とんど連日強いられていたのである。たしかにモンテビデオ一隻のごときはとるに足らぬもので あったろう。彼が九月二四日、つまりラングスドルフが通商破壊戦を開始せよという命令を受け とることになった二日前に、直面させられた事態にくらべての話である。この日プエノス・アイ レスの海軍武官からハーウッドに入った無電は、「信ずべき筋によれば : : : 」として、すでに報 じた・ハタゴニア沖の二隻もふくめて、数隻のドイツ船と潜水艦一隻とが、ここ四日以内にアセン ション島の南西で会合する予定と報じたのであった。 地点はリオにいるカンく ーランドからでさえ一九〇〇マイル、ラ。フラタ沖のエクセターからは 三〇〇〇マイル近くもある。 ーウッドは急遽カン・ハ ーランドに全速でその会合地点に急行する よう命ずると共に、フォークランドにいるエージャックスのウッドハウス艦長には、カン・、 ンドにとってかわるため、リオ・デ・ジャネイロに向かい二〇〇〇マイルになんなんとする北上 を命じなければならなかったのである。このときにはライアン提督もフリータウンから駆逐艦二 隻を報じられた水域に急派している。かくて問題の水域を各艦は探しに探しぬいた。だが何ひと ーランドこ つ見つかりはしなかったのである。それどころかカンパ 冫いたっては、給油のためフリ ータウンにかけこみ、リオをながい間留守にしてしまう始末となったのであった。 かくて開戦第一月はすぎた。これは南大西洋のハーウッドの手から駆逐艦二隻をもぎとり、本 国に呼びもどすことをもって終った。本国艦隊のひどい手不足のゆえとのことであった。しかし ーウッドの考えたラ。フラタからリオへかけての船団護送は、うまく運んではいた。一方で何隻 ファーターラント かのドイツ船がどうにかこうにかすべり出て、祖国めざしてひそかに帰航の旅につくのを許 しはしたものの、この月ともかくイギリス船の喪失はただの一隻もなくてすんだのである。 だがしかし、この夜はグラフ・シュペーが最初の血祭をあげる前夜に相当していた。つまりこ
の月日は相い似ている。 ドイツ巡洋艦も二隻がこの海戦で追撃するイギリス巡洋艦隊の餌食になった。うち一隻は追い つけるはすのない鈍速の相手に撃沈されているのである。旧式英巡ケントはふだんは二一ノット しか出せないのに、艦内のあらゆる可燃物をポイラーにたたき込んで、寄蹟の二五ノットをこの 日に限り出したのであった。たた一隻逃がれ得たドレスデンも、この三カ月後にイギリス艦隊の 撃沈するところとなった。 いたましいのは、フォン・シュペーの令息の二人までが、彼の艦隊に加わっていたことである。 兄は中尉、弟は少尉として、共に父提督と戦い、共に南溟の海にむくろを沈めた。旅順攻略にま つわるわが乃木三典を連想させる哀話ではある。 ドイツ独特の艦種であるドイッチュラント ( 後リュッツオと改名 ) 級の装甲艦については、著 者がその性格特徴をよく描いているから、解説の要はあるまい。その砲力と速力は、出現当時こ れに追いついて撃沈し得る威力をもった艦はイギリスの三隻の巡戦と日本の金剛級四隻の、世界 で七隻のみであった。たくみに主力艦と巡洋艦のはざまの盲点を衡いた通商破壊の専門艦である。 ドイツを仮想敵国としていたフランスでは、あわてて高速戦艦ダンケルク級二隻を起工したほど であった。 対決した英三巡のうちまずアキリーズは、イギリスが第一次大戦以来の旧式軽巡兵力の刷新を 図って一九三三年に完成したレアンダーと同級に属する一艦で、触接用としてはイギリス海軍の ほぼ満足する性能を備えていた。一九三六年からニ = ージーランド海軍所属となった、エ 1 ジャ ックスも一応同級ではあるが、レアンダー級に若干改良をほどこしたものである。 ( アキリーズ
を、断ち切ったのでした。 しかしながら現実の海戦は、戦略的な思考に発して、成るべくして成る当然の帰結でしかあり ません。私の書きたかったのはそのような海戦そのものだけではなくて、その背後にいた多くの 人々についてでした。そこにはイギリス人あり、ドイツ人あり、中立国人ありで、外交官もいれ ば提督たちももちろんいましたし、兵曹もいればス。 ( イもまたおりました。そればかりではあり ません。官庁に、工場に、あるいは造船所に、そして野良で収穫にはげんでいた人たちまで、多 くの場所で働いていた多くの男や女の人々もまた、この海戦の終極の勝利に寄与していたのであ ることを、忘れてはならないと思います。 なぜ私がこのような物語の進め方をしたか ? それは三隻の戦艦と三隻の空母と、それに一四 隻もの巡洋艦というものが、いかにしてグラフ・シュペーを探し求めたか、そして三隻の巡洋艦 がどのようにして同艦を発見したかなどということを、こと細かにあげつらうだけでは十分でな いと考えたからです。そんなことはこの壮大な物語全体の中での十分の一に過ぎないのです。も ちろんどちらの側にも多くの錯誤がありました。しかし私はできるだけどちらの側にもかたよら ない、公正なものの見方をもって記述することを、第一に念頭におきつづけました。 ただ読者の方々にはこの物語の真の意味を理解していただくためにも、ひとつだけ念頭におい ていただきたいことがあります。それは通商破壊戦の成功不成功というものが、単なる撃沈の隻 数やトン数などという帳簿面の数字だけから評価されてはならないものなのだという点です。た しかにグラフ・シュペーは三カ月余もの洋上行動中に、九隻、トン数にして五万八九トンを撃沈 したに過ぎませんでした。しかし同艦は実質的にはこの半分しか撃沈し得なかったとしても、あ るいはこの十倍も撃沈していたとしても、ひとしくドイツ側にとっては大働きをしたのであり、
141 会合地点が呈示された。 翌一二月七日〇八〇〇、二隻はたもとを分かった。この二隻のどちらに乗り組んでいる者も誰 一人として、この二隻がこれでもはや二度と再び相い見えることはないのだという運命に、思い をはせた者はいなかった。だが二隻で組んで行なってきた洋上の狩りの日々は、このときをもっ て永遠に去ったのである。結局ダウ船長は自船に六隻分ものイギリス船員をかかえ込まされるこ とになった。後に虐待の非難をこうむることになったダウは、この意に反して背負い込まされる ことになった捕虜たちを、安全にドイツへ連れ帰るについていかに心を砕いたかを申したててい るが、終局的にはこれらイギリス船員たちは味方の手によって救出される連命にあった。それは 後にアルトマルクが雪と氷にとざされたノルウェーのフィヨルドにひそみかくれていた際に、勇 敢なイギリス駆逐艦コサックの斬込隊によって行なわれたのである。 アルトマルクと別れた後、グラフ・シュペーは西方めざして走りつづけたが、その日夜に入っ て一七四六にまた煙が望見された。数分後に見張員がそれが小型の商船であると断定したので、 三八九五トンで、 しとめるつもりでまた接近行動がはじまった。その汽船はストレオンシャール、 モンテビデオからフリータウンに向かう途中であった。そこでイギリス護送船団にくわわる予定 になっていたのである。この船はホイットビーのマーウッド汽船の持船で、積荷は五六五四トン の小麦たったが、三二人が乗り組んでいた。このときのことを船長・・ロビンスンはイギリ ス官権の調べに対してつぎのように語っている。 「私は下のプリッジにいて本を読んでおりましたが、一等航海士が降りてきて水平線に航走中の 船が見えるといいますので、上のプリッジへあがっていって望遠鏡でのそきますと、たしかに巡 洋艦の前檣楼の頂部でした。
だがそれからほんの数分後に、今度は・フラジルのマセイオ港から入った一報こそは、その敵通 商破壊艦が何者であるかを判別する最初の手がかりを与えたものとなったのである。もちろん敵 艦の使った < というコールサインのことも、それがアドミラル・シェーアのものであるこ とも、ともにわかってはいた。だがそうしたことは通常欺瞞策であることが多く、コールサイン などどんな船が使うか知れたものではないと軍令部は見なしていた。しかしこのマセイオからの 入電は、解読して。 ( ウンド大将に提出されたところでは、次のように報じていたのである。 英船 :--ä ( クレメント ) ノ救命艇ニ乗船シアリシ、軽傷ヲ負エル一等航海士ヲフクム 一一名、本月曜日当港ニ到着セリ 一等航海士ハドイツ装甲艦ノ艦名アドミラル・シェーア ナルコト証言シ、カッ他 = 二隻ノ救命艇、独艦ニ移乗セシメラレシ船長ナラビニ一等航海士 / 二名ヲノゾク残リ生存者フ収容シ、続行シアリト報告セリ。 軍令部長はこの日夜に入ってから、階上の方の作戦室に軍令部各部局の首脳を召集し、自から 主宰してこの通商破壊艦をいかにして捕捉し、かっ撃沈するかについて方策をたてる会議をひら いた。もしもこの艦がポケット戦艦であることが事実ならば、一一インチ砲を六門搭載している。 したがってこれを始末するための各部隊には、巡洋戦艦一隻か、八インチ砲巡洋艦二隻が編入さ れていなければならないことになる。できるなら空母一隻がくわわることが望ましい。この主旨 にのっとって編成されることに決したのが〈〉部隊で、巡戦レナウンと空母アークローヤルの 四二隻に、本国艦隊から離れて南大西洋に向かうよう命令が出されたのである。またフランス海軍
説明ができるとすれば、それはたた一事しかない。つまりその船はアラド機を見かけ、すぐさま 転舵してしまったのだ。おまけにひょっとするとその飛行機がドイツ通商破壊艦の艦載機たと察 して、無電でイギリス側に警報を発してしまったかも知れないのである。その無電をグラフ・シ 1 〈ーで傍受しもらしたことだって大いにあり得る。となるとことで、あるいは今もう英海軍の 狩り出し隊がじりじりとこの海面へ寄り集まってきているかも知れたものではない。 ラングスドルフは西方へ全速力でつつ走って、ここからできるだけ遠く離れることに決心した。 みるまにグラフ・シ = ペーの主機は回転数をフルにあげたが、こんなことはここ数週間ではじめ てのことになった。こうしている間もラングスドルフは気が気でなく、自動的に全波長帯域を走 査しつづけている無線探知機から、敵の戦時交信量がにわかに増したと傍受係が報告してきはし ないかと、やきもきして待っていた。だが彼はホッとさせられたのである。傍受係は敵交信量が 従来の日常量とほとんど変わりがないといってきた。 夜に入ってラングスドルフは大本営海軍部と無線連絡をとり、艦のとっている行動を報告する とともに、アルトマルクに対して次回の会合地点をもう六〇〇マイル西へ移すことを報らせるよ う依頼した。この二隻が再び会合したのは二八日になったのであるが、燃料がポケット戦艦に送 られるのと入れ換えに、アルトマルクにはトレヴァ = オンの船員たちが移されたのである。 ラングスドルフはなお新しい作戦計画についてはしかと定めかねないままでいた。たしかに彼 は母港を出てから乗艦を洋上に作戦させつづけることまさに二カ月。この間敵船五隻を屠り、作 戦間に大西洋を二度まで横断している。五隻のうち最初の一隻をのそく四隻はフリータウン・ケ 1 プ間航路上で捕捉したものである。となれば、もはや英海軍は彼を求めて兵力をこの海域めざ 盟して現に集中せしめつつあるものと断定するのが至当というものであろう。
恥舟に乗り込み、そこで私がおもて離せをかけようとしたとたん、港湾の係官の一人が大声で我々 を呼びとめた。自分をのせて現場まで連れて行けというのである。そこで乗せてやってフルスビ ードで現場へ向かったのだが、きいてみるとこの係官は何事がおこったのか全然わかっていない らしく、それに爆発がおこったときシュペーには何人かドイツ人が残っていたものと思い込んで いるようだった。 タコマに横づけしたのは爆発があってから二〇分後だった。ところがグラフ・シュペーの乗組 員はすでに全員二隻の曳舟と一隻のはしけに乗り移ったあとだったのである。そこで係官が大声 でそれらの舟を呼びとめて、どのような筋からのどんな指示をうけて、どう行動しようとしてい るのかと問いただしたところ、それらの舟は所属会社の指示でアルゼンチンへ帰って行くところ だというのである。 しばらくして港湾の高級係官のリケロ氏が別の曳舟に乗ってやって来て、それらの舟に動いて はならないと命じたのだったが、それでも曳舟の一隻がフルス。ヒードで西に向かって進みはじめ たので、それを追っかけていった。 現場にはそれらアルゼンチンの舟ばかりでなくグラフ・シュペーのものである機動艇も四はい 残っていて、そのうちの一隻にはラングスドルフ大佐が乗っていたが、・ トイツ人たちに指示を与 えるには言葉の不便があるので、大佐みずから通訳をつとめるため私の曳舟に乗り込んできたの である。 港湾係官は大佐に向かって、それら曳舟やはしけがウルグアイ水域を離れてよいというような 指示が出ているなどとは自分はいっさいきいていないので、この際全部の舟がモンテビデオに帰 港するのが合法的だと主張した。ところがラングスドルフ大佐ははじめ勘ちがいしていたようす
364 一大火柱が立ち、船体は切断してクラドック提督と共に轟沈し去った。ついでモンマスももはや 絶望状態におちいり、ただけなげにも身をもってグラスゴーをかばって逃がそうとする。そこへ 月があがった。これで彼我の天象は同条件となったが、ドイツ海軍はもはや抵抗もままならなく なったモンマスに探照灯照射をもって打撃の手をなおもゆるめようとはしない ついにモンマスもまた沈没した。イギリス側で遁走し得たのはグラスゴーただ一隻のみであっ た。満身創夷になりながら助かり得たのは、身をもってかばったモンマスのおかげで、奇蹟に近 かったが、また夜の闇も味方してくれ、ドイツ側の主力二隻もグッドホープとモンマスに打撃を 集中して同艦をあまり相手にしなかったことも幸いした。それにドイツ側主力艦二隻より速力に まさっていた上、ドイツ側巡洋艦より砲力においてまさっていたので、辛うじて追撃をまぬがれ たのである。本文第二十章にチラと出てくる「南米中立港で長期修理」云々というのはこの艦の ことである。 ともかくイギリス側の完敗であった。この報にイギリス朝野は震憾した。二国海軍主義 ( 次位 の国の二倍の海軍兵力を常に保持する ) を標望し、ネルソン以来の伝統と不敗の歴史を誇ってき た英海軍にとって、この敗戦はいたたまれない恥辱感となったのである。さっそくにスターディ 中将のひきいる世界最初の巡洋戦艦インヴィンシ・フルとその姉妹艦インフレクシ・フルを主力とす る一個戦隊が南米に急派されることになった。従うは有力な巡洋艦四隻と仮装巡洋艦一隻。これ に急速修理を終えたグラスゴーが戦隊にくわわった。 この戦隊が南米大西洋岸も南端に近いフォークランド島に着いたのは同年一二月七日である。 さっそく石炭積込が始まった。不運なことにフォン・シ = ペー伯は判断を誤ったのである。コロ ネル沖海戦により南米太平洋岸から南太平洋一帯にかけての英海軍兵力は一掃されたが、その英
154 の会合に向かった。この二隻で部隊を構成してリオサントス間水域の警備に任ずるようにと の命令を受けていたからである。一方のエージャックスはリオ水域から給油船ォルウ = ンにやっ てきて、同船の油槽が空になるまで補給を受けた。そこでオルウ = ンは西インド諸島めざして北 上の航海に発ったが、その翌朝エージャックスにはハ ーウッド以下の司令部が乗り込んできて、 長い代将旗を檣頭にかかげたのである。司令部の去 0 た = クセタ , 、はベル艦長が指揮してフォー クランドめざして出港した。彼地で修理もするが、乗組員にも久々に休養が与えられることにな ったのである。 さて、こうして t 部隊を構成して哨戒をつづけることになったカイ ( ーランドとアキリーズで あるが、カン : ーランドの艦長の方がペアリー大佐より三年先任なので、アキリーズは二番艦と いうことにならされた。ところがこれがなかなか大変で、当時ペアリーが誰かにこぼしたところ によると、「ろくでもないことつづきだったが、なかで一番お礼をいわにゃならんのは、うちの 当直将校たちに陣形保持の操艦要領で、実にとんでもない悪い癖を教えこんでくれたことた」と いったぐあいたったようである。 だがこのようにして (..5 部隊は八インチ砲巡と六インチ砲巡の各一隻すっという、変則的な編成 となってしまった。八インチ砲巡二隻がたてまえたというのにこれでは力不足で、したが 0 て昼 間はポケット戦艦に戦闘を挑めないことになった。仕方がないのでエージャックスの ( ーウッド 代将はこの二隻に対して、もしポケット戦艦に遭遇するようなことがあっても、日中はたた触接 するだけにとどめ、攻撃行動に移るのは夜に入ってからのみにせよと、ロを酸つばくしていまし めねばならなかったのである。 これを受けてカイハ ーランド艦長のファロウフィールド 大佐がたてた計画はつぎのようであっ
( フリータウンからはおよそ四 ~ 五〇〇マイル西方の一帯となる ) の範囲が描きこまれていた。 だが国際間の情勢がいまひとつはっきりしていないからには、それがはっきりするまでの間、ア ルトマルクはグラフ・シュペーと行動をともにしてはどうかと、ラングスドルフはダウに提案し たのである。 士官たちが協議している間も、一本の太いホースがグラフ・シュペーめがけてくり出されてき て、それがポン。フにつながれる間ももどかしく、ポケット戦艦の燃料庫には油の奔入がはじまっ て、補給作業が行なわれていた。この作業は二隻の間で七八五立方メートルの燃料移送が完遂さ れるまで、決して中断されることがなかった。 ところでグラフ・シュペーには、アルトマルクに移乗する目的でハルティング医師が便乗して いたのであった。だがアルトマルクにはすでに一人船医が乗り組んでいた。そこでラングスドル フとダウは相談の結果、この医師はグラフ・シ = ペーにとどまらせることにしたのである。あと 通信兵数名をふくむ若干の軍需品のアルトマルクへの移管があった後、二隻は前進を開始し、隊 ッパの各放送局からのラジ を組んで針路を南にとった。二隻とも無線室では通信兵たちがヨーロ オにきき入っていて、総統のポーランド進撃に関する最新情報をとりつづけていた。 翌九月二日の土曜日も、こともなくて万事うまく運んでゆくようであった。乗組の誰もがほが らかにかまえている中で、イギリスとフランスがはたしてポーランドに与えた誓約を実行に移す だろうかなどと、若干気づかわしげにもの思いにとらわれていたごく少数の分別派たちも、いっ しか考えごとをしなくなっていた。 二隻はゆるやかな速度で南下をつづけてゆく。だがその一歩一歩は確実により気温の高い海域 に入りこんでゆくことなのであった。そこでグラフ・シュペーの軍医長カルツェンドルフ博士は、