しておくと、写真のようにダ ンディな男です。当時の年齢 は 44 歳。ちなみに、ホンダ の創業者、本田宗一郎が 1906 年生まれですから、ほ シャル『白洲次郎』で、彼を 2009 年、 NHK ドラマスペ ぼ同世代の人物になりますね。 28 な存在にもなりつつある白洲ですが、「政商」と呼ばれ ダンディな面だけが強調され、今や日本史のスター的 で、その特性はこの物語でも遺憾なく発揮されています。 自分、つまり、プリンシプルが必須だと理解をしたよう 英国英語を身に付けた他、欧米で生き抜くにはプレない 神戸の裕福な家庭に生まれ、ケンプリッジ大学に留学。 えた改造モデルでした。 愛車はポルシェ 911S 、それも強力なエンジンに載せ換 ロレックス・オイスター ライターはダンヒル、晩年の のスーツ・プランドは英国のヘンリー・プール。時計は はあったようで、当時としてはかなりの長身です。好み は身長が 180Cm ありますが、実際の白洲次郎も 175Cm 代の知性派俳優の代表格、伊勢谷友介。モデル出身の彼 主人公にしたドラマが放送されました。白洲次郎役は当
は主語を we にするはずです。社長など組織を代表でき る立場にある方なら I でも構いませんが、通常、私的な レターというニュアンスを避けるためにも、主語は we にするのが無難。白洲のように、自分の所属する組織に ついて they と書いたら、相手の信用を失う可能性大です。 受け取った相手は「こいつ、身内を彼ら (they) と書い ているけれど、自分の組織のことだとは思っていないの か」という印象を持っ可能性がある。 さすがに、ジープウェイ・レターの人称代名詞の使い 方については、白洲の評伝でも指摘されており、 その例を紹介しておきましよう。 次郎は GHQ を説得するため、日本人のことを意識的 に。彼ら " ( They ) と呼んだ。あたかも GHQ サイドか らものを見ているかのような表現を多用することで親密 感を引き出そうとしたのである 本来なら、 ・・・ ( しかし、 北康利『白洲次郎占領を背負った男』 この“彼ら " は“我々”でなければならない こに ) 次郎の、いかにも次郎らしい " 騎士 道 " が見えるのだ。己の立場から信ずる " 原則 " を全う しようとする次郎の“英国 " が浮かび上がってくる 鶴見紘『白洲次郎の日本国憲法』 152
参考文献 Ray A. Moore / Donald L. R0binson "Partners for Democracy Crafting the New Japanese State under MacArthur - Oxford University Press 2002 Courtney Whitney "MacArthur" - His Rendezvous with History - AIfred A. Knopf 1956 lnazo Nitobe "Bushid0" - The Soul 0f Japan - Tuttle Publishing 1969 鈴木昭典「日本国憲法を生んだ密室の九日間』創元社 1995 須藤孝光「 1946 白洲次郎と日本国憲法』新潮社 2010 鶴見紘『白洲次郎の日本国憲法』光文社 2007 白洲次郎『プリンシプルのない日本』新潮社 2006 青柳恵介『風の男白洲次郎』新潮社 1997 北康利『白洲次郎占領を背負った男』講談社 2005 白洲次郎白洲正子青柳恵介牧山桂子ほか 『白洲次郎の流儀』新潮社 2004 北康利『吉田茂ポピュリズムに背を向けて』講談社 2009 半藤一利「日本のいちばん長い日一運命の八月十五日一』 文藝春秋 1995 八木秀次『日本国憲法とは何か』 PH P 研究所 2003 有沢広巳 ( 監修 ) 安藤良雄ほか ( 編 ) 『昭和経済史』 日本経済新聞社 1994 猪木武徳「戦後世界経済史ー自由と平等の視点から一』 中央公論新社 2009 司馬遼太郎『この国のかたち』文藝春秋 1990 ~ 1996 司馬遼太郎「「昭和」という国家』日本放送出版協会 1999 242
と挟んで、手紙を気軽なトーンを加えます。 GHQ を訪問した感触を伝えつつ、吉田外相、松本国 務相と打ち合わせをする中で、「じゃあ、手紙を書こう」 後の首相 ) にこう語ったとされます。 後年のことですが、彼は宮澤喜一 ( 当時は外務官僚、 手紙を書くという提案をするのは自然な感じがしますね。 煩わしいくらいに重んじます。その英国で学んだ白洲が、 ししましたが、英国人というのは手紙やメモランダムを と提案したのは白洲であるとされます。第 2 章でもお話 140 知ることができるわけです。 とで、後世の私たちは当時の日本側の様子をある程度は 白洲がこの場面で「手紙を書こう」と提案してくれたこ 日本人としての抵抗について述べた言葉です。確かに これは、 GHQ に憲法草案まで作られることに対する、 宮澤喜一の証言より『白洲次郎』 ( 平凡社 ) て、必ず批判を受けることになる。 したということが残らないと、あとで国民から疑間が出 あえて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗 になったのではないということを国民に見せるために 自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなり
「それでは間題を別の方向に (different) 複雑化させて (complexion) しまう」。「別の方向に」というのは、そ こまで具体的には考えていなかったということでしよう。 冒頭では「明治憲法の改定も検討した」とコメントして いますが、実際、この点までは考えてはいないようです。 我われの憲法に関する考え (concept) は、「国民から 持ち上がる (comesupfrom) ものであり、国民に下げ 渡される ( down (o) ものではない」とします。理想と しては素晴らしい。しかし、 GHQ はそういう体裁だけ を保ちたいのです。 そして、ホイットニーは、どんな方法であれ、天皇が まず新憲法を国民に提示すれば良いではないかといった 提案をします。すると、これまで沈黙していた白洲次郎 が初めて口を挟んできました。 You mean that you have no objection tO a preceding statement by the Emperor? 「つまり、天皇が先立って (preceding) 声明を出すこ とに異論はない (noobjection) のだな ? 」。諸状況を考 えたうえでの推定ですが、白洲の発言には「松本さん、 これ以上議論しても仕方がないですよ」というニュアン スを感じなくもありません。 後に白洲は、この議論について「原則論に解釈論で挑 198
第 1 章登場人物 ダーなってしまったのか ? 」 という評価もあるようですが、 GHQ のいわゆる「憲法の押 しつけ」にも、その「傲岸さ」 と「鈍感力」をもって立ち向 かいました。 英語力については、専門の 商法に関する限り理解力は充 分であったと思いますが、留学先は英国、フランス、ド イツで、期間は合わせて約 3 年間。それも、若いとは言 えない 30 歳前後での渡欧で、言葉も異なる三ヶ国です こで一気に英語が流暢になったということはな から、 いでしよう。 GHQ の猛者を相手に丁々発止というわけ にはいかなかったようです。 松本烝治の「烝治」は、米国の初代大統領であるジョ ージ・ワシントンにちなんだもの。偶然かどうか、彼が その好敵手である GHQ のホイットニーと憲法論を闘わ せる 2 月 22 日はワシントンの誕生日でした。 生白洲次郎 ( 1902 年 2 月 1 7 日一 1985 年 1 1 月 28 日 ) 「白洲次郎って誰 ? 」という方のために、簡単な解説を 27
第 5 章ジープウェイ・レター くれば、それはほんとに一大事であると同時に重大な罪 悪であると考える 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 憲法調査会は、このレターが書かれてから 10 年後の 1956 年に設置された委員会。 1964 年に大部の『憲法調 査会報告書』を提出しています。白洲がこの文章を書い たのは、さらにその 5 年後の 1969 年です。 今日でも「現在の憲法は米国に押しつけられたものだ」 という意見が改憲の理由として登場しますが、実際に GHQ との交渉を担当した白洲もそう認識していたよう です。その「押しつけ」「強制」に、「為政者があれだけ 抵抗したのだということ」を示す証左がこのジープウェ イ・レターということになるかもしれません。 Ⅶ . クロージング 157 is also partly responsible : forgive me for my shortcoming for which my late father shortage by writing this mumble but I know you will I am afraid I have already accelerated the paper
ーらとの交渉を続けた終戦連絡中央事務局参与 ( 後に次長 ) の白洲次郎は、 1964 年、政府の調査会が作 成した憲法制定に関わる報告書が公表になると、自身の ェッセイにこんな一節を載せます。 この憲法は占領軍によって強制されたものであると明 示すべきであった。 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 時を 1946 年に戻しましよう。この憲法に関する調査 のために 3 ヶ月間日本に滞在し、昭和天皇や憲法改定の 当事者たちとの会談を重ねた米国の日本学の泰斗、ケネ ス・コールグロープは、この年の 7 月、トルーマン大統 領への手紙でこんな報告をしています。 General MacArthur's policy toward the drafting of the new Japanese Constitution has been bOth timely and WlSe. 「マッカーサーの憲法草案作成に対する方針は、時宜を 得ており、また賢明であった」 歴史に関する理解はさまざま。白洲次郎とケネス・コ ールグロープの「どちらが正しいか」という見方は、き っと誤った考えなのでしよう。
この憲法は占領軍によって強制されたものであると明 示すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかした ところで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられ るような時がくれば、それはほんとに一大事であると同 時に重大な罪悪であると考える。 白洲次郎『プリンシプルのない日本』 報告書に「強制である」と書けなかったのは、当時の 為政者のプライドなのか、日米の「共謀」を認めること なのか。否、事実というのは、単純に白黒では決着でき ないものでしよう。 本章では、日米双方の行動の帰結とも言うべき二つの 出来事について述べ、物語を終えようと思っています。 208
第 4 章 2 月 13 日の会談 でしよう。 . and that if you accept this Constitution you can be sure that the Supreme Commander will support your position. that は、前出の GeneraI MacArhur feels につながって います。「この憲法 ( 草案 ) を受け人れるなら、最高司 令官はあなたたちの地位を保障する (will support your position) と思ってくれて構わない (you canbesure) 」。 これもホイットニーが宣言した「カによる威嚇ではなく、 カそのもの」を使うということでしようか。 日本側は「ヒドイことを言いやがる」と思ったでしょ う。もちろん、松本国務相のメモにこの発言に関する記 述はありません。 やはり、 GHQ の記録から受け取れる印象は、「この草 案をこのまま受け入れるべきだ」というのがホイットニ ーの本音であったということです。しかし、前にも述べ ましたが、日本側では、 GHQ のそんな意図を察した白 洲次郎と、改憲を主導したい思いの強い松本国務相の間 に理解の齟齬があります。 その齟齬は、次章でご紹介する白洲次郎の「ジープウ ェイ・レター」につながっていきます。 133