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検索対象: ゲンロン3 脱戦後日本美術
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1. ゲンロン3 脱戦後日本美術

本稿は、このような危険を覚悟のうえで、とケータイ の普及により、ネットワーク社会化が進んだ現在の社会の姿 1 一 cn z と反応社会 を「反応社会」と規定する。これはインターネットと C-OZØを 韓国では『疲労社会回司』 ( ハン・ビョンチョル、文学と介した、各事象への怒りと恐怖などといった情念の発散が「自 己目的化」した社会を描き出すものである。本稿では「感情の 知性社、二〇一二年 ) が人文学系の書籍としては異例とも言える 伝染性」で特徴づけられるネットワーク社会において、「思想」 人気を博しており、「〇〇社会」という名のついた類似書籍が による時代診断と代案提示が依然として有効と言えるのかとい 後を絶たない〔☆ 1 〕。これは、多くの読者が、自分が身を置い ている時代像への診断と方向提示を強く欲していることの裏づ う、強い危機意識に基づく問いを投げかけたい。 けでもある。キム・ジョンヨプ ( 第丕。望 ) 〔☆ 2 〕は、こういった 『万ウオン世代』 ( ウ・ソックン、パク・クオンイル著、レディ アン、二〇〇七年 ) 〔邦訳二〇〇九年〕〔☆ 3 〕が世代間対立を踏ま 現象を「社会を語る社会」〔☆ 1 〕と呼んで再帰的なレベルにお いて規定しつつ、社会構造の歴史的な変遷を見過ごしたまま概えて提起した言説は、「社会を語る社会」の範例としては、世 念だけを多用する時代規定は、印象批評の羅列と一面的な分析代間対立をめぐる、より幅広い社会的関係への認識が足りない - に、も、刀、刀 に留まる危険性があると懸念を示した。 という、〔『疲労社会』と〕似たような批判を受けた。 特別掲載 変身するリヴァイアサンと感情の政治 訳・解題一安天 6 気」 / ク・カフン ☆原註☆ⅱ訳註 ゲンロン 3 2 5 4

2. ゲンロン3 脱戦後日本美術

ベルティングは、「世界美術」なる概念には懐疑的である。「世複数であるということ、すなわち単数性と複数性との併存」を とオジェはる「☆。 パルアート」としば考えなければならない 界美術」という一言葉は、今日では「グロー 「世界美術」の最たる信奉者としてベルティングがくりかえし しば線引きが曖昧なまま併用されるが、ベルティングは両者を その名を挙げるのは、アンドレ・マルローである〔☆四。たし 厳密に峻別しようとする〔☆。彼によれば、「世界美術」とい かに、ルーヴルの収蔵品ですら十分ではないとして複製写真 うのはモダンアートないしモダニズムの派生物であり、西欧中 心主義的な「世界」の単一性、一元性を前提としている。一方、だけからなる「想像の美術館」を提唱し、あらゆる時代、あ らゆる地域の芸術作品を一枚の架空の「タブロー」のうえに バルアート」は脱中心化されたものであ 八九年以降の「グロー コレクション 複数形の世界を許容するものだとベルティングはいう。彼集約して比較するという発想を抱いたマルローは、「収集」に コンテンボラリーアート らにとってそんな「グロ よって「世界」を網羅的かっ全的に占有しようとする、西欧の ー。ハルアート」は、「同時代美術」と いう、いまひとつの概念とほば同義である。前者が地政学的な博物館 / 美術館制度が抱える普遍主義の仮面をかぶった帝国主 単一の「中心」をもたない空間的概念だとすれば、後者は歴史義的な ( 無 ) 意識を体現していたといえなくもない〔☆。もっ とも、マルローはそのような美術館 / 博物館という装置がヨー 的な「発展」や「進歩」といった思想を解除された時間的概念 ヾル・コンテンボラリー」 ロツ。ハの近代に「ローカル」なものであることを認識していた となる。そして両者が交わる「グロー という一言葉とともにベルティングたちが描こうとするのは、彼し、そこに孕まれたイデオロギーもよく自覚していた〔☆。「世 自身がたびたび引用する人類学者マルク・オジェがいうところ界美術」はその意味でも、より端的に、ヘーゲルの「世界史」 の「同時代的世界」に等しい。「われわれはようやく同時代性以来の観念だというべきだろう。ヨーロツ。ハにミュージアムと いう近代的な制度ができたのも、むろんその時期である。 を語ることができるようになった、それなのに世界は多様なも これが現代のパラド ヘーゲルは『歴史哲学』において、「東から西へ」と変遷す のとして絶えず組みかえられつつある る絶対精神の歩みとしての「世界史」を描きだした。そして、 クスである。したがって、われわれは〔単数形の〕世界〔中略〕 について語るのではなく、〔複数形の〕諸世界〔中略〕について彼の『美学』もそれと同じべクトルで進展する歴史、つまり古 語るのでなくてはなら」ず、「『同時代的』という形容詞が単一代ベルシアやエジプトの「象徴的芸術」から古代ギリシアの「古 の何ものかを含意するのに、それが形容する『世界』のほうは典的芸術」を経て、ヨーロツ。ハの「ロマン的芸術」にいたる「東 新藤淳 別なる場所、 こにいてなお

3. ゲンロン3 脱戦後日本美術

プリュースター美術館、ニ〇〇七年 ) などの関連展 設立 ) の前身である美術運動機構「民族美術協議会」 判する作品のメッセージは一貫している。 覧会が開催されている。日本では一一〇〇七年から 創立 ( 一九八五年 ) の土台となった。 ☆「代案空プレト 尸ノ〔。」「 ~ 0 き」は「代案的実験と主 〇八年にかけて、「民衆の鼓動ーー・韓国美術のリ ☆イム・セテク ( 6 ロ刈 ) は、一九四七年生まれの美 体的な美術文化の形成」を目標に、ニ〇名の作家、 アリズム 1945 ー 2005 」展が新潟県立万代島美術館、 術家。ソウル大学在学中に詩人、思想家のキム・ジ キュレーター、批評家、理論家、学生などが共同 福岡アジア美術館、府中市美術館などを巡回した。 ハ ( 召刈耐 ) 、美術家のオ・ユン ( 皇品 ) らと。ハク・チョ 発起し、一九九九年ニ月に設立した非営利芸術活 ニ〇〇〇年に、ギャラリー 「ガナアートセンター」 ンヒ大統領の三選改憲に反対する学生グループ「現 動団体。「晉」は、韓国語で「草」を意味してお が約ニ〇〇点の民衆美術作品をソウル市立美術館 実同人」を結成。七ニ年に渡仏し、八六年には、夫 り、社会現実に抵抗する民草の精神をうたったキ に寄贈した。その際、美術館初代館長が民衆美術の 人のカン・ミョンヒ ( 店司 ) とともに、韓国人の ム・スョン ( 召人〒き ) の遺作詩 ( 一九六八年 ) にち 常設展示を約東した。その後、政府や市との関係上、 作家としてははじめてポンビドウー・センターに招 なんでいる。英語では「人々の集まり」を意味す 実現されていなかったが、ニ〇一六年五月、民衆 聘され個展を開催。帰国後、韓国の私立美術館第一 る「℃ 00 こと表記する。作家中心の美術共同体であ 美術の常設展示室が設置された。現在、同館では 号に登録されているソウル美術館を設立 ( 一九八一 、作家と批評家による批評誌『 Fo 「 um A 』 ( 一九九八 民主美術の代表作を紹介する「 GanaA 「 t Collection 年 ) した。同館は韓国とフランスのあいだの美術文 ーニ〇〇五年 ) の刊行と配布を支援していた。また、 Anth010gy 」展が開催されている。 化交流を主導する場所だったが、韓国の金融危機の 韓国美術批評史を再考および翻訳して海外に紹介 ☆ 386 世代は、韓国の一九六〇年代生まれの世代 なかで展示活動が中断され、ニ〇〇一年に閉館した。 するプロジェクト「干渉」を実施した。地域連携 のこと。八〇年代に政治運動に参加し、九〇年代☆四シム・クアンヒョン ( 習鬯 ) は、 - 九五六年生 プロジェクトや学際的な教育講演プログラムなど に三〇代だった人々を指す。大学時代を学生運動 まれの文化評論家、韓国綜合芸術学校映像院教授。 も運営し、韓国のオルタナテイプスペースの草分 に費やした世代なので、政治に対する関心が強く、 一九八五年から一九九三年までソウル美術館の学 け的存在として評価される。民衆美術の継承を直 また進歩主義者が多い。女性の社会進出が始まっ 芸室長を歴任した。著書に『脱近代文化政治と文 接的に表明したことはないが「ポスト民衆美術の た世代でもある。 化研究コ」咄早」を利早」望早』 ( 文化科学社、 前進基地」とも呼ばれる。ニ〇〇六年に現在の場 ☆「現実と発言鬯習望」は一九七九年、一ニ人 一九九八年 ) など。 所に移転。現在は「アートスペース・プル」と改 の美術家と評論家によって設立された社会批判的☆民衆美術を代表する美術家、一九四九年生まれのミ 称し、「代案空間プル」の第一一世代的な空間として 芸術のグループ。翌年、韓国文化芸術振興院の傘 ン・ジョンギ ( 6 」鬯刀 ) と一九五〇年生まれのイム・ 運営されている。 h ( ( www.a 一 ( P00 一 .0 「 g 、 下の美術会館 ( 現アルコ美術館 ) でグループ結成記 オクサン ( 60 呂料 0 ) は、ともに「現実と発言」およ☆ムキムキマンマンス ( 早早刀叫」き《こは、韓国芸 念展が開かれたが、作品内容の不穏さを理由に展 び「民族美術協議会」のメンバ ミンの作品世 術総合学校造形芸術科出身で、アコースティック 示不可と美術会館側によって判定され、オープニ 界は、社会的矛盾や民衆の生活の構造に関する問 ギターを演奏するマンス ( 本名】チョン・ウンシル ングの日に電気が止められ、観客はロウソクで作 題を扱うために意図的に選んだ初期のキッチュな を呂習 ) と、同音楽学科出身で、伝統楽器の杖鼓 ( チャ 品を鑑賞するという出来事があった。一九九〇年 スタイルから、九〇年代以降はシルクロードや金 ング早 ) を変形させた独自の楽器「グジャング に解体宣言をするまで、既存の美術制度に対抗し 錦山などの現地調査や、古地図の研究を通じて再 ジャン早早」を演奏するムキ ( 本名】イ・ミン つつ、消費社会や民族分断などの問題に取り組む 構成された韓国的風景画へ移行した。他方、土を フィö引 ) による女性ニ人組バンド。ニ〇一一年、 実験的な作品を発表し、『絵と言葉』『現実と発言』 テーマにする連作から始まったイムの作品は、韓 学内音楽会に参加する目的で結成、ユーチュープ などの冊子を発刊するなど、理論研究にも力を入 紙を素材としたリリーフ、彫刻、写真、バブリック・ で注目を浴びた。 れた。現在の「全国民族美術人連合」 ( 一九九五年 アートなど多方面に拡張したが、社会の現実を批☆四「 Do ( Follow the Wind 」はニ〇一五年三月一一日 04 7 博物館から庭へ キム・ソンジョン

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ボラリーアート」に関する言説をリードしているテリー・ス ミスは、「グロ ーパル」という語は「グロープ」という全体化 された統一体としての地球という観念とともにあり、グロー リゼーションも為替システムの押しつけとして、地球を制御可 4 能なものとみなすアメリカ的イデオロギーの産物なのであっ プラネット て、むしろ制御しえない「惑星」としての地球を考えていなけ いずれにしても、ベルティングらは一元化されたプロセスとればならないとするガャトリ・スピヴァクの主張を引き合いに しての「世界史」ないし「世界美術史」を拒絶し、それを突き出している〔☆。ここでは「グロー バル」という虚構を打ち破 プラネタリー 崩して世界を脱中心化しつつ複数化する「グロー 、、ハルアート」 る「惑星的」なアートが夢想されるのである。同様に「グロー コンテンボラリーアート に未来を見ようとする。とはいえ、そのヴィジョンは基本的に バルアート」と同義的に扱われる「同時代美術」も、問題なし マルチカルチュラリズム モダンアート は多文化主義的な共生を唱えるものにすぎず、また同時にベル の概念ではない。「近代美術」から「同時代美術 7 現代美術 ) 」 ティングが「アートはグロ ーパルな自由貿易の象徴となった」 へという移行は、単に時代概念や様式概念の変化ではなく、芸 〔☆というとき、それは「美術史の終焉」以後の芸術は仮死術の時間性や歴史性そのものの変容を意味せざるをえないはず 状態であるにもかかわらず、マーケットの力学によってかろう だからである。 じて延命されていると認めているも、なかば同然ではないだろ ベルティングが依拠するオジェによれば、「同時代性」とは、 うか。彼らも気がついていないわけではないにせよ、それはグ交通空間、消費空間、テレコミュニケーション空間において、 パリズムが数多くの暴力の噴出によって裏切られ、葬られ固有の「場所」の経験、アイデンティテイや歴史の象徴化が希 ることのない信仰の原理主義を台頭させ、さらに格差の拡大を薄になっていくという「非ー場所」化とともにあるという〔☆〕。 ーモダニティ つづけていることを思えば、楽観的すぎる立場であることは言 それはオジェ自身が「超近代性」と呼ぶものと重なるが、とも を俟たないように感じられる。 かくここでの「同時代性」とは、特定の「場所」の拘束から自 そもそも「グロ ーパルアート」は、ほんとうに世界を複数化由になった無数の主体の経験がシンクロニックに共立するよう ヾル・コンテン するのか。ベルティングらと並んで「グロー な状態としてイメージされる。だが、「同時代的世界」とは、「す な「日本的なもの」を遥かに超える、あの「地質学的想像力」 にもつうじるオルタナティヴな思考実験だったというべきだ ろう ゲンロン 3 1 2 0

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とができる〔☆ 8 〕。 ( 鎌倉ノート ) や、撮影した写真から読み取れる考察に基づいて、 ただ、戦後における沖縄の文化や歴史に対する研究に、鎌 一〇年がかりで執筆した大著が、死の前年である一九八二年に 『沖縄文化の遺宝』として刊行されることになる。沖縄戦で喪倉の為したことが多大なものであることを十分に認めた上で 失した首里城は、一九八〇年代から復一兀のためのプロジェクト も、彼が「遺宝」として認定する文物は、第一尚氏時代、つま り三山統一の後、琉球王国が成立した後の、いわば「宝物」の が開始され、一九九二年にまずは正殿などを中心として復元さ この時代、いや、あるい みを対象とすることにはプレがない れることになるが、ここでも、鎌倉の残した写真や記録が役立っ は今日においてもその遺制は根強く残存しているかもしれない たという。つまり、鎌倉は沖縄において、戦後の「沖縄文化」 の復興のために、少なからぬ寄与を結果的に果たしたと評価すが、この選択は、あまりにも明治以降に制度化された「美術」 ることができるだろ一つ。 ないし「美術史」と一致しすぎている。鎌倉が対象とするもの は、城そのもの、あるいは城の序列から連なる上手物、さらに 鎌倉の分析において興味深いのは、例えば次のようなところ は必ずしも沖縄において主流な信仰の対象となっていたわけで だ。鎌倉は一九六〇年より新潟大学高田分校の非常勤講師と して招聘され、教鞭を執っているのだが、そこで必ずしも主 はない寺社仏閣とその捧げものである。このことは、東京美術 流とは言えない越後の型染の研究に着手している。その成果を、学校出身の文化エリートにおいては致し方ないとしても、ここ が鎌倉の限界であったことは間違いない。鎌倉ノートを見れ 一九六五年に『越後系型染研究』として上梓しているが、そ こでは一五世紀の第一尚氏の時代から、日本海側と琉球との交ば、ほぼ民俗学のフィールドノートと見做してもよいような記 易があったと記されており、直江津を貿易港として、その型染述が残っているが、鎌倉が生前発表した、沖縄に関する記述の なかには、民間伝承のような調査の成果は一切生かされていな の技法の成立年代から、加賀や京都に伝播していく友禅のルー このことは、鎌倉一人の責任ではないにせよ、結果的には ツが、大陸 ( 明 ) からの直接的な影響ではなく、琉球を通じて、 黒潮に乗った海上のルートで伝わったというのである。この説琉球処分以前、いや、戦後の琉球史研究をリードした高良倉 に妥当性があるかどうかの判断は置くが、染色文化に注目する吉が強調するところの、いわゆる「大交易時代」まで遡るかも しれないが、琉球王国の全盛時代に対するロマンティックな自 ことで、地域を越えたダイナミックな伝播の動きがあったこと 己同一化といったかたちで、今日までそのプレゼンスを保って を述べようとしていることは、このような説からも見て取るこ ゲンロン 3 1 5 2

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でにひとつに統合されており、かっ、つねに複数的である」と このイメージに立ち返りつつ「全世界の未来」なる展覧会を企 アナクロニー いうだけでよいのか。そこにはもっと異質な時間性、錯時性や画したのは、今日のグロ ーバル化された世界の風景が、度重な へテロクロニー 異時性といったものが人り込んできはしないか。「同時代性と るテロ、移民問題、すでにわれわれが触れたようないくつもの はすなわち、自身の時間との一風変わった関係ということにな厄災などによって、ふたたび粉砕されているという現状認識を ります。それは、時間に寄り添いながら、同時にまた、そこか もっためである。その意識は、エンヴェゾー自身が二〇〇二年 ら距離をとるのです。つまり、より正確にいうならば同時代性 の「ドクメンタⅡ」のキュレーションにおいて、「グロー とは、位相のずれとアナクロニズムをとおして時間に寄り添う、 ション」を遂げる世界に潜む矛盾や葛藤をポスト植民地主義的 人と時間との関係性なのです」〔☆ーーーそのように語ったジョ な視点から浮かび上がらせた方法とも通底している。 ルジョ・アガンべンにならえば、「同時代芸術」と呼ばれるも 近代という時代は、ハイデガーがいう「故郷喪失」によって のは、おそらくは過去や未来を含めて、この世界にパラバラに特徴づけられていたともいえる。とくに二〇世紀という時代の 散らばっている時間との関係をつくりだすものでもなければな 芸術が、災禍や抑圧からの「亡命」によって数々の批評的な契 らない 機を生んだことは、よく知られている「☆四。たとえば、第一 いまだ記憶に新しい二〇一五年の第五六回ヴェネチア・ビエ 次世界大戦の西部戦線に志願兵として参加したドイツの詩人 ンナーレにおいて、総合ディレクターを務めたナイジェリア人フーゴ ・くルは、機械によって駆動されるその戦争にあっては キュレーターのオクウイ・エンヴェゾーは、亡命途上にフラン 「最後の地下要塞のなかまで、何もかも一切がぐらついている」 スとスペインの国境の街で自殺を遂げたヴァルター・べンヤミ という言葉を残し、スイスのチューリッヒに亡命してダダを立 ンが、最期の瞬間まで鞄のなかにその草稿を忍ばせていたとも ち上げることになる。あるいはナチを逃れて一九三〇年代にア 伝えられるテクスト「歴史の概念について」の一節、つまり「歴メリカに亡命したマックス・べックマンやジョージ・グロスの 史の天使」に関するくだりを想起するところから、「全世界の ようなユダヤ系の画家たち、第二次世界大戦の戦禍を避けてや 未来」というテーマ展を構成していた〔☆〕。粉々になった「過はりアメリカに移ったアンドレ・プルトンやマックス・エルン 去」の廃墟を見つめるその天使は、顔を後ろに向けたまま強風スト、アンドレ・マッソンやサルバドール・ダリによるシュル にあおられて「未来」へと押し流されていく。エンヴェゾーが レアリスム運動の移植など、やむない「故郷喪失」をつうじた 別なる場所、ここにいてなお 新藤淳

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する社会」 ( ピエール・クラストル ) を再現することに注力して覚的な空間を生み出す大きな鍵があると言えないだろうか。 いたのである〔☆リ。 薩摩侵攻以後から次第にあらわれ、琉球処分において決定的 仲松が沖縄のフィールドから読み取ったこのような「神と になり、沖縄戦、米軍施政権下、屈辱以外のなにものでもない 村」との空間構成は、奥行きを示唆するもの ( 遠近法や三遠法 ) 「復帰」後と、「対ヤマト」意識が醸成され、次第に高まってい でもなければ、垂直に屹立するもの ( アンソロポモルフィズム ) く必然性に、私も含めた「ヤマト」の人間は、もっと気づいた でもない、かなり独特なものである。祖霊神である「オソイ」 ほうがいいし、不公正は即座に是正されるべきだ。そして、沖 と「クサテ」に、いわば柔らかいクッションのように包まれつ縄における言説の形成もまた、融和的であれ対抗的であれ、こ つも、視線は限りなく海の向こうへと続いていき、それは無限のような「対ヤマト」との距離測定において形成されてきたと の奥行きを持っとも言える一方、地上から海を見晴るかすと海思われる。けれども、仲松がそのテキストにおいて遺してくれ 面はのつべりとした平面として知覚され、奥行きがゼロである た沖縄像は、対ヤマトのカウンターとしての国民国家の形成と とも言えるような、両義的な空間である。そしてその向こう側 いったようなものではなく、古代を幻視することで未来への にはニライカナイの世界があるが、そこは、垂直線上のはるか ヴィジョンを開示する、近代的主体意識や国家概念を超越し 遠くにあるわけでは勿論ないし、深い地底に横たわっているわた、いわば穏やかな「危険思想」である。芸術もまた、長大な けでもない。現世と常世はニライスクという浅い通路を通るこ時間的スパンを提示するものだとしたら、仲松のヴィジョンに とで、いつでも繋がっているのであり、祖霊神とさらに上位の 学ぶところは少なくない。ましてやそれが、「神と村」の「空 国作りの神といったような階層は存在せず、ただ漠然と把握さ 間」を示すものであるならば、ここから「沖縄美術」を立ち上 れる祖霊神と交信可能なような、シームレスな空間である。仲 げることのヒントを見出すことができるはずだ。勿論仲松もま 松がフィールドを散策し、そこで知覚したものは勿論、戦後沖 た、ある特定の時代に属する以上、人文地理学はもとより、先 縄の光景であり、空間であるが、仲松はさらに知覚を鋭敏にし、 行する民俗学や沖縄学の知見からその思想を形成しているのは そこに残存する古代から続く沖縄の空間構成を描いている。こ 間違いないが、結果的には異形の思想を遺してくれたことは明 のような空間を描いた事例は、少なくとも私は寡聞にして知ら らかであるし、そしてこの遺産は相続されないままにとどまっ ている。 ない。そしてこのようなヴィジョンにこそ、冲縄に固有の視触 一九四五年以前の「沖縄美術」 ? 165 土屋誠一

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澤戸木 - 紀 ノじ、 ~ 幽霊朝身体 ゲンロン利賀セミナー 2016 GENRON TOGA SEMINAR 2016 2016 年 9 月 10 日 [ 土ト 12 日 [ 用 ⑩富山県利賀芸術公園。。、。。。。。。 定員 40 名 ( 7 月募集開始予定 ) 劇団 SCOT 舞台稽古 ( スズキメソッド ) 見学会 情報時代の身体表現 梅沢和木 + 大澤真幸 + 金森穣 + 佐々木敦 + 東浩紀ほか 幽霊時代のロ語演劇 平田オリザ 利賀芸術公園見学会 ( 自由参加 ) 鈴木的身体と記号的身体 鈴木忠志 + 大澤真幸 + 東浩紀 ワークショップ講評会 平田オリザ + 大澤真幸 + 佐々木敦 + 東浩紀 身体、幽霊、記号 大澤真幸 + 佐々木敦 + 東浩紀ほか プログラムの詳細はこちら http://school.genron.co.jp/seminars/ 表現する プログラム 9 月 10 日 [ 土 ] 講義 1 ワークショップ 9 月 11 日 [ 日 ] 講義 2 9 月 12 日 [ 月 ] 講義 3

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来と、按司という権力者が登場する、一二世紀のグスク時代以 前にすら遡ろうと考えている。仲松は、王権に対して次のよう な評価を行っている。 後世になると、はるか海の彼方に存在する理想郷と想念 し、信仰してきたニラスクを、琉球王府政権者は意図的に、 天上界のオポツ・カグラへと、今までの水平的世界観を垂 直的世界観に遷移させようと企てた。これによって地上の 神を天上神へと押し上げようとしたと思われるが、太古代 からの水平的世界観を改変させることは、しよせん成功し なかったようである。〔☆当 ロ 入 嶽 御 ポ部 フ集 、編 高影 久撮 図 降り立った地が久高島〔図 2 〕であり、イザイホーに代表される 柳田は、沖縄におけるニライカナイを、記紀神話における「根ような、琉球国によって組織された神女であるノロたちによる、 の国」と同一視しており、さらに、仲松が一一一〔う垂直と水平の世複雑な形式を持った祭祀が行われるのは、琉球国の祭政一致体 制によるものにほかならない。その久高島を臨む、琉球国の最 界観は、折ロの発想に基づいている。垂直性に関わるものは、 せーふあーうたき きこえおおきみ 天上にあるとされるオポッカグラ、太陽 ( テイダ ) 信仰などが高神女である聞得大君が礼拝する場が、斎場御嶽であり、御 嶽は国家の成熟とともに、聖地として階層化されていくことに これにあたる。 なる。しかし、御嶽はそもそも村落ごとに対応して存在するも 沖縄における宗教を支える場は、御嶽と呼ばれる空間である が、そもそも沖縄には、日本の記紀にあるような建国神話は存のであったのであり、実際、かって御嶽であったところを発掘 いや、「しなかった」と言うべきであり、薩摩侵攻すると人骨が出土するところが少なくないという。また御嶽は、 在しない 以後に編纂された国史である『中山世鑑』には、記紀のように腰当森とも呼ばれる。 仲松は村落と神との関係において極めて重要なものとして、 琉球の開闢神話が語られている。琉球を創世したアマミキョが ゲンロン 3 1 6 0

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特集一脱戦後日本美術》もうひとつの悪い場所 嚼鏡と沼、分断表象のメディアと芸術 舍斗」立、刈尅回斗合 ハク・チャンキョン」召 解の空気が流れた。だが、それはほんの一瞬に過ぎなかった。 はじめに 一一〇〇〇年の南北首脳会談では、朝鮮半島に新しい時代が開か れるかに思われた。にもかかわらず、いまは南北共同声明以前 一九五〇年の朝鮮戦争勃発から六六年目を迎えるいま、北朝に回帰しているかのように見える。最近では、北朝鮮の核実験 鮮と韓国は依然として法的には戦争中の国家である。幸い、こ によって南北間の緊張が最高潮に達し、北朝鮮に対するアメリ れまで局地的な緊張はあったにせよ、全面的な戦争がふたたび 力主導の国際的な孤立政策がいっそう強化された。その間に、 勃発することはなかった。その代わり、冷戦下の政治は韓国社存命中の離散家族のほとんどがすでに八〇歳以上の高齢となり、 会全体に深く根を下ろした。政治と軍事外交はもちろん、経済メディアに依存しない実際の北朝鮮の記憶は、世代間の断絶と と文化、地域間の対立、社会心理に至るまで、分断は韓国社会ともに消えつつある。北朝鮮と分断の表象は、もはや多様なメ の空気のなかに満遍なく染み込んでいる。 ディアに依存していると言っても決して過言ではないだろう。 希望を抱かせるような変化の瞬間もあった。ニクソン・ド 本稿は、韓国の文化と芸術において、朝鮮戦争、南北分断、 クトリンに基づくデタント政策で冷戦が緩和された時期、朝冷戦、体戦ライン〔☆ 1 〕、などが捉えられた重要な瞬間 鮮半島では一瞬、一九七二年の七・四南北共同声明によって和に関する、主観的で散漫な記述である。とはいえ、散漫な記述 訳・解題一馬定延叫を 6 」 ☆ⅱ訳註 0 5 7 鏡と沼、分断表象のメディアと芸術 バク・チャンキョン