系」ではありえなかった。光仁の出現をもって「天智系」が復活したと見なすのは、あま りにも現実と掛け離れた理解であるといわざるをえない。 ふじののきょまろ なお、七七一年三月には早くも輔治能清麻呂 ( 和気清麻呂 ) が本位 復権される人びと に復され、七月には淳仁の縁者が皇親籍を回復している。八月、不 ひかみのしけしまろ たじひのおとめ ←」わのひめみこ 光破内親王とその息子氷上志計志麻呂の犯罪を告発した丹比乙女が誣告罪で処罰されている。 わけのおおきみ 齔九月には和気王の子女を皇親籍に復し、不破内親王の事件で処罰され大部と改姓された 称あがたいぬかいのあねめ 県大養姉女を本姓に戻すことが許されている。 これらは一見すると、「天武系」の時代に処罰を受けた人びとが、「天智系」の時代にな ったので、免罪されて復権を果たしたようにいわれるが、そのように単純な話ではないと 思われる。彼らは、いずれも草壁皇統そのものを否認しようとした人びとではなく、亡き 称徳が草壁皇統を護持しようとする余り、「中継ぎ」として道鏡を擁立しようとする方向 に走ろうとした時に、それに抵触して処罰を受けた人びとであり、あるいは丹比乙女のよ うに、その御先棒を担いで不破母子らを罪に陥れた者であった。草壁皇統に連なる光仁と しては、皇統護持のための行き過ぎによって処罰を受けた者を赦免し、反対に暴走に加担 した者を厳罰に処すのは当然の措置であったといえよう。 ほん
藤堂氏によれば、六九九 ( 文武三 ) 年に「新造」された天智陵が藤原宮 天智は律令国 大極殿の中軸線上の真北に配置されたのは、天智を藤原宮の「天極」 家の初代天皇 成 ( 北極星のこと。天皇号の由来である天皇大帝はその神格化とされた ) に位 の 置づけようとする意図があったからであるという。これにより天智は歴代天皇のなかでも 皇画期をなす極めて特別な存在とされ、「天命」を受けた初代皇帝、律令国家の初代天皇と 文位置づけられるようになったという。以上のように考えるならば、奈良時代を「天武系」 の全盛時代とする通説は、根本的に見直す必要があると藤堂氏は提唱しているのである。 この藤堂説を参考にするならば、 , ハ九九年の斉明陵・天智陵の「新造」過程で、とくに 天智陵が特別な場所を選んで造営されたことによって、天智に関してまったく新たな評価、 新しい権威が生み出されたことになる。それは持統が主導したものであったと見られるが、 七〇一一年に持統は死去する。その後、七〇七年の元明即位の時に文武の権威や正当性を保 証する法として天智制定の「不改常典」が登場することになるのは、持統の異母妹元明が、 持統によって創始された天智の新たな評価や権威を踏襲した結果と考えることができよう。 だが、ここで注意しなければならないのは、藤堂氏は天智がいわゆる皇統の起点 ( 始 祖 ) と認識されていたとは明言していないことである。藤堂氏自身は、奈良時代を「天武
上というウジナに象徴される藤原氏との血の繋がりが災いしたとしかいいようがない。 塩焼が「今帝」すなわち新しい天皇に擁立されたのは、中西氏が指摘するように、淳仁 がすでに廃されたことを押勝が知っていたからであろう。にわかなこととはいえ塩焼が 「今帝 , とされたのは、彼がかって聖武により「皇嗣」とされた経歴があったためと考え られる。それにしても、押勝が称徳に対抗して擁することのできる皇族は、すでに臣籍に 降下した元皇族にすぎない塩焼ぐらいしかいなかったのである。 あらちのせき 押勝はその後、懸命に愛発関を突破して越前国に入ろうとするが、ことごとく失敗し、 みおのさき 琵琶湖西岸の高島郡三尾埼で称徳側の軍勢による猛攻を受け、ついにカ尽き討たれてしま むくろ う。「今帝」塩焼も押勝とともに湖畔に骸をさらすことになった。かって聖武の娘婿とし て「皇嗣」の地位にあった彼は、皮肉なことに逆賊押勝に擁せられた「今帝」として波乱 の生涯を閉じた。七一三年の生まれとして、この時五十二歳である。 こうして押勝の乱は終わり、称徳は淳仁を出した舎人系に対する粛清に取り掛かる。淳 いけたのみこ おき ふねのみこ 押仁の兄である船親王は諸王に下され隠岐国へ配流、同じく淳仁の兄池田親王も諸王とされ みながの もりべのおおきみみはらのおおきみ とさ て土佐国に配流とされた。淳仁の兄弟である守部王・御原王、船親王らの子孫は三長 まひと 真人の姓を賜わって丹後国に流罪とされた。舎人系はそのほとんどが宮廷から放逐された たんご
みやまい われみみつか つらく、「朕御身労らしく坐すが故に、暇間得て御病治めたまはむとす。此の天つ日 おおま 嗣の位は、大命に坐せ大坐し坐して治め賜ふべし」と譲り賜ふ大命を受け賜り坐して たびまね 答へ曰しつらく、「朕は堪へじと辞び白して受け坐さず在る間に、遍多く日重ねて おおみこと いたわ 譲り賜へば、労しみ威み、今年の六月十五日に、「詔命は受け賜ふーと白しながら、 あめっち いカー ) ノ、らい 此の重位に継ぎ坐す事をなも天地の心を労しみ重しみ畏み坐さくと詔りたまふ命を 衆聞きたまへと宣る。 天智が定めたという「不改常典」は、元明の即位宣命に見えるからといって、彼女自身 の即位を正当化するものではなかった。それはあくまでも元明に即位を要請した文武自身 の権威や正当性を保証する法的な根拠として認識されていたことに留意すべきである。こ 常れによる限り、文武の即位はひとえに天智の定めた法にもとづくものだったことになる。 ただ、文武が生まれたのは天智が死去して十一一年後のことであったから、天智が顔も見て 皇いない文武の即位など直接指示できるはずもない。 天智は本当に文武、あるいは彼のような皇子の即位を命じたことがあっ 本当に天智が たのであろうか。『日本書紀』を見ても、天智が王位継承に関する何ら 制定したか かの法や制度を定めたという記述はない。だから、「不改常典」とは所
この時、桓武が前天皇であり亡父である光仁を「天帝」と合祀し、光仁に対しても祭文 を献上していることが注目される。「天帝」とは字宙の支配者であり、中国では皇帝の任 命権者というべき絶対的な存在であった。その「天帝」と光仁とを合祀したということは、 光仁が「天帝ーの指名・命令 ( いわゆる天命 ) を受けた最初の皇帝、すなわち王朝の開祖、 皇統の始祖と位置づけられたのに等しい。 桓武は、天智や文武、聖武といった過去の天皇の誰かではなく、自分の父天皇を天命を 受けた王朝の開祖、皇統の始祖として祭り上げたのである。桓武は、光仁を起点 ( 始祖 ) とした中国的な皇統意識を生み出そうとしていたと考えられよう。桓武は、強いて命名す るならば光仁という中国的な君主を始祖とする皇統を樹立しようとしていたことになる。 「昊天上帝」に奉じられた祭文の後半に見える「高紹天皇」とは光仁を あめむね 換光仁・桓武の 指す。光仁の諡号は「天宗高紹」天皇といったのである。これは、光仁 諡号の意味 が死去した七八一年十二月の翌年正月に献上されたものであるが、彼が 皇皇統意識の上でどのように位置づけられていたかを知る手掛かりになる。 光仁の諡号が作られた段階では、中国的な皇統意識は未成立であったから、「天宗高 あめのまむねとよおおじ 紹」天皇の「天宗」とは、文武の諡号「天之真宗豊祖父」天皇の「天之真宗」に通ずると
考えるのが妥当であろう。 なお 七一九 ( 養老三 ) 年十月、元正は十九歳になった聖武が「然れども年歯猶稚くして政道 とねりのみこ にしたべのみこ に閑はず」 ( 『続日本紀』養老三年十月辛丑条 ) との理由から、舎人親王・新田部親王の両名 に聖武の後見・輔佐を命じている。これは、元明から文武皇統の護持という使命を受け継 いだ元正が、その使命の一部を天武の息子であるこの二人に分与したものと考えてよかろ いおえのいらつめ う。とくに新田部の母 ( 五百重娘 ) は不比等の異母妹であり、また彼の妻でもあったから、 新田部は皇統護持の役割を元正のみならず不比等からも受け継ぐ立場にあったということ ができる。 ながやのおおきみ ふささ医」 七二一 ( 養老五 ) 年十一月には、長屋王 ( 高市皇子の息子 ) と藤原房前 ( 不比等の次 なずら 男 ) の二人が元明太上天皇から後事を託され、後日、房前は「内外を計会ひ、勅に准へて わざ 施行し、帝の業を輔翼けて、永く国家を寧みすべしーという重責を担う「内臣」に任命 護されている。長屋王や房前も、これにより元明から文武皇統の護持に尽くすという特命を 統受けることになったと見られる。長屋王は皇統護持の主柱ともいうべき不比等の娘婿であ り、房前はその不比等の息子であり、彼らはいすれもこのような使命を拝するのにふさわ しい資格があったといえよう。 うちのおみ
抗したために坂上苅田麻呂・牡鹿嶋足らによって殺害される。押勝は矢田部老を遣わして 、 6 6 抵抗を試みたが、 老も紀船守らに討ち取られてしまう。淳仁の身柄拘束に成功した称徳は、 生彼を図書寮の西北に連行、その廃位を告げる宣命を読み聞かせた。そして、押勝誅殺後の 識十月九日になって、淳仁は淡路の配所に護送されることになったのである。 意 このように、押勝は称徳の先制攻撃を受け、緒戦の段階で彼にとっ 皇 「今帝」塩焼の最期 て「玉」ともいうべき淳仁を失ってしまったのである。平城京を 草 出た彼は当初近江国をめざしたが、先回りをした称徳側の兵により瀬田橋を焼き落とされ からかち えちぜん たため、仕方なく琵琶湖西岸を北上して息子辛加知のいる越前国に向かう。だが、辛加知 は称徳の命を受けた兵によって討たれてしまう。 『続日本紀』天平宝字八年九月壬子条に見える押勝の略伝によれば、この時、彼はつぎ のような行動を取ったという。 きんてい まさきあさかり 偽りて塩焼を立てて今帝とし、真先・朝臈らを皆三品とす。余は各差有り。 かって「皇嗣」の座にあった塩焼も、奈良麻呂の変後に臣籍に降下して氷上真人塩焼と じゅさんみ なり、この頃は従三位を叙され中納言の官にあった。その彼が一体どのような経緯があっ たのか不明であるが、越前国をめざす押勝と行動をともにしていたのである。これは、氷 ぎよく
、んよ、つ。 ながやのおおきみ さらに、奈良麻呂が高市系ともいうべき安宿・黄文の一一王 ( 長屋王の息子 ) も天皇擁立 の候補に加えたのは、彼ら二人が光明皇太后の甥であり、奈良麻呂の従兄弟でもあったか らと見られる ( 仲麻呂は光明子の兄弟の息子、奈良麻呂や安宿・黄文らは彼女の姉妹の息子 ) 。 すなわち、聖武の実際の娘婿でなく、所詮仲麻呂の娘婿的な存在にすぎない大炊に較べれ ば、安宿・黄文のほうがはるかに「皇嗣」としてふさわしい、と奈良麻呂が考えたのも無 理からぬことであった。 だが、奈良麻呂らの計画は複数の密告によって、脆くも瓦解するこ 道祖「杖下に死す」 とになる。七五七 ( 天平宝字元 ) 年六月九日、仲麻呂が早くも戒厳 やましろ おおとものさかいまろ 令を施行したのは、大伴堺麻呂による通報を受けてのことであった。二十八日には山背 のおおきみ 変王 ( 長屋王の息子 ) が奈良麻呂らの挙兵計画を仲麻呂に通報している。 耜七月一一日、相次ぐ密告を受けて、光明皇太后は右大臣以下の重臣らを召して、計画に加 かみつみちのひたっ 奈担することがないよう自重をうながした。その日の夕刻、上道斐太都が同日夜半に計画 おののあずまひと 7 か決行されることを仲麻呂に密告した。仲麻呂は直ちに計画に加わったという小野東人 4 たほのちゅうせつ と答本忠節を逮捕、さらに道祖王邸を包囲して、その身柄を拘束したのである。
に伝えようというねらいかあったためではあるまいか くたらのおおみや 舒明は六四一年十月に百済大宮で死去する。その在位は約十一一年におよんだ。舒明によ こ、つぎよく たからのひめみこ 継って次期大王に指名されたのが、そのキサキ宝王女であった。皇極大王である。彼女は ちぬのみこ 王舒明大王の異母兄弟、茅渟王の娘で、舒明・皇極夫妻は叔父・姪の間柄であった。 世舒明が皇極を後継者に指名したのは、やはり彼女のキサキとしての経験と実績を評価し た結果と考えられる。その点、推古が敏達のキサキとしての経験や実績を買われ、即位に およんだのと事情は同じといえよう。史料には明記されていないが、皇極の即位は舒明の 遺詔を奉ずる大臣蘇我蝦夷やその配下の群臣らによって実現したと見なすことができよう。 舒明から指名されなかった山背大兄は、その後、六四三年十一月、皇極の命を受けた蘇我 いるカ いかるがのみや 入鹿 ( 蝦夷の息子 ) の襲撃を受けて、亡父厩戸王子から継承した斑鳩宮ともども滅び去る ことになるのである。 かるのみこ 皇極によって次期大王に指名されたのが同母弟軽王子 ( 孝徳大王 ) 乙巳の変ー皇極大 であった。ただ、これまでとは違い、皇極は亡くなる間際に孝徳を 王から孝徳大王へ 指名したのではなかった。彼女は六四五年六月に起きた政変 ( 乙巳 の変。蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた ) を契機に譲位を実行したのである。『日本書紀』 こ、つと / 、
称徳から光仁・桓武へ 200 あきつみかみおおやしまし すめらおおみこと 明神と大八洲知らしめす天皇が詔旨らまと宣りたまふ勅を、親王・諸王・百官人等、 もろもろ かしこあきつみかみいまやまとねこすめらおおきみ 天下の公民、衆聞きたまへと宣る。掛けまくも畏き現神と坐す倭根子天皇が皇、 あまつひつぎたかみくらわざ あめのしたしらしめ 此の天日嗣高座の業を掛けまくも畏き近江大津宮に御字しし天皇の勅り賜ひ定め のりまにま まっ かしこ 賜へる法の随に被け賜はりて仕へ奉れと仰せ賜ひ授け賜へば、頂に受け賜はり恐み、 受け賜はりぢ、進みも知らに退くも知らに恐み坐さくと宣りたまふ天皇が勅を、衆 聞きたまへと宣る。 桓武やそれ以降の天皇の即位宣命に天智が定めたという「不改常典」が見えるのは、桓 武以後の歴代天皇がいわゆる「天智系」であることを意味するといわれるが、それは違う のではないかと思われる。なぜならば、すでに述べたように、文武皇統とその継承を正当 化するのが「不改常典」だったと考えられるからである。 本来「不改常典」は文武が皇統の始祖であることの根拠とされた法であったから、文武 の正当な後継者とされた聖武の血統を引き継ぐ桓武やそれ以降の天皇が、彼らの正当性の 証しとして「不改常典」に言及するのは当然のことであったといえよう。桓武やその子孫 の天皇が天智の制定したという法によって自身の即位を正当化しようとしたのは、彼らが たんに天智の子孫だからではないのである。