なっていた。その構図は、一五〇年後のいまの日本で、中国人観光客を笑う構図とほとんど 変わらない。 ここまでの議論をまとめよう。観光とはまずは「楽しみのための旅行」であり、「訪間地 で報酬を得る活動を行うことと関連しない」「日常の生活圏の外に旅行したり、また滞在し たり」することだった。しかしそれは、より本質的には、大衆社会や消費社会の誕生と結び ついたものだった。観光は、新しい産業と新しい交通が生みだした新しい生活様式と結びつ いた行為であり、古い既得権益層と衝突する行為でもあった。 それでは、これからそのような観光がますます世界を覆っていくとして、それはぼくたち の文明にとってどのような意味をもつだろうか。観光は世界をどう変えるのか。観光客の哲 学を構想するにあたり、まず思いつくのはそのような問いである。 しかし、そのⅢ いについて考え始めると、ぼくたちはすぐ壁にぶつかることになる。じっ はいままでの学問は、このような問いにほとんどなにも答えていないからである。あるいは 答えていたとしても、否定的にしか答えていないからである。 どういうことか。研究状況をざっと眺めてみよう。まず、日本の観光学は実学中心である。 さきほども触れたように、教科書は観光を「楽しみのための旅行」としか定義していない 実学ではそれで十分なのだろう。ぼくはそれを否定するわけではない。しかしその定義がな にも思考を促してくれないことは明らかである〔☆。 では観光学の外部はどうだろうか。あるいは英語圏はどうか ☆貶日本では最近、観光学術 学会という名の新たな学会が立 ち上がっている。設立趣意書に は、つぎのように記されている。 「日本における観光研究に求めら れているのは、理論的な学術研究 の進展です。これまでの日本にお ける観光研究は、その実学的性 質から、学術的考察や分析の面 で脆弱であったことは否めませ ん」。観光学術学会「学会の記録」、 一一〇一ニ年。 URL=http://jsts.sc/ a 「 02 7 第 1 章観光
る。二〇一五年の訪日外国人旅行者数は一九七四万人にのばり、 二〇一六年には二四〇〇万人にまで増えると予想されている。震災 直前の二〇一〇年が八六一万人だから、六年で三倍近くに伸びたこ とになる。日本政府は、これを近い将来に四〇〇〇万人にまで伸ば そうと、観光産業を積極的に支援している。 そしてここで重要なのは、じつはこれは日本だけの現象ではない ことである。日本はたしかにこの数年、官民を挙げて観光客の誘致 に力を人れている。「クールジャパン」もあるしオリンピックもあ る。右記の急成長にはその成果が現れている。しかし、観光客の増加、 とりわけ国境を越える観光客の増加は、全世界的な傾向である。 もうひとっ統計を挙げておこう。図 2 は国連世界観光機関の調査 結果である。ここに示されているのは、それぞれの国にとっての外 国人観光客 ( イイ ( ウンド ) 、すなわち国境を越える観光客の数だ。 この図からわかるのは、この二〇年でインパウンドの総数がじっ に二倍以上に伸びているということである。その数は、一九九五年の五億二七〇〇万人に対 Ⅱとリーマンショック して、二〇一五年は一一億八四〇〇万人にのぼっている。しかも 9 ・ の影響を除けば、右肩上がりでほぼまっすぐ増加し続けている。この数字はあくまでも国境 を越えた観光客の数なので、同じ時期に急成長したはずの中国市場の国内観光客などは含ん でいない。それを考慮すれば、成長の傾きはもっと急になるだろう。観光というと日本では、 : けれども実際に 高度経済成長期からバブル期にかけての古い消費活動といった印象が強し ・出国日本人数 第訪日外国人旅行者数 ( 万人 ) 4 , 000 3595 3 , 500 3 , 000 2 , 500 2 , 000 - 1851 ー 1 , 500 1 , 000 500 03 年 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 図 1 日本政府観光局 ( 」 NTO) 調べ。 2015 年は推計値。 観光庁ウエプサイトをもとに制作。 http://www.mlit.go.jp/kankocho/siryou/toukei/in—out.html ゲンロン 0 020
と国家を起点にする秩序原理 ( ナショナリズム ) をともに批判するときに起点となる、第四の 理念を手に人れることができるだろう。郵便的連帯とは家族的連帯である。観光客の哲学に は家族の哲学が続く。 え、家族 ? と、失望した読者が多いかもしれない。実際、この言葉は日本の知識人層に ( 一「ⅱ顰か悪し それにはいくつかの理由がある。まず、いまの日本では、「家族」という一言葉は、それだ けで保守の ( それもかなり愛国主義や排外主義に傾いた保守の ) 価値観に結びつく特殊な政治用語 になってしまっている。最近の日本では、自民党が二〇一二年に発表した憲法改正草案に代 表されるように、保守勢力がさかんに「伝統的家族」の復興を謳いあげている。そのために こうした事態が生まれている。 家族の概念は、本来は政治的に中立である。保守もリべラルもたいていは家族をもってい る。にもかかわらず、「家族」と口に出しただけで特殊なイデオロギーに属しているかのよ うに見えること、それそのものがほんとうは深刻な問題である。そのゆがみはリペラルの苦 境を象徴している。日本のリべラルはこの言葉を奪い返すべきだが、いまのところその兆し は見られない。いずれにせよ、家族が大事とか言いだすやつにろくなやつはいないというの が、いまの左翼の常識であり、また知識人の常識である。本書の読者にも、似た感覚を抱く ひとが少なくないだろう。 つぎに、理論的あるいは倫理的に、「家族」が孕むさまざまな暴力が指摘されてきたとい う歴史がある。その代表的なものとして、上野千鶴子をはじめとするマルクス主義フェミニ ゲンロン 0 2 0 8
例を挙げたように、家族の概念に基づく政治思想などと言うと、 いかにも国家主義や全体主指向」 ( 個人でありたい指向 ) と 「集合性指向」 ( みんなといっしょ 義に近い印象を与えるかもしれなし : けれども、そこで想定されているのは、いわば「必殀 でありたい指向 ) とがあり、その ふたつの指向の場を社会のなか の家族」である。ぼくは逆に偶然の家族を考える。人間を死の必然性からではなく出生の偶 で分裂させるか統合させるかで、 然性から見る本論の構想は、まったく異なった政治的含意をもっことだろう。 人間社会を「分立型社会」と「浸 透型社会」に分類することがで きる。たとえばポリスとオイコ スが峻別された古代ギリシアは そして、みつつめに注目したいのは家族の拡張性である。 分立型社会であり、他方で中世 いまの日本では、家族の代表的なイメージは核家族になっている。しかし、それはあくま ヨーロツ。ハでその萌芽が生まれ た国民国家は浸透型社会である。 でも戦後の現象で、日本はもともと核家族の国ではない。 トッドの分類では、ドイツや朝鮮 同じように宗族と文人官僚制が 半島と同じく、「直系家族」 ( 子どものうちひとりだけが成人し結婚したあとも両親と同居し、遺産もそ峻別された中華帝国は分立型社 会であり、その辺境である中世 のひとりが相続する家族形態 ) が優勢の地域だとされている。 日本で生まれたイエ社会は浸透 型社会だ。この視座からすれば、 日本の「イエ、は、歴史的にはむしろ核家族からはかけ離れたイメージで捉えられてきた。 本書がここまで展開してきたニ そもそもイエは、血縁よりも経済的な共同性を中心とし、養子縁組によってかなり柔軟に拡層構造論は、いわば、ニ一世紀 の人類社会が、もはや浸透型社 張が可能な組織だったと言われている。だからこそ日本社会は、イエを企業と読み替え、近 会ではなく、集合性指向 ( 生権力 ) を担当する帝国の場と個別性指 代化にすみやかに適合することができた。この点については、柳田國男の一九四六年の『先 向 ( 規律訓練 ) を担当する国民国 家の場を分けた地球規模の分立 祖の話』および村上泰亮らの一九七九年の『文明としてのイエ社会』が参考になる。とくに 型社会に戻りつつあることを指 後者の研究は、梅棹忠夫の『文明の生態史観』を下敷きに行われたもので、いま振り返れば 摘した議論として解釈できるだ ろう。ナショナリズムの時代と ドウーギンの地政学的発想やトッドの人類学的研究と通じるものがある〔☆四。 は、浸透型社会のひとつのタイ 同じことは日本以外でも言える。さきほど上野千鶴子の文章を引用したが、実際には家族プ ( 国民国家 ) が覇権を握り、た またま人類史の表舞台に躍り出 は性と生殖だけで定義可能な存在ではない。それはどの地域でも集住や経済的な共同性と深 た短い時代の名称にすぎなかっ く結びついている。だからこそトッドは、家族形態の分類にあたり、居住や遺産相続の形式たのかもしれない。だからこそ、 2 1 9 第 5 章家族
既刊紹介 ゲンロン 1 ゲ ン ン 集現代日本の批評 大澤聡 / 市川真人 / 福嶋亮大 / 佐々木敦 / 安藤礼ニ / 東浩紀 ↓朝本 小特集テロの時代の芸術 批 鈴木忠志 / 亀山郁夫 / ポリス・グロイス / 上田洋子 / 東浩紀 [ 連載 ] クレイグ・オーウェンス / 黒瀬陽平 / 速水健朗 / 井出明 [ コラム ] 安天 / 市川真人 / 辻田真佐憲 / 西田亮介 [ 創作 ] 海猫沢めろん 東浩紀編 2015 年 12 月刊本体 2300 円 + 税 東浩紀・冖 ゲンロン 2 ゲ 東浩紀編 2016 年 4 月刊本体 2400 円 + 税 ロ ン 特集慰霊の空間 2 中沢新一 / カオス * ラウンジ / 新津保建秀 / 津田大介 / 藤村龍至 渡邉英徳 / 黒瀬陽平 / 五十嵐太郎 / ポリス・グロイス / 東浩紀 小特集現代日本の批評Ⅱ 筒井康隆 / 市川真人 / 大澤聡 / 福嶋亮大 / さやわカゾ東浩紀 [ 連載 ] 黒瀬陽平 / 速水健朗 / 井出明 / クレイグ・オーウェンス [ コラム ] 安天 / 市川真人 / 辻田真佐憲 / 西田亮介 / 上田洋子 [ 創作 ] 海猫沢めろん ゲンロン 3 東浩紀編 2016 年 7 月刊本体 2400 円 + 税 集脱戦後日本美術 キムツンジョン / 黒瀬陽平 / パク・チャンキョン / 会田誠 安藤礼ニ / 椹木野衣 / 新藤淳 / 土屋誠一 / 稲賀繁美 ノ、ンス・ベルティンク / ジョン・クラーク / 東浩紀 [ 特別掲載 ] バク・カプン [ 連載 ] 井出明 / クレイグ・オーウェンス [ コラム ] 市川真人 / 安天 / 辻田真佐憲 / 西田亮介 / 上田洋子 / 福冨渉 [ 創作 ] 海猫沢めろん ゲンロン 4 東浩紀編 2016 年 11 月刊本体 2400 円 + 税 集現代日本の批評Ⅲ 浅田彰 / 佐々木敦 / 市川真人 / 大澤聡 / さやわか 杉田俊介 / 五野井郁夫 / ジョ・ヨンイル / 東浩紀 [ 連載 ] プラープダー・ユン / 黒瀬陽平 / 速水健朗 / 井出明 . / ハンス・ベルティング [ コラム ] 安天 / 市川真人 / 辻田真佐憲 / 福冨渉 [ 創作 ] 海猫沢めろん 、霧東浩紀・ ゲンロン 3 : 脱戦後日本美術 東浩紀・ ゲンロン 0 5 1 2
ハッカー文化もオタク文化も、十ストモダンの時代に現れた新たな若者文化であり、精神 も世代も似ている。けれどもハッカー文化は、二〇一七年のいまも基本的に脱政治的であり 続けることができている日本のオタク文化と異なり、ある時期以降、政治権力との直接の対 峙を迫られることになった。一九九〇年の春、コンピュータ犯罪の危険を重視した合衆国連 邦政府が、ゲーム会社とその関連施設を不当に捜査するという事件があった。そのまえにも いくつかの事件があり、その過程で、情報技術の存在を想定していない従来の刑法は、プロ グラムの開発などを抑えこむためかなり恣意的に用いられることがわかってきた。そこでア メリカのハッカーたちは、同事件に対処するため「電子フロンティア財団」という非営利組 織を結成し、技術者の自由を守るための啓蒙やロビー活動に乗りだすことになる。このあた りの経緯については、こんどはプルース・スターリングの『ハッカーを追え ! 』というノン フィクションに記されているので、興味のある読者はこちらも読まれたい〔☆ 4 〕。スターリ ングは、サイバ ハンクを代表する小説家でギブスンとも共作があるが、同時に、ギブスン とは異なりハッカーの現実を深く理解している運動家でもあった。ローレンス・レッシグの ような、法もわかれば情報技術もわかり、しかも政治にもコミットする学者がアメリカにい るのはなぜか ( そして日本で育たないのはなぜか ) 、同書を読むとその背景がわかる。レッシグ自 身もいちど電子フロンティア財団の理事を務めている。 さて、以上のような歴史をもっハッカー文化は、基本的に「反権力」だと言うことができ るし、実際に広くそう見なされている。けれどもここで重要なのは、アメリカの反権力は、 日本の左翼と異なり、必ずしも反アメリカ、反ナショナリズムを意味しないということであ る。アメリカにはそもそも、植民地時代にまで遡る強い個人主義と自由主義の伝統があり ( リ ☆ 4 プルース・スターリング 『ハッカーを追え ! 』今岡清訳、 アスキー、一九九三年。 ゲンロン 0 2 5 6
趣味でコンピュータを組み立てていたビル・ゲイツやスティープ・ジョブズたちが、一気に 世間に出て、巨大な成功を手にすることになる情報技術史上の革命期である。『ニューロマ ンサー』の刊行の年にはマッキントッシュが発売されている。 ゲイツやジョブズのような若いプログラマーたちは、当時「ハッカー」と呼ばれていた この言葉はいまでは犯罪者を意味するものとなっているが、本来の意味は異なる。それはも ともとはコンピュータの操作に熟練した技術者を広く指す言葉で、一九五〇年代には、大学 や研究所の高価なメインフレーム・コンピュータ相手に巧みなプログラムを書く理系学生た ちを意味していた。そんな「ハッカー」たちが作りだす独特の文化は、一九六〇年代になる と大学を飛び出し、西海岸のニューエイジ思想やサプカルチャーと融合し、コンピュータの ーソナル化を果たすことで、一九八〇年代には巨大産業の担い手へと一気に飛躍すること になる。そのあたりの歴史はスティーヴン・レヴィの『ハッカーズ』に詳しく書かれている ☆ 3 スティープン・レビー ので、興味のあるかたはぜひそちらにあたってほしい〔☆ 3 〕。 『ハッカーズ』古橋芳恵・松田信 いずれにせよ、ここで重要なのは、その『ハッカーズ』を読めばわかるように、アメリカ 子訳、工学社、一九八七年。原 書は一九八四年刊行。この著作 の情報産業がたんなるビジネスとして発達してきたものではないということである。その背 が一九八四年に出版されている ことは、ギブスンが『ニューロ 後には独特の精神文化がある。そしてそのさらに中核には、一九七〇年代の西海岸の文化風 マンサー』を出版したとき、す 上に強い影響を受けた、サプカルチャーとも結びつく草の根の反権威主義がある。その心性 でにハッカー文化が十分に成熟 していたことを意味している。 は同世代の日本のオタクたちに似ている。実際に一九八〇年代の前半は、日本でいうと、ちょ そしてそこに記されたハッカー ー。ハンクが描 うどオタク第一世代の人々、のちに『新世紀エヴァンゲリオン』を作る庵野秀明や同世代のの現実は、サイバ く幻想とはかなり異なっている。 クリエイターが活躍し始める時期にあたっている。オタクたちは、日本で情報化をもっとも 熱心に受け人れた集団でもあった。 2 5 5 第 6 章不気味なもの
それでは議論に人ることとしよう。いろいろとややこしい留保をつけたが、。 ほくが観光客 の哲学の必要性を提案している背景には、むろん、まずはいま、世界中で観光がプームであ るという単純な事実がある。 日本はこの四半世紀ですっかり貧しくなってしまった。日本人はいまや金を使わない。日 本で観光がプームだったのは遠いむかしである。だから、観光がプームと言われても首を傾 げる読者がいるかもしれない。しかし、そんな読者も「爆買い」という一一一一〔葉くらいは聞いた ことがあるはずだ。二〇一四年から二〇一六年にかけては、中国人観光客の旺盛な消費が日 本中の観光地を救っていた。中国人に限らない。日本に来る外国人観光客の数は、目に見え て増加している。 統計を見てみよう。図 1 は観光庁の統計である。この図を見れば明らかなように、日 本ではいま、国内観光客の低迷を補うように、外国人観光客の数が急速に増加してい 抽象的な議論。 ことどまるのは、そのような制約があるからだ だとすれば、本書は、正確には、観光客の哲学そのものというよりも、観光客の哲学を考 えることを可能にするための概念的な準備作業、観光客の哲学・序論とでも称するべきもの なのかもしれない。 いずれにせよ、観光についての哲学的思考は、そのような準備作業を必 要としている。 2 0 1 9 第 1 章観光
浸透型社会のもうひとつのタイ を重視したのである。裏返せば、一緒に住み、「同じ釜の飯」を食えば、性と生殖がなくと プ ( イエ社会 ) をもつ日本も覇 も家族と見なされる、そのようなダイナミズムは世界中にあったし、いまでもある。 権の一角を占めることができた。 しかしその条件はいまや急速に 加えて重要なのは、家族の概念が親密性の感覚とけっして切り離せないことである ( 上野 変わりつつある。では、その新 たな分立型社会の時代において、 は家族愛など幻想だと言うかもしれないが、そのような幻想をばくたちが抱き続けていること、その事実そ 家族あるいはイエについて考え 、ゝま、 A 」彡 0 のものが両概念の切り離しがたさを証拠だてている ) 。だれが家族でだれが家族ではなしカ ( ることはどのような意味をもっ のだろうか ? 観光客日郵便的 ーシップは国家のそれとは大きく に私的な情愛により決められる。この点で、家族のメンバ マルチチュードの連帯は、浸透 性質が異なる。むろん、私的な情愛だけでいつも家族が拡張可能なわけではないが、情愛は型社会の原理 ( イエ ) の再導入 による分立型秩序への抵抗を意 ときに原則や手続きを超える。養子縁組にしても、必ずしもイエの存続のためだけに行われ 味するのだろうか ? というよ りも、ぼくたちは、日本が発明 るものではなかった。現代でこそ厳しい法的制限が課せられているが、それは本来はかなり したイエを、そのような普遍的 二〇一七年のいまなら いいかげんなものだった。さまざまな物語に描かれているように な組織概念へと鍛えなおすこと ができるだろうか ? いずれに ば片渕須直監督のアニメ映画『この世界の片隅に』のラストシーンを参照するのがよいだろ せよ、来たるべき「家族の哲学」 たまたま孤児に出会いかわいそうに思ったから養子にする、という例は終戦直後は、このような文明論的視座の もとでも考えられねばならない の日本ではけっしてめずらしくなかった。 ト 6 、つに田 5 、つ その柔軟性は、家族がまさに、第四章の末尾で見たようなルソーあるいはローティ的な「憐 ☆Ⅱ『ウイトゲンシュタイン全 れみ」に開かれていることを意味している。家族とはそもそもが偶然の存在である。だから 集』第八巻、藤本隆志訳、大修 それは偶然により拡張できるのだ。 館書店、一九七六年、七〇頁 ( 第 家族の輪郭は、性と生殖だけでなく、集住と財産だけでもなく、私的な情愛によっても決六七節 ) 。 まる。この特性が家族の拡張性を生みだしているのだが、しかしそれは同時に、家族の境界 ・シンガー『実 ☆貶ピーター 践の倫理冖新版〕』山内友三郎・ をじつにあいまいなものにもしている。とくに、伝統的な家族形態が劣勢になったいまの日 塚崎智監訳、昭和堂、一九九九年、 六七頁以下。 本ではそうである。血縁は広がっている。金銭の関係もそれに準じて広がっている。けれども、 ゲンロン 0 2 2 0
前の日本社会は、ウジ ( 氏 ) の ある子どもが生まれることには、じつはなんの必然性もない。みな親から見れば偶然なのた。 原理、すなわち原始的氏族ⅱ血 この点において、すべての家族は本質的に偶然の家族である。言い換えれば、家族とは、子 縁の原理で運営されていた。イ 工は、血縁でも地縁でもない柔 の偶然性に支えられたじつに危うい集団なのである。 軟な拡張原理をもち ( 超血縁性 ) 、 ここには哲学的にきわめて重要な問題が宿っている。ぼくはさきほど、死の可能性のない 時間的に長い持続を前提とし ( 系 譜性 ) 、構成員のあいだに明確 ところに政治はないと記した。そしてドウーギンの「第四の政治理論」がハイデガーを参照 な位階秩序をもち ( 機能的階統 性 ) 、外部に対して経済的かっ政 しているとも記した。 治的に高度な自律性をもっ ( 自 よく知られるとおり、 ハイデガーの哲学では「死」が大きな役割を果たしている。ひとは 立性 ) という四つの特徴を備え ている ( 第七章 ) 。そのようなイ だれでも死ぬ。しかもひとりきりで固有の死を死ぬ。言い換えれば、死は絶対的な必然であ 工の原理は、室町時代にはウジ る。ハイデガーはこの事実を出発点に定め、そこから哲学を構築した。そしてその過程で死の原理 ( 朝廷権力 ) を駆逐し、江 戸時代には徳川体制の統治を支 の絶対性と運命の必然性をあまりに強調し、ナチズムに近づくことにもなった。 配し、明治以降の近代化で勢い を多少失うものの、戦後にいたっ しかし、いま見たように、人間を死ではなく出生から捉えると、その条件はまったく別の てもいまだ「日本型経営」の雛 形として大きな力を発揮してい すがたを見せてくる。そこには偶然があり家族がいる。だとすれば、ばくたちはここで、 る。それが一九七九年に出版さ イデガーの試みを裏返して、「ひとはだれでもひとりきりで死ぬ」ではなく、「ひとはだれも れた同書の歴史認識である。と ころで本書の観点から注目して がひとりきりでは生まれることができない」を出発点とした、もうひとつの実存哲学を構想 おきたいのは、村上たちのその することができるのではないだろうか。『存在論的、郵便的』ではほとんど触れることがでような理論が、けっして日本史 固有の現象の説明原理としてで きなかったのだが、。 ほくはじつは、それこそがデリダが言う「散種」の哲学の可能性なので はなく、書名にも示されている はないかと考えている〔☆ 9 〕。散種とは精子の放出の意味である。精子の数があまりにも多ように、より大きな世界規模の 文明論のなかで構想されている いこレ」か ことである。彼らのイエの概念 ぼくたちの偶然性を生みだしている。死の絶対性と運命の必然性が生みだすハイ には普遍的な拡張可能性がある。 デガーの哲学に対置される、出生の相対性と家族の偶然性が生み出す新たな哲学・ : 村上たちの考えでは ( ニ四頁以 家族の概念には、このような豊かな再読の可能性が宿されている。さきほど一君万民論の下 ) 、人間にはそもそも「個別性 ゲンロン 0 2 1 8