塩焼王 - みる会図書館


検索対象: 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか
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1. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

「挂けまくも畏き先の朝」は亡父聖武の治世に限られるからである。したがって、不破は あくまで聖武の在位中に「親王の名を削れり」「過に依りて棄て給ひてし」という厳罰を 受けたことになる。それが何かといえば、早川説では七四二年の塩焼王流罪との関連は問 かんき 再題とならないので、あくまで流罪事件後、不破が聖武の勘気を蒙ったということになる。 皇早川氏は「わたくしの空想にすぎない。と断った上で、聖武は不破が彼女よりも二十歳 ねんご 皇 天 ほど年長で、しかも流罪という前科のある塩焼と懇ろになったことに立腹し、娘に対し内 武 あずか 聖親王身分の剥奪という厳しすぎる処断を下したのではないかと述べている。父の与り知ら じっこん ぬところで娘が札付きの男と昵懇になり、それを知って父親が激昂するというのは、あり えない話ではなかろうが、やはり不破のような身分の女性の結婚が、その父天皇の意向を まったく無視して、しかもその反対を押し切ってなされたというのは考えにくい。 聖武の 娘たちは、自由に結婚相手を選ぶことなど許されていなかったのである。 『続日本紀』天平宝字元 ( 七五七 ) 年四月辛巳条には、塩焼に関するつ なぜ塩焼王を ぎのような人物評が見える。 責め続けたか 塩焼王は太上天皇責めたまふに無礼を以てせり。 すなわち、聖武は終生にわたって塩焼の無礼を責め続けたというのである。一般にいわ

2. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

これによれば、聖武が「御前長官」すなわち行幸の先駆けの一団の長に塩焼王を抜擢し たというのである。すでに述べたように、聖武は新田部の息子である塩焼を娘不破の婿に 迎え、彼を阿倍皇太子の次期天皇に擬していたと見られる。壬申の乱の「追体験」をねら たけちのみこ った東国行幸において聖武が天武だとすれば、その露払い役の塩焼はさしずめ高市王子と い、つことになるであろ、つ 東国行幸におけるこのような演出は、聖武がこの時期、「阿倍↓塩焼↓塩焼・不破夫妻 の息子」という構想で皇統の再建を企図していたことを踏まえれば、その意図するところ が了解できよう。すなわち、皇統再建は新田部系との連帯と融和なくして成立しえない。 東国行幸を通じて天武や壬申の乱が殊更に回想されたのは、文武ー聖武と新田部ー塩焼の 共通の祖である天武の存在と、その王権を生み出した内乱とをクローズアップすることが、 皇統再建に向けて新田部系との連帯と融和を強化するのに最も効果的と考えられたからで 幸 行あろう。聖武が壬申の乱の「追体験」を企てたのは、たんに自身が天武の曾孫であり、そ 国 東の直系であることを誇一小するためではなかったのである。 2

3. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

ている ( 「『かけまくもかしこき先朝』考」『日本歴史』第五六〇号、一九九五年 ) 。 るざい 早川説によれば、不破と塩焼が結婚したのは、塩焼の流罪よりも後という 塩焼王との ことになる。不破は事件当時、わすか十四歳前後にすぎなかったからであ 結婚時期 る。早川氏はこれを裏づける証拠として、七六九年五月に不破と志計志麻 呂の母子が処罰された時に発せられた詔のなかで、 せきあくや みかど 不破内親王は、先の朝勅有りて親王の名を削れり。而して積悪止まず、重ねて不敬 を為す。 とされていることに注目した。この内親王号剥奪の一件については、数日後に出された宣 あやまち 命では「挂けまくも畏き先の朝の過に依りて棄て給ひてし」と表現されている。このよう に不破が一時的に内親王号を失ったのは、従来は七四二年の塩焼流罪に連坐したことによ 妹るか、あるいは七六四 ( 天平宝字八 ) 年に起きた恵美押勝 ( 藤原仲麻呂 ) の乱で塩焼が誅殺 姉 三され、それに連坐したことを指すと考えられてきた。塩焼と不破の結婚を事件以後と考え る早川説によれば、前者はまったく問題とならず、後者が検討を要することになる。 だが、早川氏によれば、後者の可能性も乏しいという。なぜならば、「挂けまくも畏き 先の朝ーと述べているのは聖武の娘でその後継者となった阿倍内親王であり、彼女がいう えみのおしかっ

4. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

されたのである。かって一度は「皇嗣」だった者の最期とは思えない凄絶さであろう。安 宿は妻子とともに佐渡国配流となった。首謀者の奈良麻呂への処罰については何の記述も ないが、おそらく道祖や黄文と同じ運命をたどったものと思われる。 、尭のみは一切の処罰を免れた。『続日本紀』天平宝字元年 塩焼の「再出発」 七月癸酉条にはつぎのように見える。 ところまじ 詔して曰はく、「塩焼王は唯四王の列に預れり。然るに謀れる庭に会らず、亦告げら あか おさ えねども、道祖王に縁れれば遠流罪に配むべし。然れども其の父新田部親王は清き明 このたび き心を以て仕へ奉れる親王なり。其の家門絶っぺしやとしてなも、此般の罪免し給ふ。 ンごキ、 みかど なお 今より往く前は明き直き心を以て朝庭に仕へ奉れと詔りたまふ」とのたまふ。 塩焼は奈良麻呂らに担がれようとしただけで、謀議にも加わっていないことに加え、何 変よりも亡父新田部親王の忠誠に免じて、容疑を不問に付すというのである。また、彼が聖 ひかみのまひと この直後、塩焼は氷上真人 呂武の娘婿であることも情状酌量の理由となったに違いない。 奈の姓を賜わって臣籍に降下した。かって聖武によって「皇嗣」に擬された彼も皇位継承権 を失い、ここに氷上真人塩焼という貴族として「再出発」することになったのである。 あしかせ だが、この「再出発」の足枷となったのが、ほかならぬ氷上のウジナであったと思われ まっ ゆる

5. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

ふわのひめみこ にしたべのみこ しおやきのおおきみ 井上の同母妹、不破内親王は新田部親王の息子、塩焼王と結婚し / 、」よ、つぶにん 不破内親王の婚姻 ている。『公卿補任』によれば、塩焼は七一五 ( 霊亀元 ) 年の生ま じゅしいのげ れとされている。だが、彼は七三三 ( 天平五 ) 年に従四位下に初叙されているので、この おん 時に一一十一歳であったとして ( 父祖の蔭により初めて位を授かるのが二十一歳以上 ) 、七一三 ( 和銅六 ) 年の誕生ということになる。 によじゅ 塩焼は後述するように、七四二 ( 天平十四 ) 年十月に女孺ら数名とともに投獄され、伊 すのくにみしま おんる 豆国三嶋 ( 国府の所在地 ) への流罪 ( 遠流 ) に処されている。問題となるのは、不破が塩 焼と結婚したのが事件の前か後かということである。これに関しては、不破の誕生年が手 掛かりになるであろ、つ。 図 5 新田部系略系図 てんむおおあま 一一一天武 ( 大海人皇子 ) ひかみの 藤原鎌足氷上娘 おえの 百重娘 不破内親王 親旺部親王恥燃王 ( 氷上塩焼 ) 道祖王 ふなど かわっぐ し し 麻ま 呂ろ

6. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

れているように、それがこの流罪の一件を指していたとすれば、聖武が事件後に大切な娘 を塩焼のような人物に嫁がせたとは考えがたいであろう。 確かに早川氏の指摘するとおり、「挂けまくも畏き先の朝ーが聖武朝を指すことは間違 いあるまい。しかし、早川氏のいうように不破の生年を七二九年頃に下げて考えたとして も、彼女と塩焼との結婚は七四二 ( 天平十四 ) 年の塩焼流罪以前でも決しておかしくはな というのも、七四二年の時点で不破はすでに十四歳になっており、当時の女性は十三歳 以上で結婚が許されたからである。ちなみにあの持統が叔父天武と結婚したのも、彼女が 十三歳の時であった。 したがって、塩焼と不破との結婚は七四二年の流罪事件以前 ( あるいはその直前 ) であ 妹っても不都合はないと考える。事件はむしろ結婚 ( または婚約 ) 直後に起きた可能性があ 姉 一一一る。聖武の終生にわたる塩焼への貭りは、まだ十代前半という年端もいかない娘を彼に託 し、娘婿として過大な期待を寄せていたのに、それが手痛い裏切りに合ったことに発する と見なすのが妥当であろう。 聖武が不破から内親王の称号を剥奪したのは、いったん彼女を塩焼に嫁がせた以上、あ

7. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

たんば る。氷上は丹波国氷上郡氷上郷に由来するものであるが、それは新田部の母五百重娘の同 ひかみのいらつめ 母姉である氷上娘を連想させる。いうまでもなく氷上娘・五百重娘姉妹は藤原氏の始祖 生鎌足の娘である。そして、聖武がかって塩焼・道祖の兄弟を「皇嗣」に選んだのは、彼ら 識の家系に流れる藤原の血を評価してのことであった。だが、「皇嗣」とされたがために道 統祖は権力闘争に巻き込まれ落命し、塩焼はいわば九死に一生を得た。 草それを考えると、塩焼が藤原氏との繋がりを象徴する氷上のウジナを含む姓を選んだこ とは、彼が忌むべき前半生と肝心なところで絶縁できていないことを示すものであったと いえよう。藤原氏とくに仲麻呂との縁が、塩焼をやがて奈落の底に突き落とすことになる のである。 いおえのいらつめ

8. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

上というウジナに象徴される藤原氏との血の繋がりが災いしたとしかいいようがない。 塩焼が「今帝」すなわち新しい天皇に擁立されたのは、中西氏が指摘するように、淳仁 がすでに廃されたことを押勝が知っていたからであろう。にわかなこととはいえ塩焼が 「今帝 , とされたのは、彼がかって聖武により「皇嗣」とされた経歴があったためと考え られる。それにしても、押勝が称徳に対抗して擁することのできる皇族は、すでに臣籍に 降下した元皇族にすぎない塩焼ぐらいしかいなかったのである。 あらちのせき 押勝はその後、懸命に愛発関を突破して越前国に入ろうとするが、ことごとく失敗し、 みおのさき 琵琶湖西岸の高島郡三尾埼で称徳側の軍勢による猛攻を受け、ついにカ尽き討たれてしま むくろ う。「今帝」塩焼も押勝とともに湖畔に骸をさらすことになった。かって聖武の娘婿とし て「皇嗣」の地位にあった彼は、皮肉なことに逆賊押勝に擁せられた「今帝」として波乱 の生涯を閉じた。七一三年の生まれとして、この時五十二歳である。 こうして押勝の乱は終わり、称徳は淳仁を出した舎人系に対する粛清に取り掛かる。淳 いけたのみこ おき ふねのみこ 押仁の兄である船親王は諸王に下され隠岐国へ配流、同じく淳仁の兄池田親王も諸王とされ みながの もりべのおおきみみはらのおおきみ とさ て土佐国に配流とされた。淳仁の兄弟である守部王・御原王、船親王らの子孫は三長 まひと 真人の姓を賜わって丹後国に流罪とされた。舎人系はそのほとんどが宮廷から放逐された たんご

9. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

ふねのおおきみけいはう の中より択ふべし。然れども、船王は閨房修まらず。池田王は孝行闕くること有り。 ひとりおおいのおおきみいま 塩焼王は太上天皇責めたまふに無礼を以てせり。唯、大炊王、未だ長壮にあらずと おも いえど かあく 雖も、過悪を聞かず。この王を立てむと欲ふ。 にいたべのみこ 孝謙はまず、皇太子は舎人親王と新田部親王の子孫から選ぶべきであるという大枠を示 した。それは、聖武がかって新田部系から塩焼、次いで道祖を「皇嗣」に選んだことから も分かるように、舎人・新田部の一一人が、かって文武皇統の護持という特命を託された人 物であったために、彼らの子孫は皇統再建に優先的に起用される特権があると見なされて いたことによるよ、つである。 だが、新田部系は、すでに早く塩焼が失格の烙印を押されており、今回また道祖も不適 格として排除された。それならば、 図 7 舎人系略系図 粟田諸姉 舎人系から選ばうというのだが、 てんむおおあま 天武 ( 大海人皇子 ) とねり 船王・池田王ともに問題ありとい 舎人親王淳仁 ( 大炊王 ) 奈新田部皇女 和気王うことで除外され、結局「未だ長 御原王 壮にあらすと雖も、過悪を聞か す」という、可もなく不可もなし 池田王 えら じゅんにんおお

10. 古代の皇位継承 : 天武系皇統は実在したか

一 = ロ 129 遺 唖退訒ーー・聖武の到達点 七四一一 ( 天平十四 ) 年、聖武の皇統再建の構想は早くも破綻を来すこ 皇統再建の暗雲 とになった。『続日本紀』天平十四年十月癸未条には、 ならのひとや によじゅ しおやきのおおきみあわ 従四位下塩焼王、井せて女孺四人を禁めて、平城獄に下す。 と見え、さらに『続日本紀』同年同月戊子条によれば、 ひたち かずさ しものすぐりしろめ こべのすくねおやけめ 塩焼王を伊豆国三嶋に配流す。子部宿禰小宅女を上総国。下村主白女を常陸国。 かすがのあそみやかつぐめとさ おき なくさのあたいたかねめ べのあそみあずまめさど 辺朝臣東女を佐渡国。名草直高根女を隠伎国。春日朝臣家継女を土佐国。 とあって、塩焼王は「女嬬」と呼ばれる若い女官らと何らかの罪を犯し、伊豆国の三嶋に 流罪となってしまったのである。彼がいかなる犯罪に関わったのか、史料は一切沈黙して かわ