フォークランド - みる会図書館


検索対象: ラプラタ沖海戦
24件見つかりました。

1. ラプラタ沖海戦

176 トン・ビーチ、トレヴァニオンにハンツマンといった各船も、もはや敵通商破壊艦に沈められた こと確実という公式見解がとられるようになってしまったが、そのグラフ・シ、ペーは一二月七 日に、同艦の最後の獲物となったストレオンシャールを撃沈した。しかしさいわいなことに同船 はどうにか救難信号を発することができ、その一部は軍令部にも入ってきた。たがこれでもまた その敵艦の艦名を割り出せるほどの役には立たなかったのである。 一二月のはじめにはハ ーウッド代将の麾下各艦は、南米の大西洋岸にひろく散らばってしまっ ていた。エージャックスとエクセターは南も南、ポー ・スタンレーに人港していたが、これは ーランドはラ。フ 自家修理と乗組員の体養のためで、他にどうしようもなかったのである。カイハ ラタ水域にいた。アキリーズにいたっては遠く北にはなれたリオ・デ・ジャネイロ水域を哨戒中 であった。 しかしそれでも一二月二日の土曜日には、ハ ーウッドはエージャックスをフォークランド諸島 をあとに、ラブラタめざして北上させられることになった。同艦の乗組全員はたっぷり休養をと らせてもらって満ち足りていた。もちろんポート・スタンレーなどというけちな港に、沙婆を味 わせてくれるような楽しみなどろくにあるわけはない。けれども過去何カ月間というものを休む 間もなく東奔西走させられる航海に明け暮れた身には、それこそどんなことだって慰安になった のである。たとえ空ッ風の吹きすさぶフォークランドでは、・ フリキの食器でしやくって飲むビー ルがたたひとつの楽しみというのであってもだった。 こうしてフォークランドを離れる以前に、 ーウッド代将はしつかりした計画をすでに立てて いた。さしあたって一二月の八日はフォークランド沖海戦の二五周年記念日である。敵艦がその

2. ラプラタ沖海戦

ーウッドの眼を釘づけにしたので るとまもなく軍令部から受けとった一通の無電は、とたんにハ ある。それはパタゴニアの沖合に三隻のドイツ商船が洋上会合をしているという警報だっこ。く タゴニアといえば南米大陸の最南端、エクセターの現位置からすれば南へ二〇〇〇マイルの余も 遠い彼方ではないか。しかも商船とはいえ三隻もかたまればいろんなことができる。砲を搭載し ていれば特設巡洋艦として通商破壊にも従事できるし、それにまるきり無防備のフォークランド 諸島を襲うこともできよう。 そこで巡洋艦エージャックスをフォークランド防備に派遣することにして南下させる一方で、 ーウッド代将はリオからラブラタ河口にかけての一帯で、短区間の船団護送を実施することに したのである。商船は沿岸から外洋に出きるまで護送された上、夜間は常用航路からはずれた別 航路をとることになった。 しかしながら、このとき軍令部も、そして ( ーウッドも、まさかに夢にも思わなかったことな がら、ドイツ・ポケット戦艦の一隻は、すでに南大西洋に深く入り込んでいたのであった。 註 1 久しく慣習となってきた信号ではあったが、このときには潜水艦に攻撃を受けた場合 のこの (f) 、水上艦によるものを、航空機によるをもってかえられていた。

3. ラプラタ沖海戦

188 部隊 ーズ、仏巡デュプレ、同フォッシュ これはネ。フチューンと、 ーディ、ホスタイル、ヒーローの駆逐隊がすでにくわわって いたが、部隊よりもさらに北、 セント・ポール・ロックス沖にあった。 なおカン。ハ ーランドはフォークランドに入港していたが、・ トーセットシャーはエクセターと交 替すべく、サイモンズタウンで出港前夜にあった。また潜水艦セヴァーンはセントヘレナと・ ( イ アの中間でフォークランドをめざしていたし、潜水艦クライドはダカールに近づいていた。 ざっと右のようなのが、一九三九年一二月一二日、つまりラ。フラタ海戦の前夜の南大西洋の光 景なのであった。 註 1 これこそ他ならぬタイロアからの発信であった。 註 2 モ 1 ルス符号で敵水上艦の記号に用いるは″ ″である。ところがこれは飛行機をあ らわすが″ 〃であるところから、きわめて誤信しやすい。 註 3 海戦の前にエ 1 ジャックス艦上で艦長たちが会同を行なったという説がひろく流布したこと がある。これは事実無根である。このような臆説はハ 1 ウッド代将の功業を傷つけるものでしか ない。 註 4 「斉動」の旗旒信号。反転の場合は殿の戦隊から行動を開始するが、この場合甲隊は二隻だ から、殿艦が嚮導することになる。

4. ラプラタ沖海戦

北上せしめ得るかということであった。 この推算によってアドミラル・シ = ーアがリオ・デ・ジャネイロ沖にあらわれるのが一二月一 二日早朝、ラブラタ沖にならその翌日のこれも早朝、そしてフォークランドに来るなら一四日の ウッドは判した。・ - ; たカこのどちらへ来るかが問題であった。フォークランドからラ 。フラタまでは一〇〇〇マイル、リオはラブラタからまた一〇〇〇マイルもある。だから右の三水 域のうちのどれに来るかという判断を誤ると、またしてもとり逃がしてしまうことになってしま う。そのかわり彼のにらんたことが当たるなら、今度こそ敵撃減の機会がっかめることになるの である。 ライアン大将などはアドミラル・シェーアが北上するものと断定していた。だがこのときの自 分の判断について、 ーウッドは後日つぎのように述べている。「本官は敵がラブラタに来るも のと断定した。ここが最も航行量大である上に、穀物をはじめとする食糧の輸送で、最重点的に 防備すべき水域たったからである。この判断にもとづいて本官の採った処置は、敵がこの水域で 作戦行動を開始するのに先んじて、本官の動員しうる全兵力を同水域に前もって集結せしめるこ とであった」 これにもとづいての処置として、 ーウッドは司令官名で一九三九年一二月三日、一三一五、 つぎの命令を南米分遣隊全艦にあてて発している。 敵ポケット戦艦ニ関スル情報ニモトヅキ前命ッギノ如ク訂正ス。イハ ーランドハ予定通 リフォークランドニテ修理ヲ続行セョ。タダシ二軸ノ手入レノミニトドムペシ。アキリーズ ハリオ・デ・ジャネイロヲ発シ、一二月八日〇六〇〇 ( 地方時二二時間加算 ) ニモンテビデ

5. ラプラタ沖海戦

152 の報らせをベッドの中できくことになったのである。かといってその夜は眠れなかったかという とそうでない。我ながら自分の剛毅さに感じ入った次第だったが、我々乗組一同は母国海軍やな じみの僚艦と別れて孤艦で戦場におもむくということ自体に、むしろ意気さかんなものがあった ように思う。私自身にとってはもちろんそれ以上で、男子の本懐これに過ぐるものなしという心 境であった」 しかしそれから以後六週間にアキリーズに割り当てられた任務といえば、パナマ通過ではなく て南米西岸一帯の連合国海上通商路の警備であった。なんとこれは眇たる一軽巡に北はパナマか ら南はケー。フ・ホーンにいたる四一〇〇マイルの正面を担当させることなのである。 だがついに一〇月に入るとすぐに軍令部からペアリー艦長に入電があり、アキリーズはマゼラ 辷洋艦は ン海峽を通って南大西洋に回航し、そこでライアン提督の指揮下に入ることになった。巛 一〇月一三日に、パル。 ( ライソを発し、一九日にマゼラン海峽を通過した。そしてフォークランド 諸島のポート・ スタンレーに入港したのが一〇月の二二日である。 ただっ広くてふきさらしのこの島々はほとんどが荒寥とした荒れ地で、ところどころに断崖を 切り立てた丘陵が走っている。そしてここの気象ときたら、海事地誌によれば、「おおむね荒天 にして、無風静穏の日きわめて稀なり。唐突なる驟雨しばしば襲い、強度の突風また日常なり」 ということになる。それにこの島の戦略上の価値というものは第一次大戦で十分に実証すみであ るにもかかわらず、この一九三九年当時には海軍基地としてろくに整備もなされていなかった。 補給の施設も備蓄もただひとっ燃料だけをのそいては皆無も同然で、艦艇の修理施設もなかった。 その上錨地ときたら在泊艦船はつねにいつでも使えるような主機に汽醸しておかねばならなかっ た。錨鎖切断の恐れがあるからである。要するにこのフォークランドは、基地とは名のみの港だ

6. ラプラタ沖海戦

169 マイエン島 ーンランド グリ トロムセ 0 アイスランド フェロー ンド島 ベルゲン ファーウェル岬 ニューファウ ンドランド レース岬 ハリファックス ヴィルヘルムスハーフェン ・アセンンヨン′ アンユリー ハンツマン ニュートン どーチ拿 ・セントヘレナ トレヴァニオン リック タイロア 50 ・ プレスト・ ポルドー アゾレス ジプラルタル マテ・イラ ! 日一 月 3 一日 9 月】日 ヴ又ルデ島 フいータウン 0 ・ テ / ニャ クレメント ベルナンプコ“ マセイオ・ サルバドル ジャネイロ プエノス イレズ 、こビデオ 10 ・ S マダガスカル アフリカ ( 20 ・ ロレンソ マルケス アガラス蟀 月日 ストレロオ 30 ・ 喜望 】 0 月 . 3 一日 一日・ 40 ・ 50 ・ ′フォークランド諸島 ージア サウスジョ ケープ・ホーン 、プーヴェ島 40 ・ 20 ・ E 0 ・ 20 ・ W 40 ・ グラフ・シュペー航跡図

7. ラプラタ沖海戦

発ライアン大将。宛ネ。フチュ , 、ン。 燃料事情許サ・ ( リオ・デ・ジャネイロ = 進出シ、燃料満載後ラ。フラタ = アル南米分遣隊司 令官ノ指揮下 = 入ルペシ。ナオリオ・テ・ジャネイロ入港 = 必要トアラバ、チ = リー ( 給油所 ) ョリ補給ヲ受ケョ。 発モンテビデオ通信参謀。宛軍令部。 最緊急。ドイツポケット戦艦、本水曜二三五〇、モンテビテオ・ロード = 投錨セリ。 発モンテビデオ通信参謀。宛軍令部。 目下モンテビデオに停泊中ノドイツ装甲艦、当地 = テ ( アドミラル・グラフ・シ = ペーナ ルコト判明セー 個々にはまちまちなこのような情報も、集積されるにつれてしだいに軍令部長にことの全貌を こもとづいて軍令部長が最初にとった処置は、ハ 認識せしめていったのである。その認識冫 ド代将に対して増援部隊をさし向けることであった。 しかしながら、すでにフォークランドを出港して、一〇〇〇「イルの彼方にある ( ーウッド隊

8. ラプラタ沖海戦

173 トヘレナ南西方海面に進出することを命じられた。しかしウエルズ中将の申し立てでこの進出点 はもう五〇〇マイルだけ南へ移すことにあらためられたのである。この地点ならウエルズの部隊 はフリータウンからも、フォークランドからも、そしてリオ・デ・ジャネイロからもほ・ほ等距離 に位置できるからであった。 翌印のまだ朝まだき、それは右の二群の四艦それそれに燃料庫に燃料が注ぎ込まれている真最 中であり、とくにアークローヤルの甲板では整備兵たちが艦上機を飛べるようにしようといそが しく働いていた時であったが、このときまたしてもグラフ・シュペーがやったのである。儀牲に チ なったのは他ならぬタイロアで、その哀れな船からの救難信号を何とかききとろうとポート・ ャルマーズが躍起になったのもこのときなら、それを苦労して何時間もかけてようやく陸上無線 局に転送することができたのも、またこの時のことだったのである。 ライアン大将も、またしてもサイモンズタウンの海軍監督官から急報を受けることになった。 報らせがフリータウンにとどいたのは一〇三〇で、スラングコツ。フ局が正体不明の船から救難信 号を傍受したというものであったが、その船がタイロアだろうかという推察はともかく、傍受し た文面は次のように途切れとぎれのひどいものであった。 、フォン・シェーア、。〇五〇一、。•-•二一度二〇分南、三度 だが後刻これにつづいて完全な形の救難信号全文が報告されてきた。ー お手柄で、同船が転送したものが〇五三〇に傍受されたことによるものであった。 ナト・チャルマーズの

9. ラプラタ沖海戦

325 いぶん後にならないとやって来ないということが、推測できていたはずである。また港外で待ち かまえることになったエージャックスとアキリーズは、もちろんグラフ・シュペーにしても弾薬 が十分でないことを訴えるようになっていはしたものの、それよりもっとずっと弾薬が乏しくな っていたのである。それに燃料に関するかぎりは、ラングスドルフは心細い思いをする必要がな かったことはたしかである。な・せなら同し港にタコマが停泊していたし、陸の業者から購入する こともできた。それにアルトマルクだってなお外洋に存在していたからである。 グラフ・シュペ 1 の外洋航行能力に影響するとして、彼が自身で公にした戦闘被害の見積りは、 戦後になって連合国側が入手したドイツ側の同艦の被害報告とは一致しない。それに同艦の機関 ( 速カ ) と戦闘力は、彼自身も認めているように、みじんの低下も来たしてはいないのである。 たしかにこの時点で兵に給食がしてやれなかったし、船体には破孔があいてはいた。だがそんな ものは応急修理し、ふさいだり支えをかったりしてしまいさえすれば済むことである。 北大西洋のきびしい気象に直面しなければならないことを考慮するなら、艦がそれに耐えぬく ためには必ずしも最良の状態ではなかったと、あるいはいうこともできたであろう。しかしいま だにその存在さえ知られてはいないアルトマルクが、南の洋上でラングスドルフを待っていたの である。したがってドイツ本国への帰還を策するにも、翌年春になってもっと気象状態が良くな るまで待ってはいられないとする理由はどこにもない。 少なくとも一四日の時点においては、外洋にエージャックスとアキリーズが待ちかまえている とはいっても、それらはラングスドルフが夜陰にまぎれてモンテビデオからの脱出をはかったと したならば、決然と行動するポケット戦艦の前にあっては何ほどの障害でありえたとも思われな 満身創痍のエクセターをすらベル艦長はフォークランドに持ち帰っているのである。まして

10. ラプラタ沖海戦

いっさい無関係に、グラフ・シュペーはいろんなてが使えるのだった。でんと錨をおろしていて もいいのだし、あるいは出ようと思えばいつだって出られるのである。このときのことをハーウ ッドはつぎのように記している。 ・ミリノトノ・ドレーク 「私は増援部隊が到着するまでの時間をか . せぐのに、モンテビデオの 駐ウルグアイ公使に対して、グラフ・シュペーの出港をおくらせるためにはありとあらゆる外交 手段を駆使してほしいと頼んだ。出港をおくらせるための術策のひとっとして、公使が在泊イギ リス商船を毎日つぎつぎに出港させることによって、二四時間規則でもって敵艦をしばりつける てがあると進言もした。 とにかくアークローヤル、レナウン、ネプチューン、ドー セットシャーにシュラツ。フシャ それに三隻の駆逐艦が、みなこのラ。フラタ水域をめざしているとは私もきいていた。だがそれら のうちどれも最も早くて五日以内に到着できるものはないことも耳にしていた。 ーランドが通信してよこしたところでは、同艦たけはフォークランドを出てから三四時 間をかせいでいるので、一四日の二二〇〇には到着できるとのことだった」 一方、この間ロンドンでは軍令部が計画をたてつつあった。ハ ーウッド代将自身の敵発見の第 一報がホワイトホールに入ったのは、ちょうど朝食時たったが、すぐさまこれは軍令部長の。 ( ウ ンド大将に達せられた。もとよりパウンドにはハ ーウッドの直面させられている極端な劣勢とい うものはわかりすぎるほどわかったが、だからといってもっとよく状況が判明するまでは、彼と してはどうしてやりようもなく、ただ報らせを待っているしかなかったのである。 こうして二時間あまりをただ待っていて、そこで入ってきたのがこれもハ ーウッドからの報告 で、エクセターが甚大な損害をこうむったことと、昼間戦闘をやめて一時離脱することを報じた