を実体化してしまう思考だろう。そのように日本の特殊性を本 である。おそらく『日本的』ということがあるとしたら、ここ 質主義的に確保しようとする態度こそ、「分析されている事柄 にしかない」〔☆召。 が変えることができないほどに深遠なものだという考えに到 実のところ、そんな柄谷が丸山の思想と同型的だと見ていた のが、岡倉天心の日本論にほかならない〔☆〕。岡倉が日本と達するもの」にほかならない。「悪い場所」という「比喩」が、 そして今日では地質学的な「現実」と椹木が呼ぶものが、そう いう「浜辺」ないし「博物館」の美質として見出した外来文化 の無際限な受容と保存を、丸山は基軸を欠いた無責任な「雑居した本質主義的な日本論と限りなく近いところにあるように見 もちろん、椹木自 えてしまうことは、おそらく否定しがたい。 性」と捉えたのである。彼らを決定的に隔てていたのは、「敗戦」 の経験の有無だったといっていいのかもしれない。「アジアは身は一度たりとも「悪い場所」としての日本を肯定したことは ないはずである。彼が語ってきたのは、その構造を暴き出すこ ひとっ」という岡倉の思想が、やがて「大東亜共栄圏」のイデ と、それに抵抗することの重要性だった。けれども、そこに「治 オロギーに流れ込んでいったのは、むろん彼自身のせいではな 癒」の可能性が照らし出されていたかといえば、どうだろうか く、それを単純化して利用した者たちの責任であろう。とはい え、柄谷がつぎのように喝破したのも、理由のないこととはい 5 えない。すなわち、岡倉のいう「博物館」としての日本は「西 田幾多郎なら『無の場所』と呼ぶような、或る空虚な容器であり、 『日本・現代・美術』を上梓したのち、椹木が一九九九年末か 変形する働き自体である。岡倉がインドの哲学という『不二一 ら二〇〇〇年にかけて水戸芸術館で「日本ゼロ年」展を組織し、 元論』は、実は、インドではなく、このような日本的な空間に あてはまるのだ。彼は、いわば日本の空間に『東洋の歴史』を五五年体制以後の日本の「現代美術」を新たに冷戦崩壊以後の いうまでもなく、これはかたちを変えた日地平で「リセットする」ことを企てたことは、よく知られると 構成したのである。 おりである。そこでは、近代的なジャンルの弁別にもとづく美 本中心主義である。『美術館としての日本』という岡倉の考えが、 のちに日本を盟主とする『大東亜共栄圏』のイデオロギーにお術の発展も、ハイ・アート / ロウ・アート、アート / サプカル チャーといった価値の序列もなくなり、あらゆるものが「様々 いて活用されたのである」〔☆四〕。 なる意匠」 ( 小林秀雄 ) としてサンプリング / リミックスされる すれにしても、柄谷がいうとおり、「日本的なもの」 間題はい。 ゲンロン 3
ぎと押し寄せる新しいモードの波を都合よく受け取っては、虚れは柄谷がかねて問題にしてきた「建築Ⅱ形式化」に「生成 飾の活況を捏造してきたというのである。 自然成長」を対置する構図と重なる。しかし、 いうまでもなく だが、そうであるなら、この「精神分析」ともいうべき批評柄谷が論じていたのは、後者の「生成」を擁護するロマン主義 には、ある不徹底の兆しが否定しがたかったのではないだろう によってでは、前者の「建築ャーー西欧の形而上学的伝統 か。つぎのように書いていたのは、ほかでもなく柄谷である は脱構築しえないということだった。 「精神分析的な意味での過去への遡行は、分析されている 柄谷自身は『日本精神分析』において、言語構造の分析、す ェクリチュール 事柄が変えることができないほどに深遠なものだという考えに なわち漢字、仮名、カタカナという起源の異なる書き言葉を、 到達するものであってはならないということです。つまり、精その差異龕外来性、外部性 ) を保ったままに並存させる日本語 神分析は治癒を目標とするものであって、治癒をもたらさない の体系の考察をつうじて、くだんの本質主義の脱構築を試みた こうした認識をもっ ような分析は意味がありません」〔☆。 〔☆。日本 ( 語 ) にあっては、朝鮮の場合と異なり、中国から 柄谷は、それゆえに日本の特殊性を変更不可能なものとして見の漢字の流人にあたってジャック・ラカンがいう意味での「去 出す「本質主義的」な日本論を当初から批判していた。 勢」や「抑圧」 「象徴界」への参人ーーー・が有効に機能せず、 たとえば、丸山眞男の『日本の思想』。日本はなぜファシズ 訓読みという特殊な音声化が保持されてきた、と柄谷はいう。 ムと戦争に抗いえなかったのかと敗戦後に問うた丸山は、「天日本人には精神分析が不要だと指摘したのはまさにラカンだが 皇制の構造」を考えることから「過去への遡行」をはかり、日 〔☆、それは柄谷によれば、フロイトが無意識を「象形文字」 本は原理的な思想の座標軸を欠くためにいかなる発展ももたず、として捉えた意味において、日本語には「無意識における『象 正当も異端もなしに、あらゆる外来思想を受容Ⅱ抱擁しては 形文字』を解読する」という精神分析の仕事がそもそも必要な 雑居させる場所であるとして、その原型を神道に求めた〔☆。 いということを指している。なぜなら精神分析の課題である無 だが、これは柄谷にいわせれば、「日本的なもの」を不当に実意識の意識化、象形文字の音声一言語化が、日本語では漢字の訓 体化する一言説にすぎない。さらに丸山は、西欧における「作為・読みのうちに、つねにすでに遍在しているからである。「日本 制作」 ( ポイエーシス ) の伝統に対して「生成」に優位を与える 語では、いわば『象形文字』がそのまま意識においてもあらわ 日本思想の根を『古事記』のなかに発見していたが「☆、 れる」。したがって「日本で生じたのはそのような去勢の排除 別なる場所、ここにいてなお 新藤淳
ロサの著書『美術真説』にそこまで書かれけている。しかしこれが日本美術史への科 ことで、そう考えるとフェノロサにとって の「極東」は「極西」でもあったと思うのているわけではないけれども、岡倉天心が学的で実証的な方法論の導人となったわけ です。太平洋をさらに西進し、ハワイやミツ大きな感化を受けることになったフェノロです。そこから文化庁の前身組織が生まれ、 ドウェーを越えてようやく見えてくるのがサから、天心は間接的にこうして転倒した美術研究に予算がつくようになる。フェノ ロサの手法を伝授された天心は、東京美術 ヘーゲル主義を見て取ったのではないか。 日本列島です。ところが、そのさらに西に 学校 ( のちの東京藝術大学美術学部 ) の設立 だからこそ最後には在ポストン美術館とい ある朝鮮半島や中国は反対側の「西」から うことにもなった。つまり天心の思想のう に寄与します。「国宝」という脱歴史主義 日本へと文明をもたらした当事者ですから、 もう日本にとっての西進はない。日本よりちに、すでにフェノロサを経由したアメリ的な概念もここから生まれるわけです。そ 先には西も東もない。だからこの道程をこ力の影があったということになる。するとれは究極のスノビズムであって、フェノロ んどは逆に東へと進めていくと、日本列天心から《 THEAMERICANART 》へ行っサー天心によるこれら一連の日本美術観は、 島というのは「西方」からするとギリシア、た会田さんの直観はやはり正しかったことのちのアレクサンドル・コジェーヴを先取 りするところがある。コジェーヴもまた エジプト、ベルシャ、インド、中国、朝鮮になる。 また、フェノロサが『美術真説』で日本へーゲルのヨーロッパからアメリカへ、ア 半島を経て地球を逆回りに受け継ぐという ことになる。そういう「東方」へとフェノ美術の優位性を説いた背景には、廃仏毀釈メリカから日本へと視点を移した「歴史の ロサはやってきた。ゆえに日本列島という運動がありました。このままでは日本の博終わり」論者でした。 のは、歴史の渦中ではなく「歴史の終わり」物学的優位性が失われてしまうという危機さらにいえばこのころ、美術は文部省 に位置し、そこにはすべてのものが流れつ感から、本を書くだけではなく、のちのではなく、農商務省の管轄下にありました。 これはのちの通商産業省、現在の経済産業 く、いわば「博物館列島」なのだとされて文化財保護法につながる古社寺保存法の制 不思議はない。そこには歴史から解放され定を働きかけるなど〔☆ 6 〕、フェノロサは省にあたります。ゆえに美術品は貿易商品 た古物、戦争などの生々しさから切り離さ精力的に活動します。寺社調査も行い、秘という扱いだった。フェノロサも天心もそ 仏である法隆寺の救世観音像を調査した際のあたりはよく理解したうえで、日本美術 れた死物としての日本美術があるのであっ には、それまで「世に出せば大きな災いがをめぐる世界流通ということを考えていた。 て、これこそが歴史の最終局面としての日 本美術の優位性ということになる。フェノ起こる」といわれていた夢殿を遠慮なく開そのような商取引も含むゆるやかな枠組み 会田誠 + 安藤礼ニ + 椹木野衣 + 黒瀬陽平 0 8 5 野ざらしと外地
らを中心に展示される傾向があるのですが、本来はもっと横断な、美意識の追求が強いように思いましたが、最近は政治的・ 的な見せ方が必要です。 社会的な問題に深い関心を持ち、福島やオリンピックについて 韓国の若い世代でも、政治との距離は同じでしようか。 考える作家が増えています。 キム一概には言えません。政治とより近い距離で制作をする いまの日本は、韓国よりも、作家にとって刺激的な制作環境 作家たちもいるし、完全に距離を置いている作家もいます。た になっているのかもしれません。韓国では作家はさまざまな基 だ、わたしたちは文章をたくさん書きましたが、下の世代は文金から助成を得て制作することができますが、日本にはそのよ 章をあまり書かず、政治参加もより直接的であるように思いま うな基金があまりないと聞きました。でもそれが逆に、制作支 す。たとえば、ムキムキマンマンス ( ロ丁ロ丁可」可」キ ) 〔☆召と援が少ない環境でいかに生き残るか、オープンスペースを共有 いう女性二人組がいるのですが、彼女たちの活動は、デモや労するなど、自分なりの方法論を模索する動きにつながってい 働運動のなかに人って歌を歌うというものでした。しかし、歌るように思います。震災後の日本の環境は、日本人にかぎら 詞はとくに政治的なものではありません。 ず、日本人以外の作家にも大きな刺激を与えています。わたし 日本でもニ〇一一年の原発事故によって、一般市民が もまた、「六本木クロッシング 2 016 展」の関連プログラムで、 立ち入ることのできない N と似た場所が生まれました。 ピエール・ユイグの映像作品を推薦しました〔☆。 一一〇一五年からは、 Chim → Pom らが、原発被災地の帰還困難区 わたしたちの世代は、一九九〇年代に、村上隆さんや中村政 域内で「 Do ( Follow the Wind 」〔☆四〕展を開催するなど、リア 人さんといった同世代の日本の作家たちと深い交流を持ちまし ルプロジェクトに呼応する動きも生まれています。 た「☆。いまの日本を見ていると、あのころに日本の作家が キム・ソンジョンさんは日本でも多くのお仕事をされて ストリートで行っていたムープメントが、再起しているかのよ いますが、震災後の日本のアートシーンがどう見えているのか、 うに見えます。日本のみなさんが、これから原発事故の経験を 考えを教えてください。 どのようにほかの場所と「連結」していくのか、期待しつつ見 キム日本の美術界は、東日本大震災のあと、大きく変わった ています。① という印象を受けています。震災以前の作品は、総じて内面的 044 ゲンロン 3
おける「歴史」Ⅱ「建築」のようには構築的に叙述されえない「日 いまさら振り返るまでもないが、椹木が「悪い場所」という語 を提起した一九九八年の『日本・現代・美術』は、阪神・淡路本現代美術史」の不可能性である。くわえて、翻訳を基礎とし 大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件という、はから て仮構された日本の「近代」にスキゾフレニーを診断した椹木 の議論は、やはり柄谷による「日本」をめぐる「精神分析」に ずも戦後五〇年の節目にあたる一九九五年に起こった惨禍への 応答として書かれた。日本 ( 語 ) の「美術」は、北澤憲昭の『眼して「日本精神」の「分析」であった『日本精神分析』における、 の神殿』が明かしたとおり、一八七三年のウィーン万博にあたっ 日本語の言語構造の考察ともつうじるものがある〔☆四〕。事実、 てドイツ語の "Kunst" が少なからぬ混乱や曲解とともに翻訳さ 『日本・現代・美術』以後の椹木は、精神分析が考古学に喩え られるような意味で、日本の「現代美術」の古層の掘り起こし れることをつうじて生まれた官製訳語である〔☆リ。今日では に向かった。この発掘作業によって発見されたのが、明治以来 誰もが知るその事実を、しかしいわゆる「制度論」ないし「制 の「美術」の曖昧な起源ばかりでなく、すでに触れたような戦 度批判」の意識から、あくまでも「歴史」をめぐる無意識の次 元で捉えようとしたのが椹木だったといえるだろう。知られる 後美術にたびたび回帰してくる傷痕の記憶、すなわち戦時下の ように、椹木はその北澤の論を受けて、この国の「美術」は起「廃墟」や敗戦後の気ラック」の光景である〔☆。 源の脆弱さゆえに無根拠な曖昧さ、スキゾフレニックな分裂を 阪神・淡路大震災の廃墟、そしてオウム真理教事件のディス トピア、それら九五年のふたつのものを眼にしたすえに椹木が 抱え込まざるをえなかったと説いた。そこには、西洋流の線形 マスターナラティヴ の発展や通史的な蓄積を前提とする「正史」としての「日勘づいたのは、自身に巣食う既視感、おそらくは「抑圧された ものの回帰」 ( フロイト ) だった。五五年体制以後の日本の戦後 本現代美術史」を書く地盤が、初めからない。われわれはもと より、 民主主義は、アメリカの核の傘に守られ、冷戦構造のもとで ハラバラに解体された「日本・現代・美術」という非ー 歴史構造を問うほかない、 と椹木は考えたのである。 「世界史」の闘争プロセスから切り離された無風状態を享受す このときに椹木が前提としていた「歴史」の概念は、柄谷行ることで、自身の「歴史」の廃墟性を抑圧し、その崩壊の反復 を強いる力学を忘却してきた、と椹木は告発する〔☆。そして、 人がいう「隠喩としての建築」と基本的に同じものであったと そこで育まれたこの国の「現代美術」も、自身の起源の脆さと しい〔☆。すなわち、『日本・現代・美術』が問題にし 敗戦のトラウマを抑圧しつつ忘却することで、欧米からつぎつ たのは、日本における「建築」 ( Ⅱ形式化 ) の機能不全、西欧に ゲンロン 3
『ゲンロン 3 』をお送りする。今号の特集は「脱戦後日本美術」である。特集の目次制作にあたっ ては、本誌連載でおなじみの美術評論家、黒瀬陽平に協力をもらった。 この特集名には、まずは、「戦後」という「悪い場所」が、日本の現代美術を、否、日本の現 代文化全体を限界づけているという枠組み、それそのものを内破し、更新しようという意図が込 められている。それは、二〇年近くまえに椹木野衣が『日本・現代・美術』で提出して以降、呪 いのように日本の批評に取り憑き続けている枠組みである。けれども、日本の「戦後」は、本当 にそこまで特殊なものだったのだろうか。否、たとえ特殊だったとしても、その特殊性を相対化 する普遍の枠組みは存在しないものなのだろうか。椹木の仕事に最大の敬意を払いつつ、黒瀬は そのように間いを立てた。椹木のほか、会田誠、安藤礼二を招いての共同討議、ハンス・ベルティ ングらの翻訳論文、新藤淳と稲賀繁美、土屋誠一の論文などが、その問いへの答えの手がかりと して配置されている。 他方でぼくは、美術批評の外部から、同じ問いにまたべつの視点をしのび込ませることを考え ダークツーリズム以後の世界 東浩紀 ゲンロン 3 0 1 4
特集一脱戦後日本美術》日本から外へ 蕎さらしと外地ーー戦後日本美術再考のために The Colonies and Exposure in the WiId: Towards a Reinterpretation 0f PostwarJapanese Art Mak0t0 Aida + Reiji And0 + N0i Sawa 「 agi + Y0hei Ku 「 ose 会田誠 + 安藤礼ニ + 椹木野衣 + 黒瀬陽平 うかがっていきたいと思います。まずは椹 も、アメリカだけでないさまざまな他者た 黒瀬陽平今日はお集まりいただき、あり がとうございます。この共同討議は、戦後ちーー、今回の特集で取材した「リアル木さんから、いかがでしようか。 日本美術の再検討がテーマです。なぜいま N プロジェクト」が行われる韓国も、たと 戦後日本美術の地質学的条件 えばそうした他者たちには含まれます 再検討すべきなのか、まずその前提を確認 したいと思います。 との関係を見つめ直す必要があるでしよう。 これまでの日本の現代美術ないし戦後美そのような状況認識のもとで、あらためて椹木野衣「戦後美術」という呼び方は、 一〇年ほどまえにはほとんど死語になりか 術をめぐる議論は、文学や社会学などほか戦後日本美術史を振り返り、その読み替え の可能性を探りながら、新しい開かれた日けていました。それが、戦後七〇年の区切 の領域と同様に、敗戦のトラウマや「父」 であるアメリカとの関係といったものに強本美術史のモデルを提案していくことがでりを迎えた昨年 ( 二〇一五年 ) に相前後す く規定されてきました。しかし現在、そのきないか。既存の戦後美術史の枠組みを乗るかたちで、集団的自衛権をめぐる安保法 り越えて「脱戦後日本美術」のテーゼを打案可決や国際情勢の急激な変化、具体的に ような日米の二者関係に閉じられた「戦後」 は対テロ戦争の前景化に伴い、急激に生々 ち出すことができればと思います。 の言説は有効性を失いつつあるように思い しさを取り戻し始めた。「脱戦後」も含め、 はじめに「戦後日本美術」とはなんであっ ます。たとえば、二〇一一年の震災後にわ たしたちが直面したさまざまな問題にしてたのか、みなさんの考えを大づかみにでも戦後の歩みが回顧される状態は、そういっ ゲンロン 3 080
のではなく、個人に内在する「こころ」をりの青年がやってくる。ヴィヴェーカーナひとつに融合させたコルカタ ( カルカッタ ) 通じて悟りにいたるという身体的な実践をンダ〔☆ 4 〕です。ヴィヴェーカーナンダは、のラーマクリシュナ・ミッションの本部で い、ブッダが悟りをひらいたブッダガ 通じた探究です。禅やヨーガの「体験」をヨーガを通じて根源的な神と合一できるこ出会 ・ムープメントやとを説く。インドには多様な神々が存在すャへ旅をします。さらに岡倉はタゴールと 重視します。ヒッピー ニューエイジ・ムープメントのひとつの源るが、その根源には二」なるものがある、も親交を深め、彼に日本画家を紹介したり いわゆる「不二一元論」 ( アドヴァイタ ) をもしています。そういった意味では、日 泉になりました。その動きに大きく関わっ ていたのが岡倉天心です。岡倉は一八九五アメリカにもたらします。ウィリアム・ジェ本画はインドでつくられたとさえいえる。 イムズやアンリ・ベルクソンにも大きな影一八九五年というと日清戦争の時期と重な 年の二年前、アメリカで開催されたシカゴ りますが、日本美術の概念は、アメリカを 万博で、日本館に出品する諸作品の選定に響を与えます。岡倉もまた、この「不二一 あたりました。その日本館として、平等院元論」を大乗仏教とヒンズー教を架け橋す介した、こうしたアジアの雑多な衝突のな るひとつの鍵と捉えました。岡倉の『茶のかから形成されてきたとも考えられます。 鳳凰堂のような。ハビリオンがつくられ、こ こでいわゆる「日本美術」の体制が確立さ本』のべースとなり、そのアジア主義の骨黒瀬敗戦を折り返し地点として、一八九五 れます。シカゴ万博では有名な宣一一一口がなさ格となったものです。アメリカと日本とイ年から一九九五年までの一〇〇年のスパン ンドが共振しながら、後戻りができない一 で考えてみると、たしかにちがうものが見 れています。いわく、アメリカは物理的な 歩が刻まれます。この段階で、すでに世界えてきます。日本人が日本のなかで日本の フロンティアを切り拓くことでかたちづく られた。しかるにいま、そのフロンティアはひとつに混淆している。「日本美術」が条件を考えるというよりは、日本人も外に ・出ていきながら、主大術とはなにかとい一つこ は消滅しようとしている。だから、精神的生まれるのは、そういった場所からです。 ヴィヴェーカーナンダは、伝統的なヒンとを、他者との関係のうちに思考した時期 なフロンティアを求めなければならない、 と。そうしたヴィジョンのもと、万国宗教ズー一元論を近代的に更新し、ヒンズーをでした。天心とタゴールを仲介したのは、 ヴィヴェーカーナンダの弟子であるシス 会議が併催されて、日本からは大乗仏教各中心に、大乗仏教、キリスト教、イスラー ター・ニヴェデイタだといわれていますね。 派を代表する俊英たち ( 南方熊楠と文通すムをひとつに総合しようとする。岡倉は、 しやくそうえん どきほうりゆ - っ る土宜法龍や鈴木大拙の師である釈宗演なそのヴィヴェーカーナンダをインドに訪ねこのニヴェデイタというひとは、イギリス ど ) がアメリカに渡り、インドからはひとています。ふたりは、諸宗教の建築意匠を占領下の当時のインドで高まりつつあった 会田誠 + 安藤礼ニ + 椹木野衣 + 黒瀬陽平 0 85 野ざらしと外地
特集一脱戦後日本美術》日本から外へ 嚼別なる場所、ここにいてなおーーグ。 A Different PIace, While Being Here: ln a "Bad Place" in the Age of Global Art し / し よ ) 。けれども、「悪い場戸」という一一一口葉ほどに、よか れ悪しかれ批評的に機能し、また論争的に響いてきたタームも、 ここ二〇年近くのあいだの日本の美術界には存在しなかったの 日本は、西欧近代が生んだ「美術史」という歴史Ⅱ言説の体ではないだろうか。そうならば、しかし、その呪縛から脱する 系をついぞ構築しえず、つねに蓄積なしの忘却と自壊をくりか方途はないのかとも感じられる。椹木が彦坂尚嘉の言葉を借り て「閉ざされた円環」と呼び、さらに「場の支配」とも形容し えすばかりの「悪い場所」であるーーそう論じたのは、知られ るとおり、かっての椹木野衣だった〔☆ 1 〕。 た「悪い場所」の磁力が、単に虚妄としてわれわれを拘束して この椹木のテーゼが、望むと望まざるとにかかわらず、 きたのでないとすれば、そこから逃れること、あるいはその「場」 一九九〇年代後半以降の日本の美術批評を多分に規定し、とき の ( 非 ) 構造を書き換えてしまうこと、そうした可能性が思い に拘束すらしてきたことは、おそらく多くのひとが認めるとこ描かれてもいいのではないか とはいえ、そうでなくとも、この「悪い場所」という観念は ろだろう。むろん、「悪い場所」というのは、いまもって自明 いままさに、ふたたび問い直されようとしているらしい。椹木 な概念ではないだろうし、そもそも日本をことさらに「悪い」 みずからが、その再定義をここ数年のうちにおこなっているか と考えるのは無益な自虐であるとみなす向きも、当初からある ーバルアート時代の「悪い場所」で ゲンロン 3 1 0 8
その「彼方」へ向かう試みは「悪い場所」そのものに向き合う しての「反芸術」であり、反芸術は読売アンデパンダン展とと ことによってしか生まれない このような椹木の主張は、太郎 もに自壊、解体へと向かっていった。 そしてこの時期、太郎の関心もまた前衛から離れつつあった が噛みしめた孤絶感と同様の哀愁をまといながら、戦後日本美 術史をいっそうローカルな圏域に圧縮する。 ように見える。一九五二年に「四次元との対話」と題した縄文 土器論を発表し、縄文を「再発見」したことはあまりに有名だが、 ローカルな「悪い場所」に向き合い続けよという声は、マー ケットにおける価格高騰を唯一の拠り所に、この極東の島国の 一九五七年に『藝術新潮』での連載「藝術風上記」のため全国 ヾルな価値があるのだと必死に訴各地へ取材に行ったことをきっかけに、太郎のフィールドワー 風変わりな作品たちにグロー クは本格化する。それらの成果は、『日本再発見ーー芸術風土 える虚ろな声をその「彼方」に響かせることによって、ますま すその語勢を強くするだろう。こうして戦後日本美術史はいま 記』 ( 一九五八年 ) や『忘れられた日本ーーー沖縄文化論』 ( 一九六一 なお、グロー パルとローカルという二分法を悪夢のように反復年 ) などで次々と発表された。東北論を中心とした『神秘日本』 するのだ。 ( 一九六四年 ) の出版直後に行われた韓国取材も、このような太 郎の「民族学的」フィールドワークの一環だと考えてよいだろう。 今、あらためて太郎による韓国取材記「韓国発見」を読ん でみれば、その熱つぼく巧みなエッセイのなかで、韓国と沖 縄が暗黙のうちに重ね合わされていることがはっきりとわか 一九六四年一一月、岡本太郎は初めて韓国を訪問する。 一九六四年と言えば、年明けに通達された読売アンデ。ハンダン る。それは東北論でも試みられたような、日本文化の「外部」 として追いやられた土地から逆に日本文化の本質を浮かび上 展の中止が象徴するように、日本の前衛美術が大きな区切りを パクチョンヒ むかえようとしていた年である。戦後から五〇年代半ばまで太がらせるという視点だけではない。返還前の沖縄と、朴正煕 による軍事政権下の韓国。太郎はその両者に、近代以前から 郎や花田清輝らが直接先導した前衛芸術は、親子ほど歳のちが う下の世代のアーティストたちによって引き継がれ、彼らは読続く活き活きとした文化と、現代の政治問題が生み出した荒 売アンデ。ハンダン展を実験室として、ひたすらラディカルな試野が、鮮烈なコントラストを生みながらぶつかりあう風景を みを推し進めた。これがいわゆる、戦後の前衛美術の臨界点と発見したのだった。 2 黒瀬陽平 151 転位の美術史