た意識 ( 皇統意識 ) があり、両者は一貫して対立関係にあったといえるであろうか。たと えば、聖武や孝謙・称徳は本当に自分たちを「天武系」と認識していたのであろうか。ま た、光仁・桓武父子は自分たちが「天智系」に連なると本当に考えていたのであろうか。 近年では、井上亘氏 ( 『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館、一九九八年 ) 、 「天智系」皇 藤堂かほる氏 ( 「天智陵の営造と律令国家の先帝意識ー山科陵の位置と文武三 統説の登場 年の修陵をめぐってー」『日本歴史』第六〇二号、「律令国家の国忌と廃務ー八 世紀の先帝意識と天智の位置づけー、『日本史研究』第四三〇号、一九九八年 ) 、水林彪氏 ( 「律令天皇制の皇統意識と神話 ( 上 ) ( 下 ) 」『思想』第九六六号・第九六七号、二〇〇四年 ) ら によって、八世紀において天武ではなく天智を重視する意識があったことが指摘され、奈 良時代を「天武系」の時代ととらえることに大きな疑問が投げかけられている。 し 在 だが、天智や天武といった大王・天皇がその子孫たちや後世の人びとから偉大な大王・ 実 繕天皇と見なされていたことは確かであるが、そのことと彼らが皇統の起点 ( 始祖 ) と認識 されていたこととは、明確に区別して考える必要があると思われる。いずれにしても、こ 天 の時代の政治史を「天智系」対「天武系」という枠組みでとらえることが果たして妥当な のであろうか。この枠組みに縛られることによって、大切な史実を見落としてしま、つこと
考えるのが妥当ではないだろうか。とすれば、「天宗高紹」天皇とは、「文武に始まる皇統 を高らかに受け継いだ偉大なる天皇」という意味になるであろう。この段階では、光仁は なお草壁皇統に連なる天皇として認識されていたわけである。 やまとねこあまつひつぎいやてらす それに対し桓武の諡号は「日本根子皇統弥照」天皇といった。これは、八〇六 ( 大同 元 ) 年三月に桓武が死去した翌月に献じられたものであるから、この時すでに光仁を始祖 とする中国的な皇統意識は成立している。「日本根子皇統弥照天皇とは、「日本根子」が 天皇の地位を示す尊称であり、「皇統弥照」天皇は「光仁に始まる新しい皇統をさらに光 り輝かせた偉大なる天皇」の意味に理解できると思われる。「皇統」は「あまつひつぎ ( 皇位の継承、あるいは継承される皇位の意味 ) ーと読まれたようだが、ここで「皇統」とい う漢語が登場するのは実に興味深い さて、新皇統には新たな皇統継承の原理がなければならないであろう。桓 新たな皇統 武はこれについてどのように考えていたのであろうか 継承の構想 おとむ ます桓武は、彼にとって擁立の功臣というべき藤原氏の式家から娘 ( 乙牟 かみのおおとも 漏、旅子 ) を娶り、彼女らとの間に安殿、賀美能、大伴の三親王を得ることができた。桓 武が数ある子女のなかでも彼ら三人を特別扱いにしたのは、彼らが藤原氏の、とくに式家
と見える。天智が , ハ七〇年に施行した庚午年籍が、氏姓の基本を定めた画期的な成果であ り、天智は戸籍制度や氏姓制度の根幹を定めた天皇として認識されている。 このように天智は、律令に代表される法や制度の制定者・創始者として顕彰されている のであって、皇統の起点 ( 始祖 ) として権威化されているのではない。それもそのはすで あって、彼には文武ほどの傑出した血統カリスマが認められない。 すでに述べたように、天智はあくまで叔父ー姪婚の所産であり、その血統的条件は草 壁・大津・長・弓削・舎人といった皇子たちと同一線上に並ぶ。文武の血統的権威は、草 壁・阿閇の結婚というさらなる近親婚によって生み出されたものであったから、天智らの それを凌駕している。やはり、森田氏のいうとおり、天智顕彰と皇統意識とは区別して理 権解すべきなのである。 以上見てきたように、文武は六九九 ( 文武三 ) 年以後、律令国家のパイオニアというべ 」き天智が制定したという「不改常典」によって、その天皇としての権威や正当性が保証さ 拙れることになった。その後、文武の息子 ( 聖武天皇 ) や孫 ( 孝謙天皇 ) も、「不改常典」が その天皇としての権威や正当性を保証するものと認識された。彼らはいわば文武の権威や 正当性を受け継ぐ天皇であり、その意味で文武を始祖とする皇統に連なる天皇と見なされ
次 目 5 聖武天皇の皇統再建計画 光明立后ー聖武の立場と課題 : 再び「不改常典」ー聖武即位 / 皇太子の生と死 / 長屋王の「謀反」 / 光明 立后の「史的意義」 天平の三姉妹ー聖武の娘たちの婚姻・ 阿倍内親王「不婚」の理由 / 異例の女性皇太子ー皇統再建に向けて / 井上 内親王の婚姻 / 不破内親王の婚姻 / 塩焼王との結婚時期 / なせ塩焼王を責 め続けたか / 娘婿ー皇統再建の切り札 / 聖武の新田部系びいき 東国行幸ー壬申の乱の回顧 : 「朕意ふ所有るに縁りて」 / 壬申の乱の跡をたどる / 天武を回顧する意味 / 「君臣祖子の理」とは何か / 盧舎那仏造立の意義 詔ー聖武の到達点・ 皇統再建の暗雲 / 「然も猶、皇嗣立つること無し」 / 聖武出家の意義 / 孝謙 即位と紫微中台の発足 / 聖武による釦の掛け違え 草壁皇統意識の誕生 奈良麻呂の変ー「皇嗣」をめぐる暗闘・ 道柤皇太子を廃す / 「顧命」とは何か / 大炊王の立太子 / 大炊は孝謙の擬 遺 729 ・ 4 702 月 7 ノ 40
もとづくものであって、かならずしも古代の実態を反映するものではありえない。その意 味で「天智系」対「天武系」という歴史認識は、歴史の後知恵にもとづくものにすぎない とい、んよ、つ。 通説がいうように、七世紀末葉から八世紀にかけて、天武を皇統の起点 ( 始祖 ) として 絶対視する意識が本当に存在したのであろうか。それとも、近年唱えられているように、 天武ではなく天智を皇統の始祖と仰ぐ皇統意識が実在したと考えられるのであろうか。そ もそも、「天智系」や「天武系」といった区別や意識自体があったといえるのか。さらに、 「天智系」対「天武系」という枠組みで奈良時代の政治史を解き明かすことが可能なので あろ、つか 本書では、これらの問題を検討していくことにしたい。それは「天智系」対「天武系」 という枠組みに寄りかからないほうが、古代政治史の諸問題を明央に解きほぐせることを 皇個別に言明していく試みとなるであろう。
系」天皇の時代とする通説に対して、この時代の天皇が「天智系」であったと主張してい るわけではないと思われる。 だが、近年は、七〇一 ( 大宝元 ) 年の大宝律令施行の前後から天智を皇 天智は皇統の 統の始祖とする意識が顕著になってきたとする見方が強まっている。 始祖にあらす たとえば、井上亘氏は奈良時代の皇統を「天武系」とする通説を鋭く批 判して、持統以降の王権を「持統系、より本源的には天智系とみるのが妥当」と理解して いる ( 『日本古代の天皇と祭儀』吉川弘文館、一九九八年 ) 。水林彪氏もこの井上説を基本的 に認めた上で、藤堂説にも依拠しながら、七世紀末から八世紀初頭にかけての時期に、 「天武ー草壁ー文武」という「天武系」皇統観念と、「天智ー持統ー草壁ー文武、という そ、つこく 権「天智系」皇統観念との相克があったと述べている。水林説によれば、「天武系」意識と の 智「天智系」意識はやがて「天智系」皇統観念に一元化されていったという ( 「律令天皇制の 皇統意識と神話 ( 上 ) ( 下 )- 『思想』第九六六号・第九六七号 ) 。 出 しかし、水林氏が依拠する藤堂説が、天智を皇統の起点とは見なしていなかったことに 創 留意する必要があろう。藤堂説によれば、天智はあくまでも律令国家の初代天皇、律令国 家の起点となる天皇として認識されていたのである。この点に関して、天智の顕彰と皇統
文武皇統意識の形成 78 れた後もそのように呼称されているのは、彼が歴代の天皇のなかで特別な存在と認識され ていたことを物語ると同時に、当初の「倭根子豊祖父」という諡号がいわば仮のものであ って、近い将来における改定が予定されていたことを示しているのではあるまいか。
以上見てきたように、聖武が曾祖父天武の存在を持ち出してきたのは、彼がたんに天武 を皇統の始祖として仰いでいたからではなかった。聖武としては文武を起点とする皇統の 幗再建に向けて、この時は新田部系との連帯と融和 ( 「祖子の理」 ) が不可欠だったので、そ 一三ロ 再のような意識を宣揚するためにも新田部系との共通祖である天武とその王権を生み出した 皇壬申の乱の記憶を呼び醒まそうとしたにすぎないと思われる。ただ、聖武としては、時に 天応じて自身の系統と新田部系とが連帯と融和を深めるとしても、それは皇統の再建に向け 武 聖て必要な戦略的な行為と見なしていたのであって、あくまで聖武とその系統こそが主人で あり、新田部系がそれに仕える立場にあると認識していたこと ( 「君臣の理」 ) を見逃して はならない。 以上のように、聖武による東国行幸が文武皇統の再建に向けての一大デモ 盧舎那仏造 ンストレーションだったとすると、それを前提にして行われた盧舎那仏造 立の意義 立という事業も、文武を始祖とする皇統の再建と無関係ではなかったこと になる。盧舎那仏の巨像を造立することが、どうして皇統再建につながるというのであろ これについては、『続日本紀』天平十五 ( 七四一一 l) 年十月辛巳条に見える有名な「盧舎
-4 吉野行幸ー持統の即位事情 盟約ー吉野への道 / 大津皇子の「謀反」 / 珂瑠皇子誕生の波紋 / 即位ー再 び、吉野への道 / 「大君は神にしませば」 / 斉明・天智への帰属意識 文武皇統意識の形成 文武天皇と「不改常典」 史上最初の皇太子 / 持統の天皇位の由来 / 「不改常典」の登場 / 本当に天 智が制定したか 創出された天智の権威・ 斉明・天智陵の「営造」 / 天智陵の特殊な位置 / 天智は律令国家の初代天 皇 / 天智は皇統の始柤にあらず / 法・制度の創始者としての天智 「倭根子」から「天之真宗」へ・ 「倭根子豊祖父」とは何か / 持統の諡号との対応性 / 持統・文武の諡号改 定の意味 / ホノニニギとしての文武 / 文武が「大行天皇」とされた理由 皇統の護持者たち : 不比等に下賜された経済的特権 / 「藤原朝臣」独占の意味 / 不比等に課せ られた特命 / 草壁皇子への準天皇待遇 / 文武の遺詔の重み / 皇統護持のた めの「中継ぎ」天皇 / 皇統護持の名のもとに 2 っ / 4 -0 2 っ /
この時、桓武が前天皇であり亡父である光仁を「天帝」と合祀し、光仁に対しても祭文 を献上していることが注目される。「天帝」とは字宙の支配者であり、中国では皇帝の任 命権者というべき絶対的な存在であった。その「天帝」と光仁とを合祀したということは、 光仁が「天帝ーの指名・命令 ( いわゆる天命 ) を受けた最初の皇帝、すなわち王朝の開祖、 皇統の始祖と位置づけられたのに等しい。 桓武は、天智や文武、聖武といった過去の天皇の誰かではなく、自分の父天皇を天命を 受けた王朝の開祖、皇統の始祖として祭り上げたのである。桓武は、光仁を起点 ( 始祖 ) とした中国的な皇統意識を生み出そうとしていたと考えられよう。桓武は、強いて命名す るならば光仁という中国的な君主を始祖とする皇統を樹立しようとしていたことになる。 「昊天上帝」に奉じられた祭文の後半に見える「高紹天皇」とは光仁を あめむね 換光仁・桓武の 指す。光仁の諡号は「天宗高紹」天皇といったのである。これは、光仁 諡号の意味 が死去した七八一年十二月の翌年正月に献上されたものであるが、彼が 皇皇統意識の上でどのように位置づけられていたかを知る手掛かりになる。 光仁の諡号が作られた段階では、中国的な皇統意識は未成立であったから、「天宗高 あめのまむねとよおおじ 紹」天皇の「天宗」とは、文武の諡号「天之真宗豊祖父」天皇の「天之真宗」に通ずると