アリヨーシャ - みる会図書館


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1. ゲンロン0 観光客の哲学

つぎに亀山は、、 しくつかの根拠から、第二巻は第一巻の一三年後が舞台になるはずだと推 測する。『カラマーゾフの兄弟』の第一巻には、父フヨードル・カラマーゾフとその四人の 息子が登場する。ドミートリー イワン、アリヨーシャ、そしてスメルジャコフである ( 説 明を簡単にするためここではスメルジャコフを兄弟に含める ) 。第一巻の結末で、父と三人の兄弟は 死んだり狂ったり逮捕されたりしているので、第二巻の中心は残されたアリヨーシャになら ざるをえない。アリヨーシャは第一巻では、敬虔なキリスト者として描かれる。ではそのア リヨーシャが第二巻では転向し、いきなりテロリストになるのだろうか ? 従来の研究では そのような推測が多かった。 しかし亀山は、それはまちがいだと主張する。なぜなら、ドストエフスキーは、現存する 第一巻の序文 ( 「著者より」 ) で、第二巻までを視野に人れた語りの地点から、第一巻の主人公 のアリヨーシャは最後まで無名だったと記しているからである。だとすれば、アリヨーシャ が暗殳犯になるという推測は成立しない。皇帝を暗殺した人間が無名のはずがないからだ。 では、だれが暗殺を試みるのか ? 亀山はそこでコーリヤ・クラソートキンという少年に 注目する。じつは『カラマーゾフの兄弟』第一巻の結末近くには、コーリヤをはじめ多くの 少年たちがいきなり新しく登場し、アリヨーシャと交流し始める章が存在する ( 第四部第一〇 編「少年たち」 ) 。それは現在の第一巻の物語だけを読むといささか唐突な挿話であり、実際に 批評家から構成の失敗を指摘されてもきた。けれども亀山は、その「失敗」こそが、逆にこ の章が第二巻への伏線であることを証拠だてていると考える。そして、年齢設定そのほかの 状況証拠から、コーリヤこそが第二巻で主人公となり、皇帝暗殺を試みるそのひとだと結論 づけるのである。 2 8 5 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

2. ゲンロン0 観光客の哲学

こで参照しているのは山城の著 かない。世界の必然しかない。だから欲望がない。あらゆるものが手に人るが、なにも欲し 書の最後の章だが、しつはそれ くならない。無関心病とは自我の欠如を意味している。 は ( 亀山への言及はないが ) ず ばり「カラマーゾフのこどもた だとしたら、スタヴローギンはここで、少女の幻覚を見て、ようやく自我を取り戻したと ち」と題されている。ところで、 一一一口えるのかもしれない。子どもの幻覚 ( 幽霊 ) は、失われた自我の回帰である。それは前章 山城はその著書で、ぼくがニ五 年近くまえに書いたアレクサン の言葉で言えば「不気味なもの」だ。不気味なものの回帰が、超人の超自我を内部から蝕ん ドル・ノルンェニーツインにつ いての論文「確率の手触り」を でいくのである。 参考文献に挙げている。東浩紀 『郵便的不安たち』、河出文庫、 二〇一一年所収。ぼくはその論 苦しむ子どもは、イワンⅡスタヴローギンの最大の弱点である。しかし、アリヨーシャは 文で、まさに前述のイワンとア リヨーシャの対話に触れ、のち 直接の対話ではその弱点を突くことができなかった。だからこそ本章では、アリヨーシャに の「郵便」につながる「確率」 よるイワンの乗り越えの可能性を探るために、存在しない続編についての亀山の空想が必要 という鍵概念を提出した。そし て他方で番場は、前掲書の山城 とされた。 に言及する箇所で、ぼくの二〇 けれども、批評家の山城むつみは、また別の読解の可能性を示唆している。彼は二〇一〇年近くまえの著作『存在論的、 郵便的』を援用して、ジューチ 年に刊行した『ドストエフスキー』で、前掲の「少年たち」の章を緻密に解読することで、 力をめぐる山城の問題提起を固 有名論の枠組みで説明しなおし さきほど見たイワンの議論への反駁を打ちたてようと試みている。 ている。つまりは、山城と番場 は、上記の著書で、ともにぼく どういうことか。山城の議論はじつに複雑で込み人っているので、ここでは、山城の文章 の過去の仕事に触れながらドス に加え、彼の議論を受けてロシア文学者の番場俊が二〇一二年の『ドストエフスキーと小説 トエフスキーを読解し、イワン の議論を乗り越えようとしてい の問い』で行った整理をあわせて、論理の核心だけを紹介しておきたい〔☆四。 るのである。この第七章の議論 山城と番場によれば、「少年たち」の章で注目すべきなのは、じつはジューチカという犬 は、そんな彼らへの応答であり また彼らの問題提起をよりさき の「復活」の場面である。ィリューシャはもともと、野大の一匹をジューチカと名づけてか に引き延ばすことを目指して書 かれている。 わいがっていた。けれどもあるとき、スメルジャコフに唆され、針の人った。ハンを食べさせ 2 9 5 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

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ぼくたちはここまで、ドストエフスキーの最後の主体を考える人口として、アリヨーシャ がイワンをいかに乗り越えるのか、その論理の可能性を探ってきた。しかし、じつはイワン とアリヨーシャは、現存の『カラマーゾフの兄弟』のなかでいちど正面から対決している。 第二部第五編「プロとコントラ」で描かれた長い対話である。そこでは子どもの苦しみが主 題となっている。 イワンとアリヨーシャのこの対話はきわめて有名で、無数の解釈が行われている。それゆ え最低限の紹介にとどめるが、そこではイワンはつぎのような議論を展開し、アリヨーシャ の信仰に挑んでいる。 なるほど、神はもしかしたらいるのかもしれない。救済もあるの かもしれない。何百年か何千年かのち、すべての罪人が許され、あらゆる死者が復活し、殺 人者と犠牲者が抱き合って涙を流す、そのようなときが到来するのかもしれない。しかし問 題は、いまここで痛めつけられ辱められている、罪のない子どもたちが無数にいることであ る。そんな彼らの苦痛と屈辱は、未来の救済によっても償われない。神はこの問いにどう答 えるのか ? じつはこの対話では、アリヨーシャは論争に負けている。少なくとも話をごまかしている ように見える。アリヨーシャはイワンの頬にロづけをして立ち去るだけである。アリヨーシャ はイワンを乗り越えることができない。 しかし、ここで重要なのは、この対話の存在そのものがイワンの弱点をあぶり出している ことである。イワンは無関心病のはずだった。実際に彼は「神はいない」とうそぶいていた。 けれどもそんな彼も子どもの苦しみの存在は看過できない。だからこそ彼はアリヨーシャに 論争を挑むのである。 2 9 5 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

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アリヨーシャを父とし、コーリヤを長兄とする新たなカラマーゾフ家 の結末において を設立する儀式であるかのようである。カラマーゾフ家の物語は、第一巻の最後で再起動す るのだ。 第一一巻はこの結末に続いて書かれる。だとすればそこでは、アリヨーシャは父になり、コー リヤとともに擬似家族 ( 結社 ) をつくるはずだと考えられる。それは新たなカラマーゾフ家 になる。その物語こそが『カラマーゾフの子どもたち』の軸となるだろう。 その新たな家族は成功するのだろうか ? 亀山の予想によれば、それもまた成功しそうに ない。アリヨーシャは結局は父になることができない。アリヨーシャは結社の指導者にもな コーリヤたちは暗殺を決行して失敗す らないし、皇帝暗殺の計画を止めることもできない る。そして死刑を言い渡される。物語の最後では、皇帝に恩赦をもらい死を免れることにな る。それが亀山が予想する第二巻のクライマックスだが、そこではアリヨーシャは、コーリヤ にあれほど熱烈に必要とされていたにもかかわらず、第一巻と同じく事件に対してはじつに コーリヤの 小さな影響力しかもっことができない。彼はコーリヤを救うことすらできない 命を救うのも結局は皇帝なのだ。 スタヴローギンは父を必要とする。しかしそれは不能の父である。自分を救うことすらで きない、地下室人Ⅱ子どもたちに囲まれた不能の父である。亀山は『カラマーゾフの子ども たち』をそのような不能の物語として「空想」する。 ここに亀山の構想の決定的な重要性がある。繰り返すが、この『カラマーゾフの兄弟』お よび『カラマーゾフの子どもたち』においては、アリヨーシャがいかにしてスタヴローギン ゲンロン 0 2 9 0

5. ゲンロン0 観光客の哲学

超人に意のままに動かされる地下室人という悪夢が、皇帝暗殺という巨大な陰謀を舞台にも ういちど繰り返されるわけである。 けれども、『悪霊』と『カラマーゾフの子どもたち』のあいだには決定的なちがいがひと つある。それがアリヨーシャの存在である。スタヴローギンの隣にはだれもいなかった。け れどもコーリヤはアリヨーシャの存在を熱烈に求めている。その情熱は第一巻でも明らか である。「カラマーゾフさん、ぼくはあなたにどんなに憧れていたことか、どんなに前から、 あなたとの出会いを探し求めていたことか ! 」〔☆西コーリヤは、いわば、アリヨーシャを☆『カラマーゾフの兄弟 4 』、 必要とするスタヴローギンなのだ。 それにしても、コーリヤはなぜかくもアリヨーシャを求めるのだろうか。ここで見逃して はならないのは、コーリヤは、アリヨーシャを単独で求めているのではなく、むしろ彼を擬 似的な父とした家族的共同体の構築をこそ求めているということである。「少年たち」の章 で登場する少年たちは、じつは多くが家族に間題を抱えている。コーリヤにはそもそも父が いないイリューシャの母は狂人で、家庭は崩壊している。彼らはつねに子どもたちだけで 集まり、一種の疑似家族を形成している。そしてアリヨーシャはそこに、父の役割を期待さ れる人物として現れる。少年たちのその願いは、現存の『カラマーゾフの兄弟』の最後の場 面、イリューシャの葬儀 ( 彼は物語の途中で病死する ) で叫ばれる「カラマーゾフ万歳 ! 」とい う一一一一〔葉にこのうえなくはっきりと示されている〔☆召。ィリューシャの葬儀にもかかわらず、☆フ = ードル・ドスト、 フスキー『カラマーゾフの兄弟 少年たちは、イリューシャ万歳でもスネギリョフ ( ィリーシャの姓 ) 万歳でもなく、カラマー 5 』亀山郁夫訳、光文社古典新 訳文庫、一一〇〇七年、六一一頁。 ゾフ万歳と叫ぶ。それはあたかも フヨードルが殺されドミートリーが逮捕されスメル ジャコフが自殺しイワンが狂い、旧カラマーゾフ家があとかたもなく崩壊してしまった物語 2 8 9 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

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では第二巻はどのような話になるのか。亀山の推測では、第二巻ではコーリヤが秘密結社 を結成し、皇帝暗殺を試みることになる。秘密結社の中核は、晩年のドストエフスキーの交 友関係およびコーリヤの名前から、ニコライ・フヨードロフの影響を受けたロシア風の風変 わりな社会主義的神秘思想になると考えられる ( コーリヤはニコライの愛称である ) 〔☆。他方で、☆ニコライ・フヨードロフ の哲学については第六章の アリヨーシャも健在のはずである。彼のほうはこんどは、第一巻のまた別の伏線から、キリ を参照。 スト教異端派 ( 鞭身派 ) を経て、新たな宗派を立ち上げそこのリーダーになっていると考え られる。第二巻の物語は、コーリヤがかっての師アリヨーシャを、みずからの秘密結社に迎 えようとする場面から始まる。そして小説は、アリヨーシャとコーリヤ、師と弟子、異端の 宗教者と異端の革命家のあいだの観念の戦いを軸に展開することになるだろう : さて、この亀山の空想が重要なのは、それが、本稿が追跡してきたドストエフスキーの弁 証法をよりさきに推し進めるものになっているからである そもそも『カラマーゾフの兄弟』は、社会主義者から地下室人へ、そしてスタヴローギン 〈という彼の弁証法の集大成であるかのように構成されている。この小説の登場人物の配置 は、その弁証法に照らすとじつに明確である。 まえにも述べたように、『カラマーゾフの兄弟』には、ドミートリー、イワン、アリヨーシャ、 スメルジャコフの四人の兄弟が登場する。ここまでの枠組みにあてはめると、ドミートリー とスメルジャコフは地下室人に、イワンはスタヴローギンに相当する人物だと言うことがで きる。社会主義者に相当する人物はいない ここで地下室人がふたりいるのは、一方が『地下室の手記』の地下室人を継承し、他方が『悪 ゲンロン 0 2 8 6

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霊』の地下室人を継承した人物だと考えるとわかりやすい ドミートリーは、嫉妬に狂い会 話を空回りさせる滑稽な青年として描かれている。その造形は地下室人を連想させる。他方 で、スメルジャコフは卑屈なマゾヒストで、イワンを崇拝している。イワンは、神がいなけ ればあらゆることは許されると言い放っニヒリストであり、イワンとスメルジャコフの関係 はスタヴローギンとテロリストたちの関係に類比的である。実際、スメルジャコフは、イワ ンの無意識の教唆を忠実に守り、テロ ( 父殺し ) を実行してしまう。同じ地下室人でも、ドミー トリーは父殺しを実行できないが、スメルジャコフは実行できる。そこには『地下室の手記』 から『悪霊』〈の変化が刻まれている。つまりは、『カラマーゾフの兄弟』は、『地下室の手 記』から『悪霊』〈の弁証法的な歩みを綜合し、さらにそのさき〈行こうとした小説として 読むことができるのだ。 この観点から見た場合、ドストエフスキーが「著者より」の冒頭で、小説の主人公がアリヨー シャだとはっきり宣一言していることーーー「わたしの主人公、アレクセイ・カラマーゾフの一 代記を書きはじめるにあたって、あるとまどいを覚えている」〔☆ 3 はきわめて重要な 意味をもってくる。『地下室の手記』はドミートリーの物語で、『悪霊』はイワンとスメルジャ コフの物語で、『カラマーゾフの兄弟』はアリヨーシャの物語である。だとすれば、ここで アリヨーシャこそが弁証法の新たな展開を担うと考えるのは自然だろう。ドミートリーの精 神がスメルジャコフに受け継がれ、スメルジャコフの精神がイワンに支配されているのだと したら、イワンの精神もまた、アリヨーシャによってなんらかのかたちで乗り越えられてい るのではないか ? そしてそこにこそ、チェルヌイシェフスキーの偽善を乗り越え、地下室 人の快楽の罠を逃れたあと、 いかにしてスタヴローギンのニヒリズムから身を引きはがすの ☆四フヨードル・ドストエフ スキー『カラマーゾフの兄弟 1 』 亀山郁夫訳、光文社古典新訳文 庫、一一〇〇六年、九頁。 2 8 7 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

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かという前掲の問いへの答えが、物語のかたちで刻まれているはずではないか ? けれども、現存の『カラマーゾフの兄弟』を読むかぎり、その期待はあっさりと裏切られ ることになる。現実にはアリヨーシャの役割はじつに漠然としている。残りの三人の兄弟と 異なり、彼が自分の思想を開陳する場面はほとんどない。アリヨーシャは多くの場面で聞き 手であり、むしろ物語を進めるための狂言回しの役割を割りあてられている。まえがきで宣 言される重要性と比較したとき、その空虚さは不審ですらある。 ドストエフスキーはこの人物をなんのために造形したのか。その答えは現存する第一巻で は出ない。だからぼくたちは存在しない第二巻について考える必要がある。 いよいよ第二巻の空想の読解に人っていくこととしよう。亀山は、第二巻の題 それでは、 名は『カラマーゾフの子どもたち』になると予想する〔☆。「子どもたち」とはコーリヤ を中心とした少年たちを指している。 第二巻のコーリヤは、さまざまな理由から、第一巻のイワンに、すなわちスタヴローギン に相当する人物になると予想されている。それゆえ彼が皇帝暗殺の首謀者になると考えられ る。実際にコーリヤは、前掲の章「少年たち」でも、友人 ( ィリ、ーシャ ) を「奴隷」と呼び、 「いろんな考え方を吹きこんで」いると誇らしげに語ったりしている〔☆。その態度は、幼☆フ = ードル・ドスト フスキー『カラマーゾフの兄弟 いながらもスタヴローギンを思わせる。『カラマーゾフの子どもたち』におけるコーリヤと 4 』亀山郁夫訳、光文社古典新 訳文庫、ニ〇〇七年、六三頁。 少年たちの関係は、『悪霊』におけるスタヴローギンとテロリストたちのそれの反復となる。 5 ☆四『「カラマーゾフの兄弟」 続編を空想する』、ニ一六頁。 ゲンロン 0 2 8 8

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日イワンを乗り越えるのか、その哲学的あるいは精神的な論理が問題となっている。そして まえにも述べたように、多くの研究者は、第二巻ではアリヨーシャ自身が皇帝の暗殺を試み ると想定している。言い換えれば、ドストエフスキーの最後の主体は、スタヴローギンⅡイ ワンの無関心病を克服し、最後は宗教心を抱いたテロリストにたどりつくのだと結論を出し ている。 けれども亀山はまったく異なる論理を提示している。彼は第二巻において、逆にアリヨー シャからそのような能動性を徹底的に奪っている。亀山は、アリヨーシャは不能の父にしか ならず、しかしその不能性こそがイワンⅡコーリヤの乗り越えを可能にするのだと主張しょ 、つとしている この亀山の論理はいつけんアクロバティックに見えるが、 にもかかわらず強い説得力を もっている。なぜならば、それは、ぼくたちがいままで見てきたドストエフスキーの弁証法 を出発点に差し戻し、円環として閉じる提案になっているからである。ドストエフスキーの 弁証法 ( 社会主義者から地下室人への移行 ) は、前述のように、 かって作家がまだ二〇代だった ころ、体制転覆の容疑で逮捕され、象徴的に去勢された経験から始まっている。彼はそこで いちど死刑判決を受け、まさに皇帝の恩寵 ( 恩赦 ) によって生き延びている。亀山は『カラマー ゾフの子どもたち』において、ドストエフスキーがもういちどその経験に戻り、その克服を 企てる歩みを考える。そしてそれこそが、彼が晩年になってふたたび皇帝暗殺の主題に戻り、 過去の去勢を虚構のかたちで反復しようとしたことの意味のはずだと考える。去勢は去勢に 還る。無関心病を患い、去勢の存在を忘れたリバタリアンもまた、結局は去勢に還る。亀山 はドストエフスキーの弁証法をそう理解している。 2 9 1 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

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現実には『カラマーゾフの子どもたち』は書かれなかった。だからぼくたちは、ドストエ フスキーが、スタヴローギンⅡコーリヤの不能の父への渇望をどのように描くつもりだった のか、ほんとうのところはわからない。実際にはそんなものは描けないのかもしれない。し かしもし、彼が、その渇望を『カラマーゾフの子どもたち』の最後までで描き切ることがで きていたのだとしたら、そこにはたしかに、スタヴローギンを超える新たな主体、ドストエ フスキーの最後の主体が現れていたことだろう。そしてそこでこそ、アリヨーシャはほんと うの主人公となっていたことだろう。 い、かにーレ チェルヌイシェフスキーの偽善を乗り越え、地下室人の快楽の罠を逃れたあと、 ぼくはここで、その問いに対して、 てスタヴローギンのニヒリズムから身を引きはがすのか。 不能の父になることによってと答えることにしよう。リべラリズムの偽善を乗り越え、ナショ ハリズムのニヒリズムから身を引きはがし、ぼく ナリズムの快楽の罠を逃れたあと、グロー たちは最終的に、子どもたちに囲まれた不能の主体に到達するのだ。それこそが観光客の主 体である。 スタヴローギンのあとで、去勢を受け人れた不能の主体になること。けれどもそれはたん に無力であるだけではない。世界を変えることを諦めるわけではない。なぜならば、ここま で論じてきたように、その最後の主体は子どもたちに囲まれているからである。そして世界 は子どもたちが変えてくれるからである。 ドストエフスキーの弁証法における子どもの意味について、最後にもういちど実在する小 説に戻って考え、本書の記述を終えようと思う。 ゲンロン 0 2 9 2