モルガン・スタンレー - みる会図書館


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1. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

など、テクノロジー業界で最も有名な企業を相手に、株式公開その他の金融サービスを提供した。カト ロン率いる海千山千の投資銀行家・アナリストたちの働きにより、「モルガン・スタンレー」という名前 はテクノロジー業界でも有力なプランドになっていった。株式公開を望む企業がモルガン・スタンレー のもとに殺到し、の目論見書に「モルガン・スタンレ 1 」という名称を記載することによる威光 を狙った。モルガン・スタンレーと組むことができれば、その企業の株式はプレミアム付きの価格で売 買され、株式公開後のサポートや配慮も手厚かった。 一九九六年四月頃には、推定五〇〇万ドルもの年収を稼いでいながら、カトロンも彼の率いるチーム一丁 もモルガン・スタンレーに不満を抱くようになっていた。そしてついに、カトロン、プレイディ、バト資 ロスの三人は、他九人の同僚を引き連れてモルガン・スタンレーの屋根の下から離れ、カリフォルニアる 州メンロー 1 クで、新たなテクノロジ 1 投資銀行業務を始めることを決定し、業界に大きな衝撃を与中 えた。新会社は、ドイツに本拠を置く国際的な商業銀行・金融機関であるドイツ銀行の傘下に入り、に テクノロジーズと称した。この反逆者チームの目標は隠すまでもなかった。の使命は、テク ノロジー分野でのコーポレート・ファイナンス、 & << に関するアドバイザリー業務、調査サービス事ネ 業を迅速に構築することであり、それは最終的にはモルガン・スタンレーと正面から衝突することを意タ イ 味していた。 「モルガン・スタンレーを離れた理由はたくさんある」と、カトロンは一一一一口う。「業績次第で約束されてい 4 たはずの報酬が実際には与えられないとゝっこ、匱 しオ幸酬上のトラブルがあった。我々のチームは、社内の 他のチームに比べれば効率も収益性も高かったのに、人数を増やさないように言われていた」

2. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

もう一つ、投資銀行業界における規制の変更という要因もあった。社債発行企業が従来よりも簡単に 投資銀行を乗り換えられるようになったのである。この変更は、投資銀行の間にクライアントをめぐる 猛烈な奪い合いを引き起こした。ェクソンなどのように、投資銀行業務の一部を社内に取り込んでしま う企業も現われた。結果として投資銀行側の利益マージンは縮小しはじめ、彼らは新たな市場を見つけ る必要に迫られたのである。 ハイテク業界が選ばれたのは自然な流れだった。急速に成長していたにも かかわらず、投資銀行サービスの供給は不足していたからである。 重要な転機となったのは、一九八〇年のアップル・コンピュータの株式公開だった。主幹事となった一丁 / ィー のはモルガン・スタンレ 1 、もう一つの引受証券会社としてハンプレクト・アンド・クイストも参加し資 た。「スティープ・ジョブズは、自分の会社が非常に大規模な企業に成長しつつあると感じており、大手る す の投資銀行に主幹事をやってもらいたがっていた」と、カトロンは言う。 中 当時モルガン・スタンレーで電子業界アナリストを務めていたべン・ローゼンは、早くからアップルに 製コンピューターを愛用しており、モルガン・スタンレーとアップルのツナギ役としては適任だった。 その後ローゼンは、セヴィン・ローゼンとともに、コンパックコンビュータの共同創立者、べンチャ 1 ネ タ キャピタリストとして勇名を馳せることになる。 ン 実際には、モルガン・スタンレ 1 が— O を扱ったのはほば二五年ぶりであり、その後も同様のチャイ ンスが相次いだ。一九八二年には、クライナー・ 1 キンスがモルガン・スタンレーに対し、当時同社 4 としては最大となる一億ドルのファンドの非公開募集の実施を支援してほしいと依頼してきた。そして、 その後クライナ 1 ・ ーキンスとモルガン・スタンレーの間には強固な絆が確立されたのである。

3. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

設立したのは、一つには彼らアナリストたちがモルガン・スタンレーに不満を抱いていたからだった。 しよっちゅう彼らの不満に対処してやっていたからね。彼らが皆モルガン・スタンレ 1 にとどまると知 っていれば、私も辞めたりしなかったよ」 一方、モルガン・スタンレーの宿敵であるゴールドマン・サックスは、カトロンと、その才能豊かな 相棒たちが抜けたことで、ライバルの力が大幅に弱まるのではないか、そしてカトロンが独自に を設立したとはいえ、この市場機会をうまく活かせるのではないかと期待した。だが、モルガン・スタ ンレーの業績はあいかわらず順調だった。カトロンの離脱から一年の間に、モルガン・スタンレーのテ行 クノロジー・グループは、引受業務べ 1 スで三五件、八五億ドル相当の実績を上げ、一三件の & < 交気 几又 渉に対するアドバイスを提供した。一方、同じ時期、ゴールドマン・サックスのテクノロジー市場でのを 中 シェアは約五八 % だった。 この時期のの市場シェアはわずか四 % だったが、一九九七年には大きな飛躍を見せた。アマゾに ンの株式公開を担当し、最大規模の & << 一〇件のうち五件にはが関わっていた。一〇〇件以上、は 総額二三〇億ドルという信じがたい量の取引をこなし、手数料として二億ドルを稼いだ。これは一九九お タ 七年のドイツ銀行の銀行業務収入の三〇 % に相当する。 ン 「テクノロジー業界の中で、付き合いやコネがうまく育てられたんだ」と、カトロンは言う。「その頃にイ は、明らかにモルガン・スタンレーやゴールドマンと張り合える調査チームができていた。我々はプラ 4 ンドを確立しようと努力したんだ。そして、『他の投資銀行は確実に陰険だが、の連中は一緒に仕 っ 0 事をしていて楽しい』という評判が立った」

4. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

フランク・カトロンが歩んだ道 現在 O co ファースト・ボストンのテクノロジー・グループを統括しているフランク・カトロンは、恐 らく、過去一五年間、テクノロジー分野で最も影響力の強かった投資銀行家といえるだろう。カトロン がテクノロジー投資銀行業界に与えた影響を、ジョン・ドウアーがべンチャー・キャピタル業界に与え た影響になぞらえる人も多い。ドウアーと同様、カトロンも、抜け目のない、知的でビジネスの機微に パソコン業界が飛躍的な 通じた、積極的なセールスマンタイプの典型といえる人物だ。この両者とも、 発展を遂げる時期に経験をつみ、ネットスケープやアマゾンといった多くの案件に関わってきたのは、 決して偶然ではない。 カトロンがスタンフォード・ビジネススクールで << の課程を修了しようとしている頃、彼が将来 勤務することになるモルガン・スタンレーは、新興のパソコンメ 1 カーだったアップル・コンピュータ の株式公開に取り組んでいた。アップルの— O の成功に希望を抱いて、カトロンは一九八一年、卒業 からかなり経ってからモルガン・スタンレーに入社した。そして、モルガン・スタンレーが有力なテク ノロジ 1 投資銀行としてカリフォルニアに進出する際の指揮をとった。その過程でカトロンは、ビル・ プレイディ、ジョ 1 ジ・バトロスなど、カトロン自身の能力を補完しつつ、単独でも大規模で厄介な案 件を処理する能力を持った人材からなる優れたチームを作り上げた。 モルガン・スタンレーのもとで、カトロンのチームは、シスコシステムズ、ネットスケープ、 co 1 70

5. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

ルガン・スタンレーが、ヤフー、べイ、アマゾンの— O の主幹事を務めるチャンスを逃したこと」 % と答えた。 , 彼女は、ヤフーの業務を逃したことを、「救いようのない失敗」と認める。当時、彼女 はヤフーが株式を公開するなどとは考えていなかったのである。もちろん、さしたる大手銀行との競争 もなしにヤフ 1 の— O 業務を丸ごと引き受けたゴールドマン・サックスはホクホク顔である。また、 オンライン・オークションを運営するべイに株式公開を持ちかけた際にも、ゴールドマンの投資銀行 チ 1 ムはモルガン・スタンレーよりうまくやった。「当時、べイとの会合を終えて、これは駄目だと悟 った」と、ミーカーは「ザ・ニューヨーカー」誌上で嘆いている。この敗北はモルガン・スタンレーに とっては痛かった。何しろべイは最終的に一九九八年中で最高の成績を上げたとなったのであ る。 アマゾンに関しては、ミーカーは「ザ・ニューヨーカー」に、自分としては同社の— O を担当した かったのにモルガン・スタンレーの上層部からストップをかけられた、と漏らしている。モルガン・ス タンレーとしては、アマゾンの主なライバルであるバーンズ・アンド・ノープルと長い付き合いがあっ たからだ。最終的にアマゾンの— O 業務を獲得したのは、当時まだにいたフランク・カトロン とビル・プレイディである。この契約は、が足場を固めるうえで大きな意味を持った。 だが、ミーカーは、これまでの名声に寄りかかってインターネット産業でも花形アナリストになった わけではない。依然としてべイがオンライン・オークション分野でのリーダーになると信じていた彼 女は、ひどく多忙なスケジュールの合間を縫って、べイの経営陣との関係維持を最優先課題にした。 たとえばミーカーは、べイ O O のメグ・ウィットマンに何時間も付き合い べイの戦略の見直し

6. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

シリコンバレーの新興企業の資金調達は、一九七〇年代を通じて大きなビジネスにはならなかった。 だが、一九七〇年代末になると、ニューヨ 1 クの大手投資銀行 ( いわゆる「バルジ・プラケット」企 業 ) が、サンフランシスコでテクノロジー投資銀行業務を開始する決定を下す。ハイテク企業の資金調 達がまだ小規模な市場だったにもかかわらず ( 当時の—;-{0 の規模はほんの一〇〇〇万 5 一五〇〇万ド ルであり、企業合併・買収 (ü<) もほとんど行なわれていなかった ) 、大手の投資銀行でさえ、西海 岸で何かダイナミックな現象が起きていることに気づきはじめたのである。現在では消滅してしまった »-a ・・ロスチャイルドが、この市場に参入した最初の大手銀行だった。また、モルガン・スタンレー や、その宿敵であるゴ 1 ルドマン・サックスも、一九八〇年にはテクノロジ 1 企業に対するサービスの 売り込みに非常に積極的になっていた。 ーキンス・コ 1 フ こうした「バルジ・プラケット」企業が参入する道を開いたのが、クライナー・ ィールド & バイヤーズやザ・メイフィールド・ファンドといったトップクラスのべンチャー・キャピタ ルだった。彼らは、自分たちの投資先企業のために、ニューヨークの大手銀行がもたらしてくれるであ ろう格式や影響力を欲しがっていたのである。現在 O ファースト・ポストンのマネージング・ディレ クターとしてテクノロジー担当グループを率いるフランク・カトロンは、次のように語っている。「私が モルガン・スタンレーに入社したのは一九七七年だった。当時のモルガン・スタンレーは、基本的には、 ゼネラル・エレクトリックやゼネラル・モーターズなど、既存の優良クライアント企業の資金調達機関 だった。そこへ、クライナー ーキンスやメイフィールドがモルガン・スタンレ 1 やゴールドマンに 話を持ちかけてくるようになったので、手を広げることにしたんだ」 166

7. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

としては、サ 1 チ・エンジン技術を提供しているインクトミや、女性専用のウエプサービスである•- ヴ イレッジなどの大物がある。こうした企業をはじめ、一九九八年の年明けから九九年半ばにかけてゴー ルドマンが— O を扱ったインターネット銘柄は、平均二九三 % も上昇した。一方モルガン・スタンレ ーも、プロードキャスト・ドット・コムやプライスライン・ドット・コムなどの好調銘柄のおかげで、 同じ時期に同社が—=-:O を手がけた銘柄は平均一七五 % の上昇を見せている。発売初日にはをめ ぐる興奮が頂点に達し、インターネット銘柄が単一日としては最大の上昇幅を示すものだが、両社が手 がける銘柄は、初日を除外しても立派な実績を残している。ゴールドマンの場合は、発売初日を 除外した上昇率が平均六一一 / % 、モルガン・スタンレ 1 の場合は四六 % となっている。 この投資銀行業界の中心企業二社の数値を他の大手投資銀行と比べてみると、なぜ起業家が、できる ことならゴールドマン、モルガン・スタンレ 1 のいずれか一方に主幹事を引き受けてもらいたいと願う かが分かるだろう。たとえば、同じ時期にドナルドソン・ラフキン & ジャンレットが手がけた— o-« O は 二六 % しか上昇しておらず、しかも発売初日の終値に比べれば一五 % 下がっている。またメリルリンチ も、一九九六年にパロアルトにテクノロジー専門部署を開設して以来、積極的にシリコンバレー進出を 図っているものの、— 0 銘柄の当初の上昇率は七六 % にとどまっており、初日の終値に比べれば一七 % しか上がっていない

8. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

史上最高値で売り抜ける プティック投資銀行がいかに虚勢を張っても、結局のところ、モルガン・スタンレーやゴールドマン などの総合的な投資銀行の能力と張り合っていくのは困難である。たとえば一九九八年には、投資銀行 大手四社 ( ソロモン・スミス・ ー、モルガン・スタンレー、ゴールドマン、メリルリンチ ) だけ で、収入総額八〇億ドルのうち五〇 % を稼ぎ出している。ある大手投資銀行の関係者は、「実際の一丁 ところ、シリコンバレーが生まれてまもない頃、べンチャー・キャピタルが手持ちの企業の株式を公開気 する必要に追られなければ、プティック投資銀行などそもそも存在していなかった」とさえ言っている。る 大手の投資銀行が有利なのは、大規模な契約を獲得するうえで、グロー ハルなプランドカや起中 債能力を活かせるからだ。実際、モルガン・スタンレー、ゴールドマン、メリルリンチ、そして現在でに はカトロン率いる O co ファースト・ポストンがおいしい大口契約を選り好みし、プティック投資尺一丁こ 彳。は 残されているのは ? もっと小規模で実績のないインターネット関連のだけなのである。たとえお ば、一九九八年にメリルリンチがハンプレクト・アンド・クイストの買収を検討したとき、これまでハタ ン ンプレクト・アンド・クイストが手がけた— O のうち、メリルリンチだったら、約三分の一程度にしイ か手を出さなかっただろうという結論が出たほどだ。残りの三分の二は、五〇〇〇万ドル以下の小規模 な—O-\O で、その後も投資銀行側には追加ビジネスをもたらしそうにない案件だ。メリルとしては小規 模すぎて面倒なだけである。

9. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

から、各地での— O のプレゼンテーションの練習やチェックまで手伝ったのである。 最終的に、ミーカーの奮闘はすべて実を結んだ。一九九八年三月、べイが二回目の新規公募を一〇 億ドル規模で行なった際、ウィットマンはゴールドマン・サックスの担当者に、モルガン・スタンレー との間で株式を分け合うよう主張したのである。ゴ 1 ルドマンにとっては無念だったが、結局折れた。 ウィットマンは「ニューヨーク・タイムズ」誌に、「モルガン・スタンレーはそれだけのことをしてくれ た」と話している。 アマゾンに対するミーカーの執着も、やはり成果を上げた。上司に邪魔されたにもかかわらず ( ミー 行 カーはその決定に非常に腹を立てたので、あやうく会社を辞めてしまうところだった ) 、彼女はアマゾン の経営チームとの接触を続け、おおいに支援した。アマゾンに対する高い評価を発表した彼女に対して、る アマゾンは五億ドル相当のジャンクボンド発行をモルガン・スタンレ 1 に任せる契約を結んで、その努中 力に報いたのである。 ミーカ 1 が、ゴールドマン・サックスや、かっての仲間であるフランク・カトロンとの間で演じた死 闘は、さまざまな意味で、テクノロジー分野において大手投資銀行の間の、長期に及ぶ往々にして苛烈ネ なライバル関係の縮図である。三社とも、最も有利なインターネット企業との取引を獲得することにぎタ りぎりまで焦点を絞っている。長期的には、最も優れた実績を上げた—0--fO を数多くこなした投資銀行イ が栄華を極めることは分かっているからだ。 これまでのところ、インターネットをめぐる投資銀行間の競争でトップに立っているのは、どうやら ゴールドマン・サックスのようだ。ヤフー べイ以外にも、ゴールドマン・サックスが手がけた企業

10. インターネット・バブル : 来るべき反動にどう備えるか

欲しい銘柄が何でも手に入る」と伝えている。 報道によれば、公開される株式のほとんどはミューチュアルファンドなどの大手機関投資家に販売さ れなければならないが、少量は、特定の個人のための「リテール・ポット〔訳注【特定個人向け販売の ための備え〕」のために取っておかれるという。ロバートソン・スティープンスでは日常的に、各— O について約一万株ずつ確保し、企業幹部やべンチャー・キャピタリストその他の特別な顧客の個人証券 口座に送り込んでいると報じられた。 モルガン・スタンレーも、ネットスケープの— O の際に、一部の企業幹部のために一〇〇〇株を用一丁 / ィー 意したとされる。その中には、当時はまだ非公開企業だったアー 1 ・ソフトウェアの O O も含まれ 投 ていた。ア 1 バ 1 はその後、— O に際してモルガン・スタンレーを主幹事会社に選んでいる。 る 、ンプレクト・アンド・クイストのマネージング・ディレクター、クリスティナ・モルガンは、「ウォ中 ールストリート・ジャーナル」紙上で、こうした慣習を、見込み客に対するゴルフ・夕食などの接待にに なぞらえて弁明している。「我々がやっているのは、取引を獲得しようとする努力だ」と、彼女は言う。 「キャビアがふんだんに振る舞われる贅沢なパ ーティと一緒だ。それも、招待客に働きかけようとする目 的のはずだ」。それと同じで、銘柄を配分するのも「違法ではない」と、彼女は一言う。「モラルにタ ) 0 ヾ、 イ 反しているわけでもなし ヒジネス上の判断だ。もしド 1 ナツを販売しているのであれば、系列のドー ナッショップが顧客に与えるイメージを向上させるために、あらゆる手段を尽くす。それが仕事だから 4 だ。我々がやっているのもそれと同じことだ」 その後、この株式スピンをめぐる議論についてモルガンに尋ねたところ、彼女は「空騒ぎにすぎない」 1