レイプ - みる会図書館


検索対象: フリーターズフリー 02号
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1. フリーターズフリー 02号

様は、眠り姫の人格や過去の経験を何も知らない。眠り姫あろうとも、レイビストのファンタジーの中でのレイプの 9 ートナー ほうが、実際のレイプよりはずっとマシだということだ。 がどんな人間であろうとも、彼女を受け入れ、 とすると決めている。私は、レイプする〈攻〉と同化した仮にレイプ被害者が〈本当の私〉を獲得できていたら、ど ときにこそ、「理想的な私」を演じる。他者を無条件に愛し、んなに救われることだろう。これまで、フェミニストを中 て 受け入れる自己イメージを実現するのだ。〈受〉にとっての心に、男性のレイプ・ファンタジーが批判されてきた。し っ かし、レイプ・ファンタジーの残酷さは卑小なものにすぎ く口り、私の知らない私 〈攻〉は、私以上に私のことをよ矢 を愛する、超越的な存在として想像されている。 ず、実際のレイプの残酷さとは比べものにならない。問題一 夢物語と違い、実際のレイプではドラマは何も起きな は、レイプ・ファンタジーが女性差別に基づいていること タ ン レイプ被害において、被害者は〈本当の私〉などは獲ではなく、このようなファンタジーは実現できないという ア 得しない。一度奪われた自己の主体性は、被害が完了した ことだ。レイプによって被害者の「この私」を殺しても、〈本フ 瞬間に回復する。レイプ被害のもっとも残酷な点は、この当の私〉は出てこない。ただ、殺された「この私」の亡骸を的 瞬間がレイプ被害者に訪れることにある。しかし、現実化抱えて生きる被害者が出るだけだ。これは、「人を殺しても、 されたレイプこそが、「レイプされた後も主体であり続け復活しない」という、単純な事実である。 と この事実に、直観的に気付いていたからこそ、私は繰り ること」を実現する。レイプ被害後に、被害者は殺された はずの〈私〉に戻らなくてはならない。殺されたはずなの返しヤオイの虚構性の担保を確認しなければならなかっ れ た。レイプはファンタジーであって、実際には自分の身に 生きている「この私」として生きることは、幽霊とし さ 起きない。その安心感の中で、初めてレイプ・ファンタジー て生きることに似ている。〈私〉は何も変わっていない。た だ、私は〈私〉の死ぬ瞬間を見てしまい、その光景が脳裡で遊ぶことは可能になるのだ。なぜならば、私は「この私」イ レ を殺されたいというファンタジーは持っていたが、実際に から離れないのだ く。たとえ、どんなに卑劣で死にたかったわけではないからだ〔 4 〕。 ここで、奇妙なことに気づ

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ることが強調される。重要なのは、〈受〉に同化して、「私のか。私は、次の仮説をたてた。すなわち、女性の抑圧さ は快楽を得ている」と確認することである。その後、必ずれた欲望がレイプという形で表現されているのではなく、 。ヒロートークで、「さっきのセックスはレイプではなかっ レイプ・ファンタジーこそを女性は欲望しているのではな し、刀 た」という内容の会話が行われる。〈受〉は快楽を得ており、 て 〈攻〉とのセックスを楽しんだということを告白するのだ。 っ なぜ私はレイプ・ファンタジーを求めたのだろう。「女は 2 レイプによる瘉 ~ し、というファンタジ レイプされたがっている」という言説は、フェミニズムを レイプとは加害者が被害者の主体性を奪う行為である。 中心に否定されてきた。現在でも、女性のレイプ被圭暑は、 タ ン 「被害者もセックスを楽しんでいた」「男性加害者を誘惑し快楽と苦痛の支配権を加害者が握り、被害者は肉体だけで なく精神の自由も奪われる。「私が〇〇をする」という意志 て、レイプするようにしむけた」というような言説にしば 的 しば晒される。これらは、女性被害者のレイプ被害を矮小が剥奪されるのだ。意志のない存在になるということは、 性 化し、男性加圭暑を免罪するために用いられる。そこで、「女私という存在が、私のものでなくなり、「私が私である」 性がレイプ願望を持つ」という言説こそが、男性のレイプ・という感覚が奪われることである。レイプ被害者の多くは、 と レイプされている間の記憶を失ったり、被害中に自らの肉 ファンタジーの一部であると分析されてきた。 氾濫するヤオイの中で、レイプという性描写の形式が少体に起きていることを知覚できなかったりする。これまで、 れ 女たちによって消費されている。なぜ、対等なセックスをその現象は、「あまりにも現実が過酷だから、感じること さ 少女たちは求めないのだろうか。少女マンガには、男の子をやめてしまおう」という精神の防衛本能によるものだと と女の子が、話し合いながらセーファーセックスを行う作みなされてきた。しかし、私はこの現象は、次のことが原イ レ 因で起こると考えている。すなわち、単に「私が私である」 品もある。なぜ、描かれるセックスが一様にレイプだった 〔 2 〕野火ノビタ「やおい少女解剖学」「野火ノビタ批評全仕事総評』月光盗賊、一九九八年、一五八ページ

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もっ 8 る」と宣言するのだ。セックスが終われば、新たな〈私〉と 〈本当の私〉探しという言葉は、「この私」ではない、 なった〈受〉は、〈攻〉から独立した主体として存在する。 と素晴らしい「あるべき私」を求めることを指して使われ その結果、〈攻〉と良好な関係を築けるようになるのだ ( 第る。しかし、ここで私が指す〈本当の私〉とは、私すらも 三段階 ) 。 知らない〈私〉である。 これは、もっとも軽蔑されるレイビストのレイプ・ファ 〈本当の私〉とは、「正しい自己認識」とは異なるものだ。 ンタジーとまったく同じ展開である。すなわち、レイプさ認識できない、 という点において、その重要性が担保され そして、 れる者は、レイプされることを通して、レイプを欲してい ている。中身がわからないからこそ、知りたい。 た自らを発見し、「もっと犯して ! 」と叫ぶというファン この謎 ( ここそ真実があるように感じるのだ。人はわからな タジーである。ヤオイという形式を借りて変奏している いものに対して、さまざまな想像をめぐらせる。極端な理 ものの、私は欲望の中核にレイプ願望を持っている。私の想や、グロテスクなイメージも持つ。憧れとともに、不安 持っレイプ・ファンタジーは〈私〉殺しのファンタジーであを抱く。だが、〈本当の私〉は他者のみが知っている。そ る。それは、私は目の前にある「この私」を殺し、他者の こで、他者により、〈本当の私〉を引きずり出してほしい 中で「別の私」として生き直したいという願望である。「別と願うのだ。 の私」とは、「この私」を超えた〈本当の私〉としてイメージ そして、レイビストの側である〈攻〉に同一化したとき、 されている。つまり、私にとってのレイプ・ファンタジー その構図は逆転する。私は、他者のすべてを受け入れる立 とは、〈本当の私〉探しだったのだ。私は、あなたに殺さ場に立つ。私は〈受〉がどんなにもだえようとも、どんな れ、あなたの望む私として生き直したい、 という願望がレ過去を持っていようと、それを受け入れる。「眠り姫」は、 イプ・ファンタジーに重ねあわされている。注意しなけれレイプ・ファンタジーの寓話だという分析がなされてき ばならないのは、私は〈本当の私〉を、「理想的な私」とし た。しかし、「眠り姫」の寓話のポイントは、王子様は眠 て描いているわけではないことだ。心理学では、しばしばり姫の内実を知らないまま、キスしてしまうことだ。 王子

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しない。能動性と受動性は男性・女性という二項対立でそれらの「愛させる」という誘惑の技術のみを手に入れてし & れぞれに分担されるものではない。 ところが、社会的状況まった私は動揺した。まだ恋愛も知らない私にとって、こ は、「女」に「愛させる」技術を習得するように、強迫的なの技術は「愛される」ことの本質を冒涜する、「エデンのリ メッセージを送ってくる。髪を染めて、化粧をし、ダイエッ ンゴ」のように感じられた。誘惑の果実をかじったために、 トをして、媚びた笑顏を作るように勧めてくる。突然、こ楽園を追放され、「愛される」ことを失ったのではないか、 イ〕大澤真幸は、「自由の条件』 ( 講談社、一一〇〇八年 ) の中で、「なぜ、レイプはおぞましい犯罪なのか」という問いを立 てた。大澤は、レイプがほかの犯罪よりも残酷なのは、「性行為を望まない女性の意志に反する性行為を強いる暴力だ から」 ( 三九五ページ ) であるという、一般的な解答では説明しきれないとする。大澤は、お互いの意志に反さず、合意の 範囲でのみ行われるセックスは、相手の身体を利用した自慰にすぎないことを指摘する。そして、他者のコントロール 不可能性を担保するために、一男であれ、女であれ、人は性的な関係の中で、自分の意志に反するような形で相手に扱わ れることを、すなわち、〈他者〉に『暴力』的に扱われることを、欲してすらいる」 ( 三九六ページ ) と述べる。大澤の主張 は次である。 「われわれは、むしろ、次のように考えるべきではないか。人は酒在的に自身の身体が乱暴に扱われることを欲望してお り、まさにそれゆえにこそ、こうした潜在的な欲望を文字通りに実現したかのように装うレイプは - 層おぞましいのだ、 と。だから、レイプの悪、レイプの犯罪性は、一般の犯罪や違背行為とは反対側にある。一般の犯罪や違背行為は、被害 者の意志に反する行為と見なされる。それに対して、レイプは、ある意味において、被害者の潜在的な意志や欲望をそ のまま外的な現実の上に実現してしまうがゆえに、一層悲惨な犯罪を構成することになるのだ。」 ( 三九六ページ ) この「レイプという悪」について、スラヴォイ・ジジェクは映画「スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」 ( 一一〇 〇六年 ) の中で明らかにする。ジジェクは映画它アイレッスン』 ( ジェーン・カンピオン監督、一九九三年 ) の女性主人 公を引き合いに出す。彼女は、性暴力被害者である。そして、大量に暴力的なポルノグラフィを視聴している。彼女は セックスのパートナーに、自らが持っレイプ・ファンタジーを書き出し、実現するように求める。しかし、それが実現す ることこそが、彼女を致命的に傷つける。 ー「レイプされたい」という性的ファンタジーについて一

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感覚が消失したので、被害者の自己認識の能力がうまく作れ、一体化してしまうのだ。このファンタジーの中で、〈受〉 6 動しなくなったことである。レイプ被暑は恐怖や恥辱をに同一化した私は「〈攻〉に受け入れられている感覚」を味 感じる主体ですらなくなり、 加害者の一部に飲み込まれてわった。まさしく「すべての私を受け入れられている」と いくような感覚に陥る。レイプ被害者は、天井から眺めて いう感覚である。 いるように、自らの被害を語ることがある。これは、主体ヤオイで、レイプ・ファンタジーと同様に繁用されるモ 性を剥脱され、抜け殻になり宙に浮いて、ただ視点としてチーフに、「トラウマ理論」がある。〈受〉は過去に辛い体験 のみ存在するという、 被害者の自己イメージではないだろを持ち、心に秘めている。それがストーリ ーの中で暴露さ うか。レイプ被害者は、被害中の自己をただ眺めている。れるが、〈受〉は〈攻〉に受け入れられることで、傷を癒さ それは、殺された後に、自分の殺人現場をのぞいている幽れるのだ。「トラウマ理論」は、精神分析の中で構成されて 霊のようだ。 きた。〈攻〉は〈受〉にとって、精神分析家の役割を果たす。 この〈私〉の殺人こそが、私がレイプ・ファンタジーを求 ラカン派のフィリップ・ジュリアンは、精神分析の転移 める欲望の核心にある。私は、〈受〉に同一化してレイプの構造を、ラカンのテキストを用いて、解説している〔 3 〕。 されるときに、「私が私である」という感覚を手放そうと ジュリアンは、ラカンが「転移」 という言葉を時期によっ する。すべてを、〈攻〉にゆだね、私の支配権を引き渡す。て異なった使い方をしていることを指摘する。そのうえで、 私は「気持ちがいい」や「苦しい」という。 感覚さえも、〈攻〉ラカンの転移という用語の使用法は「転移とは分析家に対 の思うままにされ、自分のものとは思えなくなってい して分析者が感じる否定的、肯定的感情の総体である、と それは支配され、肉体だけでなく精神の自由も奪われるこ いう大雑把で単純な定義を転移に与えて満足することの拒 とだ。だが、同時に「私の意志」からは解放される。私は否」 ( 九七ページ ) という共通点があるという。ジュリアン もう、何も考えなくていいし、何もしなくて、 は、転移を語りかけの問題だとする。分析家が分析者に、 〈攻〉に身を任せていればいい。 そして、〈攻〉に飲み込ま真正かっ充溢したかたちで他者に語るときに、転移は起こ

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名詞『やおい』と、それを生産消費する少女たちを区別す〈攻〉が〈受〉を性的対象としてとらえていることが、両者 4 るためにこう呼びオし また、 % 才にもなって自らを少女に明らかになる。〈受〉は「俺は女ではない」と拒絶する。し と呼ぶのは、すでにこの論争で指摘されているとおり、『女かし、〈攻〉は〈受〉をレイプする。その中で、〈受〉は女役 制を受け入れることに失敗した』我々はある意味で女にな として扱われ、肉体を愛撫され、無理やり射精させられる。 る以前の永遠の少女であるからだ」〔 2 〕。野火は自らを「やさらに、〈攻〉はペニスを〈受〉の肛門に挿入しながら、愛 おい少女」だと定義し、精神分析の枠組みを用いて、ペニを告白する。〈受〉はだんだんと肛門性交で快楽を得るよう スを持たない「去勢された男」として自己の欲望を分析し になり、自らも〈攻〉を愛していることを熱情の中で告白 野火は、一般的に少女と呼ばれる十代の思春期を、物する。レイプが終わると、〈攻〉と〈受〉はビロートークの 理的年齢によって通過しても、なお少女に留まり「やおい」中で、愛を語り合う。 を求める愛好者たちを論じている。 私はヤオイに魅了された。まず、〈受〉に、自分を重ね 私は、この野火の「少女」というキーワードを引き継ぎ合わせた。私はヤオイのファンタジーの中で、思う存分に ながら、野火とは逆に少女を脱していった「元・やおい少レイプされた。無理やり衣服をはぎ取られ、抵抗するが、 女」として、ヤオイ論を書く。それは、ギクシャクしながねじ伏せられ犯された。そこに描かれるセックスが、リ らも女になっていったヤオイ少女を分析することである。 アルかどうか、刺激的であるかどうかは、重要ではなかっ た。そして、〈受〉は無理やり射精させられる。たとえそ こで快楽を得ていても、〈受〉に主体性はなく、責任はな 犯される快楽 すべてを〈攻〉にゆだねる。さらに、〈攻〉から挿入さ ヤオイのセックスシーンの典型的な形を抽出してみよれ、痛みの中で快楽に目覚めるストーリーが描かれる。そ う。ヤオイのセックスシーンは次のように描かれる。男らの快楽の描写は、決まり切っていて、記号的である。過剰 しい〈攻〉と女のような〈受〉は惹かれあっている。ある日、 なまでに、「快楽に溺れ、〈攻〉の挿入にあえぐ〈受〉」であ

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リ - タ - ズフリ おんなごときが権力と対峙する姿を肯定してもらうことはなかなか難しく、 その結果疎外されることはまれではない。それでも自分の権利を死守するために 立ちあがり、その声が汲み取られるまで叫び続ける ・松元千枝 / かっこいいおんなたちい 044P ) ワ働「結婚 = 安定」というのは、年々給料が上っていくという正社員モテルが ー、す機能していた時代の話。これからは主夫も主婦もたくましく生きるのた ・増山麗奈 / 突撃母ちゃんのサバイバル道場い 106P ) 離婚して結婚生活の表も裏も見たいまとなっては グわ 笑い話のような気分だが、当時は「恋愛」→結婚」という マな ロマンチック・ラブ路線になんの疑問も抱いていなかった気がする ガい ・森岡正博 / 「モテないという意識」を哲学するい 143P ) ジ Freeter& Free 2 子どもの頃透明人間になりたかった / 大人になって 透明人間になっちゃった■壱花花↑ 089 て ) 今でも困ると「女問題」でしよ。多分、今はネタに困れば「賞困問題」。 困問題をやっていれば痛くもかゆくもないんですよ ■国澤静子 / 巻頭セッション↑ 0 一 0p ) 私はレイプ・ファンタジーによって、『この私」の一女」性を 否定した向こっ側に、〈本当の私〉を見出そうとした ■小松原織香 / 「レイプされたい」という性的ファンタジーについて ( ↓一 52P ) 母子寮は四畳半一間で風呂はないし、トイレは共同。 電話は引かせてもらえない。手紙の宛名もチェックされているし、 一ここはアウシュビッツと同じだ」と感じました ■白崎朝子 / 巻頭セッション↑ 0 一 op ) 共有財産を持っというのは、原点としては聖書に書かれているをすよね。 持ち物を足元において分配したというのがもともとの原点で ・べリス・メルセス宣教修道女会 ( ↓ 074e O O フ フリ - タ - ズ 2008

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というような不安に襲われた。そして、その技術が自分にの私」の「女」性を否定した向こう側に、〈本当の私〉を見出 ) 備わっていることを、自らが「女」であることと結び付けそうとした。 てしまったのだ。私は、原罪を背負った「女」である「この 私はこの「女」と「男たち」というカテゴリーの意味体系 私」を殺し、他者を誘惑することのない、〈本当の私〉としを崩すために、時間を要した。成長するにつれて、私は、 て復活することを求めた。 年上の女性として実際に生きる人たちの姿を目にした。彼 私が経験した「愛させる」技術への戸惑いを、多くの少女らは、必ずしも、「愛させる技術」だけを使って恋愛関 女たちは抱えていたように見える。たとえば、私と同世代係を作っているわけではない。男性として生きていながら、 の少女たちは「援助交際」と呼ばれる売春を行った。これ「愛させる技術」を駆使し、そのことに自己嫌悪を抱いて は、「愛させる」技術を肯定し、「男たち」のまなざしを積いる人たちとも出会った。また、フェミニズムの理論を読 極的にコントロールしていった形跡をしめす。また、リ 男のむことで、ジェンダー・カテゴリーの意味体系は、変容可 少女たちは、コスプレ少女やゴスロリ少女となり、仮装能であることを知った。こうして、私は自分の原罪意識を で覆って〈本当の私〉を隠してしまうことで、「男たち」の薄めていき、「女」である「この私」と共存していくことを まなざしに対抗していった。ヤオイ少女の私が選んだの選んだ。私はもう、レイプされることで、〈本当の私〉と は「この私」の「女」の部分を消すことだった。ヤオイでは、 して復活することは望んでいない。 私にとって、ヤオイとは、少女から女性へと成長する段 〈受〉が男として描かれている。しかし、これは「男」性を 求めているのではなく、単なる「女でない」という意味を階に必要な、性の教材だった。それは、異性愛制度に参入し、 象徴化した記号である。だから、ペニスに興味は示されず、男と愛し合うへテロセクシュアル女性になるための、イニ 長いまっげやきやしゃな体といった「女」っぽい形状を持シェーションの役割を果たした。 という「非女」として描か ちながら、「女」性を持たない、 れているのだ。私はレイプ・ファンタジーによって、「こ

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るのだ。これは、「主体が自らの承認されていなかった部する。自らが何を欲しているのかを、語り出すのだ。その 7 とき、分析者は分析家と分離し、〈本当の私〉を獲得する。 分ー・ーー自らの歴史の空白の頁、検閲された章、排除された こうして、分析家が分析者に新しい〈私〉を与え自立させ ()e ョ orfen ) 断片ーーーにおいて承認される」 ( 一〇一ページ ) ために起きる転移である。そして、これらの転移の原動力ることで、転移は完了する。 て このように、精神分析では、分析家が患者に、面接の中 は感情ではなく、「分析家は返答してくれる」という分析 っ 家への信頼にあると説明される。ジュリアンは次のようにで〈本当の私〉を与える。同様に、ヤオイのレイプ・ファン タジーでは、〈攻〉が〈受〉に〈本当の私〉を与える。それは、 述べる。「ラカンの一九五三年以降の、転移のこの新しい ジ 定義は重要である。それによると転移は分析の障害ではな〈攻〉を愛し、セックスに溺れる〈本当の受〉であるという タ ン 解釈をするのだ。〈攻〉の分析はこうだ。〈受〉は〈攻〉とセッ 、分析に繋がる道である。」 ( 一〇一ページ ) ア 精神分析における転移は三段階を持つ。第一段階では、 クスをして快楽を得たかった。しかしその欲望は「男同士フ 分析者は分析家の解釈を受け入れ、「分析家は〈私〉を求めだから」という理由で抑圧されている。抑圧された欲望を的 ている」と認識する。そのことで転移への原動力となる分〈攻〉は察知して先取りし、無理やりセックス 7 レイプ ) し 析家への信頼が生まれる。第二段階では、分析者は分析家てやるのだ。〈受〉は、その〈攻〉の解釈を受け入れる ( 第一 と と同一化しようとする。分析家の解釈に、みずからを添わ段階 ) 。そして、〈受〉は〈受〉自身が気づいていなかったよ せ、それこそが〈本当の私〉であるとする。これがいわゆうな、〈攻〉とのセックスを望んでいる〈受〉こそが、〈本当 れ る転移である。第三段階では、分析者は自らが、分析家にの私〉だとする ( 第二段階 ) 。さらに、〈受〉は快楽に目覚め、 同一化しようとする欲望があることを、第三者の前で公言自ら〈攻〉に肛門性交を求める。そして「私は〈攻〉を欲すプ イ レ ラカン入門」 ( 向井雅明訳、誠信書房、一一〇〇二年 ) は、ラカ 〔 3 〕フィリップ・ジュリアン「ラカン、フロイトへの回帰 ンの精神分析の解説書となっている。ラカンはプラトン『饗宴』を分析する中で、転移の構造を明らかにした。私は、こ のラカンの議論を理解するにあたって、ジュリアンの解説を手掛かりにした。

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巻頭言 巻頭セッション労働と家族を問う 国澤静子 x 白崎朝子 x 村上潔 x 生田武志 x 大澤信亮 x 栗田隆子 x 杉田俊介 0 一 0 かっこいいおんなたち松元千枝 044 女性と貧困ネットワーク栗田隆子 0 きちんと食べていける働き方へワーカーズ・コレクティブ座談会 000 共に暮らすということべリス・メルセス宣教修道女会第四修道院聞き手Ⅱ栗田隆子ミ 協同労働と書籍流通のオルタナテイプのためにワーカーズコープアスラン座談会邑 突撃母ちゃんのサバイバル道場増山麗奈一 06 「モテないという 意識」を哲学する森岡正博一 43 「レイプされたい」という性的ファンタジーについて小松原織香一 5 ~ 触発する悪ーーー男性暴力 x 女性暴力大澤信亮支 性暴力についてのノート杉田俊介 179 女性の労働、女性的労働 そして ZLLO ( Non ー FamiIy 0 「 ga 三 za →一 0 三 性暴力 表紙・扉イラスト ( 089.142.196 , 210P ) : 壱花花