~ 4 はないであろうか。本書で追究してみたいのはこの問題である。 せんにゆうじ つきのわやま 泉涌寺を御存じだろうか。京都の東山三十六峰のひとつ、月輪山の麓 みてら 泉涌寺の歴史 にある泉涌寺は「御寺」と呼ばれ、皇室の菩提寺として知られている。 から考える 泉涌寺は初め法輪寺、次いで仙遊寺と呼ばれたが、一二一八 ( 延保六 ) しゅんじよう たしカらん 年、月輪大師俊が中国宋の法式を取り入れて大伽藍を建立し、泉涌寺と改称した。こ ごとば じゅんとく ごたかくら の時に後鳥羽上皇・順徳天皇・後高倉上皇らが賛同し、資を寄せたのが泉涌寺と皇室と の結び付きの機縁となった。 一二四二 ( 仁治一一 l) 年正月に四条天皇が十二歳で亡くなると、泉涌寺で葬儀が行われ、 御陵が俊の廟所近くに営まれた。これを機に天皇の御影や尊牌 ( 位牌 ) が奉安されるよ おうあん ごこうごんいん うになったのである。一三七四 ( 応安七 ) 年正月、後光厳院が泉涌寺で火葬されたのを機 ごみずのお に、以後、九代の天皇の御火葬所となった。そして、江戸時代の後水尾天皇以下の歴代 めいしよ、つ ごこ、つみよ、つ ひがしやま なかみかど さ / 、らま + っ 天皇 ( 明正天皇、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇、東山天皇、中御門天皇、桜町天皇、 ももぞの ごさくらまち ごももぞの 桃園天皇、後桜町天皇、後桃園天皇、光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇 ) や皇妃の御陵も境内 に造営された。 れいめい この泉涌寺の境内に霊明殿がある。そこには天智以下、歴代天皇の尊牌が安置されてい にんこ、つ
7 天武系皇統は実在したか れば明らかであろう。 一八七六 ( 明治九 ) 年六月、宮内省から泉涌寺に対して、「尊牌・尊像奉護料トシテ かしそ、つろ、つこと 年々金千一一百円下賜候事ーという通達があった。泉涌寺は歴代天皇の陵墓や位牌を守護 してきたが、神仏分離・神道の国教化政策により陵墓は泉涌寺から切り離された。そして、 今後は上記の「奉護料」を得て、歴代天皇の位牌を奉安する寺院として国の保護を受ける ことごと ことになったのである。さらに同日、「京都府下各寺院の尊牌・尊像、悉ク皆、其ノ寺へ おおせいだ 合併仰出サレ候ーとの通達も下された。これにより、京都府下の各寺院に奉安されてい た歴代天皇および門院・皇子・皇女の位牌や肖像は、特別の寺院を除き、すべて泉涌寺に 合併されることになった ( 『泉涌寺史』による ) 。 これによって、新たに位牌が泉涌寺に安置されることになった天皇はつぎのとおり。 桓武天皇 天智天皇 元明天皇光仁天皇 文徳天皇光孝天皇 嵯峨・淳和天皇 ( 合牌 ) すざく 醍醐天皇朱雀天皇白河上皇 宇多天皇 鳥上皇後白河上皇土御門天皇後鳥羽上皇 ごふしみ かめやま 亀山上皇後宇多上皇後伏見上皇花園天皇 そんはい そんぞ、つ
後醍醐天皇後村上天皇光厳上皇光明天皇 崇光天皇 後花園天皇 この時、天智やその娘の元明、光仁・桓武父子の位牌が泉涌寺に納められたのは、これ ら天皇の位牌が京都府内にあったからであった。それに対して、奈良 ( 平城京 ) を基盤に した天武とその子孫の天皇の位牌が、京都やその周辺の寺院に祭られていなかったのは当 然であろう。この場合の「天智系」と「天武系」の相違とは、京都とその周辺の寺にその 位牌か祭られているか否かの違いにすぎない 要するに、天皇の位牌がどこに安置されているかなどは、八世紀の史実とはおよそ無縁 の話であろう。泉涌寺における歴代天皇の位牌の祭られかたから、古代における「天智 系」に対する「天武系」という意識の実在、「天智系」と「天武系」との対立関係という 史実を読み取ることはできないといわねばならない。 つぎに、この問題を中世独特の天皇観から考えておきたい。中世の天 ばんせいいつけい 中世の「正統」 皇観は後世の「万世一系」の天皇観とは明らかに異なるのであるが、 理念から考える そこでは「天智系」が主流とされるのに対し「天武系」は非主流とさ れているのである。
( 一五五二—八六 ) のことである。彼は有力な皇位継承候補だったが、早逝したために即位 だいじよう できず、没後太上天皇号を追贈され、「陽光太上天皇」と称された。 これを見ると、確かに、天武天皇の縁者や子孫で天皇になった持統・文武・元明・元 正・聖武・孝謙 ( 称徳 ) ・淳仁らの位牌が霊明殿に祭られていない。 これら「天武系」の 天皇の位牌が霊明殿に安置されていないのは、「天智系」と「天武系」が対立関係にあっ て、「天智系」が復活した後は「天武系」が意図的に排除された結果と考えたくなるのも 分からない話ではない。そうであるならば、泉涌寺に「天武系」天皇の位牌がないこと自 体が、「天智系」と「天武系」とが対立関係にあった何よりの証拠ということになるであ ろ、つ さらに、泉涌寺霊明殿に「天武系」の位牌がないのは、天智と天武が実の兄弟ではなく ( 天武が兄、天智が弟で異父兄弟関係にあったとする説もある ) 、天武が実は天皇家とは無縁の 存在だったからとする極端な所説も唱えられている。皇室の菩提寺なのにそこに天武らの 位牌がなく、いわば先祖として供養されていないのは、彼らが天皇家とは本来縁のない存 在だったからというわけである。 しかし、このような考えが間違っていることは、霊明殿に祭られている位牌の来歴を見 そうせい