体 ( 方向性 ) の概念を導人したことを含意している。ワッツたちのモデルは静的で機械的な ものだった。頂点の増加は考慮されていなかったし、枝のつなぎかえもスモールワールドグ ラフを生みだすための仮設的操作にすぎなかった。けれどもパラ、、ハシたちは、そこに時間を 導人し、枝のつなぎかえが頂点の参人にともない日常的に起きているようなモデルを組み立 てた。結果として、ワッツたちのモデルでは枝に方向性がなかったが、ヾ ノラバシたちのモデ ルでは枝に方向性が生まれることになった。後者のモデルでは、新しい頂点こそが古い頂占 のなかから接続先を「選択」するのであって、その逆は成立しないからである。 スモールワールドグラフは、メン。ハーのみなが仲間に恵まれ、た力いに極端に遠し足離に もならない、そんな幸せな関係を表現しているように見える。ワッツたちによればそれが人 間社会の数学的表現である。しかし、もしそこに定期的に新規参加者が加わり、しかも彼ら がみな基本的に、すでに友人を多くもっ参加者をこそ優先し友人として選んでいくのだとす れば ? ハラ。ハシたちは、あえて社会学的に表現すればそのように問いを立てた。実際、人 間はしばしばそのように友人を選択するし、新設のウエプページもまたなるべく強いページ をリンク先に選ぶだろうから、この仮定は現実的である。そしてパラバシたちは、成長と優 先的選択の仮定を人れてシミュレーションを動かすと、じつに多くのモデルでスケールフ ー性が現れることを証明してしまったのだ。 ところで、このスケールフリーは、統計学では「べき乗分布」と呼ばれる確率分布で現れ る特徴である。べき乗分布は「べき乗則」あるいは「べき則」と呼ばれる数式にしたがう。 べき乗則とは 1 にのような式を指している。ここでおは分布固有の定数で、んのほうが変数 1 7 5 第 4 章郵便的マルチチュードへ
三本の枝に接続しているが、点は四本の枝と接続している。この不平等はランダムグラフ だとさらに拡大する。図 mc-) の点は八本もの枝を伸ばしているのに対して、点は一本と これは言ってみれば、あるひとには八人の友人がいるが、別のひとに しか接続していない はひとりしか友人がいないような状況を表している。 ネットワーク理論では、頂点に接続する枝の数を、その頂点の「次数」と表現する。枝数 が偏っていることは、「次数が一様に分布していない」と表現される。スモールワールドグ ラフやランダムグラフでは次数分布は必ず偏る。 スケールフリーは、その次数分布に関する特徴を指す一一一口葉である。それは、ここまで見て きたふたつの特徴 ( スモールワールド性 ) とは異なり、ネットワークの「かたち」そのものか ら導かれるものではない。スケールフリーは、頂点と枝の関係に統計的処理を施してはじめ て見えてくる特徴なのである。 , 「レ」い一つ スケールフリー性を発見したのは、さきほども名前を挙げた。ハラバシとアルバ ふたりの研究者である。それは、理論よりもさきに現実の観察で発見されている。 スケールフリーは、スケールⅡ規模からフリーⅡ自由、すなわち規模にかかわらず分布が 同じかたちをとるという特徴を指す一一一口葉である。スケールフリーなネットワークにおいては、 たとえば、枝が一〇本の頂点の総数から一〇〇本の頂点の総数への減りかたが、枝が一〇〇 本の頂点の総数から一〇〇〇本の頂点の総数への減りかたに等しくなる。それゆえ、どれだ け枝数が多い頂点を起点としても、さらに枝数が多い頂点が見つかる可能性がけっしてゼロ にならない。ひらたく言えば、膨大な数の枝が集中する頂点が少数だが必ず存在し続けるわ 1 7 1 第 4 章郵便的マルチチュードへ
ネットワーク理論では、頂点と頂点を結ぶ最小の枝の数を、その二点間の「距離」と定義 する。ふたたび図 2 を例にとると、点から点までは、少なくとも三本の枝を通らなけれ ばたどりつけない。それゆえとの「距離」は 3 と定義される。「平均距離が小さい」と は、文字どおり、このように定義された「距離」をすべての頂点の組み合わせに関して算出し、 平均した値が小さいということを意味している。そのようなネットワークにおいては、ある 頂点から別の頂点まで ( 平均すれば ) 少数の枝を通るだけでたどりつける。 人間社会は、じつはまさにこの特徴を備えている。このことはネットワーク理論が発展す るまえから知られていた。社会学に「六次の隔たり」という有名な仮説がある。世界の人口 はいま七〇億人ほどだが、そのなかの任意のひとから任意のひとへ ( たとえばアフリカの小国 に住む無名の農民から日本に住むあなたへ ) 、わずか六つの友人関係を経由することでたどりつけ るという仮説である。別のかたちで表現すれば、七〇億の人類社会の全体が、あなたの「友 だちの友だちの友だちの友だちの友だちの友だち」のなかにすつぼり収まってしまうという 仮説だ。意外なほど小さい数字だが、この六という数は、一九六七年にスタンレ ラムが物理的な手紙を使って行った社会実験で得られ ( 当時の世界人口は七〇億よりは小さかった が ) 、のちインターネットを利用しての追試でも確認されている。よく「世間は狭い」と言うが、 人間社会はほんとうに狭いのだ それでは、なぜ人間社会は狭いのか。じつはこの特徴は、数学では長いあいだモデル化す ることができなかった。それは大きなクラスター係数と矛盾すると思われたからである。人 間社会にはクラスターが多い。ひとはみな、遠くに友人をつくるよりも、友人同士もまた友 人であるような近い関係を好む。だとすれば、社会はもっとばらばらになり、したがって世 1 6 5 第 4 章郵便的マルチチュードへ
ルフリー」という三つの特徴を備えているとされる。 ここではその三つの特徴を簡単に見ていきたい。なお、ぼくは数学の専門的な教育を受け ていないので、以下の説明は、一〇年ほどまえに出版された人門書の要約にすぎないことを あらかじめ断っておく〔☆ 3 〕。本書の目的にはそれで十分だが、最新の動向が気になる読者☆ 3 増田直紀・今野紀雄『「複 雑ネットワーク」とは何か』、講 は専門書をあたっていただきたい。 談社プルーバックス、ニ〇〇六 年、および増田直紀『私たちは どうつながっているのか』、中公 ひとつめの「大きなクラスター係数」から説明しよう。これはもっともわかりやすい特徴新書、ニ〇〇七年をおもに参考 にした。ただし説明に誤りがあ である。 るとすれば、それはむろんすべ てぼくの責である。 クラスターとは「群れ」「房」を意味する言葉で、最近ではネットで小さな集団を表すジャー ゴンとしてもよく使われている。クラスター係数とは、あるネットワークのなかにどれほど 多くの仲間がつくられているか、それを表す数学的指標である。 そもそも仲間とはなんだろうか。「仲間である」ことを、ある集団の構成員が、すべてた かいに友人であるような状況だと定義してみよう。がと O のふたりと友人であり、と O もまたたがいに友人である、そのようなときはじめて、とと O の三人は仲間だと一言う ことができると考えるのだ。そのような関係は、ネットワーク理論では、三つの頂点がすべ てたがいに枝でつながれている状態、すなわち、枝が三角形を形成している状態として表さ れることになる。クラスター ( 仲間 ) とは、ネットワーク理論ではこの三角形を意味する。 例として図 2 を見てみよう。このグラフ ( ネットワーク ) では、点と点と点 O 、点と 点と点はそれぞれクラスターⅡ三角形を構成している。つまりこのグラフにクラスター はふたつある。 図 1 65 第 4 章郵便的マルチチュードへ
しろこの小説で、スタヴローギンの病Ⅱ無関心病からの解放の必要性こそを訴えたと考える べきである。つまり、社会主義者から地下室人へ、そしてスタヴローギンへという歩みには、 あともうひとつ、最後の段階があるはずなのだ。スタヴローギンのニヒリズムを超えた、そ の向こうに現れる最後の主体が その最後の主体について考えることは、本書の構想にとってきわめて重要な意味をもって ぼくは第四章で、二一世紀のいま、論理的に一貫しうる思想は、もはやコミュニタリアニ ズムすなわちナショナリズムとリバタリアニズムすなわちグローバリズムのふたっしかあり えず、普遍性に賭けるリべラリズムの場所はなくなっている、しかしだからこそ、ぼくたち はいま、その普遍の場を別のかたちで再構築するために観光客Ⅱ郵便的マルチチュードが生 みだす誤配を導人するのだと記していた。つまり、かってあったリべラリズムはいまは有効 性を失っており、もはやコミュニタリアニズムとリバタリアニズムしかないが、それではま ずいので第四の思想が必要なのだと記していた。本章が検討しているドストエフスキーの弁 証法は、まさにその構図に重なっている。チェルヌイシェフスキーはリべラルで、地下室人 はコミュニタリアンで、スタヴローギンはリバタリアンである。リべラルは偽善を語り、コ ミュニタリアンはマゾヒズムの快楽に浸り、リバタリアンは無関心病を患っている〔☆〕。 い , か」」 1 レ チェルヌイシェフスキーの偽善を乗り越え、地下室人の快楽の罠を逃れたあと、 てスタヴローギンのニヒリズムから身を引きはがすのか。第一部の言葉で言い換えれば、リ いかにしてグロ べラリズムの偽善を乗り越え、ナショナリズムの快楽の罠を逃れたあと、 ハリズムのニヒリズムから身を引きはがすのか。それは、いまこの時代において、きわめて ☆コミュニタリアン ( ここ ではほぼナショナリストと同義 ) がマゾヒズムの快楽に浸ってい しさか るというこの整理は、、 わかりにくいかもしれない。そ こで簡単に補足しておく。まえ にも参照した大澤の『ナショナ 2 8 2 ゲンロン 0
どといった、いろいろな場所に見出してきた。そしてもっとも重要な事実として、原子、分 子、生物種、人間、さらには思考といった、あらゆる物事のネットワークは、どれも同様の 方法で自らを組織化していくという目立った傾向をもっていることが発見された」。「数学は 人間社会に対しても通用しうる〔 : : : 〕。もちろん個々の人間がどう行動するかは分からない が、何万もの人間からどんな傾向が現われるかということなら分かるかもしれない」〔☆ 7 〕。 プキャナンの本の最終章は「歴史物理学の可能性」と題されている。歴史的事件のメカニ ズムをネットワーク理論で分析する物理学という意味だが、そのような新しい唯物論がどこ まで実現可能なものなのか、本論では踏みこむことはしない。ただ、いずれにせよ、人間 社会がネットワーク理論でモデル化でき、そしてそこにスケールフリーの特徴が現れるとい うパラバシたちの発見が、一九世紀の史的唯物論 ( 共産主義 ) や二〇世紀の構造主義に続き、 人間社会の構造をあたかも自然現象であるかのように説明する言説の可能性をひさしぶりに 開いたことはたしかである。 ぼくはさきほど、スケールフリー ・ネットワークは不平等なネットワークだと記した。し かしここで「不平等」を人間中心主義的な意味に理解してはならない。古い頂点のなかから 有力な頂点が優先的に選択されるとは、たしかに、富めるものはますます富み、友人の多い ものはますます多くの友人を集め、評価の高いものはますます評価を集め、それゆえに貧し いものはますます貧しくなるということである。実際、ばくたちが生きる二一世紀の資本主 義評価経済社会はそのようにつくられている。 しかし、それはけっして富めるものが貧しいものを「搾取」しているからではない。そも そも数学的観点からすれば、富めるものと貧しいものの区別はほとんどない。ネットワーク ☆ 7 マーク・プキャナン『歴 史は「べき乗則」で動く』水 谷淳訳、ハヤカワ文庫 z 、 ニ〇〇九年、三一、 1 7 7 第 4 章郵便的マルチチュードへ
一〇〇〇個であれば最大距離が 250 で平均距離は約 125 となることが計算できる。頂点 数間億の人間社会をモデル化するのには、とても適さない それでは図 3 はどうだろうか。こちらは「ランダムグラフ」と呼ばれるものに近く、ど ) ま、ほぼ乍為に決定されている〔☆ 4 〕。こち☆ 4 正確にはここに引用され の頂点とどの頂点のあいだに枝が張られるカカ た図は、本文でこの直後に説明 らはこんどは、だれとだれが友人になるのかがくじびきで決まるような、絶対的に開放的な される「つなぎかえ」の手法を 用いて、図の各頂点から張ら 社会を表現するグラフである。 れた枝を 1 に近い確率でほかの 頂点に付け替えて得られたもの このグラフにおいては、頂点の連結はランダムに決まるので、隣りあう頂点のあいだだけ である。 ではなく、円 ( ネットワーク ) 全体を横断するようにも多数の枝が張られることになる。その ( 足高カ 6 だっ ため、平均距離は図と比較するとかなり小さくなる。たとえば、さきほどま巨隹 ; た点から点までは、こんどは二本の枝を経由するだけでたどりつける。したがって、こ のグラフは人間社会の狭さをうまく表現してはいる。けれどもそのかわりに、こんどはクラ スター係数が小さくなる。実際に図でも三角形の数は少なくなっているが、その理由もまた、 数学の詳細がわからなくても直感的に理解できるのではないかと思われる。このグラフが表 す世界においては、すべての友人関係がくじびきで決まっている。したがって、任意のふた りの距離は相対的に近くなるが、かわりに友人と友人がたがいに友人である確率 ( 仲間であ る確率 ) は小さくなる。このグラフもまた人間社会のモデル化には適さない 大きなクラスター係数と小さな平均距離は、このように矛盾するように見える。ちなみに 付け加えれば、ここでは紹介していないが、ふたつの特徴はじつは枝数を増やせばたやすく 両立させることができる。 というのも、極端な話、すべての頂点からすべての頂点に枝が張ってあれば、クラスター 1 6 7 第 4 章郵便的マルチチュードへ
オロギーの支柱を失った冷戦後の運動はそのようなアクロバティックな戦術になだれこんで いったが、そこに問題があることはだれにでもわかる。そのような無内容な ( しかも積極的に 無内容を選んだ ) 連帯は、短期的には動員の強化とへゲモニーの奪取に成功するかもしれない が、長期的には必ず各闘争の弱体化と空無化を招く。実際にそれは各国で起き、一一〇一〇年 代の日本でも起きた。 マルチチュードの連帯は、ポストマルクス主義の倒錯した戦術の延長線上にあり、闘争の 特異性の無化のうえに成立している。だからその運動論は必然的にあいまいなものにならざ るをえない じつはぼくは二〇年ほどまえに、『存在論的、郵便的』という著作で、まさに右記の根源 的民主主義を ( 同じジジェクの引用によって ) 取りあげ、その戦術を「否定神学的」という言葉 で形容している〔☆引〕。 否定神学とは、もともとはキリスト教神学のひとつの潮流を指す一言葉で、その名のとおり 神の存在を否定表現 ( 5 ではない ) の積み上げで証明しようとする企てを意味する。ぼくは『存 在論的、郵便的』で、その言葉を借りて、ある時期のフランスの思想が全体として否定神学 的な性格を強く帯びていること、そしてそのなかでひとりの哲学者 ( ジャック・デリダ ) がそ の傾向に抵抗を試みていたことを論証しようとした。 ここではこれ以上詳しく紹介しないが、同書の文脈では、「否定神学的」とは、否定を媒 介とした存在証明の論理、たとえば、「他者は存在しないことによって存在する」や「外部 は存在しないことによって存在する」といった論理を幅広く形容する言葉として使われてい る。根源的民主主義の論理は、この点でまさに否定神学的だと言える。なぜならばそこでは、 ☆引東浩紀『存在論的、郵 便的』、新潮社、一九九八年、 一三八頁以下。 1 4 9 第 3 章ニ層構造
国主義的な主張を展開するようになり、「皇帝派」と見なされるようになった晩年になっても、 基本的には変わらなかったらしい。したがって、彼の反革命的な言説も ( そのせいで彼は二〇 世紀の左翼知識人のあいだで評判を落とすことになるのだが ) 、単純に文字どおりには受け取ること ができなし : 一八七〇年代にはロシア全土でテロが相次いでいた。しかし当時の彼は、もし 皇帝暗殺計画を事前に知ったらどうするかと間われ、なにもしないと答えていたと言われる 〔☆ 1 〕。ドストエフスキーは、ロシアを愛し、正教を愛する保守主義の作家だったが、しかし☆ 1 亀山郁夫『「カラマーゾフ の兄弟」続編を空想する』、光文 テロリストへの同情を欠くわけでもなかった。ロシア文学者の亀山郁夫は、パフチンが『ド 社新書、一一〇〇七年、四四頁参照。 ストエフスキーの詩学』で「ポリフォニー」と名づけたドストエフスキー独特の一一一口語感覚、 すなわち、複数の矛盾する声がひとつの表現のなかに響いているかのような表現手法は、具 ☆ 2 亀山郁夫『ドストエフス 体的には検閲との闘争によって培われたものではないかと推測している〔☆ 2 〕。もしドスト キー父殺しの文学 ( 下 ) 』、 エフスキーが二〇一七年のいま生きていたら、おそらくは、一一一〕論人として権力側の排外主義ブックス、ニ〇〇四年、ニ八 頁以下参照。ポリフォニー にあるていど同調しつつも ( たとえばトランプを支持しつつも ) 、同時にイスラム教徒のテロリス いては以下のパフチンの記述を 参照。「それぞれに独立して互い トを主人公に小説を発表するような、じつに両義的で危うい立場をとっていたのではないか に溶け合うことのないあまたの 少なくとも、単純にデモに躯けつけたりしなかったことはたしかだ。 声と意識、それぞれがれつきと した価値を持っ声たちによる真 そこでばくは、この章では、ドストエフスキーの作品をたどることで、観光客あるいは郵 のポリフォニーこそが、ドスト 便的マルチチュードが、テロリストに共感を覚えつつもどうすればそこに転落しないですむエフスキーの小説の本質的な特 徴なのである」。『ドストエフス のか、その方法について考えてみたいと思う。それはばくには、体制と反体制が動員の論理 キーの詩学』、一五頁。強調を削除。 においてかぎりなく近づいているいま、理論的にも実践的にもとても重要な問いのように思 われる。 ゲンロン 0 2 6 2
フェミニズム、人権運動など ) 「そこには〔根源的民主主義には〕、個々の闘争 ( 平和運動、エコロジー の結合がみられるが、そのどれか一つが、「真理」、最後の「シニフィエ」、他のすべての運 動の「真の意味」だというわけではない。しかし、「根源的民主主義」というタイトルその ものが示しているように、これらの闘争を結合しうるということ自体が、ある一つの闘争が 「結節的な」決定的役割を果たすことを示唆している」〔☆四〕。 ここでジジェクが指摘しているのは、ラクラウたちの新たな連帯の構想においては、じっ は重要なのは個々の抵抗運動の中身ではなく、連帯の事実そのものになっているということ である。かっては共産主義が「大きな物語」として機能し、それら多様な抵抗運動にひとっ ひとつ意味を与えていた。そして連帯に根拠を与えていた。しかしもはや共産主義は機能し ない。となってくると、とにかく中身は関係なく連帯をしていくしかない。現代のヘゲモニー 闘争では、むしろその連帯の事実こそが効果を発揮する。それがラクラウたちの主張である。 そしてじつは、ネグリたちのマルチチュードもこの点ではほぼ同じ生格を備えている。マル チチュードは、それぞれが直面する問題の特異性とはいっさい関係がなく、ネットワーク状に ☆『叛逆』、一一一〇ー一ニ一頁。 連帯し、闘争の局面を広げていく運動体だと考えられている。ネグリたちはつぎのように述べ ただしネグリたちは、マルチ ている。「この場合〔マルチチ、ードの闘争の場合〕の主要なポイントは、それらの闘争の実践やチ、ードの概念を提出するにあ たり明示的には根源的民主主義 戦略、目標が互いに異なるものであるとはいえ、それらが互いに結合および合体して、多元的 論を参照していない。また、ラ クラウたちは『帝国』の出版後 に共有されたプロジェクトを形成することができる、ということなのである。おのおのの闘争 にネグリたちの構想を批判して もいる。しかしここで記した点 の特異性は、〈共〉的な土壌の創出を妨げるものではなく、むしろ促すものなのだ」〔☆四。 について、ラクラウたちとネグ 個々の闘争の特異性はとりあえず棚上げにし、ただ連帯だけを重視する。敵はいずれにせ リたちの構想の共通点は明らか である。 よ権力なのだから、平和運動でもエコロジーでもフェミニズムでも関係なく連帯する。イデ ☆四スラヴォイ・ジジェク『イ デオロギーの崇高な対象』鈴木 晶訳、河出文庫、ニ〇一五年、 一七〇頁。訳語一部改変。強調 は引用者。 ゲンロン 0 148