セックス - みる会図書館


検索対象: フリーターズフリー 02号
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1. フリーターズフリー 02号

欲が湧き上がってくるときがあった。そういうときにはマである。セックスしたいのなら風俗に行けばいいではない スターベーションするしかなく、終わったあと、恋人もでかと言うアドバイスもあるだろうが、私は風俗に大きな抵 きずにひとりでこんなことを繰り返している自分のことを抗があって行けなかった。だから、こんなにセックスした いのに、セックスしないともう身体が壊れそうに感じるの とても惨めに思った ( このあたりのことは拙著『感じない に、その相手がいなくてセックスできないという惨めな状 男』ちくま新書、一一〇〇五年、で書いたから参照してほし い ) 。襲ってくる性欲に勝てないとき、マスターベーショ況に陥ってしまう。セックスをしないともう気が狂いそう ンを終えたとき、私は「モテない自分」を呪った ( 女性読者になるのに、セックスの相手を見つけることができないと の中には、 いうこと、これが、「モテないという意識」の発生する原 排卵日や生理前に強い性欲が湧き上がってきた いらいらがつのったりする方もいると思うが、男を定風景のように思われる。 る 期的に襲う性欲というのも、それに似たようなどう猛な感もし仮に、すごいナンパ師が友だちにいて、その彼が私す 覚だと思っていいかもしれない ) 。マスターベーションばのことを哀れんでくれて、女性をひとり一夜だけあてがっ かりの日々が続いたとき、私は心の底から「あー、女がほてくれるということがあったとしよう。それによって私が を しい、セックスしたいー ・」と思った。それはもう嘘偽りのその女性とセックスをすることができたとしても、私の中 ニ : ロ 意識」は解消されるどころか、ますま意 ない、本当の感情だった。性欲が湧いたら、ひとりでマスの「モテないという ししゃないかと言う人がす強化されてしまうことだろう。なぜなら、本当の問題は、 ターベーションして処理すればい : と 「自分の力量で」セックスの相手を見つけることができな いるが、それはまことに腹立たしい発言である。マスター いということだからである。だから、他人から斡旋された べーションではけっして解消できない、心底からの叫びが あるということを、その人は分からないのだろうか。もちり、金を払って風俗に行ったとしても、なんの助けにもな モ らないのである。セックスできないことに起因する気の狂 ろん性欲の作動に社会構築的な側面があるのは確かだが、 いそうな感情と身体の暴発寸前状況は一時的に収まったと それにすべて還元できると考えるのは悪しきイデオロギー

2. フリーターズフリー 02号

ることが強調される。重要なのは、〈受〉に同化して、「私のか。私は、次の仮説をたてた。すなわち、女性の抑圧さ は快楽を得ている」と確認することである。その後、必ずれた欲望がレイプという形で表現されているのではなく、 。ヒロートークで、「さっきのセックスはレイプではなかっ レイプ・ファンタジーこそを女性は欲望しているのではな し、刀 た」という内容の会話が行われる。〈受〉は快楽を得ており、 て 〈攻〉とのセックスを楽しんだということを告白するのだ。 っ なぜ私はレイプ・ファンタジーを求めたのだろう。「女は 2 レイプによる瘉 ~ し、というファンタジ レイプされたがっている」という言説は、フェミニズムを レイプとは加害者が被害者の主体性を奪う行為である。 中心に否定されてきた。現在でも、女性のレイプ被圭暑は、 タ ン 「被害者もセックスを楽しんでいた」「男性加害者を誘惑し快楽と苦痛の支配権を加害者が握り、被害者は肉体だけで なく精神の自由も奪われる。「私が〇〇をする」という意志 て、レイプするようにしむけた」というような言説にしば 的 しば晒される。これらは、女性被害者のレイプ被害を矮小が剥奪されるのだ。意志のない存在になるということは、 性 化し、男性加圭暑を免罪するために用いられる。そこで、「女私という存在が、私のものでなくなり、「私が私である」 性がレイプ願望を持つ」という言説こそが、男性のレイプ・という感覚が奪われることである。レイプ被害者の多くは、 と レイプされている間の記憶を失ったり、被害中に自らの肉 ファンタジーの一部であると分析されてきた。 氾濫するヤオイの中で、レイプという性描写の形式が少体に起きていることを知覚できなかったりする。これまで、 れ 女たちによって消費されている。なぜ、対等なセックスをその現象は、「あまりにも現実が過酷だから、感じること さ 少女たちは求めないのだろうか。少女マンガには、男の子をやめてしまおう」という精神の防衛本能によるものだと と女の子が、話し合いながらセーファーセックスを行う作みなされてきた。しかし、私はこの現象は、次のことが原イ レ 因で起こると考えている。すなわち、単に「私が私である」 品もある。なぜ、描かれるセックスが一様にレイプだった 〔 2 〕野火ノビタ「やおい少女解剖学」「野火ノビタ批評全仕事総評』月光盗賊、一九九八年、一五八ページ

3. フリーターズフリー 02号

関係においては、私から co と別れようなんて一瞬たりとも「早いって笑わないでね。」 考えたことはなかった。しかしは私が仕事をして帰って も、家でマンガを読んでいるか、フラッとでかけてひたす「オネガイ、オネガイ、オネガイ。ホウケイだから早いっ らジムでからだを鍛えているかどちらかで、私の「燃え尽て笑わないでね。」 き」に拍車をかけるばかりだった。私はが大好きという「笑わないよ、べつに。どうして ? 」 思いは微塵も変わらないけれど、違う人とセックスをする 「ああ、よかった一回ィッてくれた。もうこれで三回目だ ようになった。自分のなかではその当時、 cn を好きなことね。ああよかった。」 と、違う人とセックスをすることが全然矛盾することでは なかった。 「お願い、イって」「早くない ? 」という会話が強迫的に繰 < クラスのべンツが買えるくらい私はお金を U) のためり返されるセックス。そうして、私も私でいつもいつもい に使い、限りなく甘く優しい親にお膳立てしてもらって同つもいつも「早くない」という。これがボランティアの骨 棲までしたのに、別れを告げられ、それきり終わった。い 子なのかもしれない。早い、早い、ものすごく早い、光よ や、ほんとうは別れるより前にとっくに実質としては「別 りも早い、とでも言えば何かが変わったんだろうか。結局 れて」いたのだろうけれど、とうとうはっきりといわば「解私は彼の、あまりに陳腐な男らしさを確認できる「モノサ 雇」された感じだった。引っ越したくない引越しほど徒労 シ」であることがこのボランティアの核だった。私はセッ 感のあるものはない。根を引き剥がされる意識の中で、今クスそのものよりも、この「モノサシ」であることがひど 度はボランティアを始めた。 く嫌になった。いったいこの「モノサシ」はどこから生ま 私は、配食と食事介護の手伝いをしているつもりが、気れたのか、ほんとうに裸でいることを邪魔するあの「モノ がつけば今度はサイシモチの男性のいわば「セックス・ボサシ」は。 ランティア」をしていたのだった。 結局私のボランティアは、陳腐な「モノサシ」であるに 122

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名詞『やおい』と、それを生産消費する少女たちを区別す〈攻〉が〈受〉を性的対象としてとらえていることが、両者 4 るためにこう呼びオし また、 % 才にもなって自らを少女に明らかになる。〈受〉は「俺は女ではない」と拒絶する。し と呼ぶのは、すでにこの論争で指摘されているとおり、『女かし、〈攻〉は〈受〉をレイプする。その中で、〈受〉は女役 制を受け入れることに失敗した』我々はある意味で女にな として扱われ、肉体を愛撫され、無理やり射精させられる。 る以前の永遠の少女であるからだ」〔 2 〕。野火は自らを「やさらに、〈攻〉はペニスを〈受〉の肛門に挿入しながら、愛 おい少女」だと定義し、精神分析の枠組みを用いて、ペニを告白する。〈受〉はだんだんと肛門性交で快楽を得るよう スを持たない「去勢された男」として自己の欲望を分析し になり、自らも〈攻〉を愛していることを熱情の中で告白 野火は、一般的に少女と呼ばれる十代の思春期を、物する。レイプが終わると、〈攻〉と〈受〉はビロートークの 理的年齢によって通過しても、なお少女に留まり「やおい」中で、愛を語り合う。 を求める愛好者たちを論じている。 私はヤオイに魅了された。まず、〈受〉に、自分を重ね 私は、この野火の「少女」というキーワードを引き継ぎ合わせた。私はヤオイのファンタジーの中で、思う存分に ながら、野火とは逆に少女を脱していった「元・やおい少レイプされた。無理やり衣服をはぎ取られ、抵抗するが、 女」として、ヤオイ論を書く。それは、ギクシャクしながねじ伏せられ犯された。そこに描かれるセックスが、リ らも女になっていったヤオイ少女を分析することである。 アルかどうか、刺激的であるかどうかは、重要ではなかっ た。そして、〈受〉は無理やり射精させられる。たとえそ こで快楽を得ていても、〈受〉に主体性はなく、責任はな 犯される快楽 すべてを〈攻〉にゆだねる。さらに、〈攻〉から挿入さ ヤオイのセックスシーンの典型的な形を抽出してみよれ、痛みの中で快楽に目覚めるストーリーが描かれる。そ う。ヤオイのセックスシーンは次のように描かれる。男らの快楽の描写は、決まり切っていて、記号的である。過剰 しい〈攻〉と女のような〈受〉は惹かれあっている。ある日、 なまでに、「快楽に溺れ、〈攻〉の挿入にあえぐ〈受〉」であ

5. フリーターズフリー 02号

るのだ。これは、「主体が自らの承認されていなかった部する。自らが何を欲しているのかを、語り出すのだ。その 7 とき、分析者は分析家と分離し、〈本当の私〉を獲得する。 分ー・ーー自らの歴史の空白の頁、検閲された章、排除された こうして、分析家が分析者に新しい〈私〉を与え自立させ ()e ョ orfen ) 断片ーーーにおいて承認される」 ( 一〇一ページ ) ために起きる転移である。そして、これらの転移の原動力ることで、転移は完了する。 て このように、精神分析では、分析家が患者に、面接の中 は感情ではなく、「分析家は返答してくれる」という分析 っ 家への信頼にあると説明される。ジュリアンは次のようにで〈本当の私〉を与える。同様に、ヤオイのレイプ・ファン タジーでは、〈攻〉が〈受〉に〈本当の私〉を与える。それは、 述べる。「ラカンの一九五三年以降の、転移のこの新しい ジ 定義は重要である。それによると転移は分析の障害ではな〈攻〉を愛し、セックスに溺れる〈本当の受〉であるという タ ン 解釈をするのだ。〈攻〉の分析はこうだ。〈受〉は〈攻〉とセッ 、分析に繋がる道である。」 ( 一〇一ページ ) ア 精神分析における転移は三段階を持つ。第一段階では、 クスをして快楽を得たかった。しかしその欲望は「男同士フ 分析者は分析家の解釈を受け入れ、「分析家は〈私〉を求めだから」という理由で抑圧されている。抑圧された欲望を的 ている」と認識する。そのことで転移への原動力となる分〈攻〉は察知して先取りし、無理やりセックス 7 レイプ ) し 析家への信頼が生まれる。第二段階では、分析者は分析家てやるのだ。〈受〉は、その〈攻〉の解釈を受け入れる ( 第一 と と同一化しようとする。分析家の解釈に、みずからを添わ段階 ) 。そして、〈受〉は〈受〉自身が気づいていなかったよ せ、それこそが〈本当の私〉であるとする。これがいわゆうな、〈攻〉とのセックスを望んでいる〈受〉こそが、〈本当 れ る転移である。第三段階では、分析者は自らが、分析家にの私〉だとする ( 第二段階 ) 。さらに、〈受〉は快楽に目覚め、 同一化しようとする欲望があることを、第三者の前で公言自ら〈攻〉に肛門性交を求める。そして「私は〈攻〉を欲すプ イ レ ラカン入門」 ( 向井雅明訳、誠信書房、一一〇〇二年 ) は、ラカ 〔 3 〕フィリップ・ジュリアン「ラカン、フロイトへの回帰 ンの精神分析の解説書となっている。ラカンはプラトン『饗宴』を分析する中で、転移の構造を明らかにした。私は、こ のラカンの議論を理解するにあたって、ジュリアンの解説を手掛かりにした。

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再び大澤の『性愛と資本主義』を読み直そう。マルクスの方であるのを感覚するのである」 ( 「孤独・性愛・信仰」 ) 。 4 の貨幣論と資本主義下における主体の存在様式を、フー大澤は愛撫において「触れる」という能動的な行為が、相 コーの権力論と重ねる同書の議論は、スマートではあるが手に触れた瞬間、「触れられる」という受動性へと反転す 驚きはない。むしろ大澤固有の感覚は性愛をめぐる分析に る光景を見ている。どういうことか。大澤は『〈自由〉の 示される。 条件』 ( 講談社、一一〇〇八年 ) で「完全に透明な合意に基づく セックス」という思考実験を行う。そして、一つ一つの手 愛を現実化する実践つまり性愛の実践の中核にある順をすべて合意の下に進行させていくセックスは、「相手 のは、たとえば愛撫である。愛撫とは、〈他者〉の身の身体を利用した自慰以外の何ものでもない」として、性 体に触れることによって、〈他者〉の身体自身の触覚を愛行為とは原理的に他者の暴力性を望む行為であると結論 〈他者〉の快楽として解発しようとする行為である。だする。しかも、そのような「他者を定義する条件は、その から、愛撫という触覚的な行為は、自らによって志向まま死の本性であり、われわれは、他者に関するやり方と されたもの ( 触れられた身体 ) を、それ自身固有に志向全く同型的な仕方で、死へも関係しているように思われる。 するもの ( 快楽する身体 ) として開示しようとする探究愛における孤独 ( 他者の偶然の不在 ) は、実際、ただちに死 である。それは、」 到達不可能な〈他者〉に漸近しよう への衝動を導くのである」 ( 「孤独・性愛・信仰」 ) 。 とする、最も端的な方法なのだ。 ( 「貨幣の可能性と愛の これはおそらく性愛をめぐる論理的な思考の極北であ 不可能性」 ) る。自慰行為と区別される性愛的行為とは、「他者」を求 めることにほかならないが、その他者性とは、「暴力」や しかし、能動的に見える「愛撫」 という行為には、内的「死」に地続きの受動性としてある。この性愛関係の暴力 なねじれがある。「愛撫する身体は、他者の身体に触れた性こそが問題の核心であり、それ抜きの制度分析は現実を とたんに、まさに彼 ( 女 ) に触れているのは、他者の身体捉え損なうのだと。大澤はかって、上野の『家父長制と資

7. フリーターズフリー 02号

しない。能動性と受動性は男性・女性という二項対立でそれらの「愛させる」という誘惑の技術のみを手に入れてし & れぞれに分担されるものではない。 ところが、社会的状況まった私は動揺した。まだ恋愛も知らない私にとって、こ は、「女」に「愛させる」技術を習得するように、強迫的なの技術は「愛される」ことの本質を冒涜する、「エデンのリ メッセージを送ってくる。髪を染めて、化粧をし、ダイエッ ンゴ」のように感じられた。誘惑の果実をかじったために、 トをして、媚びた笑顏を作るように勧めてくる。突然、こ楽園を追放され、「愛される」ことを失ったのではないか、 イ〕大澤真幸は、「自由の条件』 ( 講談社、一一〇〇八年 ) の中で、「なぜ、レイプはおぞましい犯罪なのか」という問いを立 てた。大澤は、レイプがほかの犯罪よりも残酷なのは、「性行為を望まない女性の意志に反する性行為を強いる暴力だ から」 ( 三九五ページ ) であるという、一般的な解答では説明しきれないとする。大澤は、お互いの意志に反さず、合意の 範囲でのみ行われるセックスは、相手の身体を利用した自慰にすぎないことを指摘する。そして、他者のコントロール 不可能性を担保するために、一男であれ、女であれ、人は性的な関係の中で、自分の意志に反するような形で相手に扱わ れることを、すなわち、〈他者〉に『暴力』的に扱われることを、欲してすらいる」 ( 三九六ページ ) と述べる。大澤の主張 は次である。 「われわれは、むしろ、次のように考えるべきではないか。人は酒在的に自身の身体が乱暴に扱われることを欲望してお り、まさにそれゆえにこそ、こうした潜在的な欲望を文字通りに実現したかのように装うレイプは - 層おぞましいのだ、 と。だから、レイプの悪、レイプの犯罪性は、一般の犯罪や違背行為とは反対側にある。一般の犯罪や違背行為は、被害 者の意志に反する行為と見なされる。それに対して、レイプは、ある意味において、被害者の潜在的な意志や欲望をそ のまま外的な現実の上に実現してしまうがゆえに、一層悲惨な犯罪を構成することになるのだ。」 ( 三九六ページ ) この「レイプという悪」について、スラヴォイ・ジジェクは映画「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」 ( 一一〇 〇六年 ) の中で明らかにする。ジジェクは映画它アイレッスン』 ( ジェーン・カンピオン監督、一九九三年 ) の女性主人 公を引き合いに出す。彼女は、性暴力被害者である。そして、大量に暴力的なポルノグラフィを視聴している。彼女は セックスのパートナーに、自らが持っレイプ・ファンタジーを書き出し、実現するように求める。しかし、それが実現す ることこそが、彼女を致命的に傷つける。 ー「レイプされたい」という性的ファンタジーについて一

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、つとうえん それも少し違う気がする。コミューン的全然積み上げてこれなかった。たとえばヤマギシ会」とか「一燈園」とかはあるけ な共同保育だけでは限界がある。それ「育児連」の増野潔〕は「男にも育児休 農業とかをやりつつ従来の家族を壊〇 じゃ、社会主義国家みたし ( 子供を社業を」というところまでは言えた。けど、 して、大家族をつくるような試み。それ 会全体でくじ引き的に担当して育てれば 私が「何よ、子供は二四時間生きている から岩崎夫妻のように別居し、『家族地 いいのか。それも違うだろう。先ほど国じゃん」って言ったら、話は合わないわ域』を発信してた人たちもいる。でも、 澤さんが、「みんな家族の理論についてけよ。彼はその後、老人問題へ進んだ その頃から、家族の理論が全然進んでな 詰めが甘い」と仰っていましたが、本当らしいけど。 教育学の池田祥子さん店〕 にそう思う。そこからもう一度、賃金労から言うと、この辺の話は一〇〇年遅れ杉田フリーターズフリーのメンバー 働にせよ協同組合にせよ、労働の話を考ている。家族も育児もセックスのことも、 はいまのところ子供はいません。「産ま え直さないと、労働運動自体が弱くなっ理論のレベルで詰められなかった。 ない」と宣言している人もいる。でも、 共同保育ということでは、もう死んそういう人も子供の問題は考えざるをえ 大澤国澤さんは先ほど「家族の問題にじゃったけど、うちの旦那 ( 山口富夫 ) が、 ない。たとえば・日崎・さんのようなシング はセックスが入ってくる」と言ってまし全共闘運動のあとに『試行としてのユー ルマザー、あるいは親のいない子供がい たよね。 トビアーー日本的共同体の思想』 ( 太平出るわけですから。既存の若年層の労働運 国澤経緯は色々あるけど、そういう議版社、一九七三年 ) というルポを出したの。動はまだそれを考えられていない。さっ 論がしにくい状況があったの。喋る相手色々な「拡大家族」で過ごしている子供き「子供は産まれてくるもの」と言った も逃げるしね。私たちがそういう議論を たちを訪ねていった。い までも「幸福会 けど、産まれてくる子供たちを見据えた 〕増野潔 ( ますの・きよし ) 〕一九三六年生まれ。時連創設の時からの会員、九〇年代に育時連活動からリタイア。 神奈川県秦野市の zæo 訪問介護事業所「野の花」の監事。「現代子て考」編集委員会編『現代子育て考そのこ ( 現 代書館、一九七五年 ) で国澤静子と共著。 〕池田祥子 ( いけだ・さちこ ) 〕一九四三年生まれ。宝仙学園短期大学保育学科教授。保育・教育制度論、ジェンダー関 係論。著書に「「女」「母」それぞれの神話』 ( 明石書店、一九九〇年 ) 。 ー巻頭セッション労働と家族を問う一

9. フリーターズフリー 02号

リーが増殖しつつあると思うのですが、 がマシだ」という話が気になっているん いるから。するとそもそも「育児の社会 でもそれは Z;æO 的なものじゃない。人です。そこには母子家庭になること〈の化」って何だろう。保育園や学童保育を〇 材として使える子供を女に産ませればい 恐怖感と、否定的な意識があるわけです含めて、託児所的な場所をガンガン増や 、と女性を利用している。しかも第一一一よね。女性が女性を否定するような。前して、お金を払ってそれをサービス利用 世界の女性に に白崎さんに聞いたのは、自分が母子寮すればいいのか。違うと思う。ぼくの感 国澤以前に東北の方に外国の女性たちで暮らしていた時、男性よりも女性たち覚では、家族や子供は、選ぶもの、夫婦 が嫁に来たでしよ。その人たちは、そのからの風当たりが厳しかった、って。そ間たけで決められるものではなくて、産 後離婚したり受けたりした。私は百れはどういうことなんだろう。 まれてくるもの、到来するものだと思 貨店でも仕事しているからそういう家 日本は、子供への社会保障が、先進 う。視点を逆転しないとダメではないの 族をいつばい見るけど、可哀そう。自分国の中では低いほうですよね。企業福祉か。実際、難民キャンプや知的障害者家 の墓がない。日本にずっといられるとは と家族福祉が見込まれている。べーシッ族、あるいは北海道の「べてるの家」の 期待していない。 子供を産む機械としクインカムの話がありますが、英米では ような精神障圭暑の共同体でも子供はど て連れて来られたわけ。「学者」なら外国べーシックキャビタルという - 議論もありんどん産まれる。そこから男女の恋愛や へ「セックス・ワーカー」の調査に行かな ます。要するに、すべての子供に、成長セックスの意味を考え直せないか。正確 くっても、現実を日本国内で調べればい に必要な元手 ( 資本 ) を分配する、とい には、妊娠・出産・中絶の真の負担を受 いのにね。 う制度的アイディアです。べーシックイけずにすむ「男」の立場からそれを考え ンカムは毎月支払われるからモラルハ たい。それは子供を産まない単身者や夫 親の愛が サードになりかねないけど、、、 ヘーシック婦にもあてはまるはずです。 呪縛にならない家族の形 一キャビタルなら自立的な人生設計になる柄谷行人は『倫理 ( 平凡社、一一〇〇〇 杉田さっきの白崎さんの話に出た、「シ はずだ、と。じゃあ、子供に元手があれ年 ) という本で、日本の資本・国家・共同 ングルマザーになるくらいなら、夫ば機会平等なのかと言うと、そうじゃな体の構造を変えるための理論を構想する にボコボコに殴られるのを我慢したほう 子育ての負担の問題がスルーされて時、親子関係への注目から始めています。 ー巻頭セッション労働と家族を問う一

10. フリーターズフリー 02号

一〇三万円の壁なんだけど。 葉なわけ。さらにもう一つ、「家族」は なんで労働問題で私がいつもイライ 話飛びます。無媒介に飛ぶ人だから男と女がいないとだめ。それもただ同居ライライラしてるかって言うと、労働問〇 ( 笑 ) してても出来上がらない。セックスがな題でかなり闘ったりいろんな差別問題に 家族、企業、国家っていう生田さんの いと出来上がらない。子供が生まれる生かなり闘っている人たちでも、この「家 話ですけど、家族の中のキー ハーソンか まれないは別で。だから労働問題として族」っていうところに入ってくると詰め 主婦なわけ。というか「主婦」 という一言のセックス。 が甘い。男の人でいえば、自分の奥さん 〔 3 〕国澤静子 ( くにさわ・しずこ ) 二九三五年生まれ。東京より長野県松本平に疎開。一一四歳で上京。結婚・出産後、千 葉市内の団地で消費者運動などに携わる。東京都東村山市に転居後、「主婦戦線」 ( 注 1 ) の活動をスタート。一九八五 一九八八年、信州大学経済学部客員講師。一九九一年から、日 < を相手どり パートの年休請求権の確認裁判を闘 、一九九九年勝訴。現在、「働く女性の全国センター (<OBCN) 」、「無年金者同盟」、「女性と貧困ネットワーク」、「ひ まわりの会」に参加。 〔 4 〕日本初リプ大会〕後に亜紀害房編集部編『性差別への告発ーーウーマンリプは主張する』 ( 一九七一年 ) として刊行。 司会は当時まだ無名の樋口恵子と小沢遼子。 〔 5 〕樋口恵子 ( ひぐち・けいこ ) 〕一九三一一年生まれ。東京大学文学部美学美術史学科卒業。在学中、同大新聞研究所で ジャーナリズムを研究。時事通信社、学習研究社、キヤノン株式会社を経て七一年、フリーの評論家となり、婦人、福 祉、教育の分野で活躍。「婦人問題懇話会」所属、「高齢社会をよくする女性の会」代表。「女性と仕事の未来館」館長。 〔 6 〕小沢遼子 ( おざわ・りようこ ) 〕一九三七年生まれ。評論家。一九六七年、埼玉べ平連を結成。その後、浦和市議会 議員・埼玉県議会議員を務める。ゥーマンリプ運動には勃興期から積極的に関わった。著書に「現代おんな考」 ( 桐島洋 子との共著、弘報出版、一九七一一年 ) など。現在はテレビ・ラジオなど多方面でコメンテーターを務める。 〔 7 〕伊藤雅子 ( いとう・まさこ ) 〕一九六一了九九年まで東京・国立市公民館に勤務。一九六五年より様々なテーマの女 性問題学習事業を、託児をともなった形式で行なう。その主な記録に『主婦とおんなーーー国立市公民館市民大学セミ ナーの記録」 ( 未来社、一九七三年 ) 。著書に「〔新版〕子どもからの自立』 ( 岩波現代文庫、二〇〇一年 ) など。 ー巻頭セッション労働と家族を問う一