重要なのは、けっしてネーションそのものが壊れたのではなく、ただネーションの統合性が 壊れただけだと理解することである。 いまもネーションは生き残っている。政治はいまだにネーションを単位に動いている。政 治家は国民から信任を集め、国民のために働いている。そこには厳然とネーションの感覚が ある。けれども経済はネーションを単位としていない。商人は世界中の消費者に商品を売り、 世界中の消費者から貨幣を集めている。大企業だけでなく、驚くほど小さな企業や個人でさ え、いまや国境を越えて商売をしている。そこにネーションの感覚はない。政治の議論はネー ション単位で分かれているが、市民の欲望は国境を越えてつながりあっている。それが二一 世紀の現実である。 言い換えれば、ぼくたちが生きるこの二一世紀の世界においては、国家と市民社会、政治 と経済、思考と欲望は、ナショナリズムとグロー パリズムという異質なふたつの原理に導か れ、統合されることなく、それぞれ異なった秩序をつくりあげてしまっているのだ。ばくの 考えでは、それが大澤を悩ませた問題の正体である。グロー 。ハリズムはナショナリズムを破 壊したのではない。それを乗り越えたのでもない。ましてやその内部でナショナリズムを生 みだしたのでもない。それは、単純に、既存のナショナリズムの体制を温存したまま、それ に覆い被せるように、まったく異質な別の秩序を張りめぐらせてしまったのである。 以上の記述からわかるとおり、現代はけっしてナショナリズムの時代ではない。かといっ て単純にグロー バリズムの時代でもない。現代では、ナショナリズムとグローパリズムとい うふたつの秩序原理は、むしろ、政治と経済のふたつの領域にそれぞれ割り当てられ重なり 1 2 5 第 3 章ニ層構造
この分裂はなぜ生じたのだろうか。前掲の大澤の著作は、その分裂のメカニズムを説明す るため、きわめて複雑な論理を編み出している〔☆ 4 〕。それこそが彼の大著の主題でもある。 しかしぼくには、それは、もっとシンプルな、ある意味で身も蓋もない現実の帰結にすぎな いように感じられる ナショナリズムの時代の世界像の意味を、あらためて考えてみよう。そこでは国家と市民 社会は、ひとつの実体 ( ネーション ) の精神と身体になぞらえられていた。 ここで精神と身体の対比を、フロイト的な意味での「意識」と「無意識」の対比に、ある いはさらに低俗に、「上半身」と「下半身」の対比に重ねてみる。上半身は思考の場所、下 半身は欲望の場所である。だとすれば、国民 ( ネーション ) にとって、国家Ⅱ政治は思考の場 所、市民社会Ⅱ経済は欲望の場所だと言うことができる。実際、国民は政治の場では政策に ついて理性をもって熟議するし、経済の場では必要と欲望にしたがい自由にモノを購買する ものだと見なされている。 この比喩をさらに推し進めてみる。人間はふだん、上半身の合理的な思考に基づき行動し ている。少なくともそのつもりになっている。他人に見せるのは上半身の顔だけである。け れども、現実にはつねに下半身が抱く非合理な欲望に悩まされている。欲望の管理は、健全 な社会生活を営むうえで致命的に重要である。それに失敗すると病気になる。それがフロイ トの精神分析の教えである。 だとすれば、ネーションについても同じことが一言えないだろうか。国民 ( ネーション ) はふ だん、政治の合理的な思考に基づき行動している。少なくともそのつもりになっている。そ ☆ 4 『ナショナリズムの由来』、 五六一頁以下。 1 2 1 第 3 章二層構造
「国家」「市民社会」に相当している。ネーションが家族に相当するというのは奇妙に響くと 思うが、柄谷においてはネーションは「商品交換の経済によって解体されていった共同体の ☆ 5 柄谷行人『世界史の構造』、 「想像的」な回復」と位置づけられているので、このような解釈が可能になる〔☆ 5 〕。家族は 岩波書店、ニ〇一〇年、三一三頁。 贈与で成立する。国家は収奪と再分配で成立する。市民社会は交換で成立する。そして現代対応関係についてさらに正確に 述べれば、柄谷は「国家」をあ 社会はその三つの絡みあいで成立している。柄谷はその複合体を「資本制ⅡネーションⅡス くまでも国家機構 ( ステート ) を意味する言葉として用いてい テート」と呼んだ。 るので、本書での「国家」 ( そこ 柄谷は以上の整理のうえで、現代社会の批判のためには、新しい社会構成体の発明が不可 にはネーションも含めている ) と は意味がずれている。本書の ( と 欠で、その発明のためには第四の交換様式の再発見が不可欠だと議論を展開している。柄谷 いうよりもヘーゲルの ) 「国家」は、 ートの家族と市民社会の対立を揚棄す はその社会構成体を「アソシェーション」と名づけているが、それはほぼネグリとハ る高位の存在であり、柄谷でそ マルチチュードに相当している。そしてここで興味深いのは、柄谷が、そのアソシェーショ れに対応するのは、正確には「資 ンⅡマルチチュードを支える第四の交換様式は、贈与の「高次元での回復」になると述べて本制 " ネーション " ステート」 である。ただここではあえて対 いたことである〔☆ 6 〕。贈与の世界は、市場と国家の出現でいったん消滅してしまったかの応を単純化した。 ように見える。しかし、実際にはけっして消えることはなく、別のかたちで回復される。柄 ☆ 6 『世界史の構造』、一四頁。 谷はそう主張し、そこにこそ希望があると訴えたのだ。 柄谷の議論は、肝心の第四の交換様式についてじつにあいまいな規定しか提示しておら ず、理論的にも実践的にも成功しているとは言いがたい。本来の贈与と「高次元」で回復し た贈与がどのように異なるのか、柄谷の文章からはほとんどわからない。彼が『トランスク リティーク』と同時期にみずから立ちあげたアソシェーションの実践 ( z ) も、あっと いうまに瓦解してしまった。しかし、それでも、国民国家と資本主義の連結 ( 資本制Ⅱネーショ ンⅡステート ) こそが現代の権力の源なのであり、したがって、それを解体するためには、そ 2 1 5 第 5 章家族
「国家」はネーションとステート 紀にかけて、まさにカントとへーゲルが活躍した時代のことである。その時代には、ネーショ 双方を意味する言葉でもあり、こ ンの単位で政治制度が整備されるとともに、それまでなかば自然に生まれていた徴税や経済 れもまたヨーロッパの国家論を 日本語で考えること、あるいは の範囲が、「国民経済」という言葉であらたに捉え返されるようにもなった。言語や生活様 その逆をむずかしくしている。の 式を共有する人々が住み、同じ法や警察に支配され、統一の意志のもとで交通網が整備されち第五章で、↑ゲルの弁証法と 柄谷の四象限論を比較するとき た一定の地理的領域が、政治の単位だけではなく、経済の独立した単位としても認識される にも、同じ翻訳の問題が生じてい る。第五章☆ 5 参照。 ようになったのである。そしてそれは、アーネスト・ゲルナーが指摘するように、のち文化 ☆ 3 大澤真幸『ナショナリズ の単位とも見なされるようになった〔☆ 3 〕。 ムの由来』、講談社、ニ〇〇七年、 カントとへーゲルはナショナリズムの出発点に立ち会った。それゆえ彼らの国家観は、来 一〇六、一一ニ〇頁以下。 たるべきナショナリズムの時代における世界観の雛形となった。そこでは、個人でも家族で も部族でもなく、あらたに現れた「ネーション」なる単位こそが、政治と経済と文化の共通 の基体と見なされたのだ。 しかしながら、ぼくたちはもはや、以上のような素朴なナショナリズムの時代には生きて 、 0 し / し ぼくたちはいま、食べるもの、着るもの、見るもの、聴くもの、ほぼすべての商品が、国 境を越えて、つまりネーションなど存在しないかのように流通している時代に生きている。 ぼくたちは、東京でもニューヨークでもパリでも北京でもドバイでも、どこでも変わらずマ クドナルドでハンパーガーを食べ、 (..D << で服を買い、ショッピングモールでハリウッド映 画を観ることができる。あるていど豊かで安全な都市を歩いているかぎり、人々の服装や街 頭の広告はほとんど変わらず、ネーションのちがいを意識する必要はほとんどない 1 1 9 第 3 章二層構造
して他国に見せるのは、カントが言うように国家という顔Ⅱ人格だけである。けれども、現 実にはつねに、市民社会に渦巻く非合理な欲望に悩まされている ( 排外主義や ( イトスピーチを 想像してみてほしい ) 。したがって、その欲望の管理は、健全な国際秩序を設立するうえで致 命的に重要になる。このように解きほぐすとわかるように、『永遠平和のために』の第一確 定条項 ( 各国家における市民的体制は共和的でなければならない ) は、人間の話に置き換えると、じ つはきわめてわかりやすい、ほとんど低俗と形容していいようなことを言ってしまっている カントはじつはそこで、各国家に、まずはおまえの下半身を制御できるようになってから国 際社会に乗りだしてこいと、そう注文をつけていたのである。 国民国家 ( ネーション ) は、国家と市民社会、政治と経済、上半身と下半身、意識と無意識 のふたつの半身からなっている。カントとへーゲルは、この前提のうえで、国家が市民社会 のうえに立ち、政治の意識が経済の無意識を抑えこんで国際秩序を形成するのが、人倫のあ るべきすがただと考えた。 さて、ここでしつこくイメージの話をしているのは、ナショナリズムの時代の世界秩序を そのように捉えると、それとの差異を定めることで、現在の世界秩序もまたより明確に理解 できるからである。 ナショナリズムの時代においては、国家と市民社会、政治と経済、公と私のふたつの半身 が合わさり、ひとつの実体Ⅱネーションが構成されていた。だからこそネーションがすべて の秩序の基礎となりえた。 けれども、二一世紀の世界ではまさにその前提こそが壊れているのである。そしてここで ゲンロン 0 1 2 2
なる思いっきにとどまらず、カントの議論の要になっていると考えられる。というのも、彼は、 複数の国家が国際社会を構成することと複数の人間が市民社会を構成することを類比的に並 べ、そこから国際体制論を始めているのだが、そのような類比はそもそも国家を人間と等置 しないと成立しないからである。それゆえ、同じ等置は『永遠平和のために』のほかの箇所 でも顔を出している。たとえばカントは、前章でも紹介したように、永遠平和を目指す国家 ☆ 2 ネーション (nation) と いうヨーロッパ語は、日本語で 連合の設立のためには、構成国それぞれがまず共和国にならねばならないと主張する。この は「国民」とも「国家」ともふ 規定 ( 第一確定条項 ) の意味についてはさまざまな研究があるが、とりあえずここで重要なのは、 たつあわせて「国民国家」とも 訳される。国民が人々のこと、 国家が共和国にならないと国家連合に人れてもらえないというその話は、構造的には、人間 国家が法や行政の諸制度のこと を指すとすれば、ネーションは が大人にならないと市民社会に人れてもらえないという、ごくありふれた「おまえも大人に その両者をあわせた政治的、経 なれ」的な話と完全に同じかたちをしているということである。カントは、人間が成熟すれ 済的、文化的統一体を意味する 言葉で、「国民国家」の訳語で ば市民社会をつくるように、国家もまた成熟すれば永遠平和をつくると考えた哲学者だった。 はそれが表現されている。けれ カントは、国家は人格だと考えた。ヘーゲルは、国家は市民社会の自己意識だと考えた。 ども、日本語としては「国民国 家」は日常的には使われず、政 このふたつの定義を組み合わせると、つぎのイメージが導かれる。人間に身体と精神がある 治学や歴史学のかなり専門的な 用語という印象を与える。そこ ように、国民国家 ( ネーション ) には市民社会と国家があるというイメージである〔☆ 2 〕。ネー で本論では、基本的には「国民」 ションというひとつの「実体」の身体的な側面と精神的な側面、あるいは経済的な側面と政あるいは「国家」を用い、それ でも誤解が生じそうなときにか 治的な側面、それぞれが市民社会と国家に相当する。 ぎって「 ( ネーション ) 」とカタ カナを補うことにした。なお、「国 このイメージは、ナショナリズムの時代の世界観をきれいに表現している。ナショナリズ 家」と訳されるヨーロツ。ハ語に ムがいっ始まったのか、その規定は研究者により異なるが、ここでは大澤真幸が執筆した浩 は、他方で state, état, Staat な どの一群の言葉があり、こちら 瀚な研究書、『ナショナリズムの由来』の記述にしたがうこととする。同書によれば、ナショ は法や行政の諸制度としての国 ナリズムは、起源こそ絶対王政期に遡るが、本格的に始動したのは、一八世紀末から一九世家を意味する。つまり日本語の ゲンロン 0
ていることを示している。ぼくがいま家族の概念の再構築あるいは脱構築が必要だと判断す る背景には、このような研究の動向がある。 ただしばくは、トッドとは異なり歴史学者でも人類学者でもないので、世界の多様性を家 : ばくはむしろ、世界の多様性が 族の多様生に還元し、それを結論にしてよいとは思わなし 家族の多様性に規定されているのだとすれば、逆に、その動因である家族にどのように働き かけるべきかを考える。言い換えれば、ぼくたちのなかにいまだある「家族的なもの」への 執着を利用して、どのように新しい連帯をつくれるかを考える。それが、ぼくが家族の脱構 築により企てたいことである。 もうひとっ注釈を加えておこう。ばくは第一部でヘーゲルの哲学に触れた。そこでは人間 は、家族から市民社会へ、そして国家へと進むことで、精神的な成長を遂げるものだと捉え られていた。つまり、ひとは、家族から離れ、まずは個人になり、つぎに国家 ( ネーション ) に同一化することで成熟するのだと考えられていた。その図式を前提にするならば、ばくが ここで、個人と国家のあとでもういちど家族の概念の重要性を訴えるのは、精神的に後退し ているかのように見えるかもしれない しかしそうではないのだ。一部の読者は、ここで柄谷行人の仕事を思い起こすかもしれな 柄谷は、二〇〇一年の『トランスクリティーク』以降、現代社会を分析するため、三つ の交換様式と、そのそれぞれに支えられる三つの社会構成体を区別する理論を提案し続けて いる。三つの交換様式とは「贈与」「収奪と再分配」「商品交換」であり、三つの社会構成体 とは「ネーション」「国家」「資本」である。後者の三つは、本書の用語になおせば「家族」 ゲンロン 0 2 1 2
換えれば、人類社会は、かってシュミットやアーレントが恐れていたように、消費という点 ではほとんどひとつの社会になりつつある。冷戦後のこの四半世紀でその変化は劇的に進ん だ。これからもその変化はますます進むことだろう。ネーションはいまや経済と文化の基体 になっていないのだ。 にもかかわらず、ここで間題なのは、そんな現代でも、いまだ国境は存在し、ネーション もナショナリズムも存在していることである。それどころか、それらの存在感は逆に増し始 めている。ぼくはこの文章を二〇一七年に記している。去る二〇一六年は、世界各国でグロー パリズムへの反発が顕わになった年だった。イギリスはからの離脱を決め、アメリカは トランプを大統領に選出した。ヨーロツ。ハの世論は難民の排除に大きく傾いている。日本で も近年は公然と排外主義が語られている。 バリズムの時代が来ると楽観 かって、ナショナリズムの時代は終わり、これからはグロー 的に語られたことがあった。前章で触れたように、いまでも情報社会論ではそのような楽観 かりに未来では実現するとしても、そう簡単に進 主義が見られる。しかしその「移行」は、 ハリズムが高まるとともに、ナ むものではなさそうである。現実にはこの四半世紀、グロ ショナリズムもまたその反動として力を強めている。そしていまや両者の衝突こそが政治問 題となっている。つまりは、世界はいま、一方でますますつながり境界を消しつつあるのに、 他方ではますます離れ境界を再構築しようとしているように見える。ぼくたちが生きている のは、カントが夢見た国家連合の時代 ( ナショナリズムの時代 ) でもなければ、作家や パリズムの時代 ) でもなく、そのふたつの理想の分裂で 起業家が夢見る世界国家の時代 ( グロー 特徴づけられる時代である。 ゲンロン 0 1 2 0
リズムの由来』によれば、ナショ 現実的で実践的な、しかし同時に哲学的にも政治的にも重要な問いである。 ナリズムはそもそも、あらゆる ドストエフスキーの最後の主体はいかなる主体なのか。その答えを見とどけて、本書の探 超越性ーーー大澤の用語では「第 三者の審級」ーーを無化する資 求を締めくくることにしたい。 本主義の運動に対する、一種の 反動として現れ構築されたイデ オロギーである。資本主義は神 本論はここでひとっリスクを冒す必要がある。じつはここからさきの議論は、ドストエフ を無化する。そこで人々がかわ りに作りあげたのがネーション スキーの読解としては危ういものである。なぜならば、以下ばくが読むのは、ドストエフス というわけだ。だから、ネーショ キーが書いた小説ではなく、書かなかった小説だからである。ぼくはここからさき、亀山郁ンは、人々にと。ても。とも親 密なものでありながら、ときに 夫が二〇〇七年に出版した著作『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』を参照して、『カ 絶対的に疎遠なものとしても機 能する。実際、ネーションはし ラマーゾフの兄弟』の存在しない続編を読む。 ばしば自国の「外」にその起源 なぜそのようなことをするのか。ドストエフスキーは『悪霊』のあと、彼自身が主宰する を見いだす。日本の起源は南洋 や大陸にあるというように。『ナ 雑誌で発表したいくつかの短編を除けば ( じつは晩年のドストエフスキーは雑誌の運営に大きな情熱 ショナリズムの由来』、三七七 頁以下参照。この大澤の指摘は、 を傾けており、彼を有名にしたのもそこで展開した時事評論だった ) 、二作の長編しか発表していない。 のち☆四で参照するドウルーズ 一八七五年の『未成年』と一八七九年から八〇年にかけての『カラマーゾフの兄弟』である。 の言葉を先取りして言えば、ナ ショナリズムが、本質的にマゾ そして後者の完成の二ヶ月後に急逝している。それゆえ、常識的に考えれば、ドストエフス ヒズムと同じ精神分析的構造 をもっていることを意味してい キーの弁証法の到達点は『カラマーゾフの兄弟』だということになるだろう。実際、この小 る。マゾヒストは、主人 ( 超自 説は文学史に残る傑作とされている。 我 ) がいないところに、主人を 人工的につくりあげる。同じよ けれどもじつは、この小説は未完なのである。現存する『カラマーゾフの兄弟』は、単体 うに、ナショナリストは、神 ( 超 でも読めるように書かれており、実際に独立の小説と考えても不自然なところはない。けれ自我 ) がいないところに、ネー ションを人工的につくりあげる どもドストエフスキーは、まえがきではっきりと、出版された小説は「第一の小説」にすぎず、 のである。 続く「第二の小説」と対になって完成するものであると告げている。だとすれば、ドストエ 2 8 5 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体
のまえの構造に、すなわち国家と市場以前の概念に戻らなければいけないという彼の直観そ のものは正しいように思われる。 家族についてふたたび考えようというぼくの提案は、じつは以上の柄谷の試みを更新する ものとしても提示されている ( 第一章の冒頭で、観光客論は柄谷の他者論の更新なのだと記していた ことを思い起こしてほしい ) 。柄谷が国家 ( ステート ) と資本のあとに贈与に戻ったように、ぼく は国家 ( ネーション ) と個人のあとに家族に戻る。柄谷が贈与が支える新しいアソシェーショ ンについて考えたように、ぼくは家族的連帯が支える新しいマルチチュードについて考える。 つまりは、ばくがここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、そ の「高次元での回復」なのである。 家族について考えることは、けっして思考の後退ではない。家族の哲学という一一一一口葉から、 お父さんとお母さんを尊敬しようとか、子どもを産もうとか、兄弟は仲よくしようとか、そ のたぐいの道徳的で退屈な議論を想像してしまった読者がもしいるとすれば、それは単純に 誤解である。 観光客の哲学は家族の哲学によって補完されねばならない。国民国家と帝国を往復し、誤 配と憐れみを広げる郵便的マルチチュードの戦略は、新しい家族的連帯に支えられなければ ならない。それゆえぼくはこの第二部を書いた。 けれども、他方で、さきほども述べたとおり、ぼくはまだ家族の哲学について十分に考え ゲンロン 0 2 1 4