が、四年前に行われた前回の総選挙および民健康保険」と呼ばれており、一九七〇年 を行、つことができる。 大統領選挙では、セヌリ党の核心プレーン 代後半からその基となる「職場医療保険」 として活躍し、セヌリ党と。ハク・クネ氏のが実施された。その生みの親がキム氏なの 「経済の民主化のために」国家が「経済に 勝利に一役買っている。当時ガチガチの右である。一九七七年、西江大学の教授だっ関する規制と調整を行う」ことを明記して 派政党だったセヌリ党の政策を中道よりのたキム氏は、当時は分配より成長を優先す いるため、この条項は「経済民主化条項」 ものに変え、右でも左でもない中間層をセる雰囲気であったにもかかわらず、大統領と呼ばれているが、この条項を作った彼の ヌリ党支持へと誘導するきっかけになったの。ハク・チョンヒ ( 朴正煕 ) 氏に医療保険名をつけて「キム・ジョンイン条項」とも 「経済民主化」という政策を打ち出したの制度の導入を建議、説得に成功し、職場医呼ばれる。 が、キム氏だったのである。 療保険が実施されることになった。 先ほど述べたように、四年前、セヌリ党 その彼が、今回は政治色のまったく異な はキム氏の「経済民主化」政策を前面に打 る共に民主党の司令塔となって総選挙を陣 5 一経済民主化 ち出して、一時は党の崩壊までささやかれ 頭指揮し、大勝利をおさめた。彼のこの四 た危機から脱し、勝利をおさめた。しかし、 年間の活躍を見ていると、長い間政治に身 現在の韓国憲法に、「経済民主化条項」セヌリ党の「経済民主化」は上辺だけのも を投じてきた百戦錬磨の大物政治家に思わと呼ばれる一一九条一一項を書き入れたのものだったらしく、まもなく、元のガチガチ れるかもしれない 。しかし、実は、彼の本キム氏である。韓国の今の憲法は、民主化の右派に戻ってしまう。パク・クネ大統領 職は経済学者である。一九四〇年生まれの運動で軍事独裁が終息した一九八七年に作の就任から一年後、「経済民主化」の実現 キム氏は、六〇年代にドイツへ留学して博 られた。当時、キム氏は憲法に左記の条項が遠のいたことが確実になり、キム氏はセ 士学位を取得後帰国し、韓国で経済学者、を載せるため尽力、その努力が実を結び、 ヌリ党と袂を分かっことになる。 政策提案者、官僚として長らく活動して今は憲法の一文になっている。 そして、今回は、セヌリ党と対立する第 きた。 一野党の老軍師となり、再び「経済民主化」 彼は、政策的に大きな足跡をいくつか残 国家は、国民経済の成長および安定、 の実現を掲げて選挙を勝利へと導いた。彼 している。まず、一九七〇年代後半に、韓 そして適正な所得の分配を維持し、市の政治的な履歴だけを見れば、何回も所属 国の医療保険制度を提案したのが彼である。 場の支配と経済力の乱用を防止し、ま党を変え続けた、移り変わりの激しい政治 韓国は、日本と同じく医療保険制度が非常 た経済主体間の調和を通じて経済の民家に見えなくもない。 しかし、キム氏の行 に充実している国の一つだ。韓国でも「国 主化のために経済に関する規制と調整動をじっくり見れば「経済民主化」の実現 5 0 1 韓国で現代思想は生きていた # 18 天 安
ボラリーアート」に関する言説をリードしているテリー・ス ミスは、「グロ ーパル」という語は「グロープ」という全体化 された統一体としての地球という観念とともにあり、グロー リゼーションも為替システムの押しつけとして、地球を制御可 4 能なものとみなすアメリカ的イデオロギーの産物なのであっ プラネット て、むしろ制御しえない「惑星」としての地球を考えていなけ いずれにしても、ベルティングらは一元化されたプロセスとればならないとするガャトリ・スピヴァクの主張を引き合いに しての「世界史」ないし「世界美術史」を拒絶し、それを突き出している〔☆。ここでは「グロー バル」という虚構を打ち破 プラネタリー 崩して世界を脱中心化しつつ複数化する「グロー 、、ハルアート」 る「惑星的」なアートが夢想されるのである。同様に「グロー コンテンボラリーアート に未来を見ようとする。とはいえ、そのヴィジョンは基本的に バルアート」と同義的に扱われる「同時代美術」も、問題なし マルチカルチュラリズム モダンアート は多文化主義的な共生を唱えるものにすぎず、また同時にベル の概念ではない。「近代美術」から「同時代美術 7 現代美術 ) 」 ティングが「アートはグロ ーパルな自由貿易の象徴となった」 へという移行は、単に時代概念や様式概念の変化ではなく、芸 〔☆というとき、それは「美術史の終焉」以後の芸術は仮死術の時間性や歴史性そのものの変容を意味せざるをえないはず 状態であるにもかかわらず、マーケットの力学によってかろう だからである。 じて延命されていると認めているも、なかば同然ではないだろ ベルティングが依拠するオジェによれば、「同時代性」とは、 うか。彼らも気がついていないわけではないにせよ、それはグ交通空間、消費空間、テレコミュニケーション空間において、 パリズムが数多くの暴力の噴出によって裏切られ、葬られ固有の「場所」の経験、アイデンティテイや歴史の象徴化が希 ることのない信仰の原理主義を台頭させ、さらに格差の拡大を薄になっていくという「非ー場所」化とともにあるという〔☆〕。 ーモダニティ つづけていることを思えば、楽観的すぎる立場であることは言 それはオジェ自身が「超近代性」と呼ぶものと重なるが、とも を俟たないように感じられる。 かくここでの「同時代性」とは、特定の「場所」の拘束から自 そもそも「グロ ーパルアート」は、ほんとうに世界を複数化由になった無数の主体の経験がシンクロニックに共立するよう ヾル・コンテン するのか。ベルティングらと並んで「グロー な状態としてイメージされる。だが、「同時代的世界」とは、「す な「日本的なもの」を遥かに超える、あの「地質学的想像力」 にもつうじるオルタナティヴな思考実験だったというべきだ ろう ゲンロン 3 1 2 0
多様な美術運動を展開したのが八五美術運動である。 その中で、とくに反芸術的な傾向を見せたのが黄で あった。黄を中心とする美術家たちは、一九八六年 にアモイ市新芸術館で開催した展覧会の最終日、参 加した美術家たちが自らの出品作を焼却するという 過激なパフォーマンスを行ったことから、「アモイ・ ダダ」と呼ばれるようになった。 ☆蔡國強 (Cai Guo ・ Qiang 一九五七ー ) 。中国出身で ニューヨークを中心に活動する美術家。火薬を用い たドローイングなど、中国文化に由来する素材を用 いた作品やパフォーマンスで国際的な名声を博した、 中国出身の美術家としては最も成功した人物の一人 である。一九八六年から一〇年ほど日本に移住し、 天安門事件後も筑波大学の研究生として日本に滞在 したことから、その作品は本テクストの言葉を借り れば「外発的な」眼差しを内在化した、すなわち他 者から見た中国を自ら演じる傾向が強い。この点で、 本テクストで論じられている他の中国人美術家たち からは一線を引いた解釈が必要になる美術家である。 ーバリズム ☆四ここでクラークが批判している反グロ の研究は一九九〇年代のものを念頭に置いている と思われる。冷戦終結後の新たな社会分析の枠 ハリズムは注目を集め、多く 組みとしてグロー の議論を呼んだ Samuel P. 工 untington, C/ash 0 、 0 ミ a コ s. ・ゝコ d the Re ョ a ミコ Of ミ 0 「、 d Order, Simon Schuste 「 - 1996 〔邦訳】サミュエル・・ ハンチントン『文明の衝突』鈴木主税訳、集英社、 一九九八年〕を始めとして、 Geo 「 ge Ritzer, The McDona 、 d洋aまコ 0 、 the Society: and 、コヾ estl: a コ & the Changing Character 0 、 CO コ、 em で 0 & 「 y SO a 、 Life. Newbu 「 y Pa 「下 CaIif. 】 Pine FO 「 ge P 「 ess, 1993 〔邦訳】ジョージ・リツツア『マクド ナルド化する社会』正岡寛司監訳、早稲田大学出版 部、 - 九九九年〕や、 Be 三 amin R. Ba 「 ber, Jihad ヾ s. McWor/d, New YO 「 k 】 Times B00k 1996 〔邦 『ジハード対マック 訳【ベンジャミン・ ワールドーー市民社会の夢は終わったのか』鈴木主 税訳、三田出版会、一九九七年〕などの挑発的な 研究書の刊行が相次いだ。これらの研究では、た謝辞 ヾレと しかにクラークが指摘するよ、つに、グロー 本テクストの訳出および訳註の作成に際しまして、監修の ローカル、西洋と非西洋の「対立」を軸とした理中野勉氏をはじめ、福井大学教養地域科学部准教授の田 論枠組みの中で、世界の均質化 ( 「マクドナルド化 」村容子氏、埼玉大学教養学部准教授の野村奈央氏から貴重 や「ディズニー化」といった言葉が用いられた ) を なご助言を賜りました。この場を借りて厚く御礼申し上げ 分析するものが多かった。しかし、九〇年代末か ます。 ( 荒木慎也 ) ら」 uliann SivuIka, Soap, Sex, and Cigarettes. ・ゝ C ミミ「 a 、エ t0 、 y 0 、ゝョ e ミコゝ d ヾ ert 、 S 、ゴ Belf 「 0コt・ CA: Wadswo 「 (三 1998 や、 Ga 「 y S. C 「 OSS, ゝコゝ〒 Consuming Century: Why Commercialism 薹 0 コ Modern America, New YO 「 k 】 CoIumbia Unive 「 sity P 「 ess, 2000 のように、多国籍企業が主にアメリカ 国内の民族的多様性やジェンダー観の変化に応える そ ため、マーケティングの個別化や細分化を行い、 れによってグロー バルとローカルの交渉 ( あるいは 多国籍企業による多様性の商品化 ) が試みられてい く過程を描いた研究も登場した。これらの例は、グ バリズム研究が社会の均質化と細分化のニつの 可能性を示していたことの証左である。 ゲンロン 3 2 5 2
芸術の脱文脈化と再文脈化、脱場所化と再場所化なしに、前世は、ディーモスのいうとおりだろう。さらに一方、アート・イ 紀の美術史は考えられない〔☆四。さらに戦後でも、シチュア ン・レジデンスなどを中心として「ローカル」な場との関係性 シオニスト・インターナショナルやフルクサスなど、多分に政を築き、また転々と移動していくという今日的なアーティスト 治的な活動を国境を超えて展開した芸術運動ないし芸術家集団のモデルも、そうした「移住」の方法に数えられていいのかも しれない。 が存在したことも忘れてはならない くレ・ビ」レ J 、一つ ノノ′ 4 ー しかし、こうした「移住」のアートは、グロー 一方でしかし、今日にあって芸術家や作品の「移動」が問題 になりうるとすれば、それは二〇世紀的な「亡命」とは異なる資本の流動化に対してときにローカルな抵抗力を形成するのか ローカリティ いうまでもなく地域性もまた、絶えず差異 かたちにおいてだろう。・—・ディーモスは、一九九〇年代もしれないにせよ、 バリズムの運動に のアートの。ハラダイムが「ノマド的」なものだったと指摘してを産出してはみずからで消費していくグロー いる〔☆四。すなわち、リクリット・テイラヴァニやガプリエ 容易に呑み込まれうる。そう思うなら、「移住」は単に、ロー カルな社会的合意形成 7 関係性 ) を仮設するための柔らかな ル・オロスコのように、移動そのものをプロジェクトとしての 作品構造に内包させて展開するアーティストたちのスタイル政治手段、小さな現実肯定の原理になど成り下がるべきではな く、エンヴェゾーがこの時代にべンヤミンの「歴史の天使」を である。彼らの世代はしばしば「関係性の美学」 ( ニコラ・プリ 想起せざるをえなかったように、この現実の桎梏に抗い、とき オー ) という概念によって特徴づけられてきたわけだが、この 時期以降のアートやキュレーションはまた、ハンスⅱウルリッ に別なる場所を求め、またときに世界をつくり替えるという衝 ヒ・オプリストとホウ・ハンルが企画した東アジアの都市の変動と、なおも無縁であってはならないのではないか。二〇〇三 容を主題とした一九九七年からの展覧会「移動する都市」のよ年の第五〇回ヴェネチア・ビエンナーレにおいてオプリスト ー・、不スビットとともに組織した うに、複数の場を転々としながら展示空間を仮設し、議論や遭がテイラヴァニおよびモーリ 「ユートピア・ステーション」は、「移動する都市」と同じく都 遇の「プラットフォーム」をつくりだすという方途を、ひとっ の。ハラダイムとしてきた〔☆。その意味でも、いま近代的な「亡市間を移動していくキュラトリアル・プロジェクトであり、そ マイグレーション 命」の芸術とは異質な「移住」のアート、自発的な変容や生れは堅固な建築ではなく、あくまでも仮設的な「駅」にフレキ シプルに集まった人々が、さまざまに表現し、議論し、思考す 成変化の可能性を探ろうとする動きが活発化しているというの ゲンロン 3 1 2 2
ション」へというにせよ、「アート」から「イメージ」へとい ことで、新たに「『現代美術』なき世界」が露わになると謳わ うにせよ、「美術史」から「イメージ史」へというにせよ、そ れた〔☆四。この意識が、椹木の最初の著作『シミュレーショ ニズム』の延長線上に位置していたとともに、近年の『後美術して「 ( 現代 ) 美術」から「後美術」へというにせよ、それら 論』にまでつづく、既成の「美術」ないし「芸術」という概念 / はいずれにしても、広義の「芸術の終焉」ないし「美術史の終 制度そのものの根源的な解体、溶解を志向するものであったこ焉」以後に、いかなる新地平を切り拓きうるかという批評的関 心の顕在化であろう。 とは、誰の目にも明らかだろう〔☆引〕。 実際、「日本ゼロ年」展において標榜された「リセット」は、 こうした椹木の議論は、少し見方を変えれば、従来の プロダクション パルな情報時代における「ポストプ冷戦終結がイデオロギー闘争や階級闘争としての「世界史の 「生産物」に対し、グロー 終わり」、つまり「歴史の終焉」 ( フランシス・フクヤマ ) を意味す ロダクション」 ( これはもともと映画の概念だが ) 、すなわちレディ メイドの情報をサンプリングし、リサイクルし、リミックスするという、ヘーゲル主義的な終焉論のヴァリアントだったと見 しい。そのフクヤマに着想を与えたアレクサンドル・コジェー るといった二次的な再編集、再加工の操作に新たな制作の方法て、 ヴのヘーゲル読解は、「歴史の終焉」後の世界は「アメリカ化」Ⅱ 論を求めるアーティストたちの営みを擁護したニコラ・プリ ヾレヒした 「動物化」に向かい、 さらには「日本化」ⅱ「スノビズム化」を オー、あるいはグーグル時代の情報環境とグロー 遂げるだろうと推測したわけだが〔☆、その予想は、アメリ マーケットのなかでは、既存のオプジェクト・べースの「アー 力にはじまった大衆文化をよりいっそう洗練させ、畸形的に ト」ではなく、無数の実体なき「イメージ」のサーキュレーショ ンとネットワークを前提とする「アフター・アート」の理論が発達させた日本のサプカルチャーが、それこそ冷戦崩壊以後に、 ヾレヒしたことによって またパプル経済の破綻以後に、グロー 考えられなければならないとしたディヴィッド・ジョズリット、 ある程度は当たったということになる。そして、それをまさし さらに、かって一九八〇年代に『美術史の終焉 ? 』を問い く「グロ ー。ハルアート」の世界で体現していったのが、ほかな まや「美術」の歴史ではなしに、あらゆる「イメージ」の存在 論を人類学的に分析しようとするハンス・ベルティングらのらぬ「日本ゼロ年」展の出品作家でもあった村上隆であること は、あらためていうまでもない 一一〇〇〇年代以降の言説とも、同時代的な呼応関係をなしてい アートワールド 「美術界は変わりつつあり、グロー ヾル化を単なる流行だと たように映る〔☆〕。「プロダクション」から「ポストプロダク 新藤淳 別なる場所、ここにいてなお
を目標に、一貫してそれを達成するために人々を指す用語 ) 出身の政治家は時代遅れ浮き沈みしてきたが、彼の「経済民主化」 は勝ち続けている。 0 最適と思われる選択をし続けてきたことがであるということで、共に民主党の人的刷 新を行う際に、運動圏出身を大幅に切り捨 伺える。 てた。 選挙結果は、キム氏の示した方向性を後☆ 1 『東亜日報』ニ〇一六年四月一六日。を、 キム氏は、過去に独裁者である。ハク・チョ news.donga.com 、 3/a 一一 Z20160415Z7761430 望 1 押しするものとなった。若者たちの投票参 ンヒ氏にも政策を建議し、その後の軍事独 ☆ 2 前回の総選煢については、本連載第五回「新自 裁政権においても官僚として活動した。四加と、七五歳の老軍師による第一野党再編 由主義化から『経済民主化』への転換はいかに ? 」 ( 『ゲンロンエトセトラ』三号、ニ〇一ニ年 ) を参照。 という組み合わせが、予想を覆す与党大敗 年前も保守勢力の政権維持に大きく寄与し ☆ 3 同コラム。 ている。民主化運動の系譜を重視する韓国を招いた。キム氏の登場は、野党の体質を ☆ 4 「非常対策委員会」とは、党などが通常の体制で いかがわ大きく変えていくきっかけになりえる。そ の正統的な革新系から見れば、 運営できなくなった際に、臨時に構成される指 導部である。共に民主党は、当時、党の分裂に しい経歴の持ち主であり、従って彼を快くれに対する抵抗も、大きいだろう。キム氏 非常対策 より通常の体制を維持できなくなり、 思っていない人も多々いる。一方、彼も「運の動きが、今後の韓国の政治に並ならぬイ 委員会が党指導部となった。 ンバクトをもたらすかもしれない。政党は 動圏」 ( 民主化運動時代に学生運動をしていた ゲンロン 3 502
態度は、時間・空間のなかで展開する出来事の経験へと移行し にはハガキが置いてあって、来場者は「空欄を埋め」、自分自 身の「視点」を書き込んでくださいと勧誘されていた。ミュー た。こうした出来事は、進化という一九世紀的な発想をともなっ くレヒ ジアムで開催される展覧会では、美術史とは直線的なものだと た単線的な美術史から逃れ出る。同時にアートのグロー は、アートが美術史の庇護のもとから離脱していっている状況 いう主張が行われるのがふつうだったが、後期近代美術はそう 、、、レア した主張の土台を掘り崩したわけで、それからというもの美術 の新たな段階を体現するものだ。世界のなかでグロー 史はずっとコントロール不可能な状態にあるのだ。 トが盛んになっている地域は、そもそも美術史になどまったく 美術史をグロー ヾル化しようという試みのなかではしばしば、 関心を示していなかった地域である。 カルチュラルセオリー 他方、西洋のミュージアムがこの先、美術史をどのようなか現行の文化理論の言説から借用が行われる。文化理論では ポストコロニアル的な観点からアイデンティテイや移住といっ たちで体現していくことになるのかはおよそ不透明である。テ イト・モダンの常設では、美術史の物語に代えて「別の仕方た問題を論じるのが主流である。一九八九年、ニューヨーク州 立大学パ ーミンガム校で開かれた学術会議ですでに、美術史が でアートを見るための複数のやり方」を展示の原理としてい る ( 『テイト・モダン ハンドブック』にフランセス・モリス〔☆ 8 〕文化理論の用語に依存している点が批判されていた。記録が出 による説明がある〔☆四〕 ) 。「詩と夢」といったような「視点」が版されたさい序文でアンソニー・キングが述べたところによれ ば、「現在問われている事柄のなかで他のいずれにもまして喫 複数設けられていて、同館の所蔵品に対し「複数の読み」を行い、 くル化』にまつわる諸案件を、いま 「開かれた、流動的状況」に応答していくことが可能になって緊なのは、『文化のグロー いる〔☆。とはいえ廊下には〔近代美術の歴史的展開を図にした〕までとは別の仕方で概念化し分析する道を探る必要があるとい 一つことだ。しばしば『「乂化のグロ ーくル化』は、よく使われる フローチャートが掲げられており、ニューヨーク近代美術館 ( が大昔の一九三〇年代に作成した系統図をいまだに引言葉でいえば、地球規模で文化が同質化していく状況とみら この会議で美術史家たちは、部外者を人り きずっている〔☆ 9 〕。こうした図解は、現代美術にはもはや当れている」〔☆。 てはまらなくなっているのだが。テイト・モダンのキュレーター 込ませまいとする文化理論の側の参加者に応答し、アート界で 起きている変化の意義をじっさいにつかまえることのできる たちは、美術史のなれの果ての姿を赤裸々に示しているわけだ が、だからといって彼らを咎め立てするのは的はずれだ。同館ような、新しいかたちの議論をすべきだと要求したのであっ 1 95 グローバルアートとしての現代美術 ( 前 ) / 、ンス・べノレティング
。ヾレトはこのよ一つな ンポル化しないのだから ) 字義的な意味、およびシンポル的な意 的なものであるとはっきりと表している 細部に、なんらかの指示対象を割り当てることは拒むとしても、味と、ただ種類が異なっているというだけではない。それはま ひとつの機能を認めてはいる。それらの細部は、イメージが虚た、異なる仕方で場を与えられている。「鈍い意味を取り除い ても、コミュニケーションや意味作用は残り、循環し、通行する」 。。。、レトは鈍い意味が 構であることを暴き出す働きをするのたノノ 〔☆。鈍い意味の不在は実のところ、コミュニケーションや 何であるかを特定的に述べることに消極的であり、さらにはそ うすることができないでいるのだが、これを逃げ口上、奸計と意味形成が可能となる、まさにその条件にほかならない。ただ し鈍い意味が存在するとき、それはコミュニケーションや意味 みなすことはできない。それは理論上の必然なのである。とい 形成といった活動を問題化する働きをする。鈍い意味は、客観 うのも、ド・マンが観察しているとおり、 的で自立的な実在をもたないために、字義的なものと修辞的な にもかかわらずそれらを解体して ものに依存しているのだが、 虚構を虚構にするのは、事実 / 表象といった二極間対立で はない。虚構は表象とは何の関係もないのであって、発話しまう。それはありがたくない付加Ⅱ代補であって、イメージ の字義的なレベルが虚構であることを暴き出す。鈍い意味は、 と指示対象のあいだにいかなる絆も存在しないという事態 字義的なレベルを、シンポル的なものに固有な特徴である置換 のことである。ここでいう絆とは、因果的絆であっても、 コード化された絆であっても、あるいは何であれ他の、体と反転の網目に巻き込むのである。俳優は、登場人物を ( メタ 系化可能な関係に支配された絆であってもかまわない。虚ファーとして ) 置換するものであることが明かされる。彼の顔 の歪みは、悲しみのエンプレムなのであって、悲しみが直接に 構をこのように解するなら、そこでメタファーの〔コール ドキュメンタリー リッジを想起しつつ付け加えれば、シンポルの〕「必然的な絆」表れ出たものではない。それゆえに、写真批評が記録的なも ディレクトリアル のと対照して構成的と呼ぶところのモードに参与しているイ はメトニミー化されており、もはや濫喩の域を超えている。 そして虚構は、対象を指示しているという語りの幻想が断メージはどれも、鈍い意味の干渉に晒されている。かっ、イ メージのシンポル的な次元は、字義的なものの単意性に依存し ち切られる事態となる。〔☆ ているが、このことによって歪曲される。つまりシンポル的な ものは、置換とズラしという不安定な土台のうえに建てられて 鈍い意味は ( 何ものも指示せず、何ものも模写さず、何ものもシ ゲンロン 3 2 8 6
一一一一口説であれ従わなければならない制約であり、そのことは脱構 築を実践する者たち自身がしばしば指摘するところだ。たとえ ばデリダは、ある概念の真理価値が疑問に付されていても、そ れをひとつの道具としてあえて温存することが方法論的に必要 であると言っている ( 意味深長なことに、彼が例として挙げるのは クロード・レヴィ日ストロースの民族誌言説である。この言説は自然 / 文化という対立を、一方では否定しながらも活用しなければならな 、〔☆四 ) 。そういうわけで、脱構築にはひとつの危険が内在し ている。つまり、脱構築はみずからが暴き出す当の誤謬を回避 できず、それ自身が論駁するものを不可能性として演じつづけ、 そしてついには、自身が否認しようとするところのものを肯定 してしまうということだ。かくして脱構築一言説は、「誤謬の余地、 論理的緊張の残滓」をそのままにしておくわけで、批判者たち はしばしばこの点を捉えて脱構築の失敗であるとする。けれど も、まさにそのような失敗こそが、ド・マンの術語をもちいる なら、比喩論の次元からアレゴリーの次一兀へと言説を上昇させ るものなのだ。 脱構築的な読みは、置換によって達成される根拠なき同一 化を指摘することはできるが、そうした同一化が再起して しまうのを、みずからの言説のなかでさえ回避する力は持 たないし、起きてしまっている逸脱的な交換をいわばほ ド・マンは、ルソーの『第二論文』をそれ自体の脱構築をお こなう物語として読みながら、こう結論づけている。 政治的立法化の必要性を唱え、そうした立法化の基礎にな りうる諸原則の練り上げをつづけるかぎり、このテクスト はみずからが切り崩そうとしている権威の諸原則に訴えか けることになる。このような構造が、われわれが読解不可 能性のアレゴリーと呼んできたものの特徴をなしているこ とをわれわれは知っている。このアレゴリーはメタ比喩的 フィギュ である。つまり、それはひとつの比喩形象 ( たとえばメタ ファー ) のアレゴリーであり、みずからが脱構築している 比喩にふたたびはまり込んでしまう。まさにひとつのアポ リアのように構造化されているかぎりにおいて、『社会契 約論』はこうした範疇に属している。すなわち、このテク どいて元に戻すこともできない。 こうした読みがおこなう 仕草はそもそも誤謬を引き起こした修辞的な歪曲をただ 反復するだけなのだ。それは誤謬の余地、論理的緊張の 残滓をそのままにしておく。こうした余地や残滓が脱構築 一一一口説が締めくくられるのを妨げ、そうした言説がなぜ物語 的・アレゴリー的なモードを採るのかを説明しているので ある。〔☆ アレゴリー的衝動第 2 部 クレイグ・オーウェンス 2 8 1
展覧会と同時に開催された「二〇 / 二一すぎないという批判も見られたが、それで全に立ち直ることができず、国際的な基準 世紀シンポジウム」は、韓国の美術界と、国も観客に非常に人気で、韓国におけるビエからは離れた状況に置かれていた。国はグ バリゼーションよりも、民主化運動と 外のキュレーター、美術評論家、美術館長ンナーレの可能性を示した。他方、インフォ との間に新しいネットワークを生成させアート展は、シングルチャンネルのビデオ経済発展に注力していた。南北分断による 緊張と冷戦のせいで、外国旅行や留学はご た、きわめて重要な出来事だった。展示そアートの展覧会だった〔☆ 4 〕。このころ、。 く一部の人にしか許されなかった。外国旅 イクの影響下で、多くのビデオインスタレー のものの意義に議論の余地はないが、。ハイ 行が自由化されるのは一九八九年のことで ション作家が登場したが、なぜかシングル クはネットワーク作りの重要性についても ある。グロー ハリゼーションの波のなかで、 意識的で、韓国の美術関係者が世界とつなチャンネルの作品はかなり軽視されていた。 ヾルな動きが 。ハイクは、これら二つのビエンナーレに韓国でも九〇年代からグロー がる機会を提供したのである。私が。ハイク 対し、資金の提供および調達の両面で、個見られるようになった。とくに、一九九五 の展覧会が韓国美術界におけるグロー ゼーションの推進力となったと考える理由人的な支援を行っている。また、ほぼ同じ年にはじまった光州ビエンナーレは、この 時期に、ヴェネチア・ビエンナーレ韓国館時期に韓国が成し遂げた経済成長、民主化、 は、それが韓国に国際的な人的ネットワー ヾル化と接続しながら、国際的に拡 クを形成したからである。以後、。ハイクはの建設の援助をしている。韓国館は、ジャグロー 一九八〇年五月一八日の民主 ・ビエンナーレ・イン・ソ ルディーニに建設された最後の国別。ハビリ張していく。 「ホイットニ ウル」展 ( 一九九三年 ) や第一回光州ビエオンとなった。二つのビエンナーレは観客化運動〔光州事件〕後、光州市は芸術・文 ンナーレの「インフォアート」展 ( 一九九五動員面でも成功し、大規模な現代美術展の化面での努力による復興を模索した。他の 都市であれば、工場の誘致など、産業の発 年 ) など、大規模な国際展に関わっている。新たな方法論を提示した。 展で再生を図るところだが、光州市と光州 ホイットニ ・ビエンナーレ・イン・ソ 市民は、芸術・文化のイベントを立ち上げ 韓国におけるビエンナーレ ウル展では、韓国ではじめて、インスタレー ることを望んだ。こうして光州。ヒエンナー ションやビデオアートのような現代美術の 歴史的文脈、組織、その他 レが生まれたのである。光州をアジア文化 新しい動向とアメリカの政治的・社会的な の中心都市にする計画 ( アジア文化中心都市 一九八八年のソウルオリンピックまで、 作品が紹介された。このアメリカのビエン 造成事業 ) は二〇〇三年から推進されてお ナーレに対しては、海外からの文化輸人に韓国は朝鮮戦争 ( 一九五〇ー五三年 ) から完 ゲンロン 3 050