草壁は死去してしまう。享年、一一十八。 六九〇年正月に持統は正式に即位するが、六八六年七月に彼女が天武から天皇権力を継 えんいん 継承して称制を開始して以来、正式な即位が三年半の長きにわたって延引されたのは一体ど 王うしてであろうか。これについては持統が草壁即位の機会を窺っていたというのが定説で 世あるが、それは疑問であろう。なぜならば、本当に草壁の即位が予定されていたのであれ ば、天武死去の直後に、 いくらでもその機会はあったはすだからである。しかし、上記し たように、天武の後継者として確定していたのはあくまでも持統であった。持統の正式な 皇位継承が延期されたのは、やはり彼女の即位に向けて何らかの問題があったと考えるべ きであろ、つ。 」よ、つ、」、つ この疑問を解く手掛かりになるのが、六八九 ( 持統一一 l) 年正月、持統が吉野宮への行幸 を開始し、それがその在位中に三十一回におよんでいることである。いわゆる吉野行幸が 持統の在位期間中に集中し、譲位後はわずかに一回しか吉野宮に行幸していないことから 考えれば、吉野宮を訪れるということは、彼女の即位資格、いい換えれば、その天皇とし ての権威や正当性に関わる極めて政治的な行為だったことになるであろう。 吉野宮といえば、それは六七九 ( 天武八 ) 年五月の吉野盟約によって持統の天武後継の
『続日本紀』巻第一—第三は「文武天皇紀」であるが、それらの表題 あまのまむね 持統・文武の諡 を見ると、文武は「倭根子豊祖父」天皇ではなく「天之真宗豊祖父」 号改定の意味 天皇という諡号で表記されている。七〇七 ( 慶雲四 ) 年以降のある時 点で「倭根子豊祖父」から「天之真宗豊祖父」へと諡号が改定されたことになる。それは 大体いっ頃のことであろうか。 文実は、文武の諡号と関係性・一対性をもっ持統の諡号もその後改定されている。『続日 本紀』によれば、持統の当初の諡号は「大倭根子天之広野日女尊」であったが、七二〇 ( 養老四 ) 年に完成した『日本書紀』では、その諡号は「高天原広野姫」とされている。 七〇三年以後、七二〇年までの間に持統の諡号が改定されたことは明らかで、文武の諡号 が改定されたのもほば同時期のことと考えられよう。 持統の新しい諡号「高天原広野姫」は、「大倭根子」が取り外され、「天」が「高天原」 に変換され、誰が見てもアマテラスを意味することが明らかなものになっている。諡号改 定のねらいは、旧諡号の意味するところをより端的に表現することにあったといえよう。 文武の新諡号は、持統の諡号「大倭根子」と対応する「倭根子」がやはり外され、代わ って「天之真宗」が冠せられ、「豊祖父」はそのままである。持統の場合と同様に、全体
あめのひろのひめ ちなみに、文武に皇位を授けた持統の諡号は当初「大倭根子天之広野日女 のみこと 持統の諡号 尊」といった ( 『続日本紀』大宝三〈七〇三〉年十二月癸酉条 ) 。持統大 との対応性 倭根子」と文武の「倭根子」が対応していることは明らかである。諡号の 上で持統と文武の間には関仁性・一対性が認められる。これは、文武が持統から譲りを受 けて即位したことに加え、その後、数年にわたり持統の後見と輔佐を受けた事実を反映し ていると見られよ、つ。 たかまがはら 「天之広野日女尊」の意味であるが、「天」は天上にある神々の世界、高天原を指すと考 あまっかみ えられる。天皇とその一族は、高天原で最も貴い神である「天神」 ( アマテラスオオミカ へ ミ ) の血脈を相承するとされていた。「広野」はおそらく、彼女の実名の一部「鷓野」を 真 之ふまえた美称であろう。「日女」は「ヒメ ( 姫 ) ーであり、「ヒ」と呼ばれる特殊な霊力を らもった「メ ( 女 ) 」の意味 ( 転じて高貴な身分の女性 ) である。 , 刀 「天之広野」は高天原を連想させる。とすれば、「天之広野日女ーとはアマテラスを暗示 子 倭する名にほかならない。要するに、持統の諡号「大倭根子天之広野日女尊ーとは、「偉大 な天皇にして神統譜においてはアマテラスに相当する御方ーという意味になるであろう。 3
としてその意味するところをより適確に表現するための改定だったと考えることができる。 先に述べたように、「豊祖父」が元明との関係性を示すために必要な記号だったのに対し、 「天之真宗」の意味するところは持統との関係性であったと思われる。持統との関係性と は、持統をアマテラスとするならば、文武は神統譜のなかの誰にあたるのかということで ある。 それには「天之真宗」の意味を明らかにすればよい。「宗」とは宗廟 ホノニニギと ( 祖先の廟 ) 、すなわち「みたまや」が原義であって、一族の中核にあっ しての文武 て先祖の霊を祭る者も意味した。「真宗」とは「正嫡、長子」「正当なる へ 継承者ーということになり、「文武が天武天皇を祖父、持統を柤母、皇太子草壁を父とす 真 之る、皇統の嫡系であることをうたったもの、 ( 新日本古典文学大系『続日本紀』一の補注 ) と いう解釈が導き出されてくるのは自然といえよう。 だが、あくまで「高天原広野姫」に対する「天之真宗」なのである。「天之真宗」とは、 子 倭たんに文武の実際の祖父母が誰々で父親が誰かということを示しているのではない。持統 をアマテラスに見立てたことを前提に、文武がアマテラスとの関係においていかなる神に 相当するのかが示されているのである。
吉野行幸 行われた吉野行幸であろう。 吉野といえば壬申の乱、あるいは天武が連想されがちであるが、天武は壬申の乱前夜の 半年間、それに即位してからは , ハ七九年の一回 ( 吉野盟約の時 ) しか吉野宮に行っていな 、。天皇としての天武と吉野宮との繋がりは極めて乏しいといわざるをえない。従来看過 やまとのみやこ されているのは、吉野宮が持統の父方の祖母である斉明の手で、「倭京」建設の一環と して造営された宮殿だったという事実である。 持統が吉野を頻繁に訪れれば、吉野宮を中心とした世界を開拓した斉明の存在が想起さ れる。さらに、その斉明と持統を繋ぐ者として、ほかならぬ持統の実父であり、斉明の権 威と正当性を受け継ぐことで初めて即位することができた天智の存在がクローズアップさ れることになる。要するに彼女は、吉野行幸を通じて天皇としての自己を「斉明ー天智」 の連なりに位置づけようとしたのである。 持統は「大君は神にしませば」という新思想の宣伝に加え、このように斉明と天智の権 威や正当性を持ち出すことによって、天皇Ⅱ「すめらみこと」の地位と権威をより確かな ものにしようとしたといえよう。それが一定の成果を見せた時初めて、彼女は正式に天皇 の地位に就任することができたのである。
吉野行幸 -4 座が確定された場所である。持統が正式な即位儀礼の挙行を前に、その地を訪れるという のは確かにありえない話ではない。しかし、たんにそれだけの理由ならば、在位中にこれ ほど頻繁に吉野宮を訪れる必要はなかったと思われる。ということは、吉野行幸は持統自 身のみならず、彼女が就任した天皇という地位自体に関わるものであったと考えねばなら ないであろう。 すでに述べたように、天武によって創始された天皇の地位は「すめらみ 「大君は神に ことと読まれ、「永遠の生命力を保持する御方ーを意味した。天皇た しませば」 る者は病や死とは無縁でなければならなかったのである。ところが、初 代天皇である天武は病に冒され、そして死去した。「永遠の生命力」をもつはずの天皇の 肉体が、皮肉なことに病により滅び去ったのである。これでは天皇は天皇たりえない。 まんよ、つしゅう おおきみ そこで、考え出されたのが「大君は神にしませば」という新思想であった。『万葉集』 かきのもとのひとまろ に見える「大君は神にしませば」に始まる歌は、持統に奉仕した柿本人麻呂の手で天武 没後に作られ始める。これはおそらく、人麻呂の独創ではなく持統の命令によって作られ たのであろう。そこでは天皇 ( 具体的には持統 ) だけでなく特定の皇子 ( 弓削、長、忍壁 あまっかみ ら ) が神として賛美されている。従来、大王・天皇は神 ( 天神 ) の子孫 ( 天孫 ) とされて あめみま
もろもろ さくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞きたまへと詔る。 これによれば、文武は、「天っ神の御子ーであり「現御神と大八嶋国知らしめす倭根子 天皇命」すなわち人の姿をした神として日本列島を統治する天皇である持統から皇位をあ たえられたことを強調している。そして、持統はその皇位を「天に坐す神」から得たと述 べているのである。彼女は前天皇である天武から皇位を譲り受けたのではなく、「天に坐 す神」から皇位を直接授けられたとされている。 このように、文武の手にした皇位は少なくとも天武に由来するものではないと認識され ていたことになる。これは、持統が天武没後に天皇の宗教的な権威の回復をはかった時に、 天武と一線を画そうとしたことが関係していると見られる。文武即位の段階において、彼 常の天皇としての権威や正当性を保証するのが、「天に坐す神」から皇位を授けられたとい 改 不 う持統一人とされていたことを確認しておこう。 皇 ところが、その後七〇七 ( 慶雲四 ) 年になると、文武の権威や正当 天 「不改常典」の登場 武 性を保証する存在として突如天智が登場するのである。この年の , ハ 文 月、文武 ( 十五歳の若さで去り、彼の要請によりその母阿閇皇女ゞ位することに なった一明天白。彼女は天智の娘で、持統の異母妹であった。『続日本紀』慶雲四
では草壁に次ぐ位置を認められていた。 六八六 ( 朱鳥元 ) 年五月、天武は体調の不良を訴え、病床に伏すよ 大津皇子の「謀反」 、つになった。七月に入ると、病の進行により執務が困難となり、す べての政務は鵰野讃良皇后と草壁に委ねられることになった。これは、鷓野讃良が皇后と して天皇権力を引き継いだことを意味しているのであって、ここに彼女による称制が開始 されたと考えられる。彼女はこの時点において、すでに事実上の天皇となったのである。 以下の叙述では彼女を持統天皇と呼ぶことにする。草壁の役割はといえば、天智・天武の 諸皇子中筆頭の立場において持統の , 制を輔佐することにあったと見られる。これにより 草壁 ( 、の次期 、あることが確約されたといってよいであろう。 あすかきよみはらのみや なキ」がら もがりのみや 同年の九月九日、天武はついに飛鳥浄御原宮で死去する。その亡骸が安置された殯宮 において、翌月、大津は草壁を暗殺しようと企てた容疑によって捕らえられ、その翌日、 行死を賜った。この事件については、草壁の即位を願う持統による謀略とするのが定説であ 野 る。だが、大津が何も画策していないのに一方的に罪に陥れられたと見なすことができる であろうか。また、持統の事件への関与は否定できないとしても、その動機がたんに我が 子草壁の地位を守ることであったとは考えがたいであろう。 5 4
威や正当性が自身を介して斉明・天智に由来することを可視的に示そうとしたのではない かと考えられる。先に見たように、六九七年の文武即位時には、その天皇としての権威や 正当性を保証するのは「天に坐す神、の委任を受けた持統一人にすぎなかった。おそらく 彼女とすれば、それだけでは弱いと考えたに違いない。かって持統は、天武没後に天皇権 威の回復をはかった時、吉野行幸を繰り返すことによって自身が「斉明ー天智」に連なる 文ことを強調したことがあった。今回はそれを踏襲し、彼女のみならず斉明・天智も文武の 権威や正当性を保証する存在であることをアピールしようとして、斉明・天智という一一大 王陵をまったく新たに造作することになったのであろう。 斉明陵と天智陵のセットによる「新造」からは、「斉明ー天智ー持統ー文武ーという継 承意識 ( そこでは天武が外されてしまう ) を読み取ることが可能であろう。そうだとすれば、 つぎに問題となるのは、六九九年段階では文武の権威や正当性を保証するのが持統に加え て斉明・天智であるとされていたのに、七〇七年になって天智制定の「不改常典」という 法こそが文武の権威や正当性の源であるといわれるようになったのは一体どうしてかとい 、つことである。
吉野行幸 かって天智の寵愛を受けた大津を表立って支持することはなかったに違いない。 したがって、天武没後、大津があくまでも皇位を望むとすれば、自力で持統や草壁を倒 さざるをえなかったのである。大津がそのために何らかの行動を画策していた可能性は否 定できない。そのような大津の攻撃から持統が死守しようとしていたのは、彼女が亡夫天 武とともに内乱まで起こして勝ち取った天皇の地位と、それから彼女が天武と採択した 「持統↓草壁↓珂瑠」という皇位継承の実現だったと考えられよう。 やまのへのひめみこめと 実は、大津も天智の娘山辺皇女を娶り、さらに濃縮された特別な血統をもっ皇子の誕 生を期待されていた。その意味で、草壁と大津に機会は均等にあたえられていたのである。 だが、結局のところ大津・山辺夫妻に男子は生まれなかった。もしも大津・山辺夫妻の間 に男子が生まれれば、彼は珂瑠と同様に皇統の起点たりえたであろう。万が一、草壁・阿 閇夫妻ではなく大津・山辺の夫婦間に皇子が生まれていれば、おそらく草壁と大津の立場 は逆転したのではないかと思われる。 大津の没落後、草壁は重臣や官僚を率いて天武の殯宮に繰り返し参拝を 即位ー再び、 行った。それは、あくまでも彼こそが持統の後継者であることを内外に 吉野への道 周知徹底させるためであったと考えられる。ところが、六八九年四月、