考え - みる会図書館


検索対象: ラプラタ沖海戦
22件見つかりました。

1. ラプラタ沖海戦

8 省に対しても兵力を醵出してくれるよう要請が出されたが、これにも先方の同意が得られた。 ハンティング・グルー・フ 軍令部がこのようにして、狩猟部隊と後に呼ばれるようになった部隊群の編成作業を行な っていたとき、フリータウンにあるライアン提督とエクセター坐乗のハーウッド代将とは、その 現下に持てる手勢でもって最善をつくしつつあったのである。 実をいうと、一〇月一日に第一報が入ったときにも、その敵艦がポケット戦艦であると断定す るにはこの時点ではまだ程遠い段階たったので、 ーウッドはどちらかといえば多寡をくくって いて、ラ。フラタ河口水域を空けて留守にすることにもさして不安を感じてはいなかったのである。 これはこの水域での船舶の航行量が圧倒的に多いためで、その量はリオ・デ・ジャネイロ近傍水 域「つまりは敵艦の最後の所在位置が確認されているべルナンプコ沖に最も近い第二のかなめの 水域ということになるが、そのリオ水域の比ではないことが彼のこの考えのもとになっていた。 ーウッドの考えでは、ベルナンプコ沖あたりでことさらに通商破壊艦一隻の所在を明らかにし たドイツ側の作戦の裏にひそんでいるものは、彼の部隊をこれでおびき出して北上させ、ラブラ タ河口一帯をがらあきにさせることで手ぐすねひいて待っているだろう第二陣の敵艦に、存分に この水域を荒らしまわらせることにあるだろうと彼は読んでいた。ハ ーウッドのこの考えも無理 はないので、南米水域一帯にかくもおびたたしい隻数のドイツ商船の脱出を許してしまった今と なっては、それら商船があらかじめかくし持っていた大砲を、開戦と同時にとり出して武装し、 通商破壊艦に早がわりしているだろうことは、明瞭に察しのつくことだったといえよう。 そこで彼はライアンにあてて、この際ェクセターとエージャックスはリオ沖で合同させ、駆逐 艦ホットス。、 ーにはリオ日サントス間水域をカバーせしめ、ハヴォックをラブラタ河口一帯でつ づけて哨戒にあたらせることに決めた旨を申し送った。またリオとサントスの両監督官には、エ

2. ラプラタ沖海戦

だけは確実だというのである。たぶんレカラダか、あるいはほかのどこかにいたアルゼンチンの 海防砲艦が射ったのではないかということだった」 その射たれたルーインはこのころひどく疲れていて、実に悪い癖を示すようになってカーニイ を悩ませていたのである。彼が命しられていたのはときどきエージャックスを視界の中に保つよ うにしつつ、河口一帯をより広く偵察せよということであった。ところがそのときどきに彼は本 当に眠り込んでしまうようになったのである。だが同乗のカーニイは全然そのことに気がついて いなかった。それでも機体が奇妙な運動をするようになってから、やっとカーニイは気がついた。 そして機体があわや操縦不能におちいろうとするたびごとに、その寸前にあらん限りの大声をは りあげてどなりつけることにしたのたった。 この間巡洋艦隊はモンテビデオに接近していったが、途中で軍令部長から指令が入った。 ハ、イカナル地点ニテグラフ・シュペート交戦スルト 緊急。貴官ハ三マイル境界線外ナ ? これは領海を一二マイルとする主張に対するイギリスの基本姿勢を端的に示したものであった。 だがこのことに関してはハ ーウッドは後日つぎのように記している。「私は戦隊をイングリッシ ュ堆の北東あたりまでは遊弋させることにした。私の考えでは、モンテビデオ沖でも三マイル線 をこえたばかりのすぐのあたりでは、とても戦闘ができるようなものではなかった。動ける海面 がとても狭い上に、遠弾での外れ弾がウルグアイの陸地におちる恐れがあったからである。そん なことがあろうものなら、それこそ国際上での大ごとになってしまう」

3. ラプラタ沖海戦

信じていたのである。彼のヴィジョンには長期戦の考えは全くなかったものということも、確言 できる。 しかしいざそのイギリスと戦争ということになった場合、イギリスを唯一の敵対国という立場 に追い込んだ上で、思うさまいためつけるには、ヒトラーにはふたつの戦場が想定できた。この 戦場のひとつはもちろん海である。ところが彼自身の強引な戦争への日程表によって、 N 計画が 事実上の流産にひとしい状況に追いこまれてしまったとき、レーダーをして対英決戦を行なうに たる海軍力を建設せしめる途は、とざされてしまったのである。いまひとつの戦場は地中海地方 であった。ここはヒトラーがイギリスを陸上戦にひきずりこめる唯一の地域である。しかし、こ れらふたつのうちで彼がイギリスを屈服せしめ得るのはといえば、それは前者の方、すなわち海 でしかなかった。 一九三九年の初頭といえば、レーダーがなお大わらわになって N 計画に真向から取組んでいた ときである。だがこの時期にヒトラーはポーランドを本当に侵略してしまう計画をたて始めたの であった。そして四月に入ると彼は国防全軍に対し、細部計画の立案を命じたのである。彼の下 令には次のようにある。 戦策ノ主眼は戦闘行為ヲポーランドノミニ局限スルニアリ。コハフランスニ国内情勢ノ危 機ヲ招来スペク、従イティギリスヲシテ何ラカノ行動ニ出ズルヲ手控ェシムルノ算アリト思 まるきり・ハランスも何もとれていない弱小で不具の海軍を擁して、いきなり戦争に直面させら

4. ラプラタ沖海戦

199 いつもなら艦長はまっすぐ自室に降りていって、髭を剃り・ハスを使うのがふつうだったが、こ の朝はこうして居残っていて、この日後刻に実施する予定になっている砲術訓練について、ウォ ッシュポーンといろいろ打ち合わせていたのであった。だがそれも済んだので艦長が降りて行こ うとしかけたちょうどその時であった。艦橋見張が、「煙が見えます ! 方位、赤の一〇〇 ! 」 ( 註 2 ) と報じたのは : その煙をエージャックスではその一分前、〇六一〇に発見していた。それは左舷ほ・ほ正横の水 平線上に見えるほのかなしみ程度のものであったが、掌信号兵のスウオンストンが目ざとく見つ けてルーインに報らせていたのである。 たぶんラブラタに向かっているイギリスか中立国の船たろうとは思われたけれども、今日ばか りはどんな煙もうんと注意して見きわめておく必要があった。スコットランド人の火夫が汗みず くになってショベルで罐に投げ入れている良質のウエルシュ無煙炭の立てるものであるかもしれ ないが、また重油専焼の中立国船の煙かもしれない。い や、それよりもドイツのポケット戦艦が 立てている煙かもしれないからである。だが、敵艦が多量の煙を出してわざわざその所在をふれ 歩こうなどとは、ちょっと考えられないことだった。 それよりも今日ハーウッド隊は特定の商船に行き合わせる手はずになっていたのである。前も ってハーウッドはある暗号化した通信文をェクセターにさずけていたが、それを同艦からその行 き合った商船に送らせ、その船からモンテビデオに入港し次第、同地のイギリス領事館にとどけ させる手はずにしていたのである。こうすることでハーウッド隊各艦に無線封止を破らせないで 済ますことになるという考えからであった。 ひとまるまる

5. ラプラタ沖海戦

はまるで余計で、、 しらざるおしゃべりになってしまったのである。同クラス軽巡が六インチ砲八 門を装備しており、計画全速が三二ノットであること : : : そんな敵艦の要目などラングスドルフ はとうに百も承知であった。 そんなことより何より、これで彼我の情勢がだしぬけに一変してしまったのである。ラングス ドルフはここで一番思案せねばならなくなった。いまグラフ・シ = ペーは敵艦隊を e 字に押さえ ようとする形で二四ノットで驀進している。つまり今こうしている間も彼我は毎分一マイル近い 相対速度で接近し合っているのである。まずェクセターの八インチ砲弾がまぐれあたりにでもこ ちらに命中しようものなら、グラフ・シュ。ヘーにはそれを修繕する場所も手だてもどこにもない。 つぎに敵はみな巡洋艦である。こちらの二四ノットに対して、どう少なく見ても三〇ノットは出 せるであろう。もしもあれら敵艦を撃沈できなかったり、少なくとも日のある間にこちらの見え ない所にとり残されるようにしてしまえなかったとしたら、 いったいどうなる ? 夜になるまで はまだたっぷり一七時間もある。いや撃破しそこねて夜になったとしたらかえって大変た。彼ら はのろまに逃げまどう穴熊を追いかけるテリアのように、こちらにうるさくつきまとって離れな いにちがいない。しかも彼らがあげる吠え声が、こちらにとって真に恐るべき相手の、加勢にか けつけてくることをうながすのは必定である。 あわただしく考えをめぐらしたラングスドルフは、当初の計画を変えることに決めた。 ( グラフ・シュペーの戦闘記録より ) 〇六一二、針路一一五 = 変針シ、右同航砲戦体勢 = 入ル。敵針東寄リナリ。敵軽巡二隻 ( 高速ニテ前程ニ出ント欲シ、タメ = ェクセタートノ間隔スミャカ = 拡大スル一方トナレリ。

6. ラプラタ沖海戦

175 フリータウン日ベルナン・フコ線上で現在あいている穴を埋める目的で、一二月の一〇日から一三 日にかけてこの水域を同部隊に哨戒させることにした。 一方でサセックスとシュラツ。フシャーの二艦は、グラフ・シュペーが行動していた海面で捜索 を行なった。だが残念ながらポケット戦艦はこのときすでにそこをへだたること一〇〇〇マイル の西方に去っていたのである。行動のむなしさ無意味さではアークローヤルとレナウン、同じこ とで、グラフ・シュペーの残した航跡をこの両艦が横切ったのは一二月九日のことであった。同 艦と行き合おうにもきっかり四日間というものが遅過ぎていたのである。 さてその後二、三日間に起こったことのかずかずは、結局はラブラタ海戦へと向かってつなが っていったのではあるけれども、それは複雑にもつれあっていて明快に説明し難い。そこで現実 に狩り出しのため行なわれた行為と自余のこととを、切り離して扱った方がよいだろう。 矛盾し合う情報の流入がまた激しくなってきて、軍令部の発令体制を混乱させる一方となって いた。たとえば一二月四日にフランスから入ってきた情報などは、ドイッチュラントが二日にペ ルナン・フコ , 甲こ 冫冫いたというものだったが、・ トリック・スターとタイロアを撃沈したのがアドミラ ル・シェーアだったものとするなら、この報らせはたいそうもっともらしくきこえるものであっ た。それよりもポケット戦艦が二隻も南大西洋を荒らしまわっているというのがありえないこと ではないという考えは、軍令部を愕然とさせたのである。ずいぶん罪つくりな情報だったが、こ うした報らせに背筋の凍る思いをさせられる種類の人たち、つまり現にその水域を航行している 多くの商船の船員たちに、全然ったわらないで済んだことは、喜ばしいなどといえる筋合いでは もちろんないが、せめてもの救いであった。 そうこうするうち前から期日が過ぎても入港しないことが報じられていたアシュリーやニュ

7. ラプラタ沖海戦

耳をたてていた。これはもし敵の通信量にもし急激な増加が認められでもするならば、それはは たしてシ = ビーリング機が敵艦に見つかったのかどうかという疑問に対する、確実な答と考えら れるからのことであった。 だがその敵巡はーーそれが本当に巡洋艦であるにしても、レーダーにとってはあまりに遠すぎ た。それにどんなに必死に眼をこらしても、水平線上に煙などさらさら認められない。それにま もなく無線室からは、敵波長による無線通信量に何ら急激な増加なしと報じてきた。つまりは敵 に発見されたという徴候は皆無となったわけである。しかしこちらのポケット戦艦がすでに大西 洋上に出ているのだが敵海軍には知られてしまっていることのわかっているラングスドルフには、 これはまさに危機一髪であやうく難を逃がれたとしか思えなかったのである。これは敵の巡洋艦 がこちらにとって何らかの脅威となり得るというが故に危機感を持ったがためというのではさら さらなかった。なるほどたかが巛 辷洋艦とはいえ何かの損害をこちらに与えることもあり得よう。 そして海外に基地を持たぬこちらとしては、たとえかすり傷といえどもその損傷が修理不能であ ることもよくわかっている。しかし真に危ないのはそんなことではなかった。英海軍の軍令部に 対してほんのひと言かふた言の無電がもたらされること。これにまさる危険というものはない。 なぜならそれはすぐさまフリータウンから、ジ・フラルタルから、 ハーミュダから、そして南米沿 岸やアフリカ北岸からまで、蜂の巣をつついたような英海軍艦艇の総出動をうながし、彼を狩り たてにかかること必定たからである。いまラングスドルフが胸なでおろしたのは、実にそのこと 故なのであった。 しかしともかく危機は去った。さしあたって今の懸案はアルトマルクから燃料補給を受け、需 品をうけ取ることである。午前七時一五分少し前にラングスドルフは二隻に停船し、邪魔が入っ

8. ラプラタ沖海戦

戦艦シャルンホルストとグナイゼナウの建造にとりかかったからである。それに潜水艦はオラン ダとフィンランドで、秘密裡に建造が開始されていた。 一九三六年になると英独海軍協定が調印された。イギリスもフランスももはやヴ = ルサイユ条 約の海軍条項をたてにとる気など、毛頭なくしてしまっていることがヒトラーにはよくわかって いたけれども、この協定でイギリス全権団が十分な満足を持って会議の席から引き揚げることに なるよう、彼は考えをめぐらして立ちまわった。この協商ではイギリス海軍兵力の三五。 ( ーセン トまでの兵力をドイツが保有でき、さらに濳水艦も保有し得ることに妥結をみたが、これは艦種 別では主力艦五隻、航空母艦二隻、巡洋艦二一隻、そして駆逐艦六四隻をドイツが新造できるこ とを意味していた。ヒトラーがこの協定に満足してほくそ笑んだわけは、この保有量が今後数年 間にドイツの造船能力で建造できる限度だったからである。それにこの兵力量が達成される時点 ともなれば、こんな協定など破棄してしまえる立場に自分がいるだろうことも、彼には十分に計 算ずみであった。 一方でドイツはワシントンと第一次ロンドンの、両度の海軍軍縮条約に関しては、そのいずれ のメンパーででもなかったのである。この両条約のおかげでイギリスもフランスも、そしてアメ リカも、三万五〇〇〇トン以上の戦艦を建造することをできなくされていたし、実際にも建造し ていなかった。だがヒトラーはビスマルクとティルビッツという、各四万五〇〇〇排水トンにも 達する二艦の建造を、レーダーに許可したのであった。 このようにして一九三七年の初頭に、イギリス、フランス、アメリカが、自から進んで我とわ が身を条約でしばりつけているというときに、それを尻目にドイツ海軍の一大拡張がはじまった のである。その長期計画の策定にあたっては、レーダーは彼に向かってひらかれている二つの途

9. ラプラタ沖海戦

った。たがこれで事態は一変してしまった。一七日の一八一五までは出港できないことになった からである。七二時間の在泊許可は同し一七日の二〇〇〇で期限切れとなる。とすれば、彼が選 び得る出港時刻はたった一時間と四五分という、ごくせまい幅しかない時間帯の中でしか求めえ なくなってしまったのであった。 もちろんイギリス側がこのことを百も承知の上で、わざと汽船を出港させたことはラングスド ルフにも明白だった。そこで彼は副長カイ大佐やワッテン・ヘルク航海長と、ほかに士官二名を呼 び集め、さらに大使館駐在海軍武官もくわえて、ドイツ本国への強行突破成功が望み薄となった いま、他にかわるべき妙案がないかを協議するため会議をひらいたのであった。 席上ラングスドルフは、認められている七二時間たけでは外洋での航海を可能にするための、 破孔ふさぎにさえ不十分であることから説きおこしたが、また別の見地からしても、たとえラブ ラタ沖の敵艦の包囲陣を首尾よく突破できたとしても、グラフ・シュペーはそこから先ドイツ本 国への帰還を強行できるような状態ではもはやなくなっているという、自分の考えを明らかにし たのである。 だが、港外へ強行脱出をこころみ、さらに敵艦の一隻や二隻の撃破をはかるというてがあると 彼は指摘した。しかしそうなるとラブラタ河口の浅い水深はこちらにとって不利である。もしま たグラフ・シュペーが被弾して、浸水で吃水が増すようなことにでもなれば、艦が座礁してしま うおそれがあり、そうなると身を護るにもままならなくなって、イギリス側に思いのまま料理さ れてしまう。それでは搭載している秘密の機器が敵の手にわたらないようにすることも期しがた ということになった。 だからといって、公認された制限時間をこえての在泊など、この際問題外たとも彼は指摘した。

10. ラプラタ沖海戦

干の市民がならんでいた。 そこで参列者一同に気をつけがかかり、ドイツ人は男も女もいっせいにナチ流の敬礼を行なっ ただ一人ラングスドルフだけは例外だったのである。彼の左手はいぜん軍刀の柄をにぎつ ていたが、その右手は軍帽のひさしまであがっただけで、いともみごとな昔の海軍の敬礼を行な ったのであった。その彼には、、ちはやくこれに気づき、こうして大勢の新聞カメラマンが写真 をとっている以上、彼のこの写真が世界中の新聞の一面のトップにでかでかと載ることになって しまうと直感し、彼をねめすえているラングマン大使のけわしい視線など、まったく意識にない もののようであった。 はたしてそれら新聞の一紙ワシントン・ポストは、 ″イギリス船員哀悼の意を捧ぐ〃という見 出しで、ラングスドルフ艦長のもとに囚われ人となっていて、モンテビデオで再び自由の身とな った英船の船員たちは、イギリスの砲弾に斃れたドイツ水兵たちの死をいたみ、葬儀に参列して、 「海の勇士たちの霊に捧ぐ。イギリス商船に乗り組んでいたおみらの友より」と記したリポンを つけた花環を捧げた : ・ : などと書きたてたのである。 この日の後刻グラフ・シュペーに帰艦したラングスドルフは、。 フェノス・アイレスのドイツ大 使からはなはた混乱させられる通信を受け取ったのであった。それによるとアークローヤルとレ ( 註 2 ) ナウンが一二月一二日に、行先不明のままケー。フを出港したというのである。さらに私用機をチ ャ 1 ・ターした飛行機にラ。フラタ河口を偵察させたところでは、同水域には四隻のイギリス巡洋艦 が認められるというのであった。 これを皮切りに、つぎには砲術分隊士の一人が、方位盤タワーから大きな軍艦を一隻目撃し、 自分の考えによればそれはレナウンのようであったとラングスドルフに報告にきた。その上この