、んよ、つ。 ながやのおおきみ さらに、奈良麻呂が高市系ともいうべき安宿・黄文の一一王 ( 長屋王の息子 ) も天皇擁立 の候補に加えたのは、彼ら二人が光明皇太后の甥であり、奈良麻呂の従兄弟でもあったか らと見られる ( 仲麻呂は光明子の兄弟の息子、奈良麻呂や安宿・黄文らは彼女の姉妹の息子 ) 。 すなわち、聖武の実際の娘婿でなく、所詮仲麻呂の娘婿的な存在にすぎない大炊に較べれ ば、安宿・黄文のほうがはるかに「皇嗣」としてふさわしい、と奈良麻呂が考えたのも無 理からぬことであった。 だが、奈良麻呂らの計画は複数の密告によって、脆くも瓦解するこ 道祖「杖下に死す」 とになる。七五七 ( 天平宝字元 ) 年六月九日、仲麻呂が早くも戒厳 やましろ おおとものさかいまろ 令を施行したのは、大伴堺麻呂による通報を受けてのことであった。二十八日には山背 のおおきみ 変王 ( 長屋王の息子 ) が奈良麻呂らの挙兵計画を仲麻呂に通報している。 耜七月一一日、相次ぐ密告を受けて、光明皇太后は右大臣以下の重臣らを召して、計画に加 かみつみちのひたっ 奈担することがないよう自重をうながした。その日の夕刻、上道斐太都が同日夜半に計画 おののあずまひと 7 か決行されることを仲麻呂に密告した。仲麻呂は直ちに計画に加わったという小野東人 4 たほのちゅうせつ と答本忠節を逮捕、さらに道祖王邸を包囲して、その身柄を拘束したのである。
といった極めて消極的な理由により、大炊王が新皇太子に決定されたのであった。 大炊は光明皇太后の甥である藤原仲麻呂の庇護のもとにあった皇族で、 まより あわたのもろね 大炊は孝謙の 仲麻呂の亡くなった息子真従の妻だった粟田諸姉と結婚し、当時は仲麻 擬似配偶者 呂邸に起居していた。大炊を強く推挙したのが仲麻呂であることは明白 統であり、おそらく光明皇太后もそれに同意したのであろう。彼女は聖武の譲位後、仲麻呂 しびちゅうたい 草が長官を務める紫微中台を拠点にして娘孝謙の政治を輔佐する立場にあったから、この 時も仲麻呂の進言を容れて大炊を孝謙に推薦したのではないかと見られる。 ただ、いくら光明子や仲麻呂らの後押しがあったとしても、それだけでは大炊が孝謙の 「皇嗣」に選ばれることはなかったはずである。「皇嗣」にふさわしい条件が彼に備わって いなければならなかった。『続日本紀』天平宝字三 ( 七五九 ) 年 , ハ月庚戌条によると、光 明子は大炊のことを「吾が子、と呼んでいる。また、同条によれば、大炊は「前の聖武天 皇の皇太子と定め賜ひて」と見える。彼は孝謙でなくあくまで聖武の皇太子と見なされて いたのである。要するに、大炊は聖武・光明子夫妻の息子も同然と認定されていた。 にほんりよ、つい医」 さらに、『日本霊異記』下巻第三十八縁には、 あわじ また宝字八年十月に、大炊天皇、皇后に賊たれ、天皇の位を接め、淡路国に退きたま
えるように、彼は七四一一 ( 天平十四 ) 年に塩焼が「皇嗣」として失脚した後、聖武が孝謙 の「皇嗣」について明言しないことに憂慮を募らせていた。彼は聖武に万一のことがあっ 生た場合、皇統を受け継ぐ正当な天皇を擁立するには武力の発動も辞すべきではないという 識考えを固めつつあったと見られる。 てキ」カい 『続日本紀』の叙述によれば、奈良麻呂は早くから従兄弟にあたる藤原仲麻呂に敵愾心 草を燃やし、事あるごとに権力奪取の機会を窺っていたかのように描かれている。しかし、 『続日本紀』に見られる奈良麻呂の変に関する記述は、彼を弾圧して政権を維持・強化し た伸麻呂のサイドからの改変や誇張が加えられたものである。『続日本紀』の奈良麻呂像 を鵜呑みにしてはならないと思われる。 そのような問題のある『続日本紀』の記すところによれば、奈良麻呂は同志を糾合して 挙兵に踏み切り、①仲麻呂の殺害、②大炊皇太子の廃位、③光明皇太后の幽閉 ( その権力 とよかみり・ 執行の停止 ) 、④藤原豊成 ( 仲麻呂の兄 ) を首班とした政権樹立、⑤孝謙の廃位、そして四 あすかべきぶみ 王 ( 塩焼・道祖・安宿・黄文 ) からの新天皇擁立を計画していたという。奈良麻呂は、聖武 によって「皇嗣」とされた経歴のある新田部系の塩焼・道祖の復権を企てていたことにな る。それは、武力を背景にして聖武の基本構想に回帰することをめざすものであったとい
ふ。 とあって、「大炊天皇」に対して太上天皇である孝謙が「皇后」ととらえられている。こ れらによれば、大炊は聖武夫妻の擬似息子であると同時に、孝謙の擬制上の配偶者と見な されていたことになる。彼は聖武の娘婿といってよい立場にあった。大炊は舎人親王の息 子ということに加え、聖武の娘婿に準する立場にあるということで初めて、孝謙の「皇 嗣」になることができたと考えられる。 このように孝謙は、光明子や仲麻呂の意向を受け入れ、新田部系に 奈良麻呂らの謀議 代えて舎人系から「皇嗣」を擁立した。だが、選ばれた大炊は聖武 の娘の誰とも実際の配偶関係がなかった。そのような彼が「皇嗣」となれたのは、一つに は聖武が「皇嗣」とした道祖も厳密な意味で聖武の娘婿ではなかったからであろう。聖武 変が定めた「皇嗣」が「皇嗣」たる十分な条件を備えてはいなかったのだから、それに代わ の 呂 るべき人物も、聖武の娘との配偶関係を厳密に問う必要はないと判断されたのであろう。 たちばなのならまろ 良 奈 しかし、橘奈良麻呂は、光明皇太后の了解や後押しがあるとはいいながら、皇太子 の交替劇がすべて仲麻呂の専断によるものであり、それによって聖武の意向が踏み躙られ なお たと考えたようである。「然も猶、皇嗣立つること無し」という奈良麻呂の言葉からも窺
わずか 数輩の侍衛奔散して、人の従ふべきもの無し。僅に母家三両人と、歩みて図書寮の 西北の地に到りたまふ。 おおきみやっこ この後、「王を奴と成すとも、奴を王と云ふとも、汝の為むまにまに」という聖武の せんみよう 遺詔を奉じた称徳の宣命が淳仁に向かって読み上げられたことになっている。近年中西 康裕氏は、押勝の乱に関する『続日本紀』の叙述には大きな改変が加えられていると推論 している ( 「恵美仲麻呂の乱」『続日本紀と奈良朝の政変』所収、吉川弘文館、一一〇〇一一年 ) 。 それによれば、中宮院における鈴印争奪に関する九月十一日の記述と、押勝誅殺後に厚 仁廃位と淡路への追放が宣告されたことを記す十月九日の記事とは、実は同日の出来事を 述べたものではないかというのである。それを『続日本紀』の編纂者が押勝の没落をはさ み前後二つの記事に分けたのは、淳仁という傀儡を擁して権力をほしいままにした押勝へ の批判を強調するためであり、さらには称徳が先に仕掛けて淳仁から権力を奪取したこと のを隠蔽するためであったという。この中西説は、基本的に首肯できると思われる。 勝 押 中西説にしたがえば、事件は実際にはつぎのように展開したことになる。すなわち、九 月十一日、称徳は突如として和気王・山村王・百済王敬福らに兵数百を率い、淳仁のいる 5 中宮院を包囲させた。この時に淳仁のもとにいた恵美訓儒麻呂 ( 押勝の息子 ) が激しく抵
たんば る。氷上は丹波国氷上郡氷上郷に由来するものであるが、それは新田部の母五百重娘の同 ひかみのいらつめ 母姉である氷上娘を連想させる。いうまでもなく氷上娘・五百重娘姉妹は藤原氏の始祖 生鎌足の娘である。そして、聖武がかって塩焼・道祖の兄弟を「皇嗣」に選んだのは、彼ら 識の家系に流れる藤原の血を評価してのことであった。だが、「皇嗣」とされたがために道 統祖は権力闘争に巻き込まれ落命し、塩焼はいわば九死に一生を得た。 草それを考えると、塩焼が藤原氏との繋がりを象徴する氷上のウジナを含む姓を選んだこ とは、彼が忌むべき前半生と肝心なところで絶縁できていないことを示すものであったと いえよう。藤原氏とくに仲麻呂との縁が、塩焼をやがて奈落の底に突き落とすことになる のである。 いおえのいらつめ
てんかたい おそらく称徳の意を受けた宇佐八幡の側から、「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太 平ならむーという神託が伝えられた。これが七六九 ( 神護景雲一一 l) 年の五月頃と思われる。 生それは、すでに述べたように、この頃、氷上志計志麻呂の変が発覚していることに加えて、 きびのふじののわけのまひときょま 識字佐に神託の確認のために天皇の特使として遣わされることになる吉備藤野和気真人清麻 ふじののまひと 統呂 ( 後の和気清麻呂 ) に「輔治能真人」の姓があたえられているからである。この賜姓は、 草字佐への特使を務める清麻呂の威儀を飾るためのものであったと考えられる。 びぜん ひろ 清麻呂は備前国和気郡を本拠とした豪族の出であるにも拘わらず、姉の汝均 ( 和気広 虫 ) が称徳の側近随一であったことから、真人のカバネを賜るほどの信任を受けていた人 物である。その意味で清麻呂は、称徳の皇統再建の構想について、その細部に至るまで理 解するところがあったはずである。 ところが、同年九月になって宇佐から帰った清麻呂の報告を聞いた 清麻呂の真意とは 称徳は激しく怒り、彼と法均に厳罰を下すことになる。『続日本 紀』神護景雲三年九月己丑条によると、清麻呂らの罪状はつぎのように説明されている。 いとおお 然る物を、従五位下因幡国員外介輔治能真人清麿、其が姉法均と甚大きに悪しく奸め いみこと われむか おもて る忌語を作りて朕に対ひて法均い物奏せり。此を見るに面の色形口に云ふ言猶明らか むし ま、つキ、ん なお
こと おおみこと に己が作りて云ふ言を大神の御命と借りて言ふと知らしめしぬ。問ひ求むるに、朕 医一こ おもお が念して在るが如く、 大神の御命には在らずと聞し行し定めつ。 つまり、称徳は法均と清麻呂が神託を捏造したことは間違いないというのである。その 清麻呂の報告とは、つぎのとおり。 清麻呂行きて神宮に詣づるに、大神託宣して曰はく、「我が国家開闢けてより以来、 、」、つしょ 君臣定りぬ。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。 むどう すみやか 无道の人は早に掃ひ除くべし」とのたまふ。 清麻呂は、八幡大神が道鏡の即位を否定していると明言したのである。ただ、彼が称徳 挫の皇統再建構想について理解があったことを思えば、彼が異を唱えたのはあくまで道鏡を 」他戸の「中継ぎ」に擁立することに関してであって、草壁皇統の護持や他戸即位について 想 構まで否定してはいなかったと考えられる。おそらく清麻呂が言外において主張しようとし たのは、「中継ぎならば聖武の娘婿であり他戸の実父である白壁という適任者がいると 道いうことだったのではあるまいか ともあれ、草壁皇統護持のための道鏡即位計画はこうして頓挫したのである。 おの このかた
翌三日に小野東人への尋問が開始されたが、東人は頑強に無実を主張した。この日、孝 こまろ 謙と光明皇太后が塩焼・安宿・黄文・橘奈良麻呂・大伴古麻呂らを御在所に召し、挙兵を 生自重すべきことを呼び掛けた。五人は感謝して帰途についたという。 識四日、小野東人がついに自供を開始する。これにより計画の全貌が明らかになり、安 統宿・奈良麻呂らが逮捕されるに至った。彼らには厳しい拷問を伴った取り調べが待ち受け 草ていた。そして、十日までに事件は落着を迎える。以上が、橘奈良麻呂の変と呼ばれるク ーデター未遂事件である。 奈良麻呂らへの制裁は凄まじいものがあった。孝謙とすれば、彼女が決めた大炊皇太子 ばかりか彼女自身をも武力で否定しようとした勢力を徹底的に粉砕せずにはおかないと考 えたのであろう。奈良麻呂らの計画は、彼女が父聖武から引き継いだ皇統とその再建構想 への身の程をわきまえぬ挑戦としか映らなかったに違いない。だが、皮肉なことに、孝謙 がこの事件を通じて守り抜いた大炊皇太子は、数年後、彼女自身の手で廃されることにな る。その時に彼女が取った、武力を背景に廃位を強行するという方法は、おそらくこの奈 良麻呂らの計画から学んだのではないだろうか。 道祖・黄文の最期は「杖下に死す、と記され、凄惨極まりない取り調べの過程で撲殺
通説によれば、聖武が壬申の乱ゆかりの地を巡幸したのは、自身が天武直 2 天武を回顧 系であることを誇示しようとしたためと説明されている。だが、聖武は七 する意味 画 四〇 ( 天平十一 l) 年十二月十三日には志賀山寺に行幸している。これは天 一三ロ 再智が建立したとされる寺院であり、聖武が通説のいうように本当に天武直系を自認してい 皇 たとすれば ( 天武を皇統の始祖と仰いでいたのであれば ) 、天智創建の寺院にわざわざ参拝す の 天るとは考えがたい。東国行幸において志賀山寺にあえて参拝しているということは、その 聖目的がたんに天武と聖武自身との血縁関係を強調・誇示することにあったのではないこと を物叩っていよ、つ。 本書で述べているように、聖武が自身を「天武系」あるいは「天智系」と認識していた のではなく、あくまでも文武皇統という意識にとらえられていたとするならば、彼が壬申 の乱や天武を想起させるような行幸コースをあえて選んだことについて、改めて説明を加 えねばならない。 ここで注目されるのが『続日本紀』天平十一一年十月丙子条である。 いしかわのおおきみみあとのちょうかん しおやきのおおきみみさきのちょうかん 次第司を任す。従四位上塩焼王を御前長官とす。従四位下石川王を御後長官。 きのあそみまろあとのきへい ふじわらのあそみなかまろ さきのきへい 正五位下藤原朝臣仲麻呂を前騎兵大将軍。正五位下紀朝臣麻路を後騎兵大将軍。騎兵 やまとかわちのふひとべはたのいみきすべ の東西史部・秦忌寸ら惣て四百人を徴り発す。 はたおこ