里の一条を真名井神社参道と考え、条里の東西基準線は小字名の大縄手、縄手添によって 平野西端の団原丘陵の中央と平野の東端、出雲郷の大本部落の丘陵北端を結ぶ線と想定し、 この線が平野の中央を東西に通り『出雲国風土記』道度の条にみえる郡家・国庁北の十字 街や正西道がこの線にのると想定した。その上で、条里地割にのる方八町の正方形または 南北六町・東西一一町の長方形とする国府域案を示した。後に、条里の東西基準線が条里 余剰帯で山陰道 ( 正西道 ) の痕跡を示すことが明らかにされ、正西道は意宇平野を中心に 直線道路として一〇キ。以上にわたって作道されていることが知られている かっては、意宇平野の条里制と古代山陰道との関係を含めて、条里制のなかで国府諸施 設が設定されたとみる意見が有力だった。現在は、出雲国府や出雲国分寺の調査が進んだ 結果、意字平野の条里地割と国府の諸施設の方位については違いがあることが明らかにな 駅 っている。国府や国分寺が正しく東西南北 ( 正方位という ) を向いて施行されている一方 で、条里地割は正西道を基準として施行されために、三度程度の振れがあり、国府や国分 ~ 呂寺と条里地割はその原理が異なる。要するに、出雲国府や国分寺の建設にあたっては条里 とは無関係で行われており、出雲国府には条坊的な方格地割も認められない。 出雲国府の展開する意字平野の開発は奈良時代前から行われており、弥生時代から古墳 227 だんよら じよ、つば、つ
時代にかけては河川や地形などの自然規則に依存したあり方からはじまり、古墳時代中期 幻以降には意宇川の流路自体も南側に移す水系の大規模な改変がされていたらしい。その後、 欟七世紀後半以降に出雲国府が設置され、正西道と隠岐道が整備され、その要衝地の十字街 道付近が官庁街となっていったようである。これ以降、国府や国分寺などの諸施設は、都 国城にならって明確に方位を意識して建設されていくことになる。意宇平野に残る、条里 地割は出雲国府が形成されるなかで、正西道を基準として施行されていくが、官衙施設や 国分寺は、特に条里地割の影響を受けることはなかった。 意宇平野は、出雲国府跡としてだが、国指定史跡となっている条里である。かっては条 里と出雲国分寺や出雲国府の振れが同じで関わりがあるとみる説もあった。しかし、実際 は参道である天平古道と周囲の条里地割との振れは確かに異なり、三度程度であったこと は先述のとおりである。出雲国分寺や国府と条里の振れは異なっていたのである。 意宇平野の条里と国府施設の関係については、振れが異なる点からみて直接的に関係す るものではない。条里の施行時期は正西道が基準線となっている事実から、道路施行と同 時か遅れる。国分寺とその南に延びる道路の方位の違いからみて、意宇平野の条里制は国 分寺に先行して施行されているが、その時期を明確にすることは難しい じよ、つ
平城京では、その周辺の奈良盆地一帯に敷かれた条里制を大和統一条里とよぶ。平城京 は大和統一条里を壊しており、条里は平城京に先行して七世紀末頃までに施行されたと考 えられている。一方、地方において条里制がいっ施行されたかは実際には不明な点が多い。 するが 駿河国にあたる静清平野では条里の広域施工が律令期当初の七世紀末頃までさかのばり、 その基準線になっていたのが駅路の東海道である。こうした例を参考にみると、出雲国府 が置かれた意字平野についても、国府が設置され正西道が設けられた七世紀末頃には平野 全体でないとしても部分的に条里地割は施行されたのであろう。 出雲国府と条里や官道との関係をみると、出雲国府の施設はほば正方位を 出雲国府と 向くが、駅路である官道の正西道・枉北道はおよそ三度北で東に振れてい 条里地割 る。官衙が正方位を志向するのは普遍的なあり方である。意字平野では正 駅 西道が基準線となって条里施行がされているが、正西道は可能な限り直線を志向し、官衙 府 国と異なり正方位を原則とするものではない 道 官衙施設と正西道の設置計画が異なる点から、出雲国府と直線道路の正西道の時期的な 関係は不明である。前述したように、出雲国庁の建物変遷をみると、当初設けられた建物 は斜め方位をとり正西道とは逆に北で西に大きく振れており、これは地形によったと考え
、それを契機として官衙の移転を含めた整備が進められたものとみられる。 『出雲国風土記』や『常陸国風土記』記事にみられる郡家の移転は、たんに官衙施設が 移転したというだけでなく、国府が設置され行政の新しい支配システムに対応するために、 交通体系の整備とともに郡家をはじめとする官衙施設が国府近くに設置されたことを示す の 国と評価できる。 出 八雲立っ風土記の丘展示学習館にある、意宇平野における出雲国府の復元 天平古道と 模型をみるたびに、よくできていると感心している。なかでも出雲国分寺 三軒家地区 は意字平野の条里地割を壊し、国分寺創建の八世紀中頃以前に条里施行が 行われたことがわかる復元となっている。条里は正西道 ( 山陰道 ) を基準に施行されたと みられ、一方で、出雲国分寺は正方位を志向して真南を向いて建設されており、条里とは 三度ほど振れが異なることが明らかである。意宇平野の条里地割が山陰道を基準に行われ、 国分寺創建以降に条里地割の上に参道が造作されたことが一目瞭然となっている。 ただし、国分寺周辺の復元で疑問に思う一つは、出雲国分寺から延びる「天平古道」と 呼ばれる参道が三軒家付近で突き当たりになり、正西道に直接、接続しないことである。 つけたりこどうあと この参道は、幅約六の礫敷の道路として発掘され、出雲国分寺の「附古道跡ーとして れき
出雲国の道と景観 跖井上和人一一〇〇四「条里制研究の一視点」『古代都城制条里制の実証的研究』学生社 近江俊秀一一〇〇六『古代国家と道路ー考古学からの検証』青木書店 勝部昭一九九三「出雲国府と駅路ー『古代を考える出雲』吉川弘文館 木下良一九六七「国府と条里との関係について」『史林』五〇ー五 木下良一九七七「国府の「十字街」について」『歴史地理学紀要』一九、日本歴史地理学研究会 木本雅康一一〇〇〇『古代の道路事情』吉川弘文館 木本雅康一一〇一六「見えてきた古代山陰道」『シンポジウム記録集「古代山陰道」を考えるー杉沢遺跡 道路遺構発見の意義一』出雲市 高橋美久一一一九九六『古代交通の考古地理』大明堂 中澤四郎一九七五「条里遺構」『八雲立っ風土記の丘周辺の文化財』島根県教育委員会 中村太一一九九六『日本古代国家と計画道路』吉川弘文館 藤原哲二〇〇三「出雲意宇平野の開発と地割」『出雲古代史研究』三 府中市教育委員会一一〇一六『備後国府関連遺跡一ー第一一分冊ー』 米倉二郎・吉田英夫・成瀬俊郎一九七〇「意宇平野における条里制の施行」『出雲国庁跡発掘調査概 報』松江市教育委員会 エピローグ 伊藤武士一一〇〇六『日本の遺跡秋田城跡』同成社
幅九ほどの大規模な古代山陰道の調査でも、ごくわすかな土器が出土しただけであり、 あおやよこ あおやかみじち その建設がいっ頃に行われたかはよくわかっていない。因幡国の青谷上寺地遺跡や青谷横 木遺跡 ( 鳥取市 ) では、道路の路盤のなかから八世紀頃の土器がまとまって出土し、その 頃に直線的な駅路としてつくられたことが明らかにされている。現状では、直線的で大規 の 国模な正西道 ( 山陰道 ) の建設は、出雲国庁が成立する時期とほば同じ頃のようである。 かんが 出 国府をはじめとする官衙設置と大規模な直線道を特徴とする古代道路の関係については、 出雲国府が駅路分岐点の十字街に位置する事実から、先に大規模な駅路が整備され後に国 府が設置されたとみるのではなく、官道の整備は前述した黒田駅の移転記事からうかがえ るように出雲国府設置を契機として進められた官衙整備とも関わる一連のものと考えてい る。 出雲国府の研究史で述べたように、他の国府と同じく出雲国府も平 正西道と条里地割 城京のように方形でなかは碁盤の目のように道路で区画されていた と考えられていた。その方格地割説の根拠の一つともなっていたのが、意字平野に残る条 里地割であった。 出雲国府が置かれた意宇平野には条里制が施行されている。米倉二郎らは、意字郡の条
年 ( 一九五五 ) からはじまった出雲国分寺の調査を通じて、条里との関連から方二町とし、 そのなかの五〇〇尺四方を方形に画して伽藍地とし堂塔が配置されたと考えた。そして国 分寺の機能を遂行するための三綱所、国師所、倉庫、雑舎、奴婢屋、花園について、伽藍 地外側の寺域内に分置されたと想定した。 近年、国分寺にとって金堂や塔などの七堂伽藍だけでなく、その外側に置かれた寺の運 営施設が重要だという点が強調されている。七堂伽藍の外側に寺を運営する施設が推定さ れたのは、出雲国分寺が最初の例であった。発掘調査は昭和三十年にはじめて行われ、金 堂や講堂などの堂塔があったことが明らかになった。その成果や条里地割などの検討から、 石田茂作は国分寺の機能を遂行するための施設である、三綱所、国師所などについて、伽 藍地外側に分置されたと考えた。石田茂作は国分寺を考える上で七堂伽藍だけでなく、そ 営 の外側に展開する運営施設の重要性を半世紀以上前に、出雲国分寺の調査で提言していた。 寺 分残念なことに、そうした国分寺の運営施設について、他国の国分寺では調査で明らかにな 出ってきたが、出雲国分寺では不明な点が多い。 出雲国分寺の寺域 ( 寺院地 ) は条里と合わないことが明らかになり、西側 連営施設 については丘陵が迫っている地形上の制約がある。その後、寺域の東限と
245 官道と国府・駅 され、十字街を中心に官庁街が形成される。この時期は国分寺創建前であり、国分寺周辺 と三軒家地区周辺に山陰道を基準として条里地割が施行される。八世紀中頃に出雲国分寺 が意宇平野北側の丘陵裾に建立され、その参道として天平古道が水田の条里地割を壊し、 三軒家地区を通り抜けて山陰道に接続する。この頃には、三軒家地区にも出雲国分寺・出 雲国府と同じ瓦を屋根に葺いた建物が建てられていた。出雲国分寺から山陰道に延びた天 平古道は、一三世紀以降、国分寺が廃絶していくなかで山陰道との接続付近が水田と化し ていったとみられる。
らまっすぐ南大路が延び、おおよそ国庁を中心にして一町単位で溝や道路がみつかったが、 平城京のように碁盤の目状にはなっていなかった。水田地帯と化した関東平野の一画に、 国府に関わる関連施設が一キ。以上の広範囲に展開していたが、方形に画するような外郭施 設は認められす、その範囲についても明確にできなかった。やはり、下野国府全域に平城 京のような全面的な条坊制的な方格地割による街区の施工や方何町という明確な国府域は 存在しなかった。現在は、国衙機構の充実に対応して、国庁と南大路を中心に諸施設が付 加・整備されていったと考えられている。 やくも 出雲国府も八雲立っ風土記の丘展示学習館の模型に復元されているよ 出雲国府の景観 うに、平城京のような条坊制をとったものではなく、意字平野のなか に国庁を中心にして、正西道と枉北道の十字街付近が官庁街となっていたことが推定され ている こうした復元が行われる前まで、出雲国府も歴史地理学的研究によって、かっての周防 古 方国府や下野国府と同じように条里地割や地形などから都城と似た形状をした、方形もしく は長方形の国府域が推定されており、条里地割に乗る方八町の正方形または南北六町・東 西十一町の長方形とする国府域案などが示されていた。
分寺の瓦 出雲の神社 杵築大社と神社跡 / 神社社殿の成立 / 青木遺跡は神殿群か / 礎石建物の評 価 出雲国の道と景観 姿を現した正西道 律令国家と五畿七道 / 正西道 / 駅路と駅家 / 杉沢遺跡の正西道 官道と国府・駅・ 駅家と官道の成立 / 正西道と条里地割 / 出雲国府と条里地割 / 国府の十字 街 / 備後国府の山陽道分岐点 / 国府設置と駅路 / 十字街は官庁街 / 天平古 道と三軒家地区 / 三軒家地区とは何か 外国への窓口としての出雲国ーエピローグ・ 枉北道と朝酌渡 / 山陰道沿いの瓦葺き建物 / 出雲国と渤海国 / 出雲国の形 成と展開 亠の A 」か」 参考文献 4 2 247 4 2 214