ーチェってどんな人 ? 序章 生い立ちと思想の要点 19 世紀を生きたドイツの哲学者フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ。。ニヒリスム のイメージから気難くひねくれた人物を想像する実はたいそう真面目で芸術を愛し、 孤独と病苦に苦悩しながらも生を明るく肯定しようとした人であった。彼の考えのごく 基本に触れながら、生い立ちをふり返ってみよう。 われわれが高く上昇すればするだけ : 一亡 2 れるなー ぶことの出来ない人々にとっては、一層われわれか小さく見えるー ' 『曙光』 ( 574 )
一つ目の出会い ショーベンハウアーの 著書『意志ど表象 どしての世界』 を古本屋て見つけ 音楽家 リヒャルト・ワーグナー 歳て ライブツイヒ大学に 転学するど、ひどきわ 思索ど学間に没頭した ここての約 4 年の 学生生活の間、ニーチェは 彼の生涯に決定的な 影響を与える思想や 人物学芦スご」どにがよる へゾツレノハ を ? この人は 旧世紀前半 の薯ら 穴きな影を うけたん 彼の厭世哲学に 大きな感銘を 受け読みふけった えんせい 哲学者 ショー / くンノ、ウアー ビとい もっ一つの出会い 音楽家ワーグナーど 後にワーグナーの妻どなる コジマどの出会いは、 ニーチェのその後の人生に 多大な影響えた ワー ? ナーに ついては本も 讐いてるよ さらにニーチェは、 ショーベンハウアーの 思想を、音楽の領域に 展開させる 当時、 音楽家ワーグナーは 数々の独創的な 作曲や歌劇の演出に 才能を発揮し、 名を馳せていた 一ト っ 0 修じめ まして 再び学究の徒に戻リ % 歳の時、 スイスのバーゼル大学 の古典丈献学を担当 する員外教授に就任、・ ~ 3000 フ一フン。 異例の若さての 抜擢、高待遇ての 登用だった % 歳て正教授に 昇任するが 。フロイセンどフランスの , 球恥あ んすね 戦争が勃発し、看護共 どして従軍十・るも、 病気て除隊 この頃から 宀気がちになった 歳て野戦砲共連隊 騎共大隊に入隊 するが、翌秋に除隊 ・第、も , 急な 再すを = 中も勤せ あ , たのお・よイ ※普仏戦争 ( 1870 ~ 71 ) ・、・プロイセン ( 十ドイツ諸邦 ) とフランスの戦争。プロイセンの勝利に終わり、 その後プロイセンを中心にドイツは統一された。 をラ日わ 2
0 ニーチェの著作の中でもっとも有名な代表作、それが『ツア ラトウストラ』だ。彼はその中で、物語に託して自らの思想 を語る。その内容をここで紹介しておこう。 「超人」という 新しい生き方の ススメ かくてツアラトウストラは民衆に向かって次 のように語った。 わたしはきみたちに超人を教える。人間は、超 の克されるべきところの、何ものかである。 『ツアラトウストラ』「第一部ツアラトウストラの序説」 『ツアラトウストラ』でニ 1 チェが語ったこと 新しい生き方を説く 道しるべとして 『ツアラトウストラ』の原題はドイツ 語で、ü\lso sprach Zarathustra.0 邦題 で『ツアラトウストラはかくり・き』とカ 『ツアラトウストラはこ一つ一言った』などを 聞いたことがある人もいるだろう。 ツアラトウストラ』 = AISO sprach Zarathustra ニヒリズム nihilism 第五の福音書 the fifth GospeI
猷れれ込ⅱ 自分たちを正当化 するために 憎いやつを「悪」にする 0 「持たないこと、貧しいこと」を賛美する奴隷道徳は、キリ スト教徒たちのローマ人に対する「ルサンチマン」に由来すッ る、とニーチェはいう。その理屈を見ていこう。 べーゼ ルサンチマン道徳の意味で〈悪い〉とされるの は一体誰であるか、ということが間われなけ ればならない 『道徳の系譜』「第一論文ー ( Ⅱ ) キリスト教道徳とルサンチマン 善悪の起源 origin 0f good and evil 道徳的な「悪」に 込められた嫌悪と憎悪 ニーチェは善悪の起源を考えるとき、 まず、ドイツ語の gu ( ( グート ) —schlechit ( シュレヒト ) という一一つの一言葉を対立させ る。グートとは、語源的にみれば、高貴・ 貴族的で「優良な」という意味での「よい」 Christians ルサンチマン ress entiment slave morality
ーチェが指摘した哲学者の◆迷信 現実を超越した「真理」の存在が必要 道徳哲学神の存在を用いず道徳 ( 善と悪 ) の価値を証明する試み 第第ツい どちらも ー同じくらいに 神を根拠にすることと同じ 道徳の価値 現実 真理という神。が必要 虚構の世界 「神は死んだ」 じつは個々の解釈があるだけ 単なる 主観的な世界 「神は死んだ」が意味するもの 例えば世紀ドイツの哲学者カントは、 人間の理性には到達できない限界があり、 物事の背後にある本当の姿 ( 「物自体」 ) は 知覚することができない、と考えた。 " , などの道徳的価値もそうした世界に属して おり、普遍的正当性を持っている、と論証 しょ一つとしたのだ だがニーチェによれば、カントは結局、 現実世界を超越した「真の世界」が存在し ているという仮定 ( 幻想 ) から逃れていな いという。道徳哲学は、神を用いずに善悪 を証明しようとしていながら、やつばり真 理という名の神を必要としていると指摘し たのだ。 ニーチェは、折母工名がしてきたことは、「善 への愛」に突き動かされ、「真理」をつく り上げる努力にすぎないといい 、道徳哲学 を「願望の哲学」と呼ぶ。 」心は 間カ ( 日したものてある 慂の絶対的な正しさは論証できない。 はあくまて誰力の解鄧にすきない 7
ー「ニーチェ」ってどんな人 ? フリ・ードリッヒ ヴィルヘルム・ニーチェ円世紀の後半に生暑 R 世紀の曙を前に ( 1844S ・ 1q00 ) 没した哲学者てある まんがでわかるニーチェの生い立ち 「いまを生きる 人間のための哲学」 」打事り出し 1844 年 9 月日、 ニーチェは、 。フロイセンの寒村、 レッケンの收師の家に 長男どして生まれた 呪代社会て 生暑る・つえての 新しい考え方を示した 彼の生涯を 振り返ってみようーーー オみハフ、ルゲライフ・ツイヒ \ ムレ , ワイマーーレー、 ドイツ 。バ、イロイト ノヾーマレ スイス しかし、父カー 歳の若さて死亡。 続いて幼い第も 2 歳て亡くなリ 母フランツイスカは、 5 歳のニーチェど 3 歳の妹 エリーザベトを連れ、 ナウムプルクへ転居 スにまた 一んにね イタリア 父方の祖母どニ人の 叔母のもど、 女性ばかリの 家族の中て育った 近しい者の 相次ぐ死は 幼いニーチェの に深刻な 影響を及ばした 子ども時代は聖薯をよく 真面目て 読み沢さな もの静か 収さをと 呼まこたんに 成績は どても優芬 ピアノや作曲、 詩作にも 才能を呪した 0 D 鹹 0
ドイツ語の 2 つの「悪い」 シュレヒト schlechit 悪い ( 不十分な、能力に問題がある ) 例 : 「パソコンが壊れた」はシュレヒト。要 求される機能を備えていない状態になっ たため。 グ g ut よい ( 優良な、 十分な、機能・ 役割を満たす ) キリスト教道徳とルサンチマン böse 悪い ( 好ましくない、心情的に嫌い、 憎い、疎ましい ) 例 : ( 最新の新品だが ) 「パソコンが気に入 らない」は、べーゼ。機能的には十分だが、 好みに合わない ( 嫌悪感を抱く ) ので。 ※道徳的な「悪い」の意味も bÖseo グ つー g ut よい ( 好ましい、心肩 的によい ) ※道徳的な「善」の 意味も t 。 対するシュレヒトとは、「質的に劣った」 という意味での「悪い」。 グートという一一一口葉はやがて、精神的な高 潔さや道徳的に「善い」という意味でも使 われるようになった。一方、そのとき道徳 的に「悪い」の意味で使われるようになっ たのは、 böse ( べーゼ ) という一言葉。べ ーゼとは、物事に対する嫌悪感のこもった 「悪い」を意味する。 キリスト教徒が抱いた ルサンチマンとは ? 「べーゼ」に込められた嫌悪感とは、誰の 誰に対するものなのか。ニーチェはそれを、 キリスト教徒 ( およびユダヤ人 ) のロ ーマ人たちに対する嫌悪感だと考えた。 キリスト教徒にとって、自分たちを支配 し、圧迫するローマ人たちは憎むべき存在 だった。だからローマ人はべーゼ ( 嫌い 悪 ) だ。当然、ローマ人の属性 ( 強さや富 ) も悪だ。一方、その対極である我々はよい
道徳の根には「畜群本能」がある 自分よりも、他人や共同体のために行動するべき 「畜群」はドイツ語で He 「 de 。英語の he 「 d にあたり、牛や豚など家畜の 群れのこと。ニーチェが畜群という ときは、いわば「群れる弱者」のこと を意味している。突出した実力を 持つ人や成功者を妬むわりに、自 ら勝ち取るための行動を起こす勇 気はない。そんな人たちへの嫌悪 感を、彼は家畜にたとえたのだ。 共同体のほうが個人よりも 価値が高いという前提 畜群本能に由来する ・畜群からはみ出す人 ( 財産や能力のある人 ) を敵視する ・自然に背く人 ( 欲望を抑えて人に奉仕する ) を高級とする ・平均的な者 ( 畜群にとっての自分たち ) を高級とする 科学の発展で起こったコ一ヒリズム」 禁欲主義が理想とされる 畜群本能に支配された人たちは、個人が 突出することを嫌い、欲望のまま行動して 他人の利益を侵害することを嫌う。その結 果、畜群本能を共有する人々の間では ( す なわち、キリスト教徒の間では ) 、禁欲主 義が生き方の理想とされた。 だが禁欲主義は、人間の自然な感情・欲 望を真っ向から否定する。そこで必要とさ れたのが「信仰」だ。禁欲主義的な生き方 を「理想」と見なすには、「禁欲的な生活 は神への信仰の厚さの表れである」と考え る必要があったというわけだ。同時に、人々 に苦痛を愛することを教える禁欲主義は、 「神の試練」といった言い方で、不遇な現 実に意味を与える役にも立った。 科学が進歩するほど 広がった無神論 このような禁欲主義を理想とする考え方 は、科学が進歩すると、徐々に後退して いったかのように見える。天動説が否定さ 7
『ツアラトウストラ』の概略① 教えを説く ツアラトウストラ ツアラトウストラは 30 歳の時から 10 年間、 山の洞窟で孤独にこもった後、ある朝、人々 に自らの知恵を分け与え、教えるために山 を下りる。神が死んだこと、そして超人に ついて説くためである。「まだら牛」という 町で道徳や哲学の批判など、さまざまな教 えを語り、再び孤独な生活に戻ろうとする 一当 再び弟子たち の元へ 山中の洞窟にこもるツアラトウストラの元 に鏡を携えた子がやって来る。その鏡に悪 魔の顔と嘲笑が映ったことで、彼は自分の 教えが歪められて伝わっていることを知 る。彼は、再び弟子たちの元へ戻ることを 決意。神の死、超人の理想をさらに力強く 説く。また、生あるものには自らを超える ことをつねに欲する「カへの意志」があるこ とを語る。ツアラトウストラは内なる声に 従って、永遠回帰の教えを準備するために 再び山に戻る ツアラトウストラとは、古代ベルシャで 始まったゾロアスター教の開祖、ゾロアス ターの、ドイツ々。『ツアラトウストラ』 では、その名を持っ主人公が神の死、超人、 永遠回帰、カへの意志などを人々や動物に く。ツアラトウストラの一一豆某は、 説いてい もちろんニーチェ自身の言葉である。 神が死に、ヨーロッパにはニヒリズム が広がっている。「絶対的な正しさ」があ ると信じてそこへ向かって人生を歩んでい た多くの人々が、生きる道を失ってしまっ た。そこで新しい生き方の道しるべとして、 ニーチェは『ツアラトウストラ』を上梓 した。知人に宛てた書簡の中でニーチェが これを新約聖書に収録された 4 つの福音書 に続く「第五の福音書」と呼んでいる ことからも、自身の著作に大きな使命を託 していたことがわかる。 ここまで見てきたように、また第 4 章で ニーチェは自らの哲学 も紹介するように、 を物語にのせ、ニヒリズムを乗り越えるた 『ツアラトウストラ』でニーチェが語ったこと じようし
遠近法的思考 ーチェが人間の根本にあるとしたものの 見方、とらえ方。すべて自分に近いこと ( 関 係が深いこと ) は重大に見えるし、自分に遠 いこと ( 関係が薄いこと ) は、たいしたこと がないように思える 9 それをニーチェは、 絵画にたとえて「遠近法」と呼んだ。 『曙光』 ( 333 ) 考えると思われるか ? 動物はわれわれを道徳的な存在と しかし一体諸君は、 は考えない。 われわれは動物を道徳的な存在と 全訳が出版されて 100 周年となる。 った答えを人々に説教していく。 . 今年 2011 年は、日本初の 公ツアラトウストラは、神の死や超人など、 . 思索の末に至 アジアに起源を持つゾロアスター教のこと。作品で、主人 - ロアスター」のドイツ語読み。ゾロアスターとは、古代中央 思想を物語形式で語った著作。ツアラトウストラとは、 f ゾ ーチェが人間の新しい生き方を記した書として、自身の 『ツアラトウストラ』 生を充実させることでもある。 意志に身を委ねることが、もっとも したがって、人間にとって、カへの つねに「死」から遠ざかろうとする。 で説明できるとした。力への意志は、 言語などあらゆる事象がカへの意志 いると考え、歴史、社会制度、思想、 せめぎ合いで瞬間瞬間が成り立って ーチェは、世界とは、カへの意志の 己を拡大させようとする能動性。 「もっと大きく」「もっと豊かに」と自 、あらゆる存在に宿り、「もっと強く」 力への意志 ぐん ちく 畜群 群れる弱者。強者は、孤独に戦い勝ち取 る強さを持つ弱者にはそれがない。 だから「人は、みんなのために奉仕するべ き。わがままはよくない」と考えて、まと まろうとする。こういう人たちをニーチ ェは畜群と呼んだ。 超人 すべてが無価値であるニヒリ ズムの世界で強く生きられる、 最高の人間のあり方。人間は 自らを超克して、超人を目指 さなければならない、とニーチ ェは説いた。超人は、自分で 自分だけの価値観を打ち立て、 孤独に、強く気高く生きる ことができる。 者たちについて」 「第一部身体を軽蔑する 『ツアラトウストラ』 道具である。 性もまた、きみの身体の ころの、きみの小さな理 きみが「精神」と呼ぶと もない。・・・和の兄弟よ、 て、それ以外の何者で 私はまったく身体であっ