインプラッド・ ートナーズのべンチャ 1 ・キャピタリスト、アン・ウインプラッドによれば、章 「一見しただけでは、どんなビジネスモデルなのかさえ判然としない企業もある」という。またウインプ ラッドは、およそ企業とさえ呼べない、単一の製品に依存したビジネスでしかないものもあると指摘し
べゾスがアマゾンの構想を立てた一年前、シリコンバレーでは別の物語が動き出していた。一九九三 年夏、ジェリ 1 ・ヤンとデヴィッド・ファイロの二人は、本来ならばコンピューター・サイエンスに関 する博士論文に取り組んでいなければならないはずだった。だが、現実にはネット・サーフィンの方が はるかに面白い。指導教授は休暇で外国に行っている。何を遠慮することがあるだろう ? ャンとファイロは、夜も昼もスタンフォ 1 ド大学のキャンパス内の狭苦しく風通しの悪い移動式のオ フィスにこもり、インターネット上のサイトのカタログをまとめあげた。最初、それは自分たちのため の参考用資料に作ったものだったが、徐々に、「デヴィッドとジェリ 1 のワ 1 ルドワイド・ウエプ・ガイ ド」として発展していった。すぐに、数百人、数千人のネット・サ 1 ファーが彼らのガイドにアクセス するようになった。彼らが自分の名前を冠するのをやめ、そのサービスを「ヤフ 1 ( Yahoo!) 」と呼ぶよ うになったのは、気まぐれでさわやかな控えめさの表われだった。 約二〇年前の自家製パーソナル・コンピューターの現象と同様、ヤフ 1 の活動は有機的な草の根の動 きであり、ビジネス組織への発展はゆっくりとしたものだった。だが、商売としてのチャンスが手中に あることを悟ったヤンとファイロは、ビジネスプランを急いでまとめ、有利な条件を求めてべンチャー キャピタリストを訪ね歩いた。クライナー ーキンスのパートナーたちは、やはりオンラインサービ スの新興企業で、すでにクライナー・ ーキンスが出資していたエキサイト社とヤフ 1 が合併すること 8
ンプレクトが利害の対立の要となっているように、 & ビジネスで同じように重要な対立の要となっ ているのが、アレンなのである。 「その案件に対して自分がどれだけの付加価値を与えられるか分からないうちに、なぜ手数料を設定で きるのか、私には理解できないよ」と、アレンは一一一一口う。「ウォール街で行なわれている & ビジネスの ほとんどは、何の付加価値も生んでいないんだ」 ほば確定した交渉に対して投資銀行が意見を述べるだけという場合だってある。「それでは付加価値と は言えない。単に法律上の形式を整えているにすぎないんだ」と、アレンは一一一口う。彼はさらに、 の双方の当事者にとってメリットがあるような独創的なアイデアを、投資銀行が思いつくことはめった にないと主張する。「そういう活動は不足している」とアレンは言う。そうした活動の例としてアレンが 指摘するのは、コカコーラがコロンビア・ピクチャーズの株式を取得する際に彼の銀行が与えた付加価 値である。この取引は、完全にアレン・アンド・カンパニーに委ねられていたのだ。 アレンも、ディズニー・キャピタルシティズ / O の合併の際には、たいした付加価値を提供でき なかったことを認めている。この合併の主役三人、つまりマイケル・アイスナー、ウォーレン・パフェ ット、トム・マーフィは、 1 に声 かなり交渉を詰めておいてから、ようやくアレン・アンド・カンパニ をかけたのである。「あのときの手数料は向こうの言い値で満足だった。ああいう & << は、関われるだ けで名誉だからね」と、アレンは言う。 アレン・アンド・カンパニーは、アイダホ州サンバレーにあるアレンの農場で毎年懇親会を開き、こ うした巨大企業の間の議論や合併話を推進しようとしている。代表を派遣する主要企業の数は約四〇社。
フランク・カトロンが歩んだ道 現在 O co ファースト・ボストンのテクノロジー・グループを統括しているフランク・カトロンは、恐 らく、過去一五年間、テクノロジー分野で最も影響力の強かった投資銀行家といえるだろう。カトロン がテクノロジー投資銀行業界に与えた影響を、ジョン・ドウアーがべンチャー・キャピタル業界に与え た影響になぞらえる人も多い。ドウアーと同様、カトロンも、抜け目のない、知的でビジネスの機微に パソコン業界が飛躍的な 通じた、積極的なセールスマンタイプの典型といえる人物だ。この両者とも、 発展を遂げる時期に経験をつみ、ネットスケープやアマゾンといった多くの案件に関わってきたのは、 決して偶然ではない。 カトロンがスタンフォード・ビジネススクールで << の課程を修了しようとしている頃、彼が将来 勤務することになるモルガン・スタンレーは、新興のパソコンメ 1 カーだったアップル・コンピュータ の株式公開に取り組んでいた。アップルの— O の成功に希望を抱いて、カトロンは一九八一年、卒業 からかなり経ってからモルガン・スタンレーに入社した。そして、モルガン・スタンレーが有力なテク ノロジ 1 投資銀行としてカリフォルニアに進出する際の指揮をとった。その過程でカトロンは、ビル・ プレイディ、ジョ 1 ジ・バトロスなど、カトロン自身の能力を補完しつつ、単独でも大規模で厄介な案 件を処理する能力を持った人材からなる優れたチームを作り上げた。 モルガン・スタンレーのもとで、カトロンのチームは、シスコシステムズ、ネットスケープ、 co 1 70
ば完全に命運を絶たれてしまった。 「私がハンプレクト・アンド・クイストに入社したのは一九八二年だ」と、同社マネージング・ディレ クターのクリスティナ・モルガンは一言う。「私は、テクノロジーが我が国経済の牽引車になると信じてい た。一九八三年に八カ月続いた強気市場では、自分がすごく優秀なように思えたが、率直に言って、一 九八四年から九〇年にかけてはひどかった。当時は、テクノロジー・ビジネスになんか関わらない方が ましだった。一九八〇年代にハンプレクト・アンド・クイストに在籍するのは、冗談の種にしかならな かった」と、彼女は言う。 テクノロジー専門の投資銀行業務のべテランで、リーマン・プラザーズでテクノロジー業務を統括し ているスチュ・フランシスも、二〇年にわたる業界での経験について、同じような話を聞かせてくれた。る す 中 一九七七年にスタンフォードを卒業し、この業界に入った私は、あるパーティの席で、自分は投に 資銀行に勤めていると自己紹介した。すると人々は、「何の仕事だって ? 」という反応を示した。一は 九八〇年代半ばから後半にかけて、同じように自己紹介すると、「ずいぶん稼いでいるんだってねえ」ネ と言われた。一九九〇年代には、「どうして仕事を辞めなかったの ? 」と聞かれた。これで、ある程タ 度、私の経験はまとめられると思う。かっての投資銀行家は、表に出ないでクライアントと協力しイ ていた。最近では、一部の投資銀行や個人が以前よりもはるかに目立っている。以前よりも投資銀 4 行というビジネスの地位が向上したんだ。