桓武擁立の功臣である藤原氏式家出身の女性を祖母にもっという濃密な近親婚の所産であ った。平城は、嵯峨に男子がおらず、大伴には直世がいるという状況のもとで復位をめざ したことになる。 とすれば、平城が天皇復帰を企てたのは、それにより嵯峨を事実上廃位に追い込み、彼 を「一代限りの天皇」にしてしまおうという意図によるのではないかと考えられる。平城 としては、「皇嗣」となる男子のいない同母弟を排除し、異母弟との皇統迭立を実現しょ うとしたのではないだろうか。そのように考えれば、一見不可解に田 5 われる平城の行動も、 亡父桓武の構想を根底から否定するものではなかったことになる。 ところが、平城上皇のこの企ては失敗に終わる。かって七六四 ( 天平宝字 嵯峨による 八 ) 年、称徳 ( 上皇 ) が淳仁を廃位しようとした時は、称徳の側から先制 軌道修正 換 転 攻撃を仕掛けて事を成就させたが、平城の場合は、逆に嵯峨側の武力発動 の 鹹によって完全に先手を取られてしまったのである。平城は東国に逃れて再起を企てたが、 皇嵯峨の兵力に行く手を遮られ、平城京に戻り、そこで出家を余儀なくされた。嵯峨は平城 の計画を武力で粉砕したのである。 その後、嵯峨によって皇統の再建が企てられる。まず、高岳皇太子を廃して平城系を排
210 たかののにいかさ 光仁 高野新笠 図 8 桓武父子の婚姻関係 ( 河内祥輔『古代政治史における天皇制 の論理』吉川弘文館、一九八六年より ) 井上 藤原旅子 おさべ 他戸 さかひと 酒人 たらばなのじようし 橘常子 桓武 おとむろ 藤原乙牟漏 さかのうえのゆうし 坂上又子 大宅 おおやけ 平城 たかっ 高津 業良 嵯峨 仁明 たちばなのかちこ 橘嘉智子正子 し 高志 恒世 あさはら 朝原 なりよし つねよ きっし 吉子であり、その点で彼はこの選 から漏れたようである。桓武が伊 予の邸宅に頻繁に行幸したのは、 たんに彼を寵愛していたからでは なく、いわば贖罪の意味があった と思われる。 桓武は、文武に始まる皇統が基 本的に一系のみであったために、 藤原氏の娘が生んだ皇子といった 理想とする後継者に恵まれなかっ た場合、極めて脆いことを見抜い ていたのであろう。また、聖武の 恒貞ように皇統の再建に時間と労力を 費やすよりも、あらかじめ複数の ※冂凵内は天皇。皇統があるのに越したことはない
の血を受け継ぐことを評価したものであろう。これは、藤原氏の血を重視する文武皇統の 原理を踏襲したものと考えられる。聖武が光明子を始めとして藤原氏から複数の娘を迎え ながら、たった一人の男子しか得られなかったこと ( しかも彼は夭折してしまった ) に較べ ると、桓武の優位は圧倒的ですらある。 つぎに桓武は、この三人の親王たちにそれぞれ異母姉妹を娶らせたのである。すなわち たちばなの おおやけのひめみこ あさはらのひめみこ 桓武は、安殿に聖武の血筋を引く朝原内親王だけでなく異母妹の大宅内親王 ( 母は橘 こしのひめみこ さかのうえのゆうし たかつのひめみこ 常子 ) も娶らせた。賀美能には高津内親王 ( 母は坂上又子 ) を、大伴にも高志内親王 ( 母は藤原乙牟漏。平城の同母妹 ) を娶らせている。これは七世紀後半に集中して行われ、 最終的には文武を生み出すことになった近親婚を踏襲していると見られる。このような近 親婚は、聖武と較べて娘の数も多かった桓武だからこそ可能だったといえよう。 桓武は、このように藤原氏式家出身の母をもち、さらに異母姉妹を妻とする三人の親王 たちに皇位継承権をあたえ、さらに皇位継承上の重要な役割を分担させようと考えたので 皇ある。すなわち、彼ら三人をそれぞれ起点として、複数の系統から交替で天皇を出すので てつりつ ある。いわゆる皇統の迭立 ( 交互に立っこと ) である。実は、桓武にはこの三人以外にも これきみ 藤原氏の娘を母とする伊予親王という息子がいた。しかし、彼の母は藤原南家の是公の娘 よのみこ
考えるのが妥当ではないだろうか。とすれば、「天宗高紹」天皇とは、「文武に始まる皇統 を高らかに受け継いだ偉大なる天皇」という意味になるであろう。この段階では、光仁は なお草壁皇統に連なる天皇として認識されていたわけである。 やまとねこあまつひつぎいやてらす それに対し桓武の諡号は「日本根子皇統弥照」天皇といった。これは、八〇六 ( 大同 元 ) 年三月に桓武が死去した翌月に献じられたものであるから、この時すでに光仁を始祖 とする中国的な皇統意識は成立している。「日本根子皇統弥照天皇とは、「日本根子」が 天皇の地位を示す尊称であり、「皇統弥照」天皇は「光仁に始まる新しい皇統をさらに光 り輝かせた偉大なる天皇」の意味に理解できると思われる。「皇統」は「あまつひつぎ ( 皇位の継承、あるいは継承される皇位の意味 ) ーと読まれたようだが、ここで「皇統」とい う漢語が登場するのは実に興味深い さて、新皇統には新たな皇統継承の原理がなければならないであろう。桓 新たな皇統 武はこれについてどのように考えていたのであろうか 継承の構想 おとむ ます桓武は、彼にとって擁立の功臣というべき藤原氏の式家から娘 ( 乙牟 かみのおおとも 漏、旅子 ) を娶り、彼女らとの間に安殿、賀美能、大伴の三親王を得ることができた。桓 武が数ある子女のなかでも彼ら三人を特別扱いにしたのは、彼らが藤原氏の、とくに式家
0 2 結果的に文武 ( 草壁 ) 皇統の拠点ともいうべき政治都市となった。新たな皇統の樹立をめ けつべっ ざす桓武としては、ここで平城京と訣別して、新皇統の拠点となる新しい都市を建設する 必要に迫られていたといえよう。 桓武はどのような皇統を打ち立てようとしていたのであろうか。そ 中国的皇統の創出 れを知る手掛かりになるのは、七八五 ( 延暦四 ) 年十一月に桓武が かわち こ、つしさいてん 河内国交野郡で「郊祀祭天」と呼ばれる中国的な祭儀を行っていることである。「郊祀祭 こうてんじようてい 天」とは、冬至の日に皇帝が都城南郊に天壇を設けて「昊天上帝 ( 天帝 ) ーを祭る儀式で あった。『続日本紀』延暦六 ( 七八七 ) 年十一月甲寅条によれば、二度目の「郊祀祭天」 において「天帝」に奉呈された祭文はつぎのとおり。 してんししん ほしひのとのうやど 維れ延暦六年歳丁卯に次る十一月庚戌の朔甲寅、嗣天子臣、謹みて従二位行大納一言 ーも、つ あ あ一らか つぐただ 兼民部卿造東大寺司長官藤原朝臣継縄を遣して、敢へて昭に昊天上帝に告さしむ。臣、 けんめい さきわい きゅうそうさきわい ふレ」、つ 恭しく蜷命を膺けて鴻基を嗣ぎ守る。幸に、穹蒼祚を降し、覆燾徴を騰ぐるに頼 つよ、つ医、 たいめい あんぜん りて、四海晏然として万姓康楽す。方に今、大明南に至りて、長畧初めて昇る。敬ひ と のりおさ て燔祀の儀を采り、祗みて報徳の典を脩む。謹みて玉帛・犠斉・粢盛の庶品を以て いん。り・よ、つ はいしんさくしゅこいねが すす たかつがす 茲の禪燎に備へ、祗みて潔誠を薦む。高紹天皇の配神作主、尚はくは饗けたまへ。 うやうや かたの ま・さ 、つ
ひかみのかわっぐ 今まで述べてきたように、草壁皇統を受け継ぐ氷上川継がいなくなったこ 平城京から とによって、桓武は彼への対抗意識から解放され、自身が聖武を介して草 長岡京へ 壁皇統に連なることを声高に主張する必要がなくなったわけである。ここ 転 に桓武は、自身の権威や正当性の拠りどころを改めて確立するために、文武や草壁を始祖 の 識とする従来の皇統とはまったく異なる新たな皇統意識を模索することになる。 皇そのきっかけになったのは、やはり七八四 ( 延暦一一 l) 年の平城京から長岡京への遷都だ ったのではないかと考えられる。平城京は、いうまでもなく七一〇 ( 和銅三 ) 年以来の都 であるが、天皇としては元明に始まって元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳そして光仁と続き、 皇統意識の転換ーーエピローグ
称徳から光仁・桓武へ 204 れてしまった。異母姉である称徳によって名を変えられ、都を追われた。聖武による皇統 再建にこれほど翻弄された人生もなかったであろう。 まつむしでら 現在、千葉県印旛郡の松虫寺に聖武天皇の第三皇女、松虫姫 ( 不破内親王か ) の御廟と いんねん 称するものが残るのも、何とも不思議な因縁としかいいよ、つがない。
『日本紀略』延暦十四 ( 七九五 ) 年十二月乙酉条によれば、 淡路国に配したる不破内親王を和泉国に移す。 と見え、その後、彼女は淡路の配所から和泉国に移ることを許されたようである。この時、 にほん一」、つキ一 すでに , ハ十七歳になっていたであろう。『日本後紀』延暦二十四年 ( 八〇五 ) 年三月壬辰 条にはつぎの記事がある。 伊豆国の流人氷上真人河継の罪を免す。 翌年三月には桓武が死去するのであるが、桓武の病気平癒を祈る恩赦により、川継はよ うやく帰京することを許されたのである。二十三年におよぶ配所暮らしだったことになる。 すでに四十七歳になっていたであろう。ただ、この時に不破の身に言及するところがない あるいは、彼女はすでに和泉の配所で没してしまったのだろうか。なお存命だったとして よわい 事も、すでに齢を重ねて七十七である。 その後、史料に彼女の死去を伝えるものはない。内親王という身分に生まれながら、そ の 桓の死去が記録に残されなかったことは異例に属する。思えば、聖武の皇統再建計画のため に若くして塩焼王と結婚、彼と人生の浮沈をともにし、夫の没後は、息子一一人が草壁皇統 を受け継ぐ血統的資格をもっていたがために、皇位継承をめぐる紛争に否応なく巻き込ま にほん」 . り・や′、
201 桓武の即位事情 「不改常典」が光仁即位の時に見えなかったのは、光仁は桓武に較べれば、正真正銘の 聖武の娘婿であって、その限りで草壁皇統に連なることが保証されていたからであろう。 その点、聖武の娘婿の娘婿にすぎない桓武は、「不改常典」まで持ち出して、自身の天皇 としての権威や正当性が聖武に由来することを証明しなければならなかったのである。 よわい 七八一年十二月に光仁太上天皇が齢七十三で死去すると、そのわずか 川継の変ー狙 二カ月後に事件は起きた。それは『続日本紀』延暦元 ( 七八一 l) 年閏 われた桓武 正月丁酉条につぎのように記されている。 ひそか やまと かづらきのかみ 氷上川継を大和国葛上郡に獲へたり。詔して曰はく、「氷上川継は、潜に逆乱を あらわ のり ふわのひめみ 謀りて、事既に発覚れぬ。法に拠りて処断するに、罪極刑に合へり。その母不破内親 りようあん みささぎ 王は、返逆の近親にして、亦重き罪に合へり。但し、諒闇の始なるを以て山陵未だ ゆる おんる あげつら 乾かず、哀感の情刑を論ふに忍びず。その川継は、その死を免して、これを遠流に処 あわじ あわ し、不破内親王井せて川継が姉妹は淡路国に移配すべし」とのたまふ。川継は塩焼王 やまとのおとひとひそか らんにゆう の子なり。初め川継が資人大和乙人、私に兵杖を帯びて宮中に闌入す。所司獲へて ・も、つ ひそか あっ 推問するに、乙人款して云はく、「川継陰に謀りて、今月十日の夜、衆を聚めて北門 ひき みかど うじのおおきみ より入り、朝庭を傾けむとす。仍て乙人を遣して、その党宇治王を召し将ゐて期日 えんりやく
称徳から光仁・桓武へ 200 あきつみかみおおやしまし すめらおおみこと 明神と大八洲知らしめす天皇が詔旨らまと宣りたまふ勅を、親王・諸王・百官人等、 もろもろ かしこあきつみかみいまやまとねこすめらおおきみ 天下の公民、衆聞きたまへと宣る。掛けまくも畏き現神と坐す倭根子天皇が皇、 あまつひつぎたかみくらわざ あめのしたしらしめ 此の天日嗣高座の業を掛けまくも畏き近江大津宮に御字しし天皇の勅り賜ひ定め のりまにま まっ かしこ 賜へる法の随に被け賜はりて仕へ奉れと仰せ賜ひ授け賜へば、頂に受け賜はり恐み、 受け賜はりぢ、進みも知らに退くも知らに恐み坐さくと宣りたまふ天皇が勅を、衆 聞きたまへと宣る。 桓武やそれ以降の天皇の即位宣命に天智が定めたという「不改常典」が見えるのは、桓 武以後の歴代天皇がいわゆる「天智系」であることを意味するといわれるが、それは違う のではないかと思われる。なぜならば、すでに述べたように、文武皇統とその継承を正当 化するのが「不改常典」だったと考えられるからである。 本来「不改常典」は文武が皇統の始祖であることの根拠とされた法であったから、文武 の正当な後継者とされた聖武の血統を引き継ぐ桓武やそれ以降の天皇が、彼らの正当性の 証しとして「不改常典」に言及するのは当然のことであったといえよう。桓武やその子孫 の天皇が天智の制定したという法によって自身の即位を正当化しようとしたのは、彼らが たんに天智の子孫だからではないのである。