も盛んであった。こういうわけでタイにおいては、一九九〇年し、最終的にはしばしば、あとに置き去りにしたはずの制度の 代まで国家の介人 / 支援は不在だったものの、それにはマイナ片隅へと戻っていった。 ス面もあったのである。 情報、人、商品、また文化価値さえもが、以前よりもはるか グロー ヾルに流動している状況下で、トラ に大きなスケールでグロー バリズムのイン。ハクトは、中国とタイの美術家たちに ンスナショナリズムを論じようとするならば、必ず美術家の出 とって主に、個人的なアイデンティティにおいて、また彼らが 日々の生活の中でナショナルなものとどの程度結びつくかを組 自である特定の文化、または特定の文化群に焦点を合わせる必 織する仕方において現れた。これら二つの国家制度、そして広要がある。中国の美術家たちはーー一部のインドの美術家もそ い意味での文化的背景のあいだで、ナショナルな特徴をどの程うだがーーータイの美術家たちに比べて明らかに、国際的な環境 度取り人れればよいか、そのさじ加減を解釈する権利が大幅に で複数の自己を維持していくための環境がより整っており、支 変わりうるものであるように見えたのは確かである。中国の援体制もより充実していたので、国家と文化的アイデンティ 場合、多くの美術家が国外に出て、そこに留まり、その地域ティという壁を乗り越えることができた。その理由は次のよう ホアンヨンピン の美術コミュニティにその一員として人り込み、時には黄永硺な点に求められるかもしれない。タイでは、ある種の事柄に対 して特別なこだわりがある。それはたとえば美術の形式に対し 〔☆や徐冰のように中国的な内容や参照を作品の中で皮肉と して差し出してみせたり、あるいは蔡國強〔☆のように自分てであったり、明確なイデオロギーや信念構造が欠けている ( だ から駆け引きしたり対抗したりできる対象がない ) ということに対 自身と作品をあからさまに「中国的」なものとして呈示したり してであったり、またおそらく ( これは多くのよそ者にとっては した〔図 1 〕。彼らは先に移住していた中国系コミュニティの恩 恵をこうむり、多くの場合、とくに到着して間もない時点では魅力的な部分だが ) 、差異を受動的かっ寛容に受け人れることに 支援を受けた。タイの美術家の場合はごく稀な例を除いてそう対してであったりする。タイでは、こういったこだわりは文化 したケースはなかったようで、〔現地の〕美術界にすでに部分的に価値あるものとされている。にもかかわらず、このような 的に同化していて、ゆえに海外滞在中に支えとなってくれるよ価値観は明示されず、しばしばはっきり言葉にされないのであ うな、美術家たちのこういったローカルなコミュニティという る。この寛容は文化的差異を受け人れる余地を生み出したのだ のは大抵の場合存在しなかった。タイの美術家の大多数は帰国が、文化的差異を変化させたり支配したりしようという衝動は ゲンロン 3 2 2 2
ハリズムがローカルな 代的な行政や統治形式を採用したことで理論上は絶対的な権力自らの作品を位置づけた〔☆リ。グロー ーパルなレベルでの権威、そして流通の余 を失ったものの、きわめて巧妙に立ちまわったため、タイでは、物語に対して、グロ バリズム 正統的な権威が断絶してしまうことは決してなかった。この権地Ⅱ空間を以前よりも与えたとしたら、それはグロー という外発的なメタ物語がまさしく内発的なものを取り込むこ 威はひとつの文化、人民、国家と捉えることも可能だった。従っ て、タイの美術家たちは、どんな美術様式であっても受け人とを求めたからである。 れ、またそれを内発的なかたちで展開していくことが可能だっ タイの美術一一一一口説においてグロー 、、ハリズムが何を示しているの た。ディアスポラを強制されると、二つの一一一口語あるいは二つの かを理解するうえで、国際的に活躍するタイの美術家をひとり 文化の中で生きることになり、自我が二つに枝分かれしてしま取りあげるのが有益かもしれない。タイの外交官の息子である う。あるいは、国内での亡命を通じて消極的抵抗という内発的リクリット・テイラヴァニ〔☆は、一九六一年にプエノスア イレスで生まれ、幼少期の大半を国外で過ごした。一九九五 レトリックがひそかに用いられることがある。しかしどちらの 年時点の履歴を見ると、それ以前にはタイで一度も展覧会 事態もタイの美術家たちには起こらなかった〔☆眄。 を開いていない〔☆。事実、彼が受けた美術教育はすべて、 タイの美術家の多くは自国内では作品を売ることがほとんど できず、故モンティエン・プンマー〔☆四もそうだったが、教一九八一年から八六年にかけて、カナダとアメリカ合衆国で得 え子や同僚には認められても、大きな賞賛は海外からしか得ら たものだ。最初の個展は一九九〇年にニューヨークで開催した 「。ハッタイ」展 ( パッタイはタイの焼きそば ) であった。そして、 れなかった。より若い世代に属するチャーチャイ・プイピア ヴェネチア・ビエンナーレの〔若手美術家を紹介する部門として 〔☆Ⅱ〕やカミン・ラーチャイプラサート〔☆貶〕などの美術家は、 一九八〇年に設立された〕アベルト部門に登場したのは一九九三 一九九〇年代初頭、またそれ以降に海外で作品を発表し、自国 内でもっと高い評価を受けた。これらの美術家は、外発的なも年、キュレーターのマシュー・スロトヴァー〔☆とともに、〔「無 のと考えられていた様式や美術の実践を流用して内発的な主題題」や「説明する言葉がない」などの意味に解釈可能な〕《マイ・ミー・ に当てはめることができ、そのことをもって自国と海外の双方カム・プラコープ》 (MayMeeKumPlako 「 b) という題の食の。ハ で高い評価を獲得した。美術家たちは、伝達と変容の過程が一一 フォーマンスによってだった。その一〇年後、テイラヴァニは ノンスⅡウルリッヒ・オプリスト〔☆〕、モリ ー・、不スビット つの方向、内発と外発の両方に同時に向かって重なり合う場に 2 1 7 グローバリズムにおける内発的なものと外発的なものの接触面 ジョン・クラーク
〔☆眄とともにヴェネチア・ビエンナーレの「ユ ートピア・ステー かあった。少なくとも、日常的な相互作用の空間それ自体を、 ション」部門を共同キュレーションした。 作品・美術家・参加者のコミュニケーション協定として、一時 国際的に活躍する海外在住のタイの美術家はどうやってト 的に文化的なものに変えるというかたちに落ち着かせることは ランスナショナルなビエンナーレのキュレーターになったの可能であった。したがって、そこには文化的な参照や文脈が与 か ? もちろんテイラヴァニがタイにおいて目立っ位置を占め えられてはいたが、それらは単なる紋切り型にすぎなかった。 ていたからではない。彼がタイで初めて作品を発表したのは観客はこれを手がかりとして、ある特殊なタイ文化、あるいは 一九九六年であり、ナウイン・ラワンチャイクン〔☆〕と「チェ 他の特定的文化、たとえば西欧の消費文化を指し示す様々な参 照を通じて、参加者として。ハフォーマンスを実行するのであっ ンマイ・ソーシャル・インスタレーション」展で行った《トウ クトウク・コープ》というコラボレーションであった〔☆四〕。ま た。ここには、私の文化への参照を、アイロニカルなかたちで た必ずしも、彼の作品の中に何であれタイ的なものがあるから、展開使用する余地が大いにあった。美術家は、このように〈私の〉 というわけでもない〔☆。テイラヴァニの「作品」は、物質という性質 (myness) を、美術家自身が受け人れたアイデンティ 的なモノではなく一定の手続きに従った出来事であり、一見自 ティというふうにではなく、参加者としての観客に対して、観 発的で行き当たりばったりだが、実際には形ではなくコンセプ客自身にとっての〈私の文化〉 ()y ・ culture) の中に閉じこもっ ト面での精密さを基礎とするものだった〔☆。〔テイラヴァニ た状態から抜け出す道を与えるものと感じていたのかもしれな いのである。 が自作に関して与える〕指示を見ると、テイラヴァニは観客の期 二〇〇三年にテイラヴァニがヴェネチアでキュレーターの役 待にしたがって空間を創りこんでいたことがわかる。ついで彼 ヾルな美 は観客自身の関係性を再定義する可能性を観客に開いた。これ割を務めるに至った理由は、その直前の時期のグロー はテイラヴァニによるパフォーマンスに出会うことを介して行術実践の特徴のひとつに、美術家とキュレーターという二つの われる場合もあるし、あるいは観客がパフォーマンスできるよ 役割を比較的相互の交換が可能である、あるいは少なくとも、 う余地Ⅱ空間を残しておいて、その空間の中で、こうした再定両者のあいだの境界を以前よりも曖昧であると見なす傾向が 義をモジュール化することを通じて行われる場合もある〔☆。 あったためでもあるだろう。美術家にキュレーターの役割を果 相互作用や参加が生まれるためには、最低限の条件がいくっ たさせた結果、キュレーターが、自分たちはある意味で美術家 インタラクション ゲンロン 3 2 1 8
するものではなかったということを暗に示唆していた。とはい ーマス流の見方に従えば、美術から一見排除されて 中国とタイの比較 いた内発的な言説の場に突破口が開けたように思えても、それ が直ちに美術の言説そのものの開放や拡張に結びつくわけでは 一九九〇年代後半までは、国外からの関心は常に中国の非公 なかった。そのような事態が到来するには、関係性を個々の事式の美術に向けられており、タイのラディカルな美術が注目さ 例に合わせて構築し当てはめる事例が十分に積み重ねられ、美れることはほとんどなかったようだ。中国の美術界では、国家 術家が自分自身の作品のキュレーターそして観客の役割を果た のお墨付きが得られなかった類の作品を好んで直に購人すると こ介人していたが、そのよ している必要があった。美術イベントが可動的であるというこ いうかたちで、外国が内発的な言説。 と、それによって美術の実践に無縁だった人々が制作に参加で うな直接性はタイでは見られなかった〔☆。ある面でこれは、 きるようになったことは、それ自体で価値があった。 一九八九年の天安門事件によって政治活動が中断させられた後 タイの文化は、一九九〇年代のグロー にディアスポラが発生して、中国の美術家たちがこの動きとグ ハリズム以前から、他 の文化連続体、とくに中国やインドの文化のはざまで自らのア ヾルにリンクするようになったことと関連があった。また イデンティティを構築するという問題に直面してきていた。ク 別の面では、非公式の美術を支えるオルタナティヴな美術界の リッティャー・カーウィーウオン〔☆などの批評家は、タイ 仕組みが組織される以前は、いわゆる非公式の美術を支える備 的であることに備わっているさらなるハイプリッド性を提唱し えのあるローカルな文化資本が存在しなかったこととも関連が さえした。「タイの人々は文化をプレンドし、自分流に翻案すあった。一九九〇年代後半になってようやく、幾人かの事業家 ることに長けている」〔☆。コンセプチュアルな作品やイベ が民間の美術館を支援し始め、こうした仕組みが整ってきた。 ントを手掛ける美術家たちの多くは、参加する観客が直に自己 また、公式の美術機関の最先端美術に対する扱いが不適切であ 同一化できるような行為や身体的状態に焦点を合わせることで、 ることが、当の機関にとってさえ明らかになってきた。そのう アイデンティティと国際的な伝達可能性〔の対立〕という問題え、一九九〇年代には中国美術をとりまく情報環境が根本的に 変わり、公式で保守的な中国の美術家までもが、様々な財団が をうまく回避している。 支援するパリのスタジオに派遣された結果、美術界には公式の ゲンロン 3 2 2 0
わらず、成金や都市の若者はこの時期の広告には滅多に登場し ないといったように、除外が行われていると指摘した〔☆。 ナショナルな言説以外のものを排除するこの手の検閲は、内 発的言説における国家の干渉などという単純な問題ではなかっ グロー ハリズムやモダニティ / ホストモダニティ、アイデン た。これは、内発的なものと外発的なものが出会う接触面が、 ある特殊なかたちで発現した事例でもあったのだ。一九九三 ティティという面から見ると、一九九〇年代のタイ現代美術は 年のヴェネチア・ビエンナーレでは、シニカル〔・リアリズム〕中国とは大きく異なっていた。一九九〇年代半ばまでにタイ経 と〔ポリティカル・〕ポップの型にはまった表現〔☆ 8 〕を実践し済は国際資本、主に日本資本によって世界経済と結びつくよう ていた美術家たちが〔中国代表として〕選出されたが、これは になっており、主要な生産拠点に変わっていた。パンコクはグ バルな巨大都市であり、中国や東南アジアのほとんどの都 外発的な〔基準にしたがった〕選択であり、前記のような接触の インシュアンシー 一結果だった。美術史家にして批評家の殷双喜〔☆ 9 〕の指摘市、クアラルンプールやシンガポールなどの裕福な都市でさえ もパンコクとは似ていなかった。タイの美術界は、一九世紀後 によれば、「人の生活と美術の言語を真摯に探求した実験的な 美術は、『中国らしさ』を欠いていたためにしかるべき関心を半にシャム王朝が主にヨーロツ。ハ流の美術実践や装飾を積極的 得られなかった」〔☆。国際的にも共有されていた見解とし に受け人れたことを通じて世界とつながってきていた。これら て、一九九四年以降は総体としての美術動向というものはもは 〔輸人された要素〕が、ローカルな表現を行うために変形させら した や存在しなくなり、つかの間の名声を追い求めて美術におけるれることもあった。歴史的な絵画の伝統こそなかった 言説もなかった 個性の表現を強化した結果、権威や核となるものが美術から失がって反発するべき公式のアカデミー われてしまっていた。主題として美術家の個性が前面に押し出タイの美術家にとって、一九七〇年代までに内発的な言説を生 されるようになったのはおそらく、内発的な美術と外発的な美み出すのは比較的容易であって、一種の社会主義リアリズムか 術一言説がグロー バルなかたちで関係しあうという条件のもとで ら活気に満ちた表現主義にいたるまで、幅広いモダニズム的表 起こったハイプリッド化の副産物である。こうした条件下では、現が誕生する結果となった。 美術家の個性それ自体が、文化同士を媒介するものとして機能 一九世紀のシャムは植民地とはならなかったし、王室は、近 したのである。 タイ ゲンロン 3 2 1 6
中国革命は、近代ヨーロッパこそが近代そのものとされてい 易英によれば、中国の美術家が多文化主義やヨーロッパを中 た一九世紀から受け継がれた間題に対する、ひとつの解だっ 心とする観念に背を向けたのは、「そういった観念が示唆する 方法が、中国の美術家が中国社会で生きている経験と合致しな た。しかし、一九九〇年代の中国の美術理論家はより複雑な問 題に直面した。自分たちが革命から受けた恩恵を認めると同時 いから」だった。「中国流の言語が存在する、あるいは形成さ に、とりわけ一九九三年以降の社会の変化のペースを把握しれつつある、と我々が感じることができるのは、いまこの瞬間 なければならかったのだ。美術批評家の易英〔☆ 4 〕は、「中国 においてこそだ」〔☆ 9 〕。革命という物語は社会に対して力を は一九八〇年代、猛スピードで西洋近代美術を模倣していた失っていたが、道徳としてのその正統性は失われなかったた め、易英など一九九〇年代の中国の美術理論家たちは、モダニ が、九〇年代の社会はそれを上回るスピードで発展している」 〔☆ 6 〕と説明している。一九八〇年代、中国の美術家たちは「西ティの条件、すなわちこの革命の目標だったものを再び探求し 、冫近代」美術を「自我を表明すること」〔☆ 7 〕と見なして実験はじめていた。この試みに関して暗い気持ちになるのは、〔西 洋のモダニティと〕パラレルな、あるいはそれに代わるナショ 的に試みていたが、これは問題含みだった。当時の中国社会は、 個が自立できるだけの条件を提供していなかったからである。 ナルなモダニティを創出すると称して、一国のうちに閉じこ バリズム 一九九〇年代後半になって、ようやく個人が「個別化された人もった状態に逆戻りする傾向があったことだ。グロ は、現地にあらかじめ存在していた異質性がローカルに仲介さ 生を送り、個別化が美術の主題となりうる」〔☆ 8 〕社会条件が トランスナショナル れることにより、複数のレベルのあいだで超国家的な地滑り 整った。したがって、現在の中の歴史的過去 (hグ0 「 icalpasts ・ を生じさせられるようになった状況としてではなくて、単に 一 n ・チ e ・ present) を横断しつつハイプリッドなかたちで生きること ナショナル インターナショナル を要求される状況よりもむしろ、個性化を許された状況がしつ国際的な傾向が一国のレベルに流れこんできたものと理解さ れてしまっていた。 かりと確立されることが必要だったのである。ホミ・・ 〔☆ 5 〕やヴェルシュなど、実に様々な理論家が、ハイプリッ 一九九〇年代、中国の美術家たちのアイデンティティは、異 ド性やトランスカルチャー性を、ポストモダン時代の西洋で世なる文化への帰属という多レベルの構造に対置して表明される ことはなかった。彼らのアイデンティティを示していたのは一 界市民として生きることの徴と見なしているが、易英はまさに そういった概念に対する、中国からの反発を代表していたのだ。連の内発的問題である。すなわち近代美術の実践という文化領 ゲンロン 3 2 1 4
社文庫 ) でデビュー。『愛についての感じ』 ( 講談社 ) で 会田誠一あいだ・まこと 第三三回野間文芸新人賞候補。近著に『明日、機械が辻田真佐憲一つじた・まさのり 六五年生。美術家。絵画、写真、映像、立体、パフォー 八四年生。文筆家、近現代史研究者。著書に『たの マンス、インスタレーション、小説、漫画など、表ヒトになる』 ( 講談社現代新書 ) 、『夏の方舟』 ( 角川書店 ) 。 しいプロバガンダ』 ( ィースト新書 0 ) 、『ふしぎな君 現領域は多岐にわたる。近年の主な個展に「天才で が代』 ( 幻冬舎新書 ) など。 ごめんなさい」 ( 森美術館、ニ〇一ニー一三年 ) など。 梅沢和木一うめざわ・かずき 八五年生。美術家。武蔵野美術大学造形芸術学部映 像学科卒業。 CAS エ一およびカオス * ラウンジに所属。 土屋誠一一つちゃ・せいいち 荒木慎也一あらき・しんや 七五年生。美術批評家。沖縄県立芸術大学美術工芸 七七年生。美術史家。成城大学、多摩美術大学、武 学部准教授。共著に『拡張する戦後美術』 ( 小学館 ) 蔵大学非常勤講師。共著に『ラムからマトン』 ( ア クレイグ・オーウエンス一 C 「 aigOwens など。 トダイバ 、ニ〇一五年 ) 。 五〇年生。美術批評家。七〇年代後半から雑誌『オ クトーバ ー』や、編集主幹を務めた『アート・イン・ アメリカ』などに批評を発表。九〇年に三九歳で夭折。中野勉一なかの・つとむ 安天一あん・ちょん 七ニ年生。美術翻訳。主な訳書にハル・フォスター『第 七四年生。韓国語翻訳者。東浩紀『一般意志 2 ・ 0 』、 一ポップ時代』、セバスチャン・サルガド『わたしの 佐々木中『夜戦と永遠』『この熾烈なる無力を』など キム・ンンジョン一召鬯 土地から大地へ』 ( ともに河出書房新社 ) 。 の韓国語版翻訳を手掛ける。 六五年生。キュレーター。アートソンジェ・センター 館長、「リアル N プロジェクト」芸術監督。第 五一回ヴェネチア・ビエンナーレ、韓国館コミッショ 西田亮介一にしだ・りようすけ 覧安藤礼ニ一あんどう・れいじ 八三年生。社会学者、東京工業大学リべラルアーツ 六七年生。文芸評論家。多摩美術大学美術学部准教ナー、ドクメンタのエージェントなどを歴任。 研究教育院准教授。著書に『メディアと自民党』 ( 角 授。著書に『神々の闘争』 ( 講談社 ) ほか。近著に『折 川新書 ) など。 ジョン・クラーク一」 ohnCla 「 k ( ロ信夫』 ( 講談社 ) 。 四六年生。美術史家、アジア美術研究者。シドニー 寄 大学教授。共著の邦訳に『美術史と他者』 ( 晃洋書房 ) 。 ハク・カプン一乃是 市川真人一いちかわ・まこと 八七年生。高麗大学経済学科大学院在学。著書に『プ 七一年生。文芸批評家、『早稲田文学』編集委員、早 ルジョアのための人文学はない』『イルべの思想』『柄 稲田大学文学学術院准教授。著書に『紙の本が亡び黒瀬陽平一くろせ・ようへい 八三年生。美術家、美術評論家、キュレーター。東谷行人という固有名』 ( いずれも未邦訳 ) など。 るとき ? 』 ( 青土社、「前田塁」名義 ) など。 京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。 アーティスト・グループ「カオス * ラウンジ」代表。 ハク・チャンキョン一黏召 井出明一いで・あきら 六五年生。美術家、映画監督。「代案空間プル」ディ 六八年生。観光学者。追手門学院大学経営学部准教著書に『情報社会の情念』出版 )。 レクター、「メディアシティ・ソウル 2 014 」芸 授。博士 ( 情報学 ) 。専門誌『ダークツーリズム・ジャ 術監督などを歴任。 バン』 ( 東邦出版 ) 監修者。 椹木野衣一さわらぎ・のい 六ニ年生。美術批評家。多摩美術大学美術学部教授、 同芸術人類学研究所所員。著書に『日本・現代・美術』東山翔一ひがしやま・しよう 稲賀繁美 - いなが・しげみ 八五年生。漫画家。著書に『 G 一洋』ご apanese P 「 eteen 五七年生。国際日本文化研究センター教授。著書に『絵 ( 新潮社 ) 、『後美術論』 ( 美術出版社 ) など。 suite 』『 Nymphodelic 』 ( いずれも茜新社 ) など。 画の黄昏』『接触造形論』 ( いずれも名古屋大学出版会 ) など。 新藤淳一しんふじ・あっし 八ニ年生。国立西洋美術館研究員。共著に『版画の福冨渉一ふくとみ・しよう 海猫沢めろん一うみねこざわ・めろん 写像学』 ( ありな書房 ) など。 八六年生。タイ文学研究者、タイ語翻訳者。東京外 七五年生。文筆業。『左巻キ式ラストリゾート』 ( 星海 ゲンロン 3 544
プリュースター美術館、ニ〇〇七年 ) などの関連展 設立 ) の前身である美術運動機構「民族美術協議会」 判する作品のメッセージは一貫している。 覧会が開催されている。日本では一一〇〇七年から 創立 ( 一九八五年 ) の土台となった。 ☆「代案空プレト 尸ノ〔。」「 ~ 0 き」は「代案的実験と主 〇八年にかけて、「民衆の鼓動ーー・韓国美術のリ ☆イム・セテク ( 6 ロ刈 ) は、一九四七年生まれの美 体的な美術文化の形成」を目標に、ニ〇名の作家、 アリズム 1945 ー 2005 」展が新潟県立万代島美術館、 術家。ソウル大学在学中に詩人、思想家のキム・ジ キュレーター、批評家、理論家、学生などが共同 福岡アジア美術館、府中市美術館などを巡回した。 ハ ( 召刈耐 ) 、美術家のオ・ユン ( 皇品 ) らと。ハク・チョ 発起し、一九九九年ニ月に設立した非営利芸術活 ニ〇〇〇年に、ギャラリー 「ガナアートセンター」 ンヒ大統領の三選改憲に反対する学生グループ「現 動団体。「晉」は、韓国語で「草」を意味してお が約ニ〇〇点の民衆美術作品をソウル市立美術館 実同人」を結成。七ニ年に渡仏し、八六年には、夫 り、社会現実に抵抗する民草の精神をうたったキ に寄贈した。その際、美術館初代館長が民衆美術の 人のカン・ミョンヒ ( 店司 ) とともに、韓国人の ム・スョン ( 召人〒き ) の遺作詩 ( 一九六八年 ) にち 常設展示を約東した。その後、政府や市との関係上、 作家としてははじめてポンビドウー・センターに招 なんでいる。英語では「人々の集まり」を意味す 実現されていなかったが、ニ〇一六年五月、民衆 聘され個展を開催。帰国後、韓国の私立美術館第一 る「℃ 00 こと表記する。作家中心の美術共同体であ 美術の常設展示室が設置された。現在、同館では 号に登録されているソウル美術館を設立 ( 一九八一 、作家と批評家による批評誌『 Fo 「 um A 』 ( 一九九八 民主美術の代表作を紹介する「 GanaA 「 t Collection 年 ) した。同館は韓国とフランスのあいだの美術文 ーニ〇〇五年 ) の刊行と配布を支援していた。また、 Anth010gy 」展が開催されている。 化交流を主導する場所だったが、韓国の金融危機の 韓国美術批評史を再考および翻訳して海外に紹介 ☆ 386 世代は、韓国の一九六〇年代生まれの世代 なかで展示活動が中断され、ニ〇〇一年に閉館した。 するプロジェクト「干渉」を実施した。地域連携 のこと。八〇年代に政治運動に参加し、九〇年代☆四シム・クアンヒョン ( 習鬯 ) は、 - 九五六年生 プロジェクトや学際的な教育講演プログラムなど に三〇代だった人々を指す。大学時代を学生運動 まれの文化評論家、韓国綜合芸術学校映像院教授。 も運営し、韓国のオルタナテイプスペースの草分 に費やした世代なので、政治に対する関心が強く、 一九八五年から一九九三年までソウル美術館の学 け的存在として評価される。民衆美術の継承を直 また進歩主義者が多い。女性の社会進出が始まっ 芸室長を歴任した。著書に『脱近代文化政治と文 接的に表明したことはないが「ポスト民衆美術の た世代でもある。 化研究コ」咄早」を利早」望早』 ( 文化科学社、 前進基地」とも呼ばれる。ニ〇〇六年に現在の場 ☆「現実と発言鬯習望」は一九七九年、一ニ人 一九九八年 ) など。 所に移転。現在は「アートスペース・プル」と改 の美術家と評論家によって設立された社会批判的☆民衆美術を代表する美術家、一九四九年生まれのミ 称し、「代案空間プル」の第一一世代的な空間として 芸術のグループ。翌年、韓国文化芸術振興院の傘 ン・ジョンギ ( 6 」鬯刀 ) と一九五〇年生まれのイム・ 運営されている。 h ( ( www.a 一 ( P00 一 .0 「 g 、 下の美術会館 ( 現アルコ美術館 ) でグループ結成記 オクサン ( 60 呂料 0 ) は、ともに「現実と発言」およ☆ムキムキマンマンス ( 早早刀叫」き《こは、韓国芸 念展が開かれたが、作品内容の不穏さを理由に展 び「民族美術協議会」のメンバ ミンの作品世 術総合学校造形芸術科出身で、アコースティック 示不可と美術会館側によって判定され、オープニ 界は、社会的矛盾や民衆の生活の構造に関する問 ギターを演奏するマンス ( 本名】チョン・ウンシル ングの日に電気が止められ、観客はロウソクで作 題を扱うために意図的に選んだ初期のキッチュな を呂習 ) と、同音楽学科出身で、伝統楽器の杖鼓 ( チャ 品を鑑賞するという出来事があった。一九九〇年 スタイルから、九〇年代以降はシルクロードや金 ング早 ) を変形させた独自の楽器「グジャング に解体宣言をするまで、既存の美術制度に対抗し 錦山などの現地調査や、古地図の研究を通じて再 ジャン早早」を演奏するムキ ( 本名】イ・ミン つつ、消費社会や民族分断などの問題に取り組む 構成された韓国的風景画へ移行した。他方、土を フィö引 ) による女性ニ人組バンド。ニ〇一一年、 実験的な作品を発表し、『絵と言葉』『現実と発言』 テーマにする連作から始まったイムの作品は、韓 学内音楽会に参加する目的で結成、ユーチュープ などの冊子を発刊するなど、理論研究にも力を入 紙を素材としたリリーフ、彫刻、写真、バブリック・ で注目を浴びた。 れた。現在の「全国民族美術人連合」 ( 一九九五年 アートなど多方面に拡張したが、社会の現実を批☆四「 Do ( Follow the Wind 」はニ〇一五年三月一一日 04 7 博物館から庭へ キム・ソンジョン
多様な美術運動を展開したのが八五美術運動である。 その中で、とくに反芸術的な傾向を見せたのが黄で あった。黄を中心とする美術家たちは、一九八六年 にアモイ市新芸術館で開催した展覧会の最終日、参 加した美術家たちが自らの出品作を焼却するという 過激なパフォーマンスを行ったことから、「アモイ・ ダダ」と呼ばれるようになった。 ☆蔡國強 (Cai Guo ・ Qiang 一九五七ー ) 。中国出身で ニューヨークを中心に活動する美術家。火薬を用い たドローイングなど、中国文化に由来する素材を用 いた作品やパフォーマンスで国際的な名声を博した、 中国出身の美術家としては最も成功した人物の一人 である。一九八六年から一〇年ほど日本に移住し、 天安門事件後も筑波大学の研究生として日本に滞在 したことから、その作品は本テクストの言葉を借り れば「外発的な」眼差しを内在化した、すなわち他 者から見た中国を自ら演じる傾向が強い。この点で、 本テクストで論じられている他の中国人美術家たち からは一線を引いた解釈が必要になる美術家である。 ーバリズム ☆四ここでクラークが批判している反グロ の研究は一九九〇年代のものを念頭に置いている と思われる。冷戦終結後の新たな社会分析の枠 ハリズムは注目を集め、多く 組みとしてグロー の議論を呼んだ Samuel P. 工 untington, C/ash 0 、 0 ミ a コ s. ・ゝコ d the Re ョ a ミコ Of ミ 0 「、 d Order, Simon Schuste 「 - 1996 〔邦訳】サミュエル・・ ハンチントン『文明の衝突』鈴木主税訳、集英社、 一九九八年〕を始めとして、 Geo 「 ge Ritzer, The McDona 、 d洋aまコ 0 、 the Society: and 、コヾ estl: a コ & the Changing Character 0 、 CO コ、 em で 0 & 「 y SO a 、 Life. Newbu 「 y Pa 「下 CaIif. 】 Pine FO 「 ge P 「 ess, 1993 〔邦訳】ジョージ・リツツア『マクド ナルド化する社会』正岡寛司監訳、早稲田大学出版 部、 - 九九九年〕や、 Be 三 amin R. Ba 「 ber, Jihad ヾ s. McWor/d, New YO 「 k 】 Times B00k 1996 〔邦 『ジハード対マック 訳【ベンジャミン・ ワールドーー市民社会の夢は終わったのか』鈴木主 税訳、三田出版会、一九九七年〕などの挑発的な 研究書の刊行が相次いだ。これらの研究では、た謝辞 ヾレと しかにクラークが指摘するよ、つに、グロー 本テクストの訳出および訳註の作成に際しまして、監修の ローカル、西洋と非西洋の「対立」を軸とした理中野勉氏をはじめ、福井大学教養地域科学部准教授の田 論枠組みの中で、世界の均質化 ( 「マクドナルド化 」村容子氏、埼玉大学教養学部准教授の野村奈央氏から貴重 や「ディズニー化」といった言葉が用いられた ) を なご助言を賜りました。この場を借りて厚く御礼申し上げ 分析するものが多かった。しかし、九〇年代末か ます。 ( 荒木慎也 ) ら」 uliann SivuIka, Soap, Sex, and Cigarettes. ・ゝ C ミミ「 a 、エ t0 、 y 0 、ゝョ e ミコゝ d ヾ ert 、 S 、ゴ Belf 「 0コt・ CA: Wadswo 「 (三 1998 や、 Ga 「 y S. C 「 OSS, ゝコゝ〒 Consuming Century: Why Commercialism 薹 0 コ Modern America, New YO 「 k 】 CoIumbia Unive 「 sity P 「 ess, 2000 のように、多国籍企業が主にアメリカ 国内の民族的多様性やジェンダー観の変化に応える そ ため、マーケティングの個別化や細分化を行い、 れによってグロー バルとローカルの交渉 ( あるいは 多国籍企業による多様性の商品化 ) が試みられてい く過程を描いた研究も登場した。これらの例は、グ バリズム研究が社会の均質化と細分化のニつの 可能性を示していたことの証左である。 ゲンロン 3 2 5 2
「インタビュー したい。まず、「チェンマイ・ンーシャル・インスタレー ・シリーズ」と称して、芸術家、キュ 役割を果たしてきた。日本との縁も深く、近年では「 o レーター、音楽家、建築家など、多様な人々との対 ション】第三回美術文化フェスティバル」が開催さ O< キュレーター・ミーティング 2013 」や「ア 話を行い、 出版してきた。日本においても、一 - 〇世 れたのは、一九九五年一一月から翌九六年ニ月にか ト・マネジメント国際ミーティング 2014 」など 紀に活躍したキュレーターたちに対して行ったイン けてであり、ここでラワンチャイクンは個人で《ナ に参加するなど、度々来日している。 タビュー集が出版された。ハンス・ウルリッヒ・オ ウインの運転教室》というパフォーマンスを発表し☆四呂勝中 ()u Shengzhong 一九五ニー ) 。中国の美術家。 た。また、ラワンチャイクンは一九九五年にバンコク・ プリスト『キュレーションーー「現代アート」をつくっ 中国現代美術の先駆として位置づけられる「星星画 たキュレーターたち』村上華子訳、フィルムアート社、 ナショナル・ギャラリーで開催された「芸術と環境 3 」 会」や、それに影響を受けた八五美術運動が、西洋 - 一〇一三年、参照。 展にあわせて、タクシー運転手と契約して《ナウイン・ モダニズムの表現や思想を積極的に取り入れていた ギャラリー ハンコク》という移動展示空間を発表 ☆モリー・ネスビット (MollyNesbit 一九五ニー ) 。 のに対して、呂勝中は安易な西洋文化の摂取を忌避 メリカの美術史家、美術評論家、キュレーター。ヴァッ し、中国の伝統への回帰を志向した。その作品は中 ラワンチャイクンがテイラヴァニと共にタクシー サー・カレッジ美術・建築学科教授。ニ〇年以上に 国の伝統芸術を大胆に取り入れたもので、農民の切 を用いたパフォーマンスを行ったのは、同九五年に 渡って、『アートフォーラム』誌や『オクトーバ り絵細工にルーツを持っ赤い人型の剪り絵を用いた 誌に寄稿し、映画や写真を含めた幅広い対象を論じ 発表した《ナウイン・ギャラリー ハンコク》の第 力強いインスタレーションは人気を博した。 てきた。 - 一〇〇ニ年から〇四年にかけて、リクリット・ ニ回である。ニ人は一ヶ月間にわたってタクシーを 本テクストでも触れられているように、「第五〇回 テイラヴァニおよびハンス・ウルリッヒ・オプリス レンタルし、内部で中村政人の作品を「展示」した。 ヴェネチア・ビエンナーレ」では、呂の作品が展示 トとともに、展覧会、セミナー、出版、ウエプサイ 《ナウイン・ギャラリー・ ハンコク》は、一九九五年 されることになっていたが、中国バヴィリオンの展 トなどを組み合わせたプロジェクト「ユートピア・ から一一〇〇〇年までに計八回開催され、毎回異なる 示が当時猛威を振るっていたの影響により ステーション」のキュレーターを務めた。主な著作 美術家の作品を扱った。さらに、ニ人は《無題 ( シ 突然中止となった。その後、中国の文化部によって に、一九〇九年から一五年にかけて。ハリの街角を写 ティ・オン・ムープ ) 》という作品も発表した。これは、 展示が企画され、同年七月に開催された「造境 し続けた写真家ウジェーヌ・アジェの作品を詳細に 一九九七年に開催された国際巡回展「シティ・オン・ ニ〇〇三第五届威尼斯双年」展で日の目を見た。 分析した Atget's Seven ゝ、 bums, New 工 aven: YaIe ムープ」で展示された作品であり、映画の看板作家☆徐冰 ()u Bing 一九五五ー ) 。中国の美術家、中央美 やタクシーの製作会社と協力して制作したインスタ Unive 「 sity P 「 ess, 1992 デュシャン関連の仕事をま 術学院副院長。呂勝中と同じく、中国の民間芸術の レーション作品であった。本テクストでクラークが とめた Their Comョ0コ Sense, London: Black Do 四 再生を志向した作品を発表した。八五美術運動に若 「《トウクトウク》プロジェクト」と呼んでいるものは、 2000 また氏の著作集である Pre-Occupations シリー い美術家たちが没頭する中、漢字を発明したと言わ これら一連の作品群を指し示しているのであろう。 ズの第一巻として刊行された ThePragmatismin れる蒼頡の作業を掘り起こし、自ら再創造した「漢 the History 0 、ゝ New YO 「 k 】 Periscope, 2013 など☆クリッティャー・カーウィーウオン (Gridthiya 字」を用いた表現を探求した。一九八八年の《析世鑑》 がある。 ハンコクを拠点に活躍す Gaweewong 一九六四ー ) 。 では架空の漢字活版を作成して膨大な数の巻物を作 るキュレーターであり、現在はジム・トンプンン・ア ☆買ナウイン・ラワンチャイクン (Navin Rawanchaikul それを天井に張り巡らせる壮観なインスタレー ト・センターのアーティスティック・ディレクター 一九七 - ー ) 。チェンマイと福岡で活動する美術家。 ションを発表した。 彼がリクリット・テイラヴァニと行ったパフォーマ を務める。一九九六年にプロジェクト 304 やバン☆黄永硺 (HuangYong Ping 一九五四ー ) 。中国の美術 ンスは、本テクストで何度か言及されているが、そ コク実験映画祭を創設し、数多くの美術展、映画祭 家。「星星画会」に刺激を受けた中国国内の美術家 を手掛けるなど、タイの現代美術において主導的な の年代について若干の混同があるため、ここで整理 たちが、西洋の近代美術の情報を積極的に取り入れ、 2 5 1 グローバリズムにおける内発的なものと外発的なものの接触面 ジョン・クラーク