天智が次期大王に指名したのはその息子の大友王子であった。六七一 ( 天 天智後継は 智十 ) 年正月、大友は新たに設けられた太政大臣に任命され、それにより やかこのいらつめ 大友王子 天智の後継者に擬せられた。大友は、伊賀国の豪族の娘 ( 宅子娘 ) が生 んだ王子であり、この時まだ二十四歳の若さであった。従来の慣例でいえば、その即位は のなお数年先のことだったはずである。 申 大友はその母の身分が低いことから、本来的に王位継承資格が認められていなかったと 壬 いうが、それは違うと思われる。王族の母親の身分や出自が厳しく詮索されるようになる のは、これより後のことであった。旧来の価値観に照らせば、大友は天智の最年長の息子 壬申の乱ーー天武の即位事情 おおとものみこ
39 壬申の乱 天智の指示もあって兵力の点では大友が圧倒的に優勢であったが、大海人・鷓野讃良夫 やまとのみやこ 妻による水面下の工作が功を奏し、七月に入り、大海人軍がまずは「倭京」制圧に成 功し、次いで近江方面での戦闘でも連勝を収めた。そして、瀬田橋をはさんだ最終決戦に 敗れた大友を自殺に追い詰め、内乱は約一カ月で終わりを告げた。 を挙行することなく王権のみを掌る、いわゆる・称・ 天智没後、大友は王位就仁礼 を行っていたのではないかと見られる。おそらく彼は、大海を倒した後に正式に即位儀 礼を挙げる予定だったのであろう。『日本書紀』天武紀上は六七二年 ( 壬申年 ) を天武元 年とするが、壬申の乱は大友王子による称制期間中に起きたということができる。 あすかきよみはらの 六七三 ( 天武一 l) 年二月、大海人は「倭京」中枢に位置する飛鳥浄御原 みや 天皇の誕生 宮で王位に就任した。ただ彼は即位に際し、従来の大王ではなく、新たに 天皇いう称号を採用し、初代天皇に就任した。天武天皇の誕生である。以下、彼をこの - 呼ば、つ。 たけちのみこ 内乱の最中、天武は美濃国不破の本営で息子の高市王子に軍事大権 ( 統帥権 ) を委譲、 みすからは戦線のはるか後方に退いた。これにより壬申の乱は、「天智後継の座をめぐる 天武と大友との戦争」から「天智後継の座をめぐる高市と大友との戦争」に転換したので
41 壬申の乱 このように天武が、天皇という外来の宗教を背景にもつ、まったく新しい価値や権威に 依存しようとしたのは、それによって元来即位資格がなかった自身の権威の不足や欠落を 補うという目的があったと見られる。さらにいえば、大友を殺害し、彼から天智後継の座 を奪ったわけであるから、その罪科を隠蔽するためにも、まったく新たな地位を生み出す 必要があったに違いない。彼が従来の大王になったのでは、大友からそれを奪ったことが 明白になってしまうであろう。天武は兄天智といわば絶縁するためにも、天皇号を選ばね ばならなかったのである。
であり、その上同母から生まれた最年長子 ( 『日本書紀』では弟妹はいないことになってい る ) でもあったから、天智の後継者に指名される資格は十分にあった。 承 継 だが、当時は、上記したように大津や草壁のような特殊な血統をもった王子に王位を継 位 王承させようという考えが形成されつあった。それにも拘わらず、大友が次期大王に指名 世されたのはどうしてであろうか。そは、六七一年の時点で天智は齢四十六であり、当 七 時とすればすでに老境に達していたこをを考慮に入れる必要がある。天智に万一のことが あった場合、彼が将来の大王候補と目していた大津や草壁はまだ幼少 ( 大津九歳、草壁十 歳 ) であり、直ちに即位することは到底無理であった。 そのような状況から推し量れば、大友は大津や草壁らの王子が成長して即位が可能にな るまでの「中継ぎ」として、天智後継に選ばれたと考えるのが妥当ではあるまいか。いわ ば天智に代わり、特別な血統を受け継ぐ王子の即位を見届ける大役が大友の双肩に負わさ れることになったのである。 とすれば、なぜこの役割を果たすのが大とさたのか、いい換え 大海人王子の立場 れば、なぜ天智一口母、海人ではだめだったのかを説明しなけれ ばならない。大海人は天智の「皇太子」あるいは「皇太弟」であったといわれている。っ よわい
格があり、現に大王位を継承したが、大海人には基本的に王位継承権はなかったと考える べきである。 あんかん せんか 六世紀前半に継体大王の息子である安閑大王と宣化大王の兄弟 ( 同母 ) が相次いで即位 王した例があるが、これ以後そのような事例は皆無といってよい。結果的に見ると、七世紀 世半ば、皇極 ( 斉明 ) と孝徳という同母の姉弟が相次いで王位に就いた例がある。しかし、 これは姉皇極があくまでキサキとしての経験と実績を評価されて即位しているので、兄 ( 姉 ) が即位したならば、その同母の弟妹も即位できたという前例とは見なしがたい。 」冫人は初から矢「、 乂にすぎなかっ たのである。六七一 ( 天智十 ) 年になって大友が太政大臣となり次期大王に指名されると、 大海人はこの甥にあたる王子の後見人あるいは輔佐役を命じられたのではないかと見られ る。というのも、六六九年までに大海人の長女である十市王女が試にい = 0 り三人 の間の息子、葛野王が六六九年の生まれ ) 、大友は大海人が後見・庇護すべき娘婿の位置に あったからである。 後に壬申の乱に勝利して天武天皇となる大海人であるが、内乱以、は天智の輔佐役次 いで甥にあたる大友の後見人・輔佐役にすぎなかった。後述するように、八世紀以後、天 かどののみこ
37 壬申の乱 武の評価が天智のそれをついに超えることがなかったのは、この点と関係するのではない かと思われる。 七世紀を見渡して、大王が次期大王に指名した人物が即位できなか 内乱の共同謀議 った、 しい換えれば ( 大王の意思が覆されたのは、天智によって指名 された大友の例しかない。大友の即位は、その叔父大海人の起こした内乱 ( 壬申の乱 ) 一 よって否定され、ついに実現を見ることがなかったのである。 日本書 , ノ天武紀上 ( 壬申紀 ) によれば、大海人は本来認められていた王位継承資格 を方的に奪われたので、それを回復ずをなか 3 を 0 しど描がん 0 ーいる。しか 、大海人には本来即位資格がなかったのであり、に・既得権を・取の週ために挙兵に み切ったのではなく、天智後継としての大友の地位を武力で否定し、それを我が物にしょ うとしたといわねばならない。壬申の乱とはそのような戦争だった。 この戦争の計画には大海人の妻である鵰野讃良も加わっていた。『日本書紀』持統称制 いくさつもろひとつど あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと 前紀には、「天渟中原瀛真人天皇に従ひて、難を東国に避けたまふ。旅に鞠げ衆を会 と、もはかり・ ) 」と へて、遂に与に謀を定むーとある。これによれば、鷓野讃良は夫とともに軍団に布告し 兵士を結集して、作戦を定めたというのである。その意味で壬申の乱は、大海人・鸙野讃 0 目リ月リ
次 目 天武系皇統は実在したかープロローグ : 「天智系」と「天武系」の対立という見方 / 「天智系」皇統説の登場 / 泉涌 寺の歴史から考える / 中世の「正統」理念から考える 七世紀の王位継承 天智以前の王位継承 起点ー推古大王の遺詔 / 舒明大王から皇極大王へ / 乙巳の変ー皇極大王か ら孝徳大王へ / 孝徳大王から斉明大王へ 称制ー天智の即位事情 : ・ 斉明大王の急死と称制 / 斉明大王の遺業継承 / 王位継承の改造計画 壬申の乱ー天武の即位事情 : ・ 天智後継は大友王子 / 大海人王子の立場 / 内乱の共同謀議 / 天皇の誕生 目 ・次 2 3 っ 0
七世紀後半から八世紀にかけての皇位継承を概観すると、つぎのように 「天智系」と 説明されることか多いといえよ、つ。 おおあまのみこ てんむ じんしん 「天武系」の対 六七二年に起きた壬申の乱により、大海人王子 ( 天武天皇 ) はその兄天 し 立という見方 おおとものみこ 在 智大王の後継者である大友王子を倒して即位した ( 後述するように、天 実 皇号の始用は天武天皇からと考えるので、古代の史実について述べる場合には大王・王子、天 じと、つ ん皇・皇子のように使い分けた ) 。天武以後、皇位はそのキサキ ( 皇后 ) だった持統天皇をへ くさかべのみこ 天 て、六九七年、天武の孫 ( 草壁皇子の息子 ) にあたる文武天皇へと引き継がれた。そして、 げんしよ、つ げんめい ヤ・い、つん 七〇七 ( 雲四 ) 年の文武没後は文武の母である元明天皇 ( 天智の娘 ) と彼の姉元正天皇 天武系皇統は実在したかーープロローグ もんむ てん
文武皇統意識の形成 54 文武天皇と「不改常典」 ハ九七持統十一 ) 年の二月、持統天皇は珂瑠皇子を皇太子に立て 史上最初の皇太子 た。これこそが我が国初の・皇なであった。珂瑠が史上初めて皇太 力いてい 子という階梯をへて天皇に擁立されたことは、彼がそれまでの天皇とは異なることを印象 ・刀いふ、つ、、つ かどののみこ づけるという効果が期待できたと思われる。その前後の事情は『懐風藻』葛野王伝につぎ とおちのひめみこ のように見える。葛野王は、あの大友王子と十市王女 ( 天武の娘 ) との間に生まれた王子 である。 たけちのみこみまか ひつぎ 高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。 ふんうん 時に群臣各私好を挟みて、衆議紛紜なり。王子進みて奏して日はく、「我が国家の法
良夫妻の共同謀議であったということができる。大海人が決起したのは、彼が長年にわた り兄天智を輔佐し、政治的な経験と実績を積んだ結果、彼自身も王位に就任したいという 継野心を抱いたためであろう。、、こが、 オ鷓野讃良がこの謀議に加わったのはなぜであろうか。 の 世佐役たる大海人の妻の座に終生留まらざるをえないという彼女の境遇から推察すればよい。 七 鷓野讃良は夫が内乱を制し王位に就任して初めて、キサキになることができるのである ( 彼女の姉大田は六六七年以前に死去 ) 。彼女が挙兵の謀議に積極的に加わった動機としては、 この点を措いて他には考えがたいであろう。キサキになれば、推古、斉明のようにキサキ から王位を継承した先例があり、やがて彼女にも即位の機会がめぐってくる。とくに斉明 は鷓野讃良の父方の祖母として極めて身近な存在でもあった。鵰野讃良が斉明のように自 身も大王になることを考えなかったとはい、がこい。 まぎわこうごねんじゃく 行 ) により民衆が引兵して大海人をす・べきこどを大友に命し・ 0 いた。翌 , ハ七一一年六月、 隠棲していた吉野宮を脱出した大毎・なば例川〔・・似可可を・、ヘ・・て知。 濃国に入・のを ( 岐阜県 関ヶ原町 ) を拠点にした。鷓野讃良は途中の伊勢国の桑名にとどまって戦況を見守った。