にも出没する一二世紀の「プロ」の市民運動家たちの行動様式がいかに観光客のそれに近い か、気がついていないのだ。ぼくはここで運動家を貶めたいのではない。彼ら運動家をマル チチュードとして称揚するのであれば、観光客についても同じくらいまじめに考えるべきだ、 と言いたいのである。 否定神学的マルチチュードの連帯は、連帯が存在しないことで存在するとされていた。郵 便的マルチチュードの連帯は、たえず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこ に連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積として構想される。 ネグリたちはマルチチュードの連帯を夢見た。ばくはかわりに観光客の誤配を夢見る。マ ルチチュードがデモに行くとすれば、観光客は物見遊山に出かける。前者がコミュニケーショ ンなしに連帯するのだとすれば、後者は連帯なしにコミュニケーションする。前者が帝国か ら生まれた反作用であり、私的な生を国民国家の政治で取りあげろと叫ぶのだとすれば、後 者は帝国と国民国家の隙間から生まれたノイズであり、私的な欲望で公的な空間をひそかに 変容させるだろう。 そしてなによりも、観光客Ⅱ郵便的マルチチュードのコミュニケーションは、否定神学的 マルチチュードのそれと異なり偶然に開かれている。観光客は、連帯はしないが、そのかわ : デモ りたまたま出会ったひとと言葉を交わす。デモには敵がいるが、観光には敵がいなし ( 根源的民主主義 ) は友敵理論の内側にあるが、観光はその外部にあるのだ。 否定神学的マルチチュード ( デモ ) は、無から生まれ、無によってつながっていた。郵便 的マルチチュード ( 観光 ) は、誤配から生まれ、誤配によってつながる。 ゲンロン 0 160
範な分化を示す一方で、株の仲買人から排水溝掃除人に至る、あらゆる種類の労働者を、表 象の体系として再統合する」〔☆ 2 〕。のちのダークツーリズムにも通じる間題だが、これはま☆ 2 ディーン・マキアーネル 『ザ・ツーリスト』安村克己ほか さに、観光の本質が情報の誤配にあること、そしてその誤配がある種の啓蒙に通じている 訳、学文社、ニ〇一ニ年、七三頁。 句読点を変更。 ことを示している。画集などいちども見たことのない門外漢がルーヴルでモナリザに出会い 自分で料理も作ったことのない貴族が。ハリで屠殺場を見学する。それはむろん誤解に満ちて いる。観光客が観光対象について正しく理解するなど、まず期待できない。しかしそれでも、 その「誤配」こそがまた新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光 の魅力なのである。 ネグリたちのマルチチュードは、あくまでも否定神学的なマルチチュードだった。だから 彼らは、連帯しないことによる連帯を夢見るしかなかった。けれどもぼくたちは、観光客と いう概念のもと、その郵便化を考えたいと思う。そうすることで、たえず連帯しそこなう ことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのよう な錯覚の集積がつくる連帯を考えたいと思う。ひとがだれかと連帯しようとする。それはう まくいかないあちこちでうまくいかない。 けれどもあとから振り返ると、なにか連帯らし きものがあったかのような気もしてくる。そしてその錯覚がつぎの連帯の ( 失敗の ) 試みを 後押しする。それが、ぼくが考える観光客Ⅱ郵便的マルチチュードの連帯のすがたである。 マルチチュードが郵便化すると観光客になる。観光客が否定神学化するとマルチチュード になる。これはあまりにも奇妙な規定に響くだろうか ? だとすれば、みなさんはまだ「マ ルチチュード」と「観光客」の語感の遠さにごまかされているのだ。連帯の理想を掲げ、デ モの場所を求め、ネットで情報を集めて世界中を旅し、本国の政治とまったく無関係な場所 1 5 9 第 4 章郵便的マルチチュードへ
に現場へと「降りていく」ような近代的な社会組織と親和性が高い。それゆえ、逆にポス トモダニストたちは、そのような樹木状のものではない、別のかたちのネットワークについ て考えようとした。そこで現れたのがリゾームという一言葉である。ツリーとリゾームの対置 は、前章で見たネグリたちの議論にも人りこんでいる。『帝国』には、リゾームの概念とイ ンターネットのネットワーク構造 ( 「非ー階層的で非ー中心的なネットワーク構造」 ) を等置し、マ ルチチュードの活動の場はリゾームだと述べた箇所がある〔☆聖。彼らの理論では、国民国☆加『帝国』、三八五頁。 家の体制はツリーをモデルとして、帝国の体制はリゾームをモデルとして考えられている。 ポストモダニストたちは、近代社会とポストモダン社会では、権力が伝播する人間関係の かたちそのものがちがうし、対抗運動のありかたもちがうと考えた。その直観はおそらく誤っ てはいない。一九世紀と二一世紀では人間関係のありかたはずいぶんと異なるし、それは政 治的な差異も生みだしている。たとえば、一九世紀には Z はなかったし、 Z による 動員もなかった。 けれどもドウルーズたちは、リゾームについてじつにあいまいな観念しかもっていなかっ た。ツリーとリゾームの差異についても、計量可能な指標で分析する手段をもっていなかっ たし、またもてるとも思っていなかった。すべてはイメージの話でしかなかった。それゆえ 彼らの規定は、「リゾームには始まりも終点もない、い つも中間、もののあいだ、存在のあいだ、 ☆Ⅱ『千のプラトー上』、六〇 間奏曲なのだ」といった、あまりにも文学的な表現に終始することになった〔☆Ⅱ〕。この前 頁。訳文一部改変。 提のうえでは、国民国家がツリーで、帝国あるいはマルチチュードがリゾームだと主張した としても、結局は印象論すなわちイメージの域を出ない。ネグリとハ 遡ればドウルーズとガタリのこのあいまいさに帰着する。さらに付け加えれば、前章でも指 ートのあいまいさは、 1 8 1 第 4 章郵便的マルチチュードへ
個人から国民へ、そして世界市民へという弁証法的上昇とは別のしかたで。それが観光客の 道である。 観光客とはなにか。ここまで述べてきたとおり、それはまずは、帝国の体制と国民国家の 体制のあいだを往復し、私的な生の実感を私的なまま公的な政治につなげる存在の名称であ ートが提案したマルチチュードの概念に近い る。それは、不グリとハ マルチチュードは、共産主義の凋落のあと、反体制の運動の可能性に対して肯定的に言及 するときに使うことができる、哲学に残されたほとんど唯一の概念である。それゆえ、もし これからもなんらかの運動が必要だと考えるのであれば、そしてその必要性をーー参加者の 自己満足に閉じこもらずー・ーー広く公衆に訴えたいと願うのであれば、ばくたちはその概念を なんらかのかたちで継承するべきだと思われる。本書の観光客論は、そのような視座のもと 構想されている。 ただし、そこで忘れてはならないのが、マルチチュードにはふたつの致命的な弱点があっ たことである。マルチチュードは、第一に、帝国の内部で、帝国自身の原理から生みだされ る反作用だと考えられていた。そして第二に、多様な生を多様なまま共通点なくして連結 する、「否定神学的」な連帯の原理に依存するものだと考えられていた。ひとことで言えば、 マルチチュードがなぜ生まれるのか、そのメカニズムがうまく説明されていなかったし、ま た生まれたあとの拡大の論理にも無理があった。それゆえ、ネグリたちの運動論はじつに文 学的でロマン主義的な、ほとんど信仰と言ってもよいものに堕する危険を抱えていたので ある。 1 5 5 第 4 章郵便的マルチチュードへ
には、監修者によって「マルチチュードのプロジェクトは愛のプロジェクトでもあり、マル チチュードの闘いは愛の実験でもある」といったかなり高揚した文章が記されている〔☆。 少なくとも日本の読者はそれを読んでいる。 いささか意地悪く言えば、『帝国』が世界的なベストセラーとなり、いまも活動家により 参照され続けているのは、その分析の力や思想の深度ゆえではなく、ほんとうはむしろこの ようなマルチチュードの運動論的な欠陥ゆえなのではないだろうか ? ネットと愛さえ信じ ていればあとは生政治の自己組織化でなんとかなるーーーかくも都合のいい運動論はそうそう 存在しない。かりにそれが誤解だったとしても、人々はまさにそのような誤解からこそ力を 得てしまったのである。 ネグリたちのマルチチュードの規定は、あまりにもあいまいで、ときに神秘主義的である。 それはロマン主義的な自己満足を呼び寄せる。観光客の哲学はこの弱点を回避しなければな らない マルチチュード そして、弱点を回避するためには、弱点の正体を知らなければならない : ばくの考えでは、おそらくふた の概念はなぜこのような弱点を抱えてしまったのだろうカ つの原因がある。 ートの議論が二元論」であることにある。『帝国』の世界 ひとつの原因は、ネグリとハ には帝国しか存在しない。しかもひとつの帝国しか存在しない。その「単一性」が彼らの議 論の肝である。煩雑になるのでここでは紹介していないが、それはスピノザの哲学と不可分 に関係している。いずれにせよ、彼らの議論では、世界には帝国しか存在しないので、マル ☆『〈帝国〉』、五一ニ頁。 ☆幻『マルチチュード ( 下 ) 』、 ニ七五頁。水嶋一憲の文章。強 ; ー除 146 ゲンロン 0
すと考えるのだ ( ヴォルテールとドストエフスキーが示そうとしたのはまさにこの力学だと一言える ) 。こ こではこれ以上詳しく説明する余裕はないので、郵便と誤配の概念についてきちんと知りた い読者は『存在論的、郵便的』をお読みいただきたい。 いずれにせよ、ぼくは同書でその対 置を軸にして、現代思想は、否定神学を脱して郵便的思考に生まれ変わるべきだと主張した。 同書の執筆時、ぼくはまだ大学院生で、いま振り返ればあまりに大きな風呂敷を広げてし まっていた。現代思想の全体を生まれ変わらせることなど、二〇代のばくにできたはずもな い。けれども、こと「否定神学」と「郵便」の対置に関しては、その後のさまざまな仕事で も有効に活用している。それは、人間が「超越論的なもの」について語るときに頻繁に登場 する、ふたつの思考様式を表す簡潔な言葉である。 そこで本書でも、その対置を用いて、否定神学的マルチチュードならぬ郵便的マルチチュー ドの概念を考えてみる。郵便的マルチチュードとはなにか ? 観光客こそが、その郵便的マルチチュードである。ばくはここでそのような定義を提案し たいと思う この定義は、本書でここまで進めてきた観光客論の射程を、哲学的に一気に広げる可能性 を秘めている。ぼくは第二章で、現在の社会思想において、観光客について考えることがい かにむずかしいかを説明した。観光客を郵便的マルチチュードと名づけることで、今後はそ の説明を本書以外の哲学書の言葉を借りて省略することが可能になる。なぜならば、そもそ も「郵便」あるいは「エクリチュール」は ( この点も本書ではまた触れるにとどめるが ) 、デリダ の哲学において、ヘーゲル的弁証法を逃れるもの一般を指す術語だったからである。観光 1 5 7 第 4 章郵便的マルチチュードへ
ついては、それは帝国Ⅱリゾームの内部から反作用として現れるはずだと記すだけで、それ 以上の記述はできなかった。 しかし、帝国の体制をスケールフリーが生みだす秩序として捉え返し、スモールワールド の秩序との共存を説く本書の提案は、マルチチュードの発生についてまったく異なった説明 を可能にする。そしてまた、その新たなマルチチュードが取る戦略についても、信仰告白に 陥らない具体的な指針を与えてくれる。その指針こそが、本書がここまで長いあいだ目指し てきた、観光客の哲学を支える核心的な洞察であり、本書の結論である。 新たなマルチチュードは、リゾームⅡ帝国そのものが生みだしたにもかかわらずその秩序 を内部から切り崩すといった、正体不明の自己言及的な否定作用を名指す魔法の言葉なので はない。人文思想の世界はそのような魔法の言葉ばかりで、ばくはその状况にうんざりして 本書を書き始めた。ぼくが本書で提案する観光客、あるいは郵便的マルチチュードは、スモー ルワールドをスモールワールドたらしめた「つなぎかえ」あるいは誤配の操作を、スケール フリーの秩序に回収される手前で保持し続ける、抵抗の記憶の実践者になる。 どういうことか。最後に、その洞察にいたる論理とその彼方に現れる新しい思想的課題に 触れて、第一部を閉じることにしよう。 ワッツとストロガッツは、スモールワールド性を考えるなかで「つなぎかえ」と「近道」 を発見し、パ ラバシとアルバートは、スケールフリー性を考えるなかで「成長」と「優先的 ゲンロン 0 1 8 6
ネグリたちのマルチチュードは、あく までも否定神学的なマルチチュード 〔 : : : 〕けれどもばくたちは、 観光客という概念のもと、その郵便化 を考えたいと思う。そうすることで、 たえず連帯しそこなうことで事後的に 生成し、結果的にそこに連帯が存在す るかのよ - つに見、んてしま - つ、そのよ - っ な錯覚の集積がつくる連帯を考えたい と思う。ひとがだれかと連帯しようと するそれはうまくいかないあちこ けれどもあとか ち一で - フ↓ま / \ いかた 6 い ら振り返ると、なにか連帯らしきもの があったかのような気もしてくる。そ してその錯覚がつぎの連帯の ( 失敗の ) 試みを後押しするそれが、ばくが考 える観光客Ⅱ郵便的マルチチュードの 連帯のすがたである ( 第 4 章より ) 観光客の哲学東浩紀 観光客の哲学 東 g 紀 『郵便的』から四年 集大成にして新展開 ennon 0n00n
☆四ニ〇一六年七月、アメリ 問題ではなく、実際に長いあいだ語られてこなかった。の人々の苦しみは、政治に 力のー企業創業者で投資家の ートに ( 私的に ) 解決すべき問題だと考えられてきた。いまでも保守的な人々 ピーター・ティールは、共和党 頼ら、す、プライベ の全国大会でつぎのように発言 はそう考えている〔☆四〕。マルチチュードが壊すのは、まさにその分割である。 したと報道されている。「わたし が子供のころ、大人たちの関心 ばくはさきほど、観光客の哲学は、動物の層から人間の層 ( つながる横断の回路、すなわ はソビエトをどう打ち負かすか ち、市民が市民として市民社会の層にとどまったまま、そのままで公共と普遍につながる回 でした。そして、我々は勝利し ました。それがいまや、世間の ートのマルチチュード 路を探るものなのだと記した。以上から明らかなように、ネグリとハ 関心は「だれがどちらのトイレ の構想は、じつはその企てにきわめて近いところに届いている。『帝国』は、一般にはたんを使うべきか」とい。たもので す。そんなことはどうでもいい なる国際政治の本と受けとめられているが、政治の定義そのものを変革しようとしていると のです。もっと重要なことがあ るはずです」 ( 「 Fo 「 bes 」 APAN 」 いう点で、じつはきわめて哲学的な書物なのだ。マルチチュードのすがたは、本書が考える ニ〇一六年七月ニニ日付の記 事。表現一部改変。 URL=http:// 観光客にかぎりなく近い (0 「 besjapan .com/a 「 ticles/ deta ニ Z12973 ) 。ティールはト にもかかわらず、マルチチュードの概念には致命的な欠点がある。それゆえ、観光客の哲ランプの支持者だが、この発言 は現在の政治的対立の本質を端 さきほど述 的に伝えている。リべラルはこ 学を設立するためには、ネグリたちの哲学にある修正を加えなければならない の数十年、政治の領域を拡大し、 べたように、それがばくの考えである。 セクシュアリティを含め、多く ートは、マルチチュードの台頭についてじつに雄弁に語っての私的な問題を公的な議論の俎 リ」一つい一つことか、不クリ一と 上に載せることを提案し続けて ヾル化のオルタナテイプ ( 現状とは いる。たしかに前述のように、二一世紀に人り、グロー きた。そこでは公的な問題 ( ン ビエトをどう打ち負かすか ) と ちがうもうひとつのグロ ーバル化 ) を求める民衆の声は世界各地で高まっている。ネットワーク 私的な問題 ( だれがどちらのト イレを使うべきか ) は区別され 状の自己組織化 ( 指導者なき動員 ) 〔☆も一般的となっている。その点ではマルチチュードの ない。そのような考えの起源は 存在感は確実に増している。 一九六〇年代の「個人的なこと は政治的なこと The pe 「 sonal is では、その力はどのようにして現実の政治と結びつくのだろうか ? デモはどのようにし 144 ゲンロン 0
にもかかわらず、そのリスクを承知のうえで記せば、ばくはここで、以上のネットワーク 理論の知見を、前章までの二層構造論の一種の基礎づけとして利用することを提案したいと 思う。基礎づけという表現が強すぎるのであれば、逆に二層構造論のほうを、以上のような 数学的知見の人文的解釈として再定義したいのだと言ってもよい。その作業があって、はじ めて本書の観光客論は実質を獲得する。 ぼくは前章で、帝国と国民国家の二層構造は「イメージ」だと記した。ナショナリズムの 時代においては、国民国家 ( ネーション ) のひとつひとつが独立の人間で、それらが集まって 国際社会をつくると「イメージ」されていた。現代では、国民国家は独立性を失っており、 国境を越えてつながる巨大な身体Ⅱ経済のうえに、国境を再構築しようとする無数の顔Ⅱ政 治が乗っかっていると「イメージ」される。イメージだからといって、それらの議論が無意 味なわけではない。人間は結局のところイメージで動くのであり、イメージの差異は現実の 差異につながる。とはいえ、帝国と国民国家の二層化そのものがイメージにすぎないのだと すれば、両者を往復する観光客Ⅱ郵便的マルチチュードという本書の提案もまたイメージの 刷新にすぎないことになり、マルチチュードをめぐる議論はまた神秘主義的でロマン主義的 な自己満足 ( 「観光客として生きよう ! 」 ) に戻ってしまうだろう。 ぼくはその隘路を避けたい。だから、あえてリスクを冒して数学を引用するのである。帝 国が実体であり、国民国家も実体であり、郵便的マルチチュードも実体であり、それらにつ いて生産的に議論することが可能であることを示すために、社会思想とネットワーク理論が 交差する可能性に触れておきたい。 1 7 9 第 4 章郵便的マルチチュードへ