365 海軍がかくもはやく動くとはっゅ知らなかった彼の考えでは、南米大西洋岸においても彼の戦隊 に匹敵する英海軍兵力は無いはずであった。それに彼の戦隊はあてどない洋上の漂浪生活すでに 久しかった。ねぐらのない彼らにとって、フォークランド島は有力な給炭施設もあれば食糧工場 もあった。その上ここを拠点とするならば、大西洋側のイギリス海上通商量は太平洋側とはケタ ちがいに多いのである。同島の奪取を彼が意図したのも無理はなかった。 フォン・シュペー艦隊がはるばる喜望峰沖を迂回して大西洋に出、同島に迫ったのは一二月八 日の朝だった。おりから英艦隊はなお給炭中であったが、有力な艦はいないと思っていたドイツ 側の眼に映じたのは、港内の二隻の三脚檣の巨艦であった。三脚檣こそはドレッドノート以後の イギリス主力艦のシンポルである。南無三とフォン・シュペーは反転遁走に転じた。 英艦隊はなお給炭を完了していなかったが、急ぎ打切り汽醸して急拠出撃した。追うは二六ノ ットの一二インチ砲艦、追われるは二三ノットの八インチ砲艦でしかない。競争にはならなかっ た。午後一時近くにドイツ艦はイギリス艦の一二インチ砲の射程内に入ってしまったのである。 悲壮な信号がフォン・シュペーからドイツ巡洋艦たちに送られた。装甲巡二隻で敵の攻撃の矢 面に立つから、全力をつくして逃げきれというのである。しかし砲戦は勝負にならなかった。全 くのアウトレンジ攻撃となったからだった。一二インチ砲と八インチ砲とでは射程が格段にちが 。後年のこのラ。フラタ海戦とこの点では彼我の砲威力まさに逆であった。コロネル沖海戦とは 全く立場が逆の一方的な砲戦がここでもまた現出した。 片舷全砲が沈黙するや、反転をもって反対舷の砲をもって戦い続け、魚雷攻撃まで企てたシュ ペーの主力二隻であったが、イギリス巡戦には歯がたたず、一矢も報い得ぬまま相いついで悲運 の提督と共に沈み去った。提督の名を冠した装甲艦がラブラタ沖に果てたのと、奇しくも暦の上
かくてラゾラタ海戦ははしまったのである。 註 1 英艦よりもずっと高い前檣楼をもっていたグラフ・シ = ペ 1 では、その上からの視界がどの 英艦よりもはるかに広かったので、この先制発見となったのである。 註 2 見張りの任務では全周の水平線を艦首方向の〇度からはじまって艦尾方向の一八〇度で終る 半円に二分していた。そして赤はその左舷側のものを、緑は右舷側を意味していた。したがって ここで「赤一〇〇ーというのは、左舷正横から一 0 度だけ艦尾寄りの方向ということになる。 註 3 この時間はドイツ側の公式記録が正しいものとの判断のもとに推算した。 註 4 グラフ・シ = ペ 1 の一回の片舷斉射弾量は四一四〇ポンドにも達した。対する六インチ砲巡 洋艦のそれは、各九〇〇。ホンドにすぎす、エクセターの斉射弾量にしてもなお一六〇〇ンドで あった。その上グラフ・シ = ペ 1 には五・九インチ副砲という補助の火力さえあり、その口径は イギリス軽巡の六インチ主砲よりほんのわずか小さいだけであった。
283 ( 莊 2 ) 五〇〇キロサイクル波長ニ配員ヲ怠ルナカレ。 ーウッドはこう命ずるとエージャックスでグラフ・シュペーを追った。 まったくのところ、シェイクスビアは万死に一生をえたのだった。グラフ・シュペーの航海日 誌はつぎのように記録しているのである。「ラブラタニ向イ航行中ノ途上ニテ、五〇〇〇トン級 ノ英大型汽船一隻ニ対シ、警告砲撃一発ヲモッテ停船ト乗員退去ヲ命ズ。艦長 ( 該船乗員ノ退去 ヲマチテ魚雷ニテ撃沈スルニ決セラレ、コノ主旨ニョリエージャックスニアテ打電ス。然レドモ モンテビデオニテ本艦乗組員ノ受クル処 同船乗員退去セズ。艦長同船撃沈ヲ断念セラレタルハ、 遇ニ対スル配慮ニ出デシモ / ナリ」 そこで追跡がまた続行された。あとかなりの間この行動はほとんど定型化してしまったのであ る。すなわち両巡洋艦はともにグラフ・シュペーを視界の中に保ちながら、絶えず針路と速力を 随意に変えつつジグザグ運動を行なった。いつまたラングスドルフが砲撃したい誘惑にかられる かもしれないからであった。 正午にはエクセターが切れたアンテナがようやくなおったと見え、速力が最大でいくらぐらい 出るかというハ ーウッドの問いかけに対して、つぎのように返電してきた。 る。 助カヲ求ムルャ ? 不要ナラ・ハ Z 0 旗ヲ掲揚セョ。 再度シェイクス。ヒアがかかげた国際信号旗は Z と 0 のつづりであった。助けはいらないのであ
332 いでつぶやいた士官が数人いた。 -- 「誰が誰を撃破しようってんだ : : : 」 ーランドにあてて、海戦のあった日の前々日にエクセターとア ついでハーウッド代将はカイハ キリーズにあてたのと同じ例の指令信号を送った。すなわちの旗旒信号の下令一下三艦が ーランドにかわったたけのも 二隊に分かれるというもので、全文中でエクセターの艦名がカイハ のであった。これでまたグラフ・シ = ペーとの戦闘に入った場合には、エージャックスとアキ 1 ーランドは今度は八門の八インチ砲をもっ ーズは組んで再び甲隊を編成し、これに対してカン・ハ て乙隊として行動することになったのである。 そのハーウッド代将は、今では二時間おきにモンテビデオの通信参謀から貴重な情報を得られ るようになっていた。それによるとこの日朝グラフ・シ = ペーは葬儀の一隊を上陸させたとあり、 また同艦の在泊期間として七二時間が許可されたともあった。このときのことを彼は後日つぎの ように記している。 「私がおよその想定をたてていたよりも、もっと甚大な損傷を同艦は受けているように思えてき た。命中弾は六〇発から七〇発もあったもののようである。なおこの日一九〇〇に英船アッシ、 ワースが出港せしめられたので、グラフ・シュペーは一応それ以後二四時間以内には出港するを えずという規則にしたがわねばならなくなったのだったが、私としては同艦がいっ何時たりとも 出港しないか保証の限りではないという気もし、とても安心するどころではなかった。 ロンドンでも軍令部がさらにもっと兵力をラ。フラタに集結させようと大わらわになっていたが、 また同時にモンテビデオにおいてもベルリンに対しても、周到な宣伝手段を用いることによって ドイツ側を警戒させたり、がっかりさせたりするような噂を流布させることに努めてもいた。 だがここでドイツ大本営海軍部がグラフ・シュペーの脱出を援護するため潜水艦多数をラブラ