= ー加主張 弱者は強者ともっ とも遠い存在を 「善」と定めた ② 今日のヨ 1 ロッパにおける道徳なるものは、 畜群的道徳である。 : ・ ( これは ) 人間的道徳 の一種にすぎ ( ない。 ) 『善悪の彼岸』第五章 ( 202 ) 結果、弱者こそ善、という 図式が生まれた ルサンチマンと価値観の変化 「善」とは、弱い集が 団が自分たちの 利益を追求する卩、 ための価値観に すぎない ゝ集団の利益を実現するため よい A 」い , っ一」」に、なる ちくぐん うした価値観に従う人間の本能を「畜群 本能」と呼んだ。 キリスト教の道徳的 価値観は「復 = ニたった 「弱者Ⅱ善」と定めるのだから、どうして も「最後に正義は勝つ」となってしまう。 もっと正確に言えば、「正義は最初から勝 っことはできない。そして、最後には勝っ ことになっている」 ここでいう「最後」とは、現実世界では なく「あの世」のことだ。キリスト教では、 弱者 ( 善人 ) は最後の審判でしか、強者 ( 悪 人 ) を見返せない。現実世界を離れたとこ ろで、自分たちをおびやかす者を地獄に落 とす。そんな考え方だから、ニーチェはキ リスト教の道徳的価値観を「復鷦「」とも評 したのだ。 7
自分た 支配し一 ローマー ししたいのに お話 あれ以来、 ログインして こないし : その逆の 自分たちは 我々を を ( ( な ~ 「善」であり いっか天国に 圧迫しているのは / 彡 ) 多 彼らが「悪」 たからた 悪や悪 にて彼 違いら いるが な行 も て考ー か か忙 の っ そうたね : ・みんな それぞれの 見方でしか 物事を見られない ってこと ? 0 怨恨感情から生まれた モラルはこうして拡大し ついには「弱いこと」 「貧しいこと」 「階層の低いこと」が 「善」である となったと言うんだ たから彼に言わせれば 「客観的に見て」 なんていうことも あり得ないんだ 誰の見方が より「正しい」とか 「優れている」って こと。もな、 よるはと 「客観」という 立場自体が 存在しないんだから 《「キミの価値」一 「離婚して娘と別れる父親」 三けと違う視点て見れば たと判断した : ・ 「失恋 0 痛手を癒 0 一」も。「 0 」 「仕事 0 失敗を励まされて〕る」 そう〕う男性と見ることもできる ありふれた言い方 をすれば結局 ' 「人は自分の価値観で 物事を見ている」 ということなんた ' へえー ・カハイトで 忙しいの、 知ってるでしょ「 困ってる友を 見捨てるのーっ響 0 0 : アンタって 子は : 「事実」たと ムは思うけど : そしてその「解釈」は どこからくるのか ? ノ ( ヾあっ ! ただしそれは ニヒリズムを徹底して、 純粋に自分の生を 肯定した後の解釈による 価値付けということになる 希あこ / ても、 「地球が丸い」 とかは ? わたしは自由を愛し、 清涼な大地の上の 大気を愛する。 『ツアラトウストラ』
張 同情とは相手を軽蔑するに 等しい最大の愚行である 同情は人の誇りを傷つ け、復讐心を抱かせる の きみたちは、自分自身に我慢がならず、自分 を充分に愛していない。そこで、きみたちは、 0 隣人を誘惑して自分に好意をいだかせ、隣人 の思い違いでもって自分を金めつきしようと 欲するのだ。 『ツアラトウストラ』「第一部隣人愛について」 隣人愛は、自分を愛 せない人間が他人に 自分を愛させようとあ しているにすぎない / 超人的に生きるな ら、同情も隣人愛 も捨て去らなけれ ばならない 気高く生きるならなれ合うな 人が、その事実から逃避しているにすぎな 。自分が自分を愛するだけでは満たされ ないので、自分への好意を他人に抱かせ、 不十分さを埋めようとしてる、というのだ。 「愛」は、「認めること」と言い換えると 直を自で 100 % 認めることができ が、他人に自を認めさせようとし にしているだけとい一つことだ したがって、超人的な生を生きる人は、 隣人愛を抱かない。自分で自分を 100 % 肯定できるからだ。逆に、隣人愛が「美徳」 とされるのは、自分を愛し抜くことができ ない弱い人たちのルサンチマンである。 ニーチェは、超人になりきれない人も、 隣人を愛してルサンチマンを慰めるのでは なく、来るべき最高の人間 ( 超人 ) に思い を馳せ、彼を愛するべきだという。それは 自分にとってもっとも遠い存在である。そ れを愛すること、つまり遠人愛こそ、人 間へのより大きな愛のかたちなのだ。 717
0 ー注張 道徳哲学は誤り。「真の世 界」を仮定して善の価値 を証明しようとしている 超越的な価値など存在しない ことは、いまや確信である すべてに意味はない。 しかし人が生きるた めには新しい理想が 必要だ 永遠回帰の世界 ! ! / : を克服する超人 の甲本目ヘー し、以、 「神は死んだ , ・ : おれたちが神を殺したの 0 だ ! ・ : 世界がこれまでに所有していた最も 神聖なもの最も強力なもの、それがおれたち e の刃で血まみれになって死んだのだ」 『悦ばしき知識』 ( 125 ) 「神は死んだ」が意味するもの で強調しているのである。 世界にも人生にも なんの意味もないとしたら すべてに意味はない。逆に一一口えば、すべ ては許されている。そんな手がかりのない 世界で、どうすれば自分の生の価値を見つ けることができるのか。ニーチェは無意味 な世界のありようと、そこで意味なく生き る虚無感を「永遠回帰」「大いなる正午」と いう詩的イメージで表現している ( 3 章 ) 。 人は、現実の苦悩にも「意味がある」と 思えるから耐えられる。しかし、それに「何 の意味もない」と断一言されたら : ・・ : 。人は 「終わり」を欲する、とニーチェはいう。 だがその「終わり」にも意味はない。生に も死にも、なんの意味もないのだ。 これでは人は生きられない この虚無感を乗り越えて人はどう生きて いくべきなのか。人間には生きる力となる 新しい「理想」が必要だ。そのためにニー チェが出した答えが超人思想だ。
0 み - 主 人のものの見方は人 それぞれの「遠近法」 にのっとっている ( ・【 1 ー 1 いったいそれ自体でのもののうちに意味があ 皿るのであろうか 意味は必然的にまさに関係的意味であり遠近 の法であるのではなかろうか ? 権力への意志』 ( 590 ) 張 人間の認識のあり方とは ? 自分にとって重要な事柄 は大きく、ささいなこと は小さく見える ものの見方の遠 近法は、本人が自 覚していなくてあ も働いている だからこそ、人間は いまの自分の価値を = 信じて生きていける 「ものを見る」ことの 限界に気つく 人と意見が違うことを「価値観の違い だね」などと片付けてしまうような人がい る。遠近法的思考には、確かにそうした表 面的な部分も含まれるが、もっと人間に深 く浸透している部分もある。 本人は自覚しておらず、「自分の価値観」 とは意識していない部分でも、遠近法的思 考は常に作用し、その人の行動に影響を与 えているというのだ。人間はそうして自分 の欲望や感じ方、行動に価値や意味がある ものと信じるからこそ、この瞬間も生きて いられるのだ。 そうすると、人間は遠近法という枠の中 でしかものを見ていないことになる。本人が 意識していなくても、人には物事のとらえ かたの枠というものがあって、その中で感じ、 考えていることになるわけだ。私たちはまず、 そのこと、を日見しなければならない。 3
0 一行主張 ( 〈よい〉という ) 判断のおこりは、むしろ〈よ い人〉たち自身にあった。すなわち高貴な者 たち、強力な者たち、高位の者たち、高邁な の者たち自身にあった。 『道徳の系譜』「第一論文」 ( 2 ) 「善」とは本来、貴族たちの 属性を表す価値観であった 貴族たちの道徳 ( 君主 道徳 ) は、自己肯定的な 感情に山来している しかし、現在のモラ ルは、自己を否定す る感情に根ざした 「奴隷道徳」である / 奴隷道徳が広がっ } たのは、キリスト 00P 「 教徒たちの「ルサン チマン」のせい 道徳の価値を問い直す 貴族たちは快楽を楽しみ、人を率い、養 い、創造し、苦悩しながら困難を乗り越え、 暴力で奪い、富を蓄える力を持っている。 こうした行動を「正しい」とするのが、君 主道徳だ。そこには、自身に対する肯定的 な感情が流れている。 しかし、いま広く浸透しているのは、正 どれ 反対の「奴隷道徳」である、とニーチェ 奴隷道徳とは、「持ちすぎることはよく ない。禁欲はよいこと。人のために行動し、 助け合い、与、んム粤っことこそが譱〔」とい一つ、 現代人にもおなじみの考え方だ。 こうした考え方が奴隷の道徳であるとは ど一つい一つことなのか ? そしてそもそも、 なぜそんな考え方が人々に広まってしまっ たのだろうか ニーチェによれば、そこにはキリスト教 えんこん 徒の「ルサンチマン」 ( 怨恨感情 ) が働いて いるという。次節でそれについて詳しく見 ていこ一つ
物理現象とカへの意志 力への意志 軌道が決まる バランス いう。植物なら、芽吹き、光に向かって伸 び、やがて花を咲かせ、子孫となる実を残 し朽ちていく。この過程も力への意志だ。 な さらに、カへの意志は、それぞれが自分 きっこう し の力を増大させようと拮抗している状態で ある ( 前ページ参照 ) 。例えば、月と地球 の間には引力が働いている。引力のみでは、 ま 月と地球は接近し、衝突してしまう。しか し月には遠心力がある。引力と遠心力が互 的 いの力を出し、拮抗することで、バラン 目 やスは保たれ、月の軌道が定まるのだ。そ こに、司令塔となるような存在はもちろん、 図 意志や目的などはなく、たた上第と て言教も地の引 っ一つトるのてを 意 衝突せずうまい具合にバランスをとってい をとリに自と欲らま 的」キ」者】つ、 る」という事象があるのみだ。 目たば志導いる - J がれ意」指とえー ぶつかり〈日っことで のをョ力す人た 会スチ「在、り 自 バランスが保たれる 教ン一の内せ守い ラニちにさをて たら定場し 象 日常の風景で考えてみよう。突然、プレ みの者彼安立こ な界方導 ' 。をい起見 ち世い指の位高き萋 イクするお笑い芸人がいる。きっかけはわ からない。気づけば毎日テレビで見かけ、 力への意志はどこで働いているのか ? 地球 力への意志 5
- チ = 。主張 「悪」 ( べーゼ ) とは嫌悪・憎 悪に由来する「悪」である その憎悪とは、キリス ト教徒のローマ人に 対する感情である キリスト教徒は、ロー マ人たちを悪、対する 自らを善と考えた 奴隷道徳は : ・〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己 ナイン ならぬもの〉にたいし否という。つまりこの 否定こそが、それ ( 奴隷道徳 ) の創造的行為な のだ。価値を定める眼差しのこの逆転 : ・こそ か、まさにルサンチマン特有のものである。 『道徳の系譜』「第一論文ズ川 ) キリスト教道徳とルサンチマン こうして「弱い 者が善」という 奴隷道徳が生 まれ、広まった か決まっていく 一方、奴隷道徳では、ま ず他者を否定することから始まる。自分た ちを虐げる、気に人らない者たちを「悪」 と規定し、それによって自分たちのいまの 状態を善と見なそうとする。まず悪が決ま って、善が決まるのだ。 新約聖書のマタイによる福音聿量 5 章に は、イエスの「山上の垂訓」と呼ばれるこ んな一節がある。 「こころの貧しい人たちは、さいわいであ る、天国は彼らのものである。悲しんでい る人たちは、さいわいである、彼らは慰め られるであろう。・ : ・ : 義のために迫害され てきた人たちは、さいわいである、天国は 彼らのものである。 無力なまま抑圧され、支配者への憎悪 に身もだえているに違いないのに、こん な解釈で自らを正当化する。ニーチェは こうしたキリスト教徒の価値観を「顛倒 した遠近法」と呼び、著作の中で強い嫌 悪感を表した。 すいくん てんとう
ーチェ思想の根源を探る 00 一 m れ一 ギリシア古典に人間の原点を見る 次章以降で見ていくように ーチェは既存の価値観や秩序に対する考え方 をことごとく否定した哲学者だ。道徳の意味すらも否定したので、「インモラリ スト ( 背徳者 ) 」と呼ばれてもきた。 だが、それが当時の学術界で異色の論陣を張るために行った、否定のための 否定ではないことは、続きを読めばわかるだろう。 ーチェは、人間本来の生のあり方には、古典ギリシア世界における「ディオ ニュソス的」な面があると考えていた。ディオニュソスとは、ギリシア神話やギ リシア悲劇に登場する酒の神 ( 別名バッカス ) だ。その本性は、陶酔、狂乱、無 秩序である。 「ディオニュソス的なもの」に対する価値観として、 ーチェは「アポロン的なも の」を置いた。アポロンは、光明、医術、音楽・予言などを司る理知的な神である。 「アポロン的な価値観」は、言葉にすると、秩序、理性、節度、統制。要するに、 陶酔。こちらは、思うがまま、自分中心で、 対して「ディオニュソス的な価値観」は、言葉にすると、狂騒、情動、感性、 行儀よく、落ち着いてヾ、だ。 となる。 てる、創造的破壊を目指したもくろみだったのである。 彼の「否定」は、いまの価値観を捨て去ることによって新しい世界観を打ち立 る。だからこそニーチェは、超人思想を経て、新しい道徳について語ったのだ。 た内容とは違う、新しい「アポロン的なもの」の意味・価値を探ることにもつなが これは「アポロン的なもの」の単純な否定ではない。惰性で受け止められてき ーチェは主張したのだ。 偽らざる人間の生のありようなのだから、その価値は見直されるべきだ、とニ のような形になって表れたのだといえる。ディオニュソス的な生き方だって、 てきたことをニーチェは批判した。それが、第 2 章で紹介するような、道徳批判 従来の社会では、前者のような価値観のほうが「正しい」として重きを置かれ 50
科学とキリスト教は「信仰」でつながっている 「神」の 存在を ことごとく 否定 ニヒリズムの登場は、キリスト教道徳が必然的に行き着いた完成状態 ーチェの問い キリスト教道徳 の禁欲主義 の進歩と成果 第 ・地動説 ( 地球は宇宙の中心ではない ) と ・万有引力 ( 天体は神のカで動いている つ てのではない ) 代」・進イヒ論 ( 人間はサルから進化した存在 ) ら れ る ! 無神論、ペシミズム ( 厭世主義 ) 、ニヒリスム ( 虚無主義 ) の浸透 人間の自然なあり方 正 ( 人間にとって自然なあり方と は、自分のしたいようにすること ) 禁欲主義とは人間にと って不自然なこと。神 を「信仰」するから成立 する考え方 「神などいない」にの世に目的などない」 「自分が生まれたことにも使命や意味などない」 「現世の苦しみに意味などない」 薯的なアプローチや合駐義は、「鄭里がある」 という「信仰」があるから成立する考え方 ニつの立場は、この世に存在しない絶対的な真理への「信仰」でつながっている 「ニヒリズムをどう乗り越えるべきか ? 」 れ、運動は万有引力で説明され、ダーウィ ンの進化論によって、人間の祖先はサルで あるとされた。自然科学の発達は、現象の 説明に神は必要ないことをことごとく明か していったのである。 世界には超越者の意図など働いていない ただ物理現象が起こっているだけ。神の存 在が否定され、無神論が広まった。 やがて「世界に意味がないなら人生にも 意味はない」というべシミズム ( 厭世主義 ) が生まれ、さらには「この世に価値のある ものなど存在しない」という風潮が広まっ ていた。これが、ニーチェが生きた当時、 ヨーロッパに広まっていた虚無主義 ( ニ ヒリズム ) である。科学によって、禁欲主 義的な生き方の無意味さが明らかになった のだ。社会はそうして、退廃的な空気 ( デ カダンス ) に覆われた。 では「神の不在」を明らかにし、キリス ト教的な理想主義や世界観を打ち砕いた科 当工只合理主義者たちは、キリスト教的な きょむ えんせい 7