ルソー - みる会図書館


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1. ゲンロン0 観光客の哲学

哲学者のひとりめは、ルソーと同時期に活躍し、またルソーの論敵でもあったヴォルテー ルである。 とい一つの、も、ルソーは ルソーの論敵と記したが、じつはこの紹介にはあまり意味はない 論敵だらけの人物だったからである。ルソーは、啓蒙主義が頂点を迎え、社交界とサロン文 化が花開いた一八世紀半ばの。ハリで活動していた。しかし、さきほど記したように、彼自身 ☆ 4 ルソーとデイドロの諍 は人間嫌いで、社交性に欠けた被害妄想気味の人物でもあった。それゆえルソーは、ヴォル いについては、ルソー自身の晩 テールだけでなく、多くの同時代人と諍いを起こしている。なかでも有名なのはデイドロお 年の著作『告白』の第九巻を参 照のこと。『ルソー全集』第ニ よびヒュームとの諍いで、前者についてはルソー自身が『告白』に詳細な記録を残しており、 巻、小林善彦ほか訳、白水社、 一九八一年。ルソーとヒューム 後者は書簡集として出版されている〔☆ 4 〕。両者ともに、哲学的議論を期待して読むと溜息 の諍いについては、山崎正一 しか出ないくだらない諍いでしかないが、しかし裏返せば、そのようなくだらなさこそが、 串田孫一『悪魔と裏切者』、ちく さきほど触れた逆説 ( なぜ人間は人間が嫌いなのに、人間と社会をつくるのか ) を問うルソーの原動ま学芸文庫、一 - 〇一四年が参考 になる。本文で記したとおり双 方ともに諍いの内容はしつにく 力だったとも言える。とはいえ、この話もまた踏みこむと長くなるので別の機会に譲る。い だらなく溜息しか出ないが、近 ずれにせよ、ヴォルテールはルソーの同時代人だった。 代民主主義の礎が現実にはどの そのヴォルテールの代表作に『カンディード』という奇妙な小説がある。一七五九年に出ような人物によ。てつくられた のか、ルソーの人格を知るうえ で ( けっして否定的な意味におい 版された作品で ( 『社会契約論」の三年前であり、スミスの『道徳感情論』と同年である ) 、現代風に言 てだけではなく ) これらの「論争」 えば、ドタバタ冒険小説のなかにところどころ哲学的な省察が人ったような、じつにふしぎ は『人間不平等起源論』や『社 会契約論』と並んで必読である。 な形態の小説である。いまの読者にはあまりなじみがないかもしれないが、文学史では高く 2 ゲンロン 0 066

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ラフを作った、あの誤配の作用そのものなのではなかろうか。 ローティはルソーにほとんど触れていない けれども、『一般意志 2 ・ 0 』でも記したよう に〔☆、ぼくはここでつねにルソーを思い出す。第二章の冒頭で記したように、ルソーは 人間が好きではなかった。人間は人間が好きであるはずがないと考えていた。人間は社会を つくりたくないはずだと考えていた。 にもかかわらず、人間は現実には社会をつくる。なぜか。ルソーが『人間不平等起源論』 で提示した答えは「憐れみ」だった。憐れみとは、「われわれが苦しんでいる人々を見て、 よく考えもしないでわれわれを助けに向かわせる」ものであり、「各個人において自己愛の 活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している」働きである〔☆リ。もし憐れみがなければ、 人類はとうのむかしに滅びていただろうとルソーは記す。憐れみこそが社会をつくり、そし て社会は不平等をつくる。それはとても誤配に、そして「つなぎかえ」に似ている。 ルソーもローテイもおそらくは誤配の哲学者だったのだ。誤配こそがヘーゲルが見なかっ たものであり、そしてぼくたちがいま回復しなければならないものなのだ。観光客の哲学と は誤配の哲学なのだ。そして連帯と憐れみの哲学なのだ。ぼくたちは、誤配がなければ、そ もそも社会すらっくることができない ☆原好男訳、『ルンー全集』 第四巻、白水社、一九七八年、 一三四頁。 ☆『一般意志 2 ・。』、ニ一三 頁以下。 ゲンロン 0 1 9 8

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ぼくは二〇一一年に『一般意志 2 ・ 0 』という本を出版している〔☆ 1 〕。その中核はルソー の再読である。 ルソーは、近代民主主義の礎を築いた思想家として知られている。しかし同時に、ロマン 主義文学の父としても知られている。そして、『人間不平等起源論』や『社会契約論』の著 ール』や『告白』の 者である思想家としてのルソーの人間観と、『新エロイーズ』や『エ、、 著者である文学者としてのルソーの人間観は、じつはかなり開きがあるというのが哲学史的 な常識である。 ルソーは、政治思想家としては、個人は共同体の意志にしたがうべきだと主張した、全体 主義に近い立場の人物として知られている。二般意志はつねに正しい」という『社会契約論』 の一節 ( 第二編第三章 ) はあまりにも有名である。この一節は、共同体の意志が個人の意志に 優越すべきだと主張するものとして受け取られ、実際、のち参照するカール・シュミットの ☆ 2 カール・シュミット『独 ような保守の思想家によって肯定的に評価されている〔☆ 2 〕。他方でルソーは、文学者とし 裁』田中浩・原田武雄訳、未來社、 ては、孤独を尊び、偽善を許さず、共同体の規範の押しつけを許さない徹底した個人主義者一九九一年、一三三頁以下参照。 として受け人れられている。『新エロイーズ』は、慣習や階層に縛られない自由な感情の発 露としての恋愛表現の起源と考えられている。『告白』は、私的な性体験や嫉妬感情の赤裸々 な記述で多くの読者に衝撃を与えた。そちらではルソーは、全体主義者どころか、むしろド ストエフスキーと比較されるような情熱的な実存主義者だと考えられている。全体主義か個 ☆ 1 東浩紀『一般意志 2 ・ 0 』、 講談社、ニ〇 - 一年。 ゲンロン 0 062

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のは有益かもしれない ルソーにもドストエフスキーと同じように生の問題がある。三角形的な欲望がある。むし ろ伝記的事実を見るかぎり、ルソーのマゾヒズムは、ドストエフスキー以上に屈折し、あか らさまなものだったように思われる。たとえば彼は『告白』で、青年時代に下半身の露出を行っ ていたことを赤裸々に告白している。けれども、ルソーには、テクストのなかにも伝記的な もしルソーにコンプレックスがあったとすれば、そ 事実のなかにも、父殺しの問題はない れはむしろ母についてのものだっただろう。彼は生後まもなくで母を失っており、また こちらも『告白』に記されているのだが。ーー年長の女性に惹かれる傾向にあった。片方には 父殺しの主題があり、片方にはない もしこの差異がルソーとドストエフスキーの思考様式 の差異を作りだしているのだとしたら、たいへん興味深い現象である。 4 ドストエフスキーに戻ることとしよう。社会主義者は地下室人によって乗り越えられ、地 下室人はスタヴローギンによって乗り越えられた。だとすれば、ドストエフスキーの結論は、 ひとはみなスタヴローギンになるべきだというものなのだろうか むろんそうであるはずがない。『悪霊』におけるスタヴローギンの描写はけっして肯定的 なものではない。そもそも彼は結末で自殺している。スタヴローギンはたしかに『悪霊』の 主人公だった。しかしそれは、『罪と罰』のラスコーリニコフや『白痴』のムイシュキンと は異なり、あくまでもアンチヒーローとして位置づけられていた。ドストエフスキーは、む 2 8 1 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

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ささか「痛い」人間だった。『告白』や『孤独な散歩者の夢想』、それに同時代人との書簡な どには、地下室人もかくやといった文章が数多く残されている。 その両者はどのように統合されているのだろうか ? 結論から言うとルソーでは統合され ていない これも第二章で指摘したように、ルソーは一般に、人間はそもそも孤独で社会な ど必要としない存在だと主張しながらも ( 地下室人的な側面 ) 、個人の意志は一般意志にした がうべきだと説く ( 社会主義者的な側面 ) 、一一面性を抱えた矛盾した思想家として理解されてい る。ばくの『一般意志 2 ・ 0 』はその矛盾の解消を試みた本だし、実際にばくの主張はそこ には矛盾などないというものなのだが、普通に読めば、そこに矛盾が感じられるのはまちが し / し じつはこここそが、ルソーとドストエフスキーの大きな差異である。前述のように、社会 主義者と地下室人の矛盾は、ドストエフスキーにおいては作品の発展により弁証法的に統合 されていた。地下室人が社会主義者を乗り越え、スタヴローギンが地下室人を乗り越えると いう移行があった。しかしルソーにはその移行がないのだ。彼は最後まで、社会主義者の自 分と地下室人の自分、世界をよくしたいと思う自分とそんなの欺瞞だと感じる自分の矛盾に 苦しんでいた。彼は晩年になっても、まだ『ルソー、ジャンⅱジャックを裁く』と題する自 己分裂のテクストを書いている。ジラールはその弁証法の欠如を、ドストエフスキーには『虐 げられた人々』に対して『永遠の夫』があったが、ノ、 レノーには『新エロイーズ』に対して相 当する作品がなかったという表現で指摘している〔☆。 しかし、なぜルソーには弁証法がなかったのだろうか。ここで、フロイトが指摘したよう に、ドストエフスキーの文学につねに「父殺し」の主題がっきまとっていたことを思いだす ☆ジラール『ドストエフス キー』、九六頁。 ゲンロン 0 280

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、。けれども、いま、トルコで、 かってテロリストⅡ革命家は超人だったかもしれなし シリアで、イラクで、あるいはそれに呼応して先進諸国で自爆する若者たちに、超人の面影 はまったくない テロはいまでは、地下室人たちの破れかぶれの呪詛の表明でしかない。ス タヴローギンは、彼らよりもはるかに強い。だから、この二一世紀の世界においては、もは やスタヴローギンをテロリストに比することはできないのだ ートピア主義者からテロリストへ、そして 社会主義者から地下室人へ、そして超人へ。ュ シニカルなエリートへ。社会改革の理想に燃えた人間が、過激な運動を経ていつのまにかニ ヒリストになってしまうというその悲喜劇は、現在の日本でも見られるものである。ドスト エフスキーの文学は、そのだれもが知る心理の弁証法を、どんな哲学書よりも緻密に描きだ している。 ドストエフスキーの作品歴には弁証法がある。じつはこれはとても重要な特徴である。本 題から離れるが、ここでルソーとの簡単な比較を試みたい。 ルソーとドストエフスキーはしばしば似た作家だと言われる。実際に似たモチーフをあち こちで展開している。ただしその全体の構造が異なっている。 ぼくはさきほど、チェルヌイシェフスキーが『新エロイーズ』に言及していたことに触れ た。ルソーはチェルヌイシェフスキーと同じく、嫉妬のない世界を夢見ていた。これは実際、 彼の哲学的なテクストにも現れている主張である。そのかぎりで彼は理想主義者で社会主義 者である。しかし、ルソーにはまた別の側面もあった。そこでは彼は社会主義者というより も地下室人である。第二章でも述べたように、ルソーはとても嫉妬深い、被害妄想気味のい 2 7 9 第 7 章ドストエフスキーの最後の主体

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人主義か。社会か実存か。つまりは政治か文学か。エルンスト・カッシーラーは、その分裂 を「ジャンⅡジャック・ルソー問題」と呼んだ〔☆ 3 〕。 しかし、そこにはほんとうに分裂があるのだろうか ? 社会と実存は対立するのだろう か ? ぼくは疑わしく思った。そこでぼくは『一般意志 2 ・ 0 』では、『社会契約論』、とり わけそこで提出された「一般意志」という有名な概念の再解釈が、分裂の謎を解く鍵となる ことを示そうとした。詳しくは同書を読んでほしい。 : 。 ほくがそこで打ち出したのは、ル ソーの「一般意志」の概念は、社会と交わりたくない、他人とも会話したくない、人間がそ もそも嫌いな人々、現代風に言えば「ひきこもり」や「コミュ障」の人々のために構想され た、社会性の媒介なしに社会を生みだしてしまう逆説的な装置として読むべきだという提案 である。 ルソーは人間が嫌いだった。社会も嫌いだった。『学問芸術論』や『人間不平等起源論』 に記されているように、彼はそもそも、人間は、社会などっくらず、したがって学間も芸術 ももたず、家族単位でばらばらに生きるのが本来のすがただと考えていた。 にもかかわら、す、 人間は現実には社会をつくった。なぜか ? ルソーは、人間は本来は社会などっくりたくな いはずだと信じていたからこそ、逆にその いに答えねばならなかった。言い換えれば、個 人主義の文学者が集まり全体主義的な社会を生みだすメカニズムを考案しなければならな かった。二般意志」の概念はその必要性から生みだされたのだ。この観点で読めば、『新エ ロイーズ』も『告白』も『社会契約論』も、矛盾なく一貫して理解できる。 というわけで『一般意志 2 ・ 0 』は書かれたのだが、そうなると逆につぎの疑問が湧いて くる。ルソーに分裂はない。。 ほくはそう考える。だとすると、 いったいなぜ人々はそこに分 ☆ 3 エルンスト・カッシ ラー『ジャンジャック・ルソー 問題』生松敬三訳、みすす書房、 一九七四年。 0 6 5 第 2 章政治とその外部

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裂を見てきたのか ? じつは本書の主題である「観光客の哲学」は、その疑問と深く関係している。本書は表面 : ルソーを読み解くわけでも社会契約 的には『一般意志 2 ・ 0 』の延長にある著作ではなし を扱うわけでもない。しかし、本書の主題の「観光客」は、まさに、社会などっくるつもり か、ないか にもかかわらず社会をつくってしまう存在の範例として考えられている。この点 では本書は『一般意志 2 ・ 0 』の続編でもある。 にもかかわらず人間は現実に 人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。 にもかかわらず公 は社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくないのだが、 共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認 識のように思われる。 実際、多少とも社会思想史に詳しい読者であれば知っているように、それはルソーの時代 においては、多くの哲学者に共有された認識だった。たとえば、『社会契約論』とほぼ同時 期に出版されたアダム・スミスの『道徳感情論』は、まさにルソーと同じように、私的で孤 独な個人がいかにして社会を構成するようになるのか、そのメカニズムを主題としている。 : けれども、ふしぎなことに、一九世紀以降の その探究はいまでもまったく色褪せていなし 人文系の社会思想においては、この逆説はなぜか思考の中心にならなかった。かわりに中心 には、人間はそもそも人間が好きであり、社会Ⅱ国家をつくるものであり、社会Ⅱ国家のな かでどんどんみずからを高めていくものであり、むしろそうでない人間は「人間」の名に値 しないのだという、不自然なドグマが居座ることになった。いわゆるヘーゲル主義の問題で ありナショナリズムの間題だが、詳しくはまたあとで記す。いずれにせよ結果として、一九 ゲンロン 0 064

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世紀以降の世界においては、社会性のある人間と社会性のない人間、公共性のある人間と公 共性のない人間、公的な人間と私的な人間、政治家と文学者、前章での言葉を使えば「まじめ」 な人間と「ふまじめ」な人間とが単純に切り分けられることになった。ルソーの思想は、そ の切り分けのなかで捉えるからこそ、分裂しているように見える。そして、第一章で示唆し たように、観光客あるいはテロリストもまた、その切り分けのなかで捉えるからこそ、見え なくなるのである。二一世紀の思想は、もういちどそれを見えるようにしなければならない 人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない にもかかわらず人間は現実に は社会をつくる。なぜか 本書は、その謎を解くヒントを、一般意志の再読にではなく、観光客のありかたに見いだ そうと試みるものである。それはまた同時に、一九世紀以降の、まじめな公とふまじめな私 を対置させる政治思想への異議申し立てでもある。 第二章では、観光客の哲学の基礎固めを行う。ぼくはまず、ルソーとほば同時代のふたり て の哲学者を取りあげ、観光客について思考するためのふたつの手がかりを引き出す。続い 時代を下り、二〇世紀の三人の哲学者を参照することで、その手がかりを展開するためには 思想そのものをどのように変えるべきなのか、その課題を明らかにしたいと思う。 観光客について考えること、それは、近代の標準的な人間観を更新し、新たな人間観、新 たな社会観、そして新たな政治観を提示することにつながっている。 06 5 第 2 章政治とその外部

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ダニエル・」・プーアスティン『幻影の時代ーーーマスコミが製造する事実』星野郁美・後藤和彦訳、東京創元社、 1964 年 ミシェル・フーコー『言葉と物ーー - 人文科学の考古学』渡辺ー民・佐々木明訳、新潮社、 1974 年 『監獄の誕生ーー監視と処罰』田村俶訳、新潮社、 1977 年 『性の歴史一知への意志』渡辺守章訳、新潮社、 1986 年 マーク・プキャナン『歴史は「べき乗則」で動く一一種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』水谷淳訳、ハヤカワ文 庫 NF 、 2009 年 トーマス・フリードマン『フラット化する世界 - ーー経済の大転換と人間の未来』上・下、伏見威蕃訳、日本経済新聞社、 2006 年 ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』村井章子訳、日経 BP 社、 2008 年 ジークムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し / 不気味なもの』中山元訳、光文社古典新訳文庫、 2011 年 G ・ W ・ F ・ヘーゲル『法の哲学』いⅡ、藤野渉・赤沢正敏訳、中公クラシックス、 2001 年 ・ギデンズ、スコット・ラッシュ『再帰的近代化ーーー近現代の社会秩序における政治、伝統、 ウルリッヒ・べック、アンソニ 美的原理』松尾精文ほか訳、而立書房、 1997 年 ヴァルター・べンヤミン『バサージュ論』全 5 巻、今村仁司・三島憲一ほか訳、岩波現代文庫、 2003 年 ディーン・マキアーネル『ザ・ツーリストー一高度近代社会の構造分析』安村克己ほか訳、学文社、 2012 年 Dean MacCanneII, The Ethics 0fSightseeing, UniversitY 0f California Press' 2011. 増田直紀・今野紀雄『「複雑ネットワーク」とは何かーー複雑な関係を読み解く新しいアプローチ』、講談社プルーバックス、 2006 年 ネットワークの科学を応用する』、中公新書、 2007 年 増田直紀『私たちはどうつながっているのか 松村昌家『水晶宮物語』、ちくま学芸文庫、 2000 年 村上泰亮ほか『文明としてのイエ社会』、中央公論社、 1979 年 スティーヴン・ムルホール、アダム・スウイフト『リべラル・コミュニタリアン論争』谷澤正嗣・飯島昇藏ほか訳、勁草書房、 2007 年 リバタリアニズム入門』、講談社現代新書、 2001 年 森村進『自由はどこまで可能か 森村進編著『リバタリアニズム読本』、勁草書房、 2005 年 諸星大ニ郎『諸星大ニ郎自選短編集彼方より』、集英社文庫、 2004 年 柳田国男『先祖の話』、角川ソフィア文庫、 2013 年 山崎正一・串田孫ー『悪魔と裏切者一一一ルソーとヒューム』、ちくま学芸文庫、 2014 年 山城むつみ『ドストエフスキー』、講談社文芸文庫、 2015 年 吉川浩満『理不尽な進化ーーー遺伝子と運のあいだ』、朝日出版社、 2014 年 ディヴィッド・ライアン『監視社会』河村一郎訳、青土社、 2002 年 G ・ w ・ライプニツッ『ライプニツッ著作集』第 6 巻、佐々木能章訳、工作舎、 1990 年 ジャック・ラカン『精神分析の四基本概念』、ジャック = アラン・ミレール編、小出浩之ほか訳、岩波書店、 2000 年 へゲモニーとポスト・マルクス主義』西永亮・千葉眞訳、ちくま 工ルネスト・ラクラウ、シャンタル・ムフ『民主主義の革命 ジャン = ジャック・ルソー『ルソ 工リック・リード『旅の思想史 学芸文庫、 2012 年 ー全集』第 9 巻、松本勤訳、白水社、 1979 年 『ルソー全集』第 5 巻、作田啓ーほか訳、白水社、 1979 年 『ルソー全集』第 4 巻、原好男ほか訳、白水社、 1978 年 ー全集』第 2 巻、小林善彦ほか訳、白水社、 1981 年 ー全集』第 1 巻、小林善彦訳、白水社、 1979 年 ギルガメシュ叙事詩から世界観光旅行へ』伊藤誓訳、法政大学出版局、 1993 年 『ルソ 『ルソ 『ルソー全集』第 10 巻、松本勤訳、白水社、 1981 年 ゲンロン 0 504