残ったんですよ。競り合ったけど落合恵病しながら仕事に行く けで精一杯でし母子家庭ってホームレスの男の人達を生 美子さんの「世紀家族へ』 ( 有斐閣 ) が 九四年くらいから、不況で、児童扶産しちゃうの ? 」と思ったら、本当に苦〇 受賞した。あの時は本当に悔しくて。 養手当削減の攻勢がすごくなってきた。 しかったです。新宿では「新宿連絡会」 国澤選考委員ってみんな嬢ちゃん・ば仕事の合間に、当時メールもないからや「スープの会」があり、私は「スープの あちゃんですからね。最近、必要があっ ファックスでやりとりして、最終的にシ会」で四年間夜回りに参加しました。た てフェミ系の学会やシンボに行きますけ ングルマザーの生活相談とか精神的な相まに新宿連絡会に衣料やお金をカンパし 彼女たちなりに努力してそのポジ談なんかを、個人的にけっこうやって、 てきました。母子家庭や戦争という自分 ションに就いたのはわかる。でも、自分へとへとな状態でした。九弋年頁・こっこ ノヒオオのテーマと、ホームレス問題との絡みを の努力に目がくらんで、階層的犯罪性をかな、大雪の降った真冬に厚労省と交渉考えながら、ひたすらお味噌汁や衣料を 関知できないのよ。 したりして一段落した時、「しんぐるま配っていました。 白物まだ息子が四つか五つのワンパクざあず・ふおーらむ」からは完全撤退し それで話が最初に戻るけど、第三号被 盛りのときに、育児・家事の合間を縫っました。身心を立て直したかった。職場保険者制度が問題なんですよ。シングル て編集してーー休職中だから出来たけれでもいろいろあって、体調が最悪で九九マザーの立場から見ればこの「第三号被 休職してなかったら絶対出来なかっ年に公務員も辞めました。 保険者」や二〇三万の壁」のせいで、夫 ーー編集メンバーはお金も貰えず、生 とうまくいってた時はいいけど、暴力を 専業主婦への優遇政策ど 活の合間を縫って編集し、当事者たちが 振るわれたり、何かあって離婚せざるを シングルマザー 執筆したにもかかわらず、大学から年収 得ないときに、ボコボコにされても離婚 九〇〇万とか一〇〇〇万とか貰って、研白崎その後一一〇〇一年にホームレスのはできないという状態が生まれるんで 究としてやってる人に賞がいく 。「絶対おじさん、おばさん達と出会って。たます。離婚して母子家庭になるくらいだっ におかしい ! 」って怒ってました。それたま私が出会った多くの人が母子家庭のたら、を受けても我慢した方がいい が忘れられないんですよ。 出身者たったの。野宿者に自分の息子のと言う当事者も結構いました。九三、四 職場に復帰したあとは、とにかく闘将来を重ねてしまった。「もしかしたら年でも、それくらい母子家庭は惨めな ー巻頭セッション労働と家族を問う一
き必然的に家庭ー家族制度への疑問が改めて生じました。とりわけ家族のなかの「女性役割」を 巡る情況のなかに、種々の「しごと」が安く買い叩かれるという現在のフリーターの歩みを、女 性達はまさに「女性」 という枠組みの中で、自明のもとして刻み込まれてきたのでした。 フリーターズフリーが「家族」を問おうとした際に用いた概念は、 ZgæO という言葉でした。 これは生田武志が『フリーターズフリー』 1 号内の論文、「フリーター 訓ニート非ホームレス」で ども・ん 用いた造語で、 Non ・ FamiIy Organization の略です。現在の社会は国家ー企業ー家族の三つ巴で 成り立っ構造であるゆえに、オルタナテイプを考えるにはそれぞれに代わるものが必要である。 行政の代替としての ZOO 、企業の代替としてのが成長しつつある。そうであれば家族の 代替機能をもっ機関としての ZæO が必要となり、それらの Z ( + + ) 0 が協力し合う中で はじめて真のオルタナテイプな社会が形成されうるであろう、と。 ォルタナテイプーーーっまりはもうひとつの世界の可能性。主婦たちの生協活動からスタートし たワーカーズ・コレクテイプ、倒産争議からスタートしたワーカーズ・コープ、無賃労働からス タートし、現在岐路に立っ修道院等々わたしたちは実際に「もうひとつの世界」への息吹が感じら れる場所に足を運び、話を聞きに行きました。矛盾を常に孕みつつも、ダイナミズム溢れる活動 に関してはぜひ手にとってお読みいただけたら幸いです。わたしたち自身にとっても対談はつね に「発見と出会い」の場でありました。そのダイナミズムをぜひ皆様と分かち合えれば幸いです。 更に、家族を問う姿勢のなかで必然的に現れるのは「性」の問題でした。 〇〇 7 ーフリーターズフリーふたたびー
べリス・メルセス宣教修道女会 第四修道院インタビュー とい、・つ」と zo-O や zoo があるならば、 zcO もあるべきだ、という本誌 1 号での生 田論文を読んだときに真っ先に思いついた一つがシスター達の生活の仕方血縁や婚姻ではない共同体 「シスター」になったきっかけ だった。それは家族機能のオルタナティブというより単純に他人同士が住 んでいるという「家族」のオルタナティブとしての一つの姿だと思った。 栗田本号の特集の一つに「女性の労 とはいえ現在の修道院を襲う事態は、まさに社会の現実そのものだ。修道 働・女性的労働・そして ZgæO ( Non ー 会 ( 修道院 ) への入会者数減少、急激な修道会内の高齢化、それに伴い修 Family 0 「 gan ation ) 」というテーマがあ 道会の経済を支えてきた学校運営の困難。つまり、決してここはユートピります。フリーターの働き方を突き詰め アではない。しかしそれでも現在日本にあって、家族以外の人間が共に住ると、例えば女性が担うとされてきた労 み、共有の財産で生きているという一つの具体的なオルタナティブではあ働、家事的な労働や介護の仕事が多いこ とに気づきます。つまり単純労働でかっ る。修道院・修道女というとお堅いイメージがあるかもしれないが実にざっ サービス労働が多いこと、さらにケア労 くばらんな雰囲気の中でインタビューは進められた。 働の担い手も増えていることを考える と、家事的な労働、ときには生命を支え 荒川佳世子 日井ふみよ 木ロ明子 間範子 真神シゲ 松田延代聞き手【果田第子
現実には、女性労働のマジョリティは昔も今も不安定就労う面があるからです。同様に、不安定就労 ( フリーター ) は、 3 で低賃金そのものでした。いわば、今まで不安定就労を女「労働からの排除」であると同時に、労働者にとって抑圧 2 性に任せてきた社会が、それが高卒や大卒の男性に降りか的な「従来型の労働形態」からの脱出という面があります。 かってはじめてそれを「社会問題」として捉え始めたわけ同様に、「健康」と「障がい」とは、「排除」という言葉では 語ることのできない面があります。その意味で、これらは です。したがって、ジェンダー問題へのアプローチのない 不安定就労問題への提言や解決策は、事実上ほぼ無効であカッコつきなのです。「労働」「家族」「健康」とは何か、とい - フ日旧いカそこにあるからです ると思います。 さて、この図にあるように、最初は仕事があって家もあ本来、こうしたトラブルがあっても階段から落ちないよ うに、「網」が張ってあるはずです。これを「セーフティネッ る人が、何かのトラブルで「低収入」「貧困」になっていき ます。 ト」と言います。しかし、現在、それがボロポロになって、 いくつもの要因がありますが、ここでは「家族から の排除」「健康からの排除」「仕事からの排除」「住居からの図のようにどんどんそこから人が落ちているわけです。 ・カ このセーフティネットの「空洞化」「綻び」に入り込んだ 排除」「金銭からの排除」を挙げました。 る え そして、これらは相互に関連しています。例えば、「病のが、貧困につけ入り貧困を再生する「貧困ビジネス」で 気や事故によって仕事を失う」「仕事を失ったことによっす。例えば、失業して雇用保険が十分に機能しない場合、「兄 ど て家族と別れる」「家族と別れることによって仕事を失う」ちゃん、仕事行こか」と声をかけて劣悪な労働宿舎に誘う を 「駅手配」、さらにはグッドウイルやフルキャストといった 「仕事を失うことによって住居を失う」 困 ここで「『家族』からの排除・脱出」とあります。これは「人材派遣業者」が発生します。また、住居のないひとに の は「ドヤ」「ネットカフェ」「ゼロゼロ物件」、生活保護を受 「しんぐるまざあずふおーらむ・関西」の方から指摘された 限 けられない 人には「消費者金融」、そして野宿者をスカウ極 ことですが、「離婚」「 ( による家出など ) 」は、「排除」と トして生活保護を取って保護費をビンハネする「悪徳生活 いうより、女性にとって抑圧的な「家族」からの脱出とい
たとえば連合赤軍事件などの社会的なで呪縛する、というねじれです。そしてントは「他者を手段としてのみならず目 4 事件が起こると、日本では親が謝罪した子供を呪縛することで自らも呪縛されて的として扱え」と倫理を定義したけど、 いく。その相互呪縛的な家族構造の物質特に日本の場合は、それを親子関係に適 り自殺したりするんですね。それは他の 国では必ずしも自明ではない。 成人した的根拠は何だろう。たとえばぼくは、子用することが大事ではないか。子が親に 子の責任を取ってなぜ親が自殺しなけれへの遺産相続への欲求こそが親の最大の対して「産んでもらったんだから何でも ばならないのか。それはやりきれなかっ私的所有の論理であり、それは日本の場感謝すべき」と感じるのでもなく、逆に 幼女を連続殺害した宮崎動の事件合戸籍の問題とも地続きだと思う。日本親が子に対して「産んでしまったんだか 脳性マヒ者協会「青い芝の会」も親の愛ら何がなんでも責任を取らないと」と引 でも、家族が離散して行方不明になった け目を感じるのでもなく。今はどちら側 家族の愛は否定しな り、お姉さんの婚約が破棄になったりしを否定したけど、 ている。家族が連帯責任を強いられるんかったんです。家族という不如意な関係も根本的な贈与への負担感を強いられて しまっている : ですね。生田さんもイラクの日本人人質の意味自体は否定していない。ならば、 事件の時の「自己責任論」を分析してい親の愛が呪縛にならない形での家族の形 共同保育は ますが、あれは「口実としての自己責任とは何なのか 「育児の社会化」か ? たとえば、父親は国や会社のために滅 論」のみならず「口実としての家族責任 論」だったと思うんです。親がバッシン私奉公して、母親は家事・育児・介護な大澤そういう負い目を感じさせない出 グされた。子供の責任を背負って死ぬ親どの不払い労働のために滅私奉公を強い産が、もしかしたら社会化された育児な のかもしれないけど、それは誰かが別の は、ある意味で心中しているのかもしれられる。それは「子供のため」とされる。 という話ではな 母親が障害児を殺したあとに自殺でも、両親が「子供のため」に滅私奉公ところで育てればいい、 亠 9 っ 0 しょ , フに。 する形で育てられたら、子供の意識は歪 杉田そう。たとえばリプを含め共同保 柄谷が言うのは、日本の親は「—しろ」むでしよう。親みたいな人生は送りたく という命令で呪縛するんじゃなくて、「あないって。もしくは、無条件の贈与を受育の実践や歴史がある。でも、共同保育 けたという返済不能な負担感が募る。力が育児の社会化の解であるかといえば、 なたのためだから—しないで」という形
たちが崩してきたわけですね。もう会教育の理想を実現していた。行政や社会 9 子供会議的なものとも関わるけど、それ だけじゃないよね。「子供に価値観を植社はいやだ、主婦はいやだ、学校はいやが介入しないと、子どもが学校にも行け〇 だと。ただし他方で、それは社会の側が ないし下手したらご飯も食べられないと え付ける啓蒙じゃなく、子供が自発的に いう現中大があるから。ばくよ、 議論も、追い出しているということでもある。オ ー近い将来、 成長できる環境整備を」という一 ルタナデイプな像をつくり出せていない 同じような学校が全国的に必要になって なんか弱い。子供のポテンシャルを甘く くると思います。 見ているだろう。もちろん、子供の主体からです。その中で、一番ワリを食うの たとえば両親がフリーターの父母の場 性の有無については、性的自己決定権やは、やつばり子供だと思うんですよ。た とえば最近は子どもの貧困が話題になり 合、日雇い労働者の家族で起こってきた 性交可能年齢もふくめて、さらに様々な ことと同じ事がすぐ生じるでしよう。も 「子供には何歳から ます。釜ヶ崎は子どもの貧困が凄いとこ 議論がある。ただ、 議論ろです。西成区には学校へ行っていない 自己決定権を認めるべきか」という一 しォルタナテイプな仕事・家族・学校の ーししオんです。お父さん実現がうまくいかない場合、子供たちの 自体が、子供のリプ性を抹消しているの子どもがいつま、、こ かもしれない ( ぼくはこの辺は同時に が日雇い労働で飯場へ行って帰ってこな貧困はますます深刻化するでしよう。子 知的障害者や発達障圭暑の人と重ね合わ お母さんは家出してどこへ行ったか育ての社会化の話は、現実問題として、 せているのですが ) 。 わからない、その子は弟の面倒を見ない あいりん小中学校のような話だと思うん といけないから学校へはいけません、とですよ。 家族ど育児の かね。一九六〇年代から始まって八六年先ほど柄谷行人の名前が出ました 新たなモデルに向けて に廃校になったあいりん小中学校には、 が、彼は二〇〇〇年に「 Z (New ケースワーカーが釜ヶ崎を自転車で回っ Associationist Movement) 」という運動 生田男の場合は会社しか社会がなく、 女の人の場合は家族が社会になってしまて、学校へ行っていない子どもを見つけを始めた。資本・国家・共同体との闘争 を目指したんだけど、テーゼがなぜか う。子供はどうかというと、学校しか知ると、親と話をつけて学校へ通わせてい らない。そういう構造が続いてきた。で 。学校で朝食も昼食も出るんです。教「資本と国家への対抗運動」となってい もいまはそれが崩れてきている。当人科書も無料。つまり、ある意味では義務て、やはり家族の問題は詰められていな ー巻頭セッション労働と家族を問う一
リーが増殖しつつあると思うのですが、 がマシだ」という話が気になっているん いるから。するとそもそも「育児の社会 でもそれは Z;æO 的なものじゃない。人です。そこには母子家庭になること〈の化」って何だろう。保育園や学童保育を〇 材として使える子供を女に産ませればい 恐怖感と、否定的な意識があるわけです含めて、託児所的な場所をガンガン増や 、と女性を利用している。しかも第一一一よね。女性が女性を否定するような。前して、お金を払ってそれをサービス利用 世界の女性に に白崎さんに聞いたのは、自分が母子寮すればいいのか。違うと思う。ぼくの感 国澤以前に東北の方に外国の女性たちで暮らしていた時、男性よりも女性たち覚では、家族や子供は、選ぶもの、夫婦 が嫁に来たでしよ。その人たちは、そのからの風当たりが厳しかった、って。そ間たけで決められるものではなくて、産 後離婚したり受けたりした。私は百れはどういうことなんだろう。 まれてくるもの、到来するものだと思 貨店でも仕事しているからそういう家 日本は、子供への社会保障が、先進 う。視点を逆転しないとダメではないの 族をいつばい見るけど、可哀そう。自分国の中では低いほうですよね。企業福祉か。実際、難民キャンプや知的障害者家 の墓がない。日本にずっといられるとは と家族福祉が見込まれている。べーシッ族、あるいは北海道の「べてるの家」の 期待していない。 子供を産む機械としクインカムの話がありますが、英米では ような精神障圭暑の共同体でも子供はど て連れて来られたわけ。「学者」なら外国べーシックキャビタルという - 議論もありんどん産まれる。そこから男女の恋愛や へ「セックス・ワーカー」の調査に行かな ます。要するに、すべての子供に、成長セックスの意味を考え直せないか。正確 くっても、現実を日本国内で調べればい に必要な元手 ( 資本 ) を分配する、とい には、妊娠・出産・中絶の真の負担を受 いのにね。 う制度的アイディアです。べーシックイけずにすむ「男」の立場からそれを考え ンカムは毎月支払われるからモラルハ たい。それは子供を産まない単身者や夫 親の愛が サードになりかねないけど、、、 ヘーシック婦にもあてはまるはずです。 呪縛にならない家族の形 一キャビタルなら自立的な人生設計になる柄谷行人は『倫理 ( 平凡社、一一〇〇〇 杉田さっきの白崎さんの話に出た、「シ はずだ、と。じゃあ、子供に元手があれ年 ) という本で、日本の資本・国家・共同 ングルマザーになるくらいなら、夫ば機会平等なのかと言うと、そうじゃな体の構造を変えるための理論を構想する にボコボコに殴られるのを我慢したほう 子育ての負担の問題がスルーされて時、親子関係への注目から始めています。 ー巻頭セッション労働と家族を問う一
てもそうであったように 個人の意志とは無関係に労働育児や家事を促す試みでしかなく、社会構造自体を間うと 3 いう議論にはならない。男性の側が見限られているのかも カ商品の需給という資本の論理によって遂行される。その ような現実に対して、「女性の「労働」参加は、「労働」の意しれないが、そのような「協力」は、女性側の負担を男性 味のつくり変えを、不可避的に要請する」という上野の言に個人的・心理的に分担させることで、結果的に、社会構 葉を徹底するならば、それは「労働力商品」と「私的所有」造の維持に加担することになるだろう。そうではない。私 という、想像するが想うのはより積極的な方向である。そもそも男性性や女 をベースにした労働とはべつの「労働」 性性がイデオロギーだとすれば、それを無批判に延長して ことさえ困難な労働の形態を模索するほかなくなる。 困難はそれだけではない。家族という空間が「労働力商普遍化を目指すべきではなく、必要なのはむしろ、目の前 品」Ⅱ「子供」の再生産の場としてある以上、女性は男性の にある自らの現実を、つまり、男性が男性性を、女性が女カ 支配性を一方的に糾弾することはできない。それが生き延性性を、それぞれの他者の力を借りて揚棄する実践ではな暴 びるための手段であったとしてもーーーこれは男性における いのか。たとえば、男性が男性的とされる賃労働の揚棄を 賃労働も同じであるーー資本制の回転に貢献しつつ自らの行い、女性が女性的とされる家事労働の揚棄を行うという カ 私的所有を確保しているのは事実なのだから。もちろん、それぞれの実践が、協力的に実行できないだろうか。単な 暴 そのような現実に対して、男性と同等の社会的状況を獲得る役割の放棄でも交換でもない。互いに痛みを伴う作業と 男 した上で、その揚棄を目指す実践もある。あるいは、女性して。そのとき、権利でも差別でもなく、足元にある「問い」 運動の歴史に無数にあったように、共同保育や共同生活とが自らの心臓に食い込んでくる。 る いったオルタナテイプを模索する方向もあり得る。しかし、 す たとえば、家族の構成原理が「愛」であるとは、どうい いずれにせよ気になるのは、それらが男性を関与させない 発 , フ′」 OJ 、刀 という感覚を共有しているように見えることだ。 その一方で、いわゆる「男女共同参画」の多くは、夫の
う回路を超えるものを信じたということ 牧野カッコ〔 19 8 3 〕「働く母親と育児 4 である。その信仰から、家族の可能性を文献 不安」、↓『家庭教育研究所』 Z 。・ 4 したとい - フことである。さらに 押し開、 〕「孕ませる性と孕む デリダ〔 2 0 01 〕『パビエ・マシン』、宮地尚子〔 19 9 8 いえば、そんな存在が社会の価値や生産中山一兀訳、ちくま文庫 性ーー避妊責任の実体化の可能性を探 性を減退させず、むしろそこから社会がデリダ〔 2001b 〕「タイプライターのる」、↓『現代文明学研究』第 1 号 1 9. 8 8 〕「姥捨山問題」、 未曾有の地平へと改変されること、様々リポン有限責任会社Ⅱ」、↓デリダ森岡正博〔 っ ~ 0 0 1 な人々を巻き込んで、 しくたろうことを〔 h ( 、、・第 v.. = f ミ d 一 0 、一 p 、 ub u h 印】 無意識であれ信じぬいたことが凄いの堀田義太郎〔 2 0 0 7 0 3 〕『無痛文明論』、トラ 〕「優生学と森岡正博〔 2003 だ ( この場合の「信じる」とは、特定の信ジェンダー リべラリズム・家族・ケンスビュー 念の自己絶対化ではなく、不信や疑いやア」、↓大越 + 伊桁編〔 2007 〕『脱暴力森岡正博〔 200804 〕「膣内射精性暴力 躓きのジグザグを通して信が鍛えられてへのマトリックス』、青弓社 論の射程【男性学から見たセクシュアリ いくプロセス自体を指す ) 。そして、そ深見史〔 1975 〕「産の中間総括」、↓井ティと倫理」、↓『倫理学研究』第号 森崎和江〔 1965 〕『第三の性ーーーはる れらを当たり前としか思っていないこと上 + 上野 + 江原編〔 1994 〕 が。イエスはいない。しかしイエスはい井上輝子 + 上野千鶴子 + 江原由美子編かなるエロス』、河出文庫 る。どこにでも。ポテンシャルの開花が〔 1994 〕『日本のフェミニズム①リプ中村正夫〔 2003 〕『男たちの脱暴力ー 不可能に思われる存在がポテンシャルをとフェミニズム』、岩波書店 ー克服プログラムの現場から』、朝 開花させていくこと、それが間接的に伝和泉広恵〔 2006 〕『里親とは何か 日選書 2 0 0 ・ 6 播し翻訳されていくこと。それは既存の家族する時代の社会学』、勁草書房 西村光子〔 〕『女 ( リプ ) たちの共 家族のあり方を変えてい 。「わが子の町野美和 + 敦賀美奈子〔 1990 〕「あら同体 ( コレクテイプ ) ーーー七〇年代ゥーマ ため」という究極の私的所有すら崩す。のゆる女はレズビアンになれる、もしあな ンリプを再読する』、社会評論社 1 9. 「 / たが望むなら」、↓井上 + 上野 + 江原編沼崎一郎〔 〕「〈孕ませる性〉の自 19 ・ 9. 4 己責任ーー中絶・避妊から問う男の性倫
を作るとはど - フい , フことなのかとい , フ、 社会に発破をかけたスローガンがありま社長で経団連名誉会長の奥田碩は、「第 すごいシンプルな問いなんだけど、それすよね。それは、国家に産めと言われる三世界から若い男性を労働力として入〇 を考える必要がある気がしています。男わけじゃなく、女性の決定だと主張するれよう」みたいな話をする。家族が壊れ 女がペアになって子供を育てるという家意味では重要なんだけど、ただ、私自身、て、分断化して、そこで自然に次の新し 族観のオルタナテイプを持てないと、結現在産まない選択をしてるわけじゃない い家族形態が生まれるかというと、じっ はわからない。 局は近代的な家族関係を再生産してしまですか。でも私自身がそういう呪縛とか、 海外から入ってきた家族 うし、それは上野さんが言うように資本近代家族の影響下から逃れた上で選んでを形成できない個別的な労働力が周囲に ー、つ 0 、刀要」、し - っ・し」 制とうまく結びついているので、資本制 絶対にそ , フじゃない。 あって、そこに日・本人のフリーター的な を肯定することにもなるわけですよね。 大袈裟に言うと、たた 」近代家族の枠から労働力も混じっていて、しかし、中流と 一外れないがために産まないんですよ。産 いうか、あるレベル以上のところでは相 私たちは近代家族から んでないから近代家族から離れられるの変わらず近代家族の再生産がなされると 脱出しえているのか ? かというと、そんな甘いもんでもないん いうか。栗田さんが目の当たりにしてい 栗田私が『フリーターズフリー』を出ですよ。私はリスクを避けているだけでる、正社員で子供もたくさんいて、 してこの一年で感じてきたことは、私はあって、それ以上でもそれ以下でもない トナーも相応のお金を稼いでいるという いまひとり暮らしなんだけど、では、近んです。 ような。そういう二層が出来る気がする。 代家族を脱出しているかというと、とん大澤さっき国澤さんが、自分たちの子生田資本制と家族の問題の場合、一方 でもないわけですよ。なぜそれが身を供の世代や、それ以降の世代は、いままで日本の特殊性もあるでしよう。先ほど もって分かったかというと、例えば、私でのような家族のかたちは壊れているだ 男性も女性も日本のフリーターには危機 が今から子供を産もうかと思ったときろうと仰ってましたが、ただ、 家族の形感がない、 という話がありましたが、こ に、産めないわけです。いまの私が子供成に資本の論理が貫徹している部分もあれはかなり日本独特の現象だと思う。フ を産むということがあり得ない。「産むるでしよう。資本が回転するためには労ランスでは若者の労働規制に反対して暴 産まないは私が決める」というリプの男働力が必要ですよね。たとえば元トヨタ動が起こったし、他でも様々な運動が起 ー巻頭セッション労働と家族を問う一